耳嚢 巻之八 狸の物書し事
狸の物書し事
小高(をだか)老翁語りけるは、彼(かの)翁甲州へ御用ありて至りし時、同國黑澤村庄屋珍藏が許(もと)にて、狸の書(かき)たるといふ繪並(ならびに)書を見し。其譯尋(たづね)しに、一人の僧ありて、狸なりといふ事人も知り、己(おのれ)も隱さず、勸化(かんげ)などなして鎌倉建長寺の疊替(たたみがへ)を毎年いたしけるが、建長寺にても、彼は人類にあらずと云(いひ)し。人の爲に災(わざわひ)をも不成(なさず)ありしが、或年大磯宿邊にて犬に喰殺(くひころ)されけるとなり。珍藏咄しの由、物語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狸譚三連発。この建長寺の狸の話は郷土史研究の中で私も知っている民話である。ここでは善玉であるが、和尚を殺して化けた悪い狸という設定の話もある(犬に食い殺されるところはその方が悲惨でない)。この建長寺の狸和尚の伝承について最も包括的で纏まった記載は身延町立図書館の運営する「身延の民話」の中の「類型的なお話のこと―建長寺のたぬき和尚」の記載が最も優れている(リンクは連絡要請を必須としているので一切張らない。グーグル・ヤフーにて「建長寺の狸」で検索を掛けると二〇一四年五月現在はトップで表示されるので是非ご覧あれ)。
・「小高老翁」底本では「小高」の右に『(尊經閣本「小島」)』と注する。底本鈴木氏注に、これは本文の小高が正しいと推定され、『幕臣小高はヲダカで一家しかない。助久であろう』とされ同氏の考察に基づく岩波版長谷川氏注には、『安永七年(一七七八)御勘定、甲斐河川普請で天明元年(一七八一)賞』賜を受け、『寛政十年(一七九八)甲斐に検見』(けみ/けんみ:米の収穫前に幕府又は領主が役人を派遣して稲の出来を調べ、その年の年貢高を決めることをいう。)『で出張』、「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年には既に『八十四歳ゆえ老翁とする(鈴木氏)』とある。
・「黑澤村」現在の山梨県西八代郡市川三郷町大門にあった旧村名。富士川(この直上で笛吹川と釜無川他に分流)の東岸で鰍沢の対岸に当たる。
・「珍藏」底本では右に『(尊經閣本「鎭藏」)』と注する。
・「勸化」この場合は寺社・仏像などの建造・修復のため寄付を集めること。勧進(かんじん)のことを指し、以下にある畳替えの費用を募って托鉢しることを指す。
■やぶちゃん現代語訳
狸が物を書いた事
小高(おだか)老翁の語られたことには、かの御大(おんたい)、かつて甲州へ検見(けみ)の御用にて至った折り、同国の黒沢村庄屋珍蔵の家にて、狸が書いたと申す絵並びに書を見られた。その面妖なものの由来を訊ねたところが、
「……この地に一人の禅僧の御座いましたが、その僧、実は狸の化けた者であるということ、これ、誰(たれ)もが知り、自身にても特にそれを隠さず、『我ら狸和尚なり』と呼ばわっては勧進(かんじん)など致いては、鎌倉の建長寺の畳の総替えを、これ、きっちりと毎年致いて御座いました。……当の建長寺にても、『かの僧は人の類(るい)にては、これない』と言うておられました由。……また、狸というても、人のために災いを成すわけでも、これ、御座いませなんだ。……が、ある年のこと、勧進にて大磯宿辺りを托鉢致いておったところが……何か……やはり……獣の臭いでも致いたものか……野良犬に襲われ……喰い殺されてしもうたとのことで御座います。……これらは、へぇ、その遺品にて御座いましての……」
との珍蔵の話で御座った由、御大自ら、私に物語られた。
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