今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立
本日二〇一四年五月二十三日(陰暦では二〇一四年四月二十五日)
元禄二年四月 五日
はグレゴリオ暦では
一六八九年五月二十三日
である。
木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立
木啄も庵はくらはず夏木立
[やぶちゃん注:第一句「奥の細道」。「曾良書留」には、
四月五日 奈須雲岩寺ニ詣て、佛頂和尚舊庵を尋
とある。「曾良随行日記」に、
一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天氣吉(よし)。
と記す。「小文庫」「泊船」ともに、
佛頂禪師の庵をたゝく
と前書する。第二句目は曾良本「奥の細道」の見せ消ちで、底本は第一句同様に中七を「庵はやぶらず」と改めている。
「奈須雲岩寺」栃木県大田原市雲岩寺にある臨済宗妙心寺派の東山(とうざん)雲厳(うんがん)寺。大治年間(一一二六年~一一三一年)に叟元によって開基され、弘安六(一二八三)年に執権北条時宗を大檀那として梨勝願法印の寄進により仏国国師によって開山されたと伝える。
「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、当時は宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、これより前、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。この仏頂はしばしばこの雲厳寺に山居して修業していた。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長であるとともに、「舊庵」「山居の跡」などとあるが、芭蕉よりも二十一年も長生きした(芭蕉は元禄七(一六九四)年満五十歳で没している)人物(遷化の地はここ雲厳寺ではあったが)であるので注意されたい。
第一句の「やぶらず」に軍配。「くらはず」は禅味に欠く。
問題は「奥の細道」では実は時系列が入れ替えられて、これより後の行程で創作された「夏山に足駄を拜む首途哉」が「黒羽」の段の始まりの直後に配されてある。そのため、ここでも前に示した「黒羽」の段と次に続く「雲巖寺」の段の異同その他を示し、「黒羽」の段についても今一度次の「夏山に」の句の注で煩を厭わず全文を附しておくこととする。それが「奥の細道」への礼儀ともなろうと考えるからである。
*
黑羽の舘代浄坊寺何某の方ニ音信ル
おもひかけぬあるしのよろこひ日夜語
つゝけて其弟桃翠なと云か朝夕勤
とふらひ自の家にも伴ひて親属の
方にもまねかれ日をふるまゝに
ひとひ郊外に逍遙して犬追ものゝ跡
を一見し那すの篠原をわけて玉藻の
前の古墳をとふそれより八幡宮に詣
与市宗高扇の的を射し時別ては我
國氏神正八まんとちかひしも此神社
にて侍ときけは感應殊しきりに覚らる
暮れは桃翠宅に歸る
修驗光明寺と云有そこにまねかれて
行者堂を拜す
夏山に足駄をおかむ首途哉
當國雲岸寺のおくに佛頂和尚山
山居の跡有
竪横の五尺にたらぬ草の庵
むすふもくやし雨なかりせは
と松の炭して岩に書付侍りといつそや
きこへ給ふ其跡みむと雲岸寺に杖を
曳は人々すゝむて共にいさなひ若き
人おほく道の程打さはきておほえす
彼麓に至る山はおくあるけしきにて
谷道はるかに松杉くろく
苔したゝりて卯月の天今猶寒し
十景盡る所橋をわたつて山門に入
さてかの跡はいつくの程にやと後の山ニ
かけのほれは石上の小庵岩窟ニ
むすひかけたり妙禪師の死
關 法雲法師の石室を見るか
ことし
木啄も庵はくらはす夏木立
ととりあへぬ一句を柱に殘侍し
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇与市宗高扇の的を射し時 → ●與市扇の的を射し時
〇佛頂和尚山山居の跡 → ●佛頂和尚山居の跡[やぶちゃん注:衍字と思われる。]
〇後の山ニかけのほれは → ●後の山によぢのぼれば
■やぶちゃんの呟き
「竪横の五尺にたらぬ草の庵/むすふもくやし雨なかりせは」……縦横が五尺(約一・五メートル)にも足らぬ庵ともいえぬ言えぬ庵であるが、そんな小庵を結ぶことさえも私には忸怩たる思いで一杯だ――あぁ! 雨さえ降らなかったなら、こんなものはいらぬのになぁ!……
「十景」雲巌寺には寺内に名勝十景(海岩閣・竹林・十梅林・雲龍洞・玉几峯・鉢盂峯(ぼうほう)・水分石・千丈岩・飛雪亭・玲瓏岩)があった。但し、実際には海岩閣・竹林・十梅林の三つは山門内にある。
「橋」雲巌寺五橋(獨木橋・瑞雲橋・瓜※橋[やぶちゃん注:「※」=「瓜」+「失」。]・涅槃橋・梅船橋)の一つ、瓜※橋(かてつきょう)。ここは角川文庫版本文脚注に拠った。
「石上」は「せきしゃう」と清音で読む。
「妙禪師の死關」「妙禪師」は南宋の臨済僧高峰原妙(一二三八年~一三九五年)。十五年間に渡って隠棲し杭州西天目山(現在の浙江省杭州市)にあった洞窟張公洞師子岩に「死關」という扁額を掲げて門外不出一五年にして五十七歳でそこで遷化したと伝える。
「法雲法師」幾つかの注は南朝梁の高僧法雲(四六七年~五二九年)で、境内の大岩の上を居所とし、終日談論したという人物を当てるが、頴原・尾形注はそれを誤りとし、「続伝燈録」に大寂巌という岩窟(?)に座禅したと伝える宗代の法雲派の禅僧大通善本かとする。前者であるとするなら、順列がすこぶるおかしい気はする。
「石室」石でできた岩窟。
「とりあへぬ一句」即興の一句。
頴原・尾形両氏は角川文庫版評釈には(引用内引用の分での補正した文字の傍点「・」を省略し、漢文の送り仮名を排し、ここのみ古文・漢文引用部分を総て恣意的に正字化した)、
《引用開始》
実際には黒羽滞在の三日目にあたる四月五日の雲巌寺訪問の記事を、「夏山に」の句のあとに別掲したのは、芭蕉がこの郊外引杖(いんじょう)に、黒羽における交歓・観光とは別の意義を認めていたからである。前作『笈(おい)の小文(こぶみ)』には、旅について述べた一節に、「山野海濱(かいひん)の美景に造化の功を見、あるは無依(むえ)の道者の跡をしたひ、風情(ふぜい)の人の實(まこと)をうかがふ。(中略)もしわづかに風雅ある人に出合ひたる、悦びかぎりなし」云々(うんぬん)という文言が見えるが、前章を「風雅ある人に出合ひたる」交歓のよろこびをつづったものとすれば、これは「無依の道者の跡」を慕っての参堂の記ということができる。無依の道者とは、万境に接するも少しも心のとらわれることのない道人をいう。捨身行脚(しゃしんあんぎゃ)をめざした芭蕉にとって、第二の門出に際し、親しく教えを受けた尊敬する師家の、万境を放下した山居修行の跡を尋ねることの意義は小さくなかった。
本文の運びもまた、最初に仏頂の道歌を掲げ、次いで引杖の次第、禅徒澄心の場の幽邃(ゆうすい)な風景、石上の草庵の形状に及び、「妙禪師の死關」「法雲法師の石室」という対句を置いて、仏頂の道歌に和した「木啄も」の一句をもって結ぶという、さながら「遊二雲巖寺一次二老師韵一幷序」[やぶちゃん注:「雲巖寺に遊び老師の韵を次ぐ幷びに序」と読む。「韵」は韻を踏んだ台詞であるから、先の道歌を指す。]とでも題すべき、五山禅林の文学を思わせる趣致をたたえている。
《引用終了》
と評してある。私は寧ろ、「奥の細道」の旅に死出の覚悟をさえ持って出た芭蕉が、内心忸怩たる思いの中で過ごしたこの長逗留の通人の懶惰な一時を自発的に斬り捨てて、再度、覚悟の旅の始まりとして認識した禅機こそがここに「在る」のだと思われてならない。]
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