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« 義父逝去 | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉   芭蕉 »

2014/05/16

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪   芭蕉

本日二〇一四年五月 十六日(陰暦では二〇一四年四月十八日)

   元禄二年三月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年五月 十六日

である。三百二十五年前のこの日、芭蕉は「奥の細道」の旅に旅立ったのである。

 

  千じゆといふところにて舟をあがれば、

  前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、

  幻のちまたに離別のなみだをそゝく

行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

 

行春や鳥啼魚の目は泪

 

行くはるや鳥は啼うをの目は泪

 

  常陸下向(ひたいちげかう)に江戸を

  出(いづ)る時、送りの人に

鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな

 

[やぶちゃん注:第一句目は「鳥之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)で「奥の細道」「泊船」と相同句形。第二句目は後掲する自筆本「奥の細道」の表記。第三句目は永機本「奥の細道」の句形である。

 第四句目は「俳諧 伊達衣」(等躬編・元禄十二年自序)に載る句で、この句は「続猿蓑」「泊船」では、

  留別

と前書し、また「赤冊子草稿」(土芳自筆・宝永五(一七〇八)、六年頃)には、

 此句松嶋旅立の比送りける人に云出侍れども、位あしく仕かえ侍ると、直に聞えし句也

と記す(位あしく仕かえ」は、品格が悪くて旅立ちの発句としては釣り合わず差し支えがある、といった謂いであろう)であり、現在、芭蕉は「旅立ち」の句として作句したこの発句を捨てて、「行はるや」の句に仕立て直したものと考えられている。即ち、知られた「行はるや」の推敲上の原型句と考えてよいものである。

 

 高校生になってすっかり漢詩に入れ込んでしまっていた私は、古文でいざ初めて「奥の細道」のこの句に出逢った際にも――これは陶淵明の「歸田園居」(田園の居に歸る)五首の「其一」の「羈鳥戀舊林 池魚思故淵」(羈鳥 舊林を戀ひ / 池魚 故淵を思ふ)や、杜甫の「春望」の頷聯「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じては花にも涙を濺ぎ / 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)の、如何にも出来の悪いインスパイアじゃあないか――ぐらいにしか感じなかったことを思い出す。その頃の私には、どこか滑稽を確信犯とする俳味というものに対して強い反発感があって、それは素朴でしみじみとした感懐をことさらに歪曲したものに過ぎず、おぞましいインポテンツに陥った老醜の猟奇的変態性欲だといったトンデモない印象をさえ持っていたように思われるのである。既に中学二年生で自由律の尾崎放哉に傾倒して『層雲』にも入って、愚にもつかぬ呟きみたようなものを俳句などと思い込んで作っては一人悦に入っていたのだが、それ故にこそ芭蕉を、伝統定型俳句の淵源に厳然として屹立する権化元凶みたようなものとでも錯覚していたのかも知れない(なお、当時、私が典拠と感じたものは今栄蔵氏の「新潮日本古典集成 芭蕉句集」(昭和五七(一九八二)年の本句の注でも発想の典拠として全く同じ二種が掲げられてあって、それを後に知ってちょっと嬉しかった記憶がある)。今はどうかと問われれば、例によって鬼才安東次男が「同時代ライブラリー 古典を読む おくのほそ道」で解析したように、既に本文で「上野谷中の花の梢」に「花」を示した上は花鳥の取り合わせを避けて、しかも『魚が泣いたというところまで言葉が走』らせられれば、流石に事大主義的な今生の別れという『心の詰りが急にほぐ』されて小気味よい(これは私が既に芭蕉の享年を七つも越してしまった老いの心境にあればこそ留別のあからさまな交感の感懐を嫌うようになったということでもあろう)。特に安東の『「も」ではなく「は」と遣ったところに、句走りと留別の』しみじみと微妙に抑制したところの『留別の俳諧がある』と――今は素直に――感じている。また、安東が指摘するように、「春望」のこの頷聯が古くは「花」「鳥」を主語として読んでいた(これは高校時代の恩師蟹谷先生から授業で教わったのを覚えている。だからこそインスパイアと読めたのである)こと、謡曲「俊寛」にも、

   *

時を感じては。花も涙をそゝぎ。別を恨みては。鳥も心を動かせり。もとよりも此島は。鬼界が島と聞くなれ鬼界が島と聞くなれば。鬼ある処にて今生よりの冥途なり。たとひ如何なる鬼なりと此あはれなどか知らざらん。天地を動かし鬼神も感をなすなるも人のあはれなるものを。此島の鳥獸も鳴くは我をとふやらん。

   *

と『裁入れているから、芭蕉もそう呼んだかもしれぬ』とされるのも大いに腑に落ちるのであった。

 なお、私は「春望」が安禄山の乱をテーマとし、この「奥の細道」のコーダが「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」であることについて、ある一つの仮説を持っている。それは「奥の細道」が一方で白居易の「長恨歌」の構成に見立てられているのではあるまいかという漠然とした推理なのだが、未だ細部の検証に至っていない。それはそれ、孰れまた。……

 最後に初案・原形句である「鮎の子の白魚送る別(わかれ)かな」について述べておくと、今栄蔵氏は前掲書で、『「鮎の子」は旧暦三月ごろ海から産卵のために遡る若鮎。「白魚」はそれより早い二~三月ごろ産卵のために遡る白魚の成魚で、芭蕉自身の老いの姿をなぞらえた謙辞』と注しておられる。

 白魚=シラウオは条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae に分類される魚の総称で、狭義にはその中の一種 Salangichthys microdon の和名。時にスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので注意が必要(シロウオは正しくは漢字表記で「素魚」と表記し、シラウオ「白魚」とは区別されるが素人は文字通り、素も白もいっしょくたにしてしまう)。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかる。主に参照したウィキのシラウオ」の記載と、シロウオ漁で知られる和歌山県湯浅市公式サイトのこちらのページが分かり易い。その図を見ても判然とするように、シラウオの口は尖っていて、体型が楔形をしていて鋭角的な印象であるのに対し、シロウオやそれに比較して全体が丸味を帯びること、シラウオの浮き袋や内臓がシロウオの内臓ほどにははっきりとは見えないこと、また形態的な大きな違いとして、シラウオには背鰭の後ろに脂びれ(背鰭の後ろにある小さな丸い鰭。この存在によってシラウオガアユ・シシャモ・ワカサギ(総てキュウリウオ目 Osmeriformes)などと近縁であることが分かる)があることが挙げられる。

 ともかくも、如何にも拙劣な比喩表現で、実質上の覚悟の旅立ちの句としては芭蕉が言うように「位あしく仕かえ」たる句で、これはまさに芭蕉が「奥の細道」のためにはどうしても存在自体を捨てねばならなかった忌まわしい句という気さえしてくる。凡そ私も個人的には見たくも知りたくもなかった句ではある。こうしたものさえも掘り起こされてしまうことはまさに詩人の不幸とも言うべきものであろう。

 以下、「奥の細道」の「旅立ち」の段を見ておこう(取り消し線は抹消を示す)。

 

弥生も末の七日元祿二とせにや

明ほのゝ空朧々として月は有

あけにて光おさまれる物から富

士の峯かすかに見えて上野谷

中の花の梢又いつかはと心ほそし

むつましきかきりは宵よりつとひて

舟に乗て送る千しゆと云處

にて舟をあかれば前途三

千里のおもひ胸にふさかりて

幻のちまたに離別の涙をそゝく

  行春や鳥啼魚の目は泪

これを矢立の初として行道

なをすゝます人々は途中に立

ならひて後かけの見ゆるまてはと

見送なるへし

此のたひ奥羽長途の行脚たゝ

かりそめにおもひたちて呉天に

白髮の恨を重ぬといへとも

耳にふれていまた目に見ぬ境

若生て歸らはと定なき賴

の末を樂て其日漸早加と

云宿にたとりて瘦骨

の肩にかゝれる物先くるしむ

唯身すからにと拵出立侍るを帋子

一衣は夜ル臥爲と云ゆかた雨

具墨筆のたくひあるはさ

りかたき花むけなとしたるは

さすかに打捨かたく日々路頭の

煩となれるこそわりなけれ

   *

 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した)

〇弥生も末の七日元祿二とせにや→ ●弥生も末の七日

〇此のたひ          → ●ことし元祿二年(ふたとせ)にや

〇定なき賴の末を樂て     → ●定めなき賴みの末をかけ

〇早加と云宿にたとりて    → ●草加といふ宿にたどり着きにけり。

〇唯身すからにと拵出立侍るを → ●ただ身すがらにと出で立ち侍るを

〇帋子一衣は夜ル臥爲と云   → ●紙子一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、

〇さすかに打捨かたく     → ●さすがにうち捨てがたくて

〇日々路頭の         → ●路次(ろし)の

 

■やぶちゃんの呟き

 現在の研究では、この「舟に乗て送る」の部分までは実は曾良は同行していない(このことはよく知られていることとは思われない)。「おくのほそ道 総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「出立日についての論議」によれば(同サイトは非常に優れたものであるがリンクした場合の告知要請をしているので一切リンクしない。以下、この注は略す)、理由は不明ながら、曽良だけが先に三月二十日に深川を立って千住に一週間逗留して芭蕉を待ち、芭蕉は本文通りに同二十七日に杉風の別邸採荼庵を出立、千住で曾良と合流し、そこで同日中に初めて連れ立って旅立ったのであった。……一週間は如何にも怪しい。これは何だ?……]

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