日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 38 最初の一般講演会の思い出 / 第十一章 了
私は日本で初めて、日本人だけを聴衆にして行った、公開講義のことを書かねばならぬ。米国から帰った若い日本人教授達が、公共教育の一手段としての、我国の講演制度に大きに感心し、東京でこのような施設を設立しようと努力した。これは非常に新しい考なので彼等は一般民衆の興味をあおるのに、大きな困難を感じた。然しながら彼等は勇往邁進し、ある茶店の大きな部屋を一つ借り受けた。一般民衆は貧乏なので、入場料も非常に安くなくてはならぬ。同志数名が集って、この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌を起し、この人々が私に六月三十日の日曜日に、最初の講演をする名誉を与えてくれた。私は考古学を主題として選んだ。狭い路を人力車で通って、会場へ来て見ると、私の名前が大きな看板に、私には読めぬ他の文字と一緒に、日本字で書いてあった。人々が入って行く。私は通訳をしてくれることになっていた江木氏にあったので、一緒に河に面した部屋へ入って行った。例の方法で畳にすわった日本人が、多くは扇子を持ち、中には煙管を持ったりお茶を飲んだりしているのもあったが、とにかく、ぎっしりと床を埋めた所は巧妙だった。黒板が一つあった。部直中に椅子がたった一脚、それに私は坐らせられた。
[やぶちゃん注:これは既に本「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 50 モース先生一時帰国のための第一回送別会 又は ここにいる二人の自殺者の経歴がこれまた数奇なること」に注した、本文に出る、当時、二十九歳であった東京大学予備門教諭江木高遠が、アメリカ留学から帰朝後ずっと温めていた啓蒙のための学術講演会で、この直後の同明治一一(一八七八)年九月二十一日に発足させた会費制学術講演会「江木学校講談会」の濫觴となるものであった。参照した磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、会場は『浅草須賀町(現台東区柳町二丁目)の隅田川べりにあった貸席』『井生村(いぶむら)楼』で、『両国橋を渡ってすぐと東両国(現墨田区両国一丁目)にあった中村楼とともに、当時の講談会、演説会の会場としてしばしば用いられた場所であ』ったとある。なお、この日の講演は同『なまいき新聞』三~五号(同年七月六・十三・二十日号)に要作されており、『それによると、石器時代、青銅器時代、鉄器時代の区分や貝塚について話し、また大森貝塚はアイヌでも日本人でもないと述べ、その人々が食人していたと初めて主張し』たとある。所謂、プレ・アイヌ説であるが、現在では大森貝塚は縄文後期から末期の縄文人の遺跡と認定されており、またカニバリズム説についても否定的であるが、これが明治の初め、外国人が初めて一般大衆に最初に講演した内容であったということは実にショッキングではある。どこまで正確に通訳されたかは疑問ながら、モースにとってはその「拍手」が、いやましに日本人を愛するきっかけとなったことは想像に難くない。
「この講演会に関係のある科学、文学、古代文明等に関する雑誌」前のリンク先注に示した、江木らが発刊した『なまいき新聞』(同六月に生意気新聞社が創刊した週刊新聞で同年十月には『芸術叢誌』と改名して美術雑誌となった)で、明治一一(一八七八)年六月三十日の「『なまいき新聞』発刊記念講演」と称して行われたのが実に本講演であったのである。
「巧妙だった」原文は“a queer sight”。なんとも奇妙な光景であった、である。誤植か?]
井上氏が先ず挨拶をされた。これは、後で聞くと、何等かの伝記的記事から材料を得て、私というものの大体を話されたのだそうだが、彼のいったことが丸で判らぬ私は、いう迄もなく顔一つあからめずにこの試練をすごし、さて聴衆に紹介された。通訳を通じて講演するのは、むずかしかった。会話ならば、これは容易だが、覚書を持たずに講義するとなると、通訳がどれ程よく覚えていることが出来るかが絶えず気にならざるを得ず、従って言論の熱誠とか猛烈とかいうものがすべて抑圧されて了う。私は先ず、考古学の大体を述べ、次に日本に於る広汎な、いまだ調査せられざる研究の範囲を語り、目の先にある大森の貝塚を説明し、陶器のあるものを示し、かくて文字通り一連二歩、主題の筋を辿った。話し終ると聴衆は、心からなる拍手を送った。拍手は外国へ行って来た日本人の学生から、ならったのである。聡明そうに見える老人も何人かいたが、皆興味を持つたらしかった。講義中、演壇の横手に巡査が一人座っていた。
[やぶちゃん注:「井上」井上良一東大法学部教授(イギリス法律学担当)。既注。]
翌日江木氏が私の宅を訪問し、入場料は十セントで学生は半額、部屋の借代がこれこれ、広告がこれこれと述べた上、残りの十ドルを是非とってくれと差出した。こんなことは勿論まるで予期していなかつたので、私は断ろうとした。然し私は強いられ、そこで私は、前日が、そもそも組織的な講演会という条件のもとに、外国人が講義をした最初だと聞いたので、この十ドルで何か買い、記念として仕舞っておくことに決心した。この会は私に、連続した講義をしないかといった。私は、秋になったら、お礼をくれさえしなければやると申し出た。主題はダーウイン説とする。
[やぶちゃん注:最後のそれが「江木学校講談会」に於ける進化論四講として結実することになるのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、講演は明治一一(一八七八)年十月二十七日・二十八日・三十一日と十二月二日の四回で、場所はこの時と同じ浅草井生村楼で、広告によると演題は「動物変遷論」或いは「人種原始論(ひとのはじめろん)」あったらしい。通訳は江木高遠と東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)菊池大麓が担当した。モースはそれ以外にも同講談会で「昆虫の生活」「氷河の話」「動物成長の法則「彫刻術」「クモの話」「人と猿」などという演目で講演を行っている)。磯野先生はこの江木の企画した「江木学校講談会」でのモースの進化論講演(本末尾に出る)に絡んで当該書で一章を設けて詳述しておられる。本邦の自然科学とそれに影響されたところの社会学を含む近代啓蒙史の曙としても、是非ご一読をお薦めするものである。]