日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 37 シャボン玉/表札/独立記念日のジョンの失望
しゃぼん玉を吹く子供は、長い竹の管を使い、石鹸と水との代りに、植物の溶液を使用する。この管から彼は速に、二十乃至三十の泡沫(あわ)を吹き出すのだが、それが空中を漂って行く有様は、管から紙片を吹き出すようである。
[やぶちゃん注:モースは「第七章 江ノ島に於る採集」の冒頭近くのここで既にしゃぼん玉売りを描出している。「植物の溶液」等、リンク先の私の注を参照されたい。]
図―338
営造物の名前の多くは、長い木片に書かれる。日本人は縦に書くので、絵画以外の記牌は、縦の方向に僅かの場所をとる丈である。医学校(これは屋根の上に鐘塔のある大きな建物で、外国風の巨大な鉄門を持っている)の門標は、幅一フィート、長さ六フィートの板に書いてあるが、これは単に学校の名を書いた丈なのである。標札、即ちある家の住人の名前は、木片に書き、入口の横手にかける(図338)。
[やぶちゃん注:「医学校」後の東京大学医学部の前身である東京医学校(旧幕府医学所。法理文三学部は幕府蕃書調所を前身とする東京開成学校)は東京開成学校と合併して東京大学が出来る前年明治九(一八七六)年の末に現在と同じく、不忍の池の西方現東京大学敷地内に既に移転して来ていた。図338の右の表札「加藤弘之」は既にお馴染みの東京大学法文理三学部綜理の彼のフル・ネームであるが、右の「富田幸次郎」(嘉永三(一八五〇)年~昭和元・大正一五(一九二六)年)は岡倉天心の弟子で一九〇七年にボストン美術館で天心の助手となり、一九三一年~一九六二年の永きに亙ってアジア美術部長を努めた人物。本書の「緒言」で名が出る。
「幅一フィート、長さ六フィート」幅三〇・四八、長さ約一・八三センチメートル。]
七月四日になった時、私の伜は、爆竹をパン・パンやることが許されぬので、大きに失望していた。火事を超さぬ用心として、警察は屋敷内ですら、爆竹や、玩具のピストルや、それ等に類似したものを使用することを、許さなかった。
[やぶちゃん注:「七月四日」底本には直下に石川氏の『〔独立記念日〕』という割注が入る。]