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2014/05/03

黄粱夢   芥川龍之介



 盧生ろせいは死ぬのだと思つた。眼の前は暗くなつて、子や孫のすゝり泣く聲が、だんだん遠い所へ消えてしまふ。さうして、眼に見えない分銅ふんどうが足の先へついてゞもゐるやうに、體が下へ下へと沈んで行く――と思ふと、急にはつと何かに驚かされて、思はず眼を大きく開いた。
 すると枕もとには依然として、道士だうし呂翁ろをうが坐つてゐる。主人のかしいでゐた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は靑磁せいじの枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲かんたんの秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
 「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑をみ殺すやうな顏をして云つた。
 「えゝ――」
 「夢をみましたらう。」
 「見ました。」
 「どんな夢を見ました。」
 「何でも大へん長い夢です。始は淸河せいか崔氏さいしむすめと一しよになりました。うつくしいつゝましやかな女だつたやうな氣がします。さうしてあくる年、進士しんしの試驗に及第して、渭南ゐなんの尉になりました。それから、監察御史かんさつぎよし起居舍人知制誥ききよしやじんちせいかうを經て、とんとん拍子に中書ちうしよ門下平章事へいしやうじになりましたが、ざんを受けてあぶなく殺される所をやつと助かつて、驩州くわんしうへ流される事になりました、其處に彼是五六年もゐましたらう。やがて、えんを雪ぐ事が出來たおかげで又召還され、中書令になり、燕國公えんこくこうに封ぜられましたが、その時はもういゝ年だつたかと思ひます。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
 「それから、どうしました。」
 「死にました。確か八十を越してゐたやうに覺えてゐますが。」
 呂翁は、得意らしくあごひげを撫でた。
 「では、寵辱ちようじよくの道も窮達きうたつうんも、一通りは味はつて來た譯ですね。それは結構な事でした。生きると云ふ事は、あなたの見た夢といくらも變つてゐるものではありません。これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。得喪とくさうの理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。さうではありませんか。」
 盧生は、ぢれつたさうに呂翁の語を聞いてゐたが、相手が念を押すと共に、靑年らしい顏をあげて、眼をかゞやかせながら、かう云つた。
 「夢だから、猶生きたいのです。あの夢のさめたやうに、この夢もさめる時が來るでせう。その時が來るまでの間、私はしんに生きたと云へる程生きたいのです。あなたはさう思ひませんか。」
 呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。



■やぶちゃん注
 最初に「Ⅰ 字注」、次に禁欲的に附した「Ⅱ 語注」を掲げ、次に「Ⅲ 原典」として沈既濟撰の「枕中記」原文・書き下し文・語注をシークエンスごとに附し、「Ⅳ やぶちゃん訳」として私の一部に翻案を施した現代語訳を附した。最後に「Ⅴ 附言」として「枕中記」の祖型である六朝志怪の原文・語注・書き下し文、及び「枕中記」と芥川龍之介の「黄梁夢」についての諸家評その他を簡潔に附した。

Ⅰ 字注
(1)『「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を嚙みながら、笑をみ殺すやうな顏をして云つた。』の部分のルビはママで、前にある「髭を嚙みながら」の方にはルビはない。単なる見逃しによるルビの打ち違いとも思えるが、一つの可能性としては、こっちを「髭をみながら」と訓じている可能性を否定は出来ないということだけは言っておきたい。
(2)底本後記にある校異を以下に示しておく。
〇第二段末
(底本)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があつてもうすら寒い。
(初出)
……眼をこすりながら大きな欠伸をした。日があつても、うすら寒い。
〇最後の呂翁の台詞
(底本)
……これであなたの人生の執着も、少しは熱がさめたでせう。
(初出)
……これであなたの人生の執着も、熱がさめたでせう。
〇同
(底本)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものです。
(影燈籠)
得喪の理も死生の情も知つて見れば、つまらないものなのです。
〇最終行
(底本)
呂翁は顏をしかめた儘、然りとも否とも答へなかつた。
(初出)
呂翁は顏をしかめて、答へなかつた。

Ⅱ 語注
・「黄粱」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科キビ連エノコログサ属アワ Setaria italica 。五穀の一つ。東アジア原産で高さ一~二メートル、エノコログサ Setaria viridis を原種とするといわれ、エノコログサとの交雑もよく生ずる。穂は黄色に熟し、垂れ下がる。参照したウィキの「アワ」によれば、『中国の華北・中原において、黄河文明以来の主食は専ら粟米(谷子)であり、「米」という漢字も本来はアワを示す文字であったといわれている』。『また、隋唐で採用された税制である租庸調においても、穀物』『を納付する「租」は粟で納付されるのが原則(本色)であった』。『これに対して、華南では稲米は周の時代から栽培が盛んになった』。『青海省民和回族トゥ族自治県の喇家遺跡では、およそ』四千年前の『アワで作った麺が見つかっており、現在、世界最古の麺といわれている。だが、連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいことや、西域から小麦が伝わってきたこととも相まって、次第に主食の地位から転落することになった。しかし、現在でも中国では粟粥などにして、粟を食べる機会は多い。また、「鉄絲麺」という、最古の麺と同じような麺類を作る地方もある』とある。本邦『では米より早く栽培が始まり、縄文時代の遺跡からも発掘されることがある。また、新嘗祭の供物としても米とともにアワが用いられ、養老律令にも義倉にアワを備蓄するように定められており』「清良記」(軍記物。江戸初期に成立した伊予国宇和郡の武将土居清良の一代記。日本最古ともされる農書としての記述を含むことで知られている)など『にもアワについての解説が詳細に載せられているなど、古くから、ヒエとともに、庶民にとっての重要な食料作物だった』。『だが、第二次世界大戦後には生産量が激減した。日本でもかつてはアワだけを炊いたり、粥(粟粥)にして食べていたが、現在は、米に混ぜて炊いたり、粟おこしとしたりするほか、クチナシで黄色に染めて酢じめしたコハダなどの青魚とあわせた粟漬を正月料理として食べる程度である。また、主食用であったうるちアワよりも、菓子や餅(粟団子や粟餅など)、酒などの原料として用いられてきたもちアワの方が多く栽培されている。家畜、家禽、ペットの飼料としての用途の方が多い』。栄養価としては糖質七〇%・蛋白質一〇%・ビタミンB群を含、お。『鉄、その他のミネラルや食物繊維も豊富なため、五穀米などにして食べる方法が見直されている』ともある。
・「呂翁」八仙の一人として知られた呂洞賓りよどうひんを想起させる名ではあるが、原典である唐代伝奇の「枕中記」では時代設定を開元七(七一九)年とし、以下に示す呂の生年とされる時よりも七十五年も昔である。しかし、ウィキの「呂洞賓」によれば、『名を喦(巌、巖、岩とも書く。煜という説も)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。唐の貞元14年(794年)4月14日に、蒲坂(現在の山西省芮城県)永楽鎮で生まれた。祖父は礼部侍郎の呂渭、父は海州刺史の呂譲』。『師は鍾離権であり、終南山で秘法を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる』とした後に、『幼い頃から聡明で、一日に万言を記したという。身長8尺2寸』(約2メートル48センチ)、『好んで華陽巾』(正しくは九転華陽巾といい、道士の被る特殊な冠である。ウィキの肖像図の被っているものか)『を被り、黄色の襴衫』(らんさん:唐や宋の頃に着用された裾縁(すそべり)のある着物。グーグル画像検索「襴衫」参照。)『を着て、黒い板をぶら下げていた。20歳になっても妻を娶ろうと』せず、『出世を目指し、科挙を二回受けたが、落第してしまう。長安の酒場にて、雲房と名乗る一人の道士(鍾離権)に出逢い、修行の誘いを受けるが、出世の夢が捨て切れず、これを断った』が、この時、『鍾離権が黄粱を炊いている間、呂洞賓はうたた寝をし、夢を見る。科挙に及第、出世し、良家の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。そうして40年が過ぎるが、ある時重罪に問われてしまい、家財を没収され、家族は離れ離れとなり、左遷されてしまう』――が――『そこで目が覚めるが、まだ黄粱は炊けていなかった。俗世の儚さを悟り、鍾離権に弟子入りを求めると、十の試練』(リンク先に詳述されている)『を課されることとなる。これを見事こなした呂洞賓は、晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった』と伝えるのであるが、まさに『この話は、故事「黄粱の夢」酷似している。また、この「黄粱の夢」に登場する呂翁が呂洞賓のことであるともされる』とし、さらに「八仙得道伝」「八仙東遊記」などの『明や清の章回小説においては、呂洞賓は鍾離権の師である東華帝君の生まれ変わりである、という記述が多く見られる』と続く。そもそもこうした転生説や異なった時代を自在に行き来するのは仙人の朝飯前であるから、私がこの「呂翁」を呂洞賓がモデルだと言っても、強ち時代錯誤も甚だしいなんどと言われる筋合いの話でもないんである。なお、「枕中記」の作者である沈既濟は乾一夫氏の考証(後掲する原典の底本に載る)によれば、玄宗の天宝年間(七四二年~七五五年)かそれより少し前に生まれ、代宗(在位は七六二年~七七九年)の末から徳宗(在位七八〇年~八〇四年)の頃に活躍した人物であるから(官吏にして歴史家で最終官位は礼部員外郎。御多分に漏れず、その人生では「黄梁夢」ではないが推薦者の処罰に連座して左遷も経験している)、まさに仙人呂洞賓とは同時代人であったものの、微妙に前の生まれであるし、呂洞賓伝説はもっとずっと後に形成されたものと考えられるから、沈自身が彼をモデルとした可能性は全くないとは言える。
・「熟さない」「熟す」には、固まっているものを細かく砕くという意がある。蒸し炊いているきびが未だやわらかく煮えていない、の謂いである。
・「邯鄲」現在の河北省南部の地名。以下、ウィキの「邯鄲市」によれば、神話では女媧が邯鄲の古中皇山で粘土を捏ねて人を作ったという。一万年前には既に旧石器文化が存在しており、古えより人類の活動のあった場所ではあった。『都市が形成されたのは殷代であり、殷初には邢(現在の邢台市)、後に殷(現在の安陽市)に都城が設けられ、邯鄲は畿内とされていた。『竹書紀年』には殷末の帝辛(紂王)が邯鄲に「離宮別館」を建設したという記載がある』。戦国時代は趙の都であったが、『前228年(秦始皇19年)、秦軍が邯鄲を攻撃、趙王は秦に降伏し邯鄲は秦国の版図とされ、前221年(秦始皇26年)には秦が趙を滅ぼし、翌年に中国統一を達成すると、邯鄲県が設置され邯鄲郡の郡治とされた。秦末に発生した陳勝・呉広の乱では趙が復興された際、秦将章邯により趙が邯鄲に籠城することを回避すべく、占領後に邯鄲は徹底的に破壊された』。ここ邯鄲は実は始皇帝の出身地でもあった。時間が巻戻るが、戦国時代末期、『秦は趙に対し人質として王・昭襄王の孫、子楚(後の荘襄王)を差し出したが、大商人呂不韋は子楚の非凡さを見抜き身元を救い出し、後に後見人として勢力を振るった。彼は自分の愛人を子楚に与え、生まれた子が政、後の始皇帝であ』った。『始皇帝は生まれてまもなく秦と趙との戦いに巻き込まれ子楚が王になるまでの6年間邯鄲の富豪にかくまわれたという。趙を滅ぼした後一度だけ邯鄲に入城し、生母の敵たちを皆生き埋めにしたと伝わる』。『後漢末の混乱期には、邯鄲県は各勢力による戦火の被害を受け衰退してい』き、『213年(建安18年)、献帝は曹操を魏国公に封じ鄴城に建都すると政治、経済、文化の中心は鄴城に移り邯鄲県は魏郡の一般の県城とされた。221年(黄初2年)、魏により広平郡、晋の時代には再び魏郡の管轄とされている。南北朝時代には東魏により邯鄲県は廃止となり臨漳県に統合されたが、596年(開皇16年)に再設置されその後隋唐代を通じて邯鄲県は小県として洺州、磁州、武安郡、紫州などの管轄とされていた。邯鄲が寂れる一方で、近くの大名府(現在の大名県)は宋代には副都となり河北の大都市となった』とあるから、本話(原典冒頭には盛唐の初期である開元七年(西暦七一九年)とする)の頃の邯鄲は寂れつつあったことが分かる(但し、後掲する乾氏の注では『唐代でも繁華な町の一つとして知られている』とある。しかし、本話や原典のロケーションからはやはり田舎の街道筋という印象で、『繁華』な雰囲気はしない)。
・「淸河」漢代に置かれた郡名。当時は現在の河北省及び山東省の一部をなす広域であった。現在は河北省邢台けいだい市に清河県として名が残る。ウィキの「清河県」によれば、『前漢の文帝の后妃である竇漪(孝文皇后)の祖籍地で』、『556年(天保(北斉)7年)、北斉により設置された武城県を前身とする。586年(開皇6年)に清河県と改称された。1958年に廃止となり管轄区域は南宮県に編入されたが、1961年に再設置され現在に至る』とある。ここは明代初期(一五六六年板行)に成立した「水滸伝」では『は武松の故郷とされ、武松の兄嫁である潘金蓮とその間男・西門慶の住む町でもある。潘金蓮と西門慶を主役とする『金瓶梅』では、清河県が主な舞台となっている』ともある。
・「渭南」現在の陝西省の旧関中道(中華民国北京政府により設置された行政区画)にあった県名。現在は渭南市(西安の五十キロメートル東北に位置する)。
・「尉」は中国の官名であるから「ゐ(い)」と読む。県尉。県内の軍事・警察を統括した。今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」(岩波書店一九八八年刊)の「枕中記」の「渭南の尉」の注に『渭南県は京畿道』(京師けいし及びその周辺地域)『にあり、そこで渭南の尉も、当時いわゆるいいポストであった』とある。同じ「尉」でも「山月記」の李徴の「江南尉」とは、これ、ラベルが違うということらしい。
・「監察御史」国家の司法・監察機構である御史台の属員。京師の各衙門がもん(官庁)及び官吏を監督し、地方を巡察して行政を視察監視した皇帝の直属官。今の検察庁長官に相当する。
・「起居舎人」皇帝の左右に控えて言行を記録し、国史編纂の資料を収集して史館に提出する官。前記今村氏の注によれば、『清資官といわれて尊重された』とある。
・「知制誥」詔勅の起草などの担当官。ウィキの「知制誥」によれば、『古代から明代に至る中国の官職名。制・誥をつかさどる者、の意』で、『制・誥ともに書経に見え、「天子の言葉」を意味』し、『三代(夏・殷・周)で用いられていたが、秦の始皇帝が「命」を「制」に、「令」を「詔」に改めてからは「誥」は文書に出てこなくなる。唐代までには詔・册・制・勅が皇帝の命令を意味する言葉とな』ったとする。『翰林院が唐代初期に置かれ、学問芸術に優れた人物を集めていたに過ぎなかったが、玄宗の時に中書省の事務が繁雑になり文書が滞留するようになったので、翰林学士という役職を置き中書省の一部の機能を分掌させた。この翰林学士は重用されるようになり、宰相の実質を担うようになるが、専任の官職ではなく定員もなかった。宋代になって詔勅の制度は唐にならい、「誥」が復活され「制」と並んで用いられるようになる。制・誥を書く仕事は翰林学士から分離し、知制誥が設けられた』とある。
・「中書門下平章事」正しくは同中書門下平章事。ウィキの「同中書門下平章事」におれば、『中国唐代から元代に存在した官職。当初は臨時の官であったが、後に常設の官となり、北宋代には宰相とされた。同平章事あるいは平章と略される』。『元々は同中書門下三品という。唐初には中書令・門下侍中・尚書僕射がそれぞれ宰相職とされていたが、それよりも下の、主に尚書省の官僚が宰相に任じられることがあった。この時、中書令などの本来の宰相職より官品が低いのは不都合が生ずるので、臨時に同中書門下三品を授けて、中書令らと同格の正三品官としたのである。高宗の650年に「同中書門下平章事」と改称され、中書令らと共に正式な宰相職とされた』。この話柄の時間の後になるが、『中唐以降、本来の宰相職であった中書令・門下侍中・尚書僕射が名誉職化するにつれ、それに代わって同平章事は事実上の宰相職として権限を強めていった。同平章事に任命される者は、中書侍郎(次官)や門下侍郎や六部のいずれかの尚書など、必ず本来の官職との兼任であった。節度使に対しても名誉称号として同平章事が授けられ、更には塩鉄転運使などにも授けられることもあった』とある。また、今村与志雄訳「唐宋伝奇集(上)」の「枕中記」の同注には、『唐代、宰相の代りの呼称。唐制では、中央政府最高機関の尚書、門下、中書三省の長官、すなわち尚書令、侍中、中書令が宰相として国務を統轄した。太宗以後、尚書令は設けず、侍中、中書令も必ずしも設け』なかったが、そこで『中書、門下二省の長官でない』者に対して同じ権限を与えて委託し、『宰相の職務を代行』させた。『そこで同中書門下平章事(平章は相談する、研究するという意味。事は政事をいう)と称した。唐代、宰相は一般に同時に四、五人置いた』とある。因みに、今村氏の注は知りたいことに飛び抜けて優れている注であると言える。
・「驩州」狭義には現在のベトナム社会主義共和国ゲアン省(ベトナム北中部に位置し、東はバクホ湾に、西はラオス人民民主共和国山岳部に接する)にかつて設置されていた州。設置は唐代初期の六二二年で、行政上の名は五年後の六二七年に演州と改称されている。演州は六三六年に一旦廃止されたが、七五四年に再設置、鎮南都護府(後の安南都護府)の管轄とされた(ここまではウィキの「演州」に拠る。位置はウィキの「ゲアン省」で確認されたい)。「枕中記」の「驩州」の諸注は多く単に「ベトナム」とする。筑摩類聚版芥川龍之介全集の脚注は、限定的に『ベトナム北部の地』とし、更に『当時の唐の領地で流刑地とされた』と孫の手クラスの注を附していて嬉しい。
・「中書令」宮廷の文書・詔勅を掌る中書省の長官であるが、ウィキの「中書令」によれば、『隋と唐早期には、皇帝が出す詔勅の起草を行うという役職から、非常に強い権限を持ち、実質的な宰相職となっていた。唐の太宗の治世では、中書令は參議朝政などの名で国政に参与するようになり、同中書門下三品もしくは同中書門下平章事を兼任しない宰相には実質的権限がなかった』とあり、唐の第二代皇帝太宗李世民の在位は六二六年から六四九年で本話内時間の七十年ほど前のことであり、廬生は失脚前の官職に丸々復帰していると考えてよいから、正しく「同中書門下平章事を兼任」する「宰相」で、「実質的権限」を持った権威者に復帰していたと考えられる。今村氏の注では、『唐代の中書省は、事実上、皇帝の枢要な執務機関で顧問の機構であり、職種が最も高かった』とあって、龍之介の「黄梁夢」の注としても読解をよく助けてくれるものである。
・「燕國公」「燕」は地名としては戦国時代の燕国のあった河北省北部、現在の北京を中心とする一帯を指すが、これは本邦の「〇〇守」同様の称号である。前に示した「枕中記」の今村氏の注に、『唐代、封爵を九等に分け、国公は第三等、秩』(ちつ:官位の順位。)『は従一品で、親王と群王につぐ。燕公国の燕は、称号にすぎない。古代の燕国地方の租税収入が支給されたのではない』とある。目から鱗。
・「寵辱の道」栄達と零落・名誉と屈辱という人生の道程。
・「窮達の運」困窮と栄達・貧困と富貴という人間の運命。
・「得喪の理」得ることと失うこと・成功と失敗という世の道理。
・「死生の情」人間の死と生というものの厳然たる非情な実体。

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