耳嚢 巻之八 奇成癖有人の事
奇成癖有人の事
赤坂に高九百石領する岡野某といへる人あり。未(いまだ)年若なれど、其氣性他に異なる由。文化寛政の頃、專ら陰德を好む者を稱しけるが、此仁も陰德家にてありしや、御府内(ごふない)の寺々を廻り、墓所にて香花(こうげ)備ふる事もなく苔むし誠に無緣の石牌と思ふをば、召(めし)連れし從者に洗(あらひ)みがゝせ樒(しきみ)などたてゝ祭りけるを樂(たのし)みとなしける由。或時麻布祥雲寺に至り、餘程の石牌苔むして誰(たれ)祭るとも見へず苔に埋れて牌銘さへ見えざれば、例の如く洗磨(あらひみがか)せしに、有馬中務大輔(なかつかさたゆう)娘とありければ、かゝる大家の石牌かく捨(すて)あるこそ不審なれと長歎して、右藩中に知る人ありければ、かゝる石牌なにと云る寺にあり、あまりなる事なれば糺被(ただされ)見候樣申(まうし)けるゆゑ、彼(かの)藩中の者、其筋の役人へ申て糺けれど、しれる者なし。然共(しかれども)歷然牌名ある事なれば、家中は不及申(まうすにおよばず)、國許(くにもと)迄も搜しけるに、數代以前の娘に無相違(さうゐなし)。依之彼(これによつてかの)しれる家來、其譯岡野へ語りければ、いかなる故に捨置(すておき)給ふやと尋(たづね)ければ、是には子細ある事の由。其譯は、右娘身分不相應の不埒ありて、其節の有馬氏手討となし、かゝる不埒者、菩提所へは葬りがたし、何方へ成(なり)とも取置(とりおく)べしとありしゆゑ、家來の内取斗(とりはからひ)、彼寺に葬りしならん。年月右の娘に無相違(さうゐなき)間、家中にも今はしるものなし。其節の主人憤りつよく、決(けつし)てとひ弔致間敷(とむらひいたすまじきと)申傳(まうしつたへ)る由申ければ、さる事もあるべけれど、右不埒は咎め給はゞ、取捨にもなし石牌等殘しおかるべきやうなし、石牌もある上は、其頃こそは憤りも有(ある)べけれ、百年もへて今其儘に捨置、とひ弔ひもなし給はざるは、何共(なんとも)有馬の銘字も彫付之、不審至極の事なりと、理を延(のべ)ければ、彼家來も其通り理(ことわり)に伏し主人へも其事申ければ、せんせうなる人ながら、扨々尤(もつとも)の理也、然る上はとむらひ致し可然(しかるべし)とて、彼寺へ假屋抔立て、住僧へもしかじかの譯を申、大法事行ひけるゆゑ、住僧も大きに悦びて岡野宅へ參り、かゝる事に法事も有之(これあり)候と歡び厚く禮をのべければ、岡野も我志も屆(とどき)、いか斗(ばかり)大悦なりと答へけるに、無程(ほどなく)有馬家より、鮮鯛一折八丈五反(たん)、使者を以て岡野へ送りけるゆゑ、岡野右使の者にあひて、我等御家來へ心付(こころづけ)し御挨拶とて、受納可致(いたすべき)筋曾無之(かつてこれなき)由にて、かたく斷(ことわり)て返しければ、中務大輔甚(はなはだ)其氣性を感じ、しからば懸御目(おめにかかり)、御禮を可申述(まうしのぶべき)間、御出のやう致度(いたしたく)、裏門より小座敷へ内玄關通り被參(まゐられ)候樣、使者にて申(まうし)越しければ、成程(なるほど)參上は可致候得共(いたすべくさふらえども)、岡野も祿職を給はり候て當時御旗本の列たり、格式にて表門より罷越(まかりこし)、表座敷にて被逢(あはれ)候事に候はゞ可參(まいるべく)候、裏門より内玄關通りまいる儀に候はゞ、御目に懸り候事斷之由(ことはるのよし)答へければ、中務大輔聞(きき)て、誠に異人なり、然る上は、表向(おもてむき)にて可得御意(ぎよいをうべき)とて案内をなし、さて表門より座鋪(ざしき)へ通し、家格を以(もつて)對面し、段々忝(かたじけなし)、さて又一通り面會の上、表門より御歸り、改(あらため)て裏門より勝手座敷へ通り給はり候樣申談(まうしだんじ)ければ、岡野も其意に隨ひ右の通りにて勝手座敷へ通りければ、種々の饗應あり、扨々深切の段忝、何ぞ御禮も申度(まうしたく)間、何成(なんなり)とも御好み可有之(これあるべし)、御好に應じ、御馳走謝禮をもいたし度(たし)と、直々(ぢきぢき)申されければ、我等も祿も被下置(くだしおかれ)、存寄有之(ぞんじよりこれありて)て、與風(ふと)右の牌銘を見出し、心付候趣、御家來へ談じ候事にて、御禮可受(うくべき)いわれなし、御馳走の望(のぞみ)も更になき由答へければ、しかれども何ぞ御好みあるべし、いか樣にも饗應いたし度(たし)とありければ、御當家には角力(すまふ)を御抱被置(おかかへおかれ)候由、右角力を拜見致度(いたしたし)とありけるに、角力ども其砌(みぎり)はいづれも大阪等へ參りあり合(あひ)なかりければ、其譯をのべて、追(おつ)て饗應せんと約して立(たち)わかれ歸りけるとなり。其翌日八丈五反大靑(あを)め籠(かご)を有馬より前日來り候禮として贈りければ、忝(かたじけなき)由にて是を請(うけ)、又岡野より八丈七反に、一倍增の靑目籠、答禮なしけるを請て、翌日奧よりざつとしたる交肴(まぜざかな)一折を贈り、以來立入等致給(いたしたまひ候樣申越(まうしこし)ければ、是は請て、忝由答へけるよし。尤なる異人と專ら評しけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「奇成癖有人の事」は「きなるくせあるひとのこと」と読む。
・「岡野某」底本の鈴木氏注に、『三村翁「笄橋岡野虎之助六百五十石高、神楽坂岡野弥十郎九百石、いづれにや」』とあるが、岩波版長谷川氏の注では『岡野弥十郎か(三村氏)』とする。
・「文化寛政」言わずもがなであるが、寛政の方が前で、文化との間には享和が挟まる。寛政元・天明九(一七八九)年~享和元・寛政一三(一八〇一)年~文化元・享和四(一八〇四)年~文政元・文化一五(一八一八)年で二十九年間。
・「隱德」底本では右に『(ママ)』注記があるが、陰徳(人に知られぬように秘かにする善行)をかく表現しても十分意味は通ずる。
・「御府内」江戸の町奉行の支配に属した市域。文政元(一八一八)年に東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められた。
・「樒」「耳嚢 巻之八 寐小便の呪法の事 附笑談の事」に既注。
・「麻布祥雲寺」サイト「DEEP AZABU.com」の「むかし、むかし8」 の「125.奇妙な癖のある人」(本話の現代語訳あり)に『文中の麻布の祥雲寺とは現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われる』創建の『由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していた』ことから、元和九(一六二三)年に長政が没すると、『嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立』した。それが寛文六(一六六六)年に『麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め』、寛文八(一六六八)年の江戸大火の後、現在の地に移ったとあり、リンク先の記事の筆者はこの話が書かれた文化頃(「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏)には、この寺は『すでに広尾にあった。おそらく「耳袋」の著者「根岸鎮衛」の間違いだと思われる』と述べた後、追記をなさっておられ、それによれば、『後日の調査で、この広尾の祥雲寺近辺は、江戸初期に宮村町に増上寺隠居所が出来た折、その代地として宮村町が「宮村町代地」として幕府より賜った麻布領であった事がわか』ったとあって、この「麻布」とは飛地の領分であったことを指すということが知れる。
・「有馬中務大輔」筑後久留米藩二十一万石。「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年当時は第八代藩主有馬頼貴(延享三(一七四六)年~文化九(一八一二)年)で久留米藩有馬家第九代。藩校明善堂を創設するなど、久留米藩の文運興隆に尽力したが、一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。江戸では華美な大名火消で知られた。参照したウィキの「有馬頼貴」によれば、天明四(一七八四)年に家督を継いで藩主となり、天明四(一七八四)年閏正月に本文に出る中務大輔にすすみ、文化元(一八〇四)年に左少将に遷任されている。『当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国は勿論、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった』とあり、彼も負けずと劣らぬ「奇成癖有人」であることが判明する。しかも、化け猫怪異譚「有馬の猫騒動」の題材にもされた人物である由の記載もあるのである。「有馬の猫騒動」は先に「麻布祥雲寺」で掲げたサイトのブログ版「Blog - Deep Azabu」の「有馬家化け猫騒動」に以下の記載がある(やや長い引用であるが、本注を語るのには是非必要なのである)。
《引用開始》
これは河竹阿弥の「有馬染相撲浴衣」で、初演は江戸期ではなく維新後の明治13年猿若座と新しく、その筋は藩主有馬頼貴が寵愛した側室「お巻の方」が他の側室の嫉妬で冤罪を被せられそれを苦に自害してしまう。すると「お巻の方」の飼い猫が主人の仇を報いようと奥女中のお仲に乗り移り側室たちを食い殺して火の見櫓にいるのを、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が退治する。
と言う筋書きでした。これ以前に風聞として、明和九(1772)年、大田南畝の「半日閑話」に有馬公の家臣、物頭の安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったとあり、同じ頃の随筆「黒甜鎖語」にも有馬家では夜な夜な怪異があったが、番犬を置くとおさまるとあり、また怪異とは狐のたたりであると岸根肥前守(寛政10年の町奉行)「耳袋」にもあります。これは、
松平丹波守の家伝の秘薬に「手ひかず」という塗り薬がありその製法を有馬の殿様が所望し遂に処方を伝授された。それは生きた狐を煮込み煎じ詰めると言う製法で、多くの狐が殺された。そのため怨んだ狐が怪をなしたが、番犬により怪が止んだ。
とあります。
「半日閑話」の安倍群兵衛とは誤記で犬上群兵衛であるとも言われ、犬上群兵衛は久留米藩の柔術師範であり麻布狸穴に道場を開いていて、実在した人物です。しかし、晩年粗暴のため閉門中に死去し犬上家は取り潰されてしまいます。
しかし、後日血縁の者が犬上郡次郎を名乗り、先代の怪猫退治をまことしやかに言い立て館林藩に仕官してしまいました。そして八丁堀に道場まで開くこととなりますが、やはり身持ちが悪く、文久二(1862)年上州の博徒、竹居の安五郎の子分に惨殺されてしまいます。
このようにだいぶ芝居の下地となる風聞がそろってきましたが、最後に決定的な事件(事故?)がおこります。
「街談文々集要」文化元年甲7月28日の条に神田にある、
松平讃岐守の上屋敷で火の見櫓の番人が櫓より落ちて死亡した。死体を改めると何かに引っかかれたような傷が無数にあり、腹部も破れてひどい有り様だったので世間では天狗か物の怪の仕業だとうわさした。またこの屋敷の近くにある旗本大森家の飼い猫が変化して人を脅かすので、松平讃岐守邸の事件もこの猫の仕業だと言う評判が立った。
こうなると風聞が伝わるうちに、怪猫、火の見櫓、大名屋敷という部分が強調され有馬家と結びつくのに、それほど時間はかからなかったと思われます。ちなみに松平讃岐守邸の事件の真相は、邸の者によると、火の見櫓の端に腰掛けていた番人が誤って転落し高所からひさしなどに当たりながら落ちたので、惨状になった。物の怪とはまったく関係ないとの事です。
《引用終了》
知られた鍋島の猫騒動と関連してこの奇怪な流言飛語の発生について、筆者は『鍋島家は主家の龍造寺家を乗っ取る時の恨み、また有馬家は藩主有馬晴信が死罪になって以降のキリシタン信者への弾圧など、両家に遺恨を持つものからの風聞だとしてもおかしくはないと思われ』ると述べておられ、怪談の深層を探って非常に興味深い。是非、全文をお読み戴きたい。してみれば、この「耳嚢」の藩主の実の娘のお手打ちの話というのも実はそうした「化け猫騒動」の濫觴たる流言飛語であったようにも読める。しかし、当時、ここまではっきりと姓名を明かしている以上、これらは総て事実であったと考えられ、そうすると寧ろ、先の藩主のそうした乱心若しくは藩主娘自身の起こした某重大不祥事又は乱心こそが、「化け猫」を生み出す源であったのではないか? などとも感じられるのであるが、如何であろう? 因みに、ウィキで歴代藩主を辿ってみると、この第二代藩主有馬忠頼のページには、『性格に粗暴かつ冷酷な一面があり、その面での逸話も事欠かない。例えば西本願寺の宗徒があるとき、忠頼に対して無礼なことをした。すると忠頼は領内における寺社に対して西本願寺から東本願寺への転派を強要し、それに従わない寺社は次々と潰していったのである。また、百姓に対しては年貢を厳しく取り立てる重税を行い、家臣に対しても冷酷で残忍な態度で当たることが少なくなかった。さらに実子に恵まれず、養子として有馬豊祐を迎えていたが、実子の頼利が生まれると末子として事実上、廃嫡に追い込んだりしている』とあり、しかもその病死とされている死については、真相は『日頃から忠頼につらい仕打ちを受けて耐えかねていた小姓の兄弟が忠頼を恨み、忠頼が洗顔中に背後から斬殺したという』とする驚天動地の記事が載るのである。しかも、十七歳で夭折した次の第三代藩主有馬頼利のページには、『嗣子が無く、弟の頼元が養子となって跡を継いだ』が、『この若すぎる死には毒殺説もあり、この説に従うならば、頼利は承応4年(1655年)に父と共に船内で殺された。しかし忠頼の実子は次男の頼元しか残されておらず、しかも生まれたばかりの幼児である。このため、摂津有馬家の改易を恐れた家臣団が頼利によく似た子供を頼利であるとして身代わりに擁立したものであった(一説に領内にあった大庄屋の息子だったともされている)。しかし頼元が成長したため、家臣団が邪魔になった頼利を殺害したのだとされているのである』という恐るべき記載が現れる。本話の「數代以前の」藩主というのはこの何か油ならぬ血の臭いのする冷酷非情の第二代藩主有馬忠頼(慶長八(一六〇三)年~承応四(一六五五)年)である可能性が一番濃厚な感じではある。文中に「百年もへて」とあるが、単純に「卷之八」の執筆推定下限である文化五(一八〇八)年の百年前は一七〇八年で、その当時は第五代藩主有馬頼旨(よりむね 貞享二(一六八五)年~宝永三(一七〇六)年)である。ところが彼は生涯独身で二十二歳で夭折しているから彼ではあり得ない。その前の第四代藩主有馬頼元(承応三年(一六五四)年~宝永二(一七〇五)年)が当該射程に最も適合することになるが、ウィキなどよりもより詳しい、サイト「くるめもん com.」の「有馬頼元(慈源院)」の記載によると、この頼元は善政を敷こうとした名君であったことが分かる(しかし、だからこそ娘の不行跡を許せなかったから手討にしたという設定は成り立つとは言える)。そうして、このサイトの「有馬忠頼(瓊林院)」を読むと、相応に有意な功績を記すものの、やはり『しかし、藩祖、父豊氏の戦国末期の櫛風沐雨の労を経験せず、春風駘蕩の幸せの中に成長したためか、性格に奔放にして己を押さえることの出来ない疳癖に近い激しいものがあって、臣下に死を賜うこともしばしばであった。小姓の兄弟二人のために不慮の死を遂げたのは、一にこの性格の禍であった』と書かれてある。これは文化五年からは百五十年以上前になり、「百年もへて」という記載とはかなりずれるものの、まあ、丼表現としては許せるように私には思われる(そもそもがそこは齟齬させて娘を手討にした藩主を特定させない意味もあろう)。いや、ともかくも寧ろ、この藩主謀殺の方が「化け猫」なんぞよりもずっとホラーである。
・「決(けつし)てとひ弔致間敷(とむらひいたすまじきと)申傳(まうしつたへ)る由申ければ」実は底本の本文は、
決てとひ弔致間敷申(旨)傳る由申ければ
とあって、『(旨)』の右には『(尊經閣本)』という傍注がある。これは尊経閣本では、
決(けつし)てとひ弔致間敷旨傳(とむらひまじきむねつたは)る由申ければ
とあるということであろうが、私は敢えて、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の、
決(けつし)てとひ弔ひ致間敷(いたすまじき)と申傳るよし申ければ
を参照にしつつ、読みを補う形で本文の「申」を生かした。大方の御批判を俟つ。
・「彫付之」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彫付有之』で「ゑりつけこれあり」でこの方が自然。
・「理を延ければ」底本では「延」の右に『(述)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『演ければ』で長谷川氏はやはり『のべ』とルビを振る。
・「せんせうなる」僭上なるで、身分を越えた出過ぎた行いをするような、という謂いであろう。但し、歴史的仮名遣は「せんしやう」(後に「せんじやう」とも)が正しい。
・「八丈」八丈絹。八丈島産の平織りの高級絹織物。紬(つむぎ)織物と練絹(ねりぎぬ)があり、色合いによって「黄八丈」「黒八丈」などと呼ぶ。
・「裏門より小座敷へ内玄關通り被參候」大名家が非公式でプライベートに相応に目下の身分の客を接待する際の一般的な通路なのであろう。
・「御旗本」旗本は徳川将軍家直属の家臣団の内、石高が一万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列することの出来る御目見以上の家格を持つ者をいう。、高家や交代寄合などの一部の例外を除いて若年寄の支配下に置かれ、定府(じょうふ:参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕える者をいう。)が原則であった(以上はウィキの「旗本」に拠る)。
・「靑め籠」青竹を組んで作った笊のような竹細工の籠のことか。それに八丈絹を盛ったものか。
・「交肴」数種類の魚を交ぜて籠に盛った進物をいう。
■やぶちゃん現代語訳
奇妙な癖を持った御仁の事
赤坂に石高九百石を領する岡野何某(なにがし)と申す人物がおる。いまだ若年ではあれど、その気質は、これ一風、人と変わっておる由。
文政から文化の頃は、世間にては、これ専ら、陰徳を好んでする御仁を褒め称えるという風潮が御座ったが、この御仁もこれ、そうした陰徳を家訓とするような家柄ででもあったものか、岡野殿、非番の折りには小まめに江戸御府内(ごふない)の寺々を廻っては、それらの墓所の内にて、香華(こうげ)なんぞ供えることものぅ、いたずらに苔生(こけむ)して朽ちかけたる、所謂、無縁の墓石にしか見えぬものを見つけては、これ、召し連れた従者に洗い磨かせた上、樒(しきみ)なんどを墓前に立てて供養をするを、何と、大の楽しみとして御座った由。
そんな無縁仏探勝の、ある折りのこと、広尾にあった麻布領分の祥雲寺に参ったところ、墓所の中に大層大きなる碑面の、ひどく苔生し、誰(たれ)を祀るとも分からずなったる、これまたびっちりと苔に埋もれてしまい、仔細を記せし墓碑銘さえも全く読めぬようになった崩れ墓を見つけたによって、例の如、従者に洗い磨かせたところが、
――有馬中務大輔(ありまなかつかさたゆう)娘
と彫られてあるを見出した。
岡野殿、深い溜め息をつきながら、
「……かかる大名家の息女の石碑が、かくも打ち捨てられておると申すは、これ、不審千万……」
と呟くや、同久留米藩江戸屋敷に知れる者の御座ったによって、岡野殿、その日のうちに、
「――かかる墓碑銘を彫ったる墓が、かくかくの寺に御座った。――その墓、驚くべき衰亡の体(てい)を成したる様――これ、あまりといえばあまりのことと存ずればこそ――かくも非道に打ち捨てられあること、これ、しっかと糺しみらるるように――」
といったことを、書面を以って久留米藩邸の知人へと送った。
されば、それを受け取った藩士は、藩邸内のかかる筋の役人へ命じ、その墓について調べさせたのであったが、これ、当時の藩邸の家中の者の中には、当該の墳墓及びその藩主娘と申す埋葬者について、何か知っておるような者は、これ、一人として御座らなんだ。
そこで、さらに国元へと飛脚を送り、調べさせてみたところが、何と、確かに数代以前の藩主の実の娘の墓であることが判った。
そこで岡野殿の知己であった藩士が、その事実を直接に岡野殿へ語ったところが、岡野殿は、
「……しかし、如何なる訳にてそのような高貴なる御方の墓が、かくも、捨て置かれたままになっておるのじゃ?」
と質いた。
すると、その藩士は、
「……実は……これには……仔細が、これ、御座る。……」
と語り出した。
「……取り調べた藩の者によれば……何でも、この姫、かくなる御身分にあられながら、相応しからざるところの、さる不埒なる御行跡(ごぎょうせき)のこれ、御座ったによって、父君(ちちぎみ)であったその頃の有馬氏御本人が自ら御手討ちとなされ、『かかる不届き者、これ、菩提所へは葬ること、成り難し。何方(いづかた)なりとも、勝手に取り捨て置くべし』との御下知の御座ったによって、家来が内々に取り計らい、結局、かの寺に葬ったと思しい、とのことで御座った。……かくして永き年月が流れ……その娘が、かく暗々裏に葬り去られたことは確かに違い御座らねど……御家名に傷のつくべきことなればとて……今の家中には、そうした事実があったことも、いや、そのような姫がおられたことさえも、これ、知る者は、御座らぬ。……その節の、父君であられた殿の御憤りは、これ、非常に強いもので御座ってのぅ……『決して墓参・弔い・供養一切、これ、致いてはならぬ』というきつい命が下され……それが、その後(のち)の藩主へも代々伝えられて参ったのが、真相、とのことで御座った。……」
するとそれを聞いた岡野殿は、
「……そのようなる事情であったことは、まずは相い分かった。……分かったがしかし……その姫の不埒なる御行跡と申すが、ほんに天地に許すべからざる悪逆非道の咎であったものならば、これ、遺骸を身分の分からざるように致いて、どこぞその辺へ取り捨てにも成すであろう。……よもや、石碑なんどを残しおくはずも御座るまい? にも拘わらず現に「有馬中務大輔娘」と確かに彫ったる石碑もある以上は、これ、相応に死後を弔わんとしたことは明らかじゃ!――かの出来事より以来(このかた)、とうに百年以上も経ておる今――かつての藩主の姫君が墓を朽つるがままに捨て置き、墓参も供養もなさらぬと申すは――何と申されようと――よろしいか?――墓には「有馬」の姓が墓碑銘として確かに彫りつけられておるので御座るぞ?!――これ! 不審至極以外の、何ものでも御座らぬ!」
と、理を尽くして述べたと申す。
かの藩士も岡野殿の理詰めの言に返す言葉もなく平伏致いて、その言葉を主家に戻ると、そのまま当代有馬家当主であられた有馬頼貴殿へ申し上げた。
すると頼貴殿は、
「……他家がことにつきて……如何にも身分を弁えぬ出過ぎた謂いを成す御仁乍ら……さてさて……その謂わんとするところは、これ、いちいち尤もなる正論じゃ。……然る上は、これ、その姫が仏に然るべき弔いを致すが道理。」
と、かの祥雲寺に人を遣わし、墓所を保護する小屋(しょうおく)や法事仕儀のための仮小屋を建てさせた上、住持へも、永く放置しておったことにつき、しかじかの訳を述べ、手厚く礼をなし、向後の永代供養をも頼みおいて、さても、亡き姫がために大法要を執り行って御座った。
されば祥雲寺の僧も大きに悦び、直かに岡野殿屋敷へも参って、
「かくかくのことにて法事も立派に執り行(おこの)うこと、これ、出来申した。」
と歓喜満面で岡野殿の陰徳に対する礼を述べた。
岡野殿もそれを聞き、
「我が志しも先方へ届き、いや、これはもう、我らが悦びも一入(ひとしお)で御座る。」
と答えた。
するとほどのぅ、有馬家より、活(い)きのよい大鯛一尾(び)・八丈絹五反(たん)を、使者を以って岡野家へ送って参った。
されば岡野殿は、その使者に面会の上、
「我ら、貴藩の御家来衆へ、ただ少しばかり気のついたことを御挨拶程度に述べたまでのこと。かかる御進物をお受致すべき筋合いのことにては、これ、御座らぬ。」
と、固辞して進物を返した。
されば、それを聞いた有馬家主君中務大輔頼貴殿は、岡野殿の気性を一層、気に入られ、
「然らば、是非とも直かにお目にかかってお礼致したく存ずれば、当家へお越し下さるように致したく、屋敷裏門よりお入り戴き、奥の小座敷へと内玄関を通ってお出で下さるるように。」
と、すぐに再び使者を遣わし、岡野殿方へと申し遣った。
ところが、岡野はこれを聴くと、
「――なるほど、折角の御招きなれば、参上致したく存ずるれども――拙者もお上より禄を賜わって御座って、只今は御旗本に列して御座る。――相応なる正式な大名家御面会として――表門より参上致いて、表座敷に於いてお目にかかるという礼式に則るので御座れば、これ、伺うことが出来ましょうぞ――しかし――何か、こそこそと裏門より内玄関を抜けて参られよという仕儀にて御座るならば――これ、お目にかかる儀、お断り申し上げまする。」
と応じた。
とって返した使者の伝言を聞いた中務大輔殿は、
「……これは……なるほど! まっこと、風変りなる御仁じゃ。……然る上は、表向きよりのお入(はい)り、これ、相い分かり申した、とお伝えせよ。」
と案内をなした。
さて、その来駕の日、中務大輔殿は岡野殿を作法の定規(じょうき)通り、表門より表座敷へと通し、旗本相応の家格を以って厳粛に対面し、
「――この度はかくなる次第――まことに忝(かたじけの)う御座った。」
という、さて、一通りのしゃっちょこばった簡潔な面会を済ませた上、最後に、
「では、表門より定規通り、お帰り下されよ。而して、改めて、裏門より勝手座敷の方へと御通り下されますように。」
と、威儀は崩さず申し述べられたによって、岡野殿もその御意に従い、今度は言われた通りに勝手座敷へと入(い)ってみると、既に座敷内(うち)には種々の饗応が待って御座った。
再び、少し礼服を寛がせた中務大輔殿が現れ、
「さてさて。この度の古き我らが一族の墓所に対する貴殿の深きお心配りの段、まっこと、忝きことで御座った。何ぞ御礼なども致したく存ずればこそ、何なりとお好みのもの、これ御座いますれば、そのお好みに応じ、御馳走(おんちそう)その他謝礼の儀をも致しとう存ずる。」
と、直々に仰せられたところが、
「我らはお上より禄も頂戴致し、相応の分を守って御座る自身と、僅かなながらも堅実なる一家を持ってこれにて満足して御座いまする。この度はふと、かの墓碑銘を見出だし、少しばかり気のついたことなど御座いましたによって、知れる御家来衆の御方へその思うところを述べただけのこと。御礼など、これ、受くる謂われは御座いませぬ。御馳走と申されてましても、酒も嗜まざる不調法なる野人なれば、これ、望みも更に御座いませぬ。」
とのことで御座った。
しかし、中務大輔殿は、
「……かく申さるれど、無縁仏を参らるるお好みのある如く、何ぞ、お好みのもの、これ、きっとおありにならるるはずじゃ。……ともかくも、いかようにも饗応致しまするぞ!」
としきりに望まれた。
すると岡野殿も流石に折れ、
「……御当家には……相撲の力士をお抱えにならるる由、聞き及んで御座るが……その……相撲を一つ……拝見致したく存ずるが……」
と意外な所望をなした。
ところが、お抱えの力士どもは丁度その折り、一人残らず大阪等へ興行相撲に招かれて参っており、生憎一人もおらなんだによって、その弁解を致いた上、
「いや! 必ずや、追って相撲の饗応を致そうぞ!」
と、中務大輔殿自ら約し、その日はそれでお開きとなったとのことで御座った。
その翌日、岡野殿が元へ、八丈絹五反を大きなる青目籠(あおめかご)に盛ったものを、有馬家より昨日の御来訪の御礼と称し、贈ってこられた。岡野殿は今度(このたび)は、
「忝い。」
と素直にこれを受け取った。そうして岡野はその日の内に有馬家へ八丈絹七反を盛ったる、先に貰ったものよりも一回りも大きなる青目籠に盛って答礼致いた。するとその翌日、有馬家奥向きより再び、岡野殿が元へ、今度は、水も滴る幾種もの魚(さかな)の詰め合わせ一折りが贈られ、その折りの使者が、
「向後、どうか、当有馬家へ随分親しくお訪ね下さいまするように。」
と、有馬家奥方よりの伝言を伝えた。
岡野殿はこれも有り難く受け取った上、
「――御厚情――身に過ぎて有り難く――畏れ多きことに御座る。」
と答えた由。
この話を聴いて世間にても岡野某がことを、
「まっこと、理に叶ったる変人というものじゃ!」
としきりに評判致いて御座ったと申す。