橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十一年 Ⅻ 句集「信濃」 了
狐花かたまり咲きて翳なさず
狐花わが前に咲き沼に咲き
沼波のにごりいく日ぞ狐花
狐花莖瑞々と花失せし
[やぶちゃん注:「狐花」は曼珠沙華(単子葉植物綱クサスギカズラ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ
Lycoris radiata )の異名。ヒガンバナの異名については、私のブログ記事「曼珠沙華逍遙」を参照されたい。]
曼珠沙華忌日の入日とどまらず
[やぶちゃん注:「忌日」夫豊次郎の祥月命日九月三十日。]
曼珠沙華海を渡りてなほ鐡路
曼珠沙華けふは旅なる吾にもゆ
曼珠沙華驛々に咲き旅遠き
さそり座をかかげ余して露の宿
[やぶちゃん注:「余して」は迷ったが、底本の表記のママとした。後半に出てくる旅は年譜の昭和二一(一九四六)年の十月の項に載る、『戦後はじめて、汽車の混雑甚だしい中を、伊勢、天ヶ須賀海岸に誓子を訪う』とあるそれであろう。天ヶ須賀(あまがすか)は現在は三重県四日市市北部の地区名。ウィキの「天ヶ須賀(四日市市)」には驚くべきことに「山口誓子」の独立項があり、『三重郡川越町高松地区にある中小企業の谷口石油の南側の天ヵ須賀』二丁目に彼の邸宅があった。後、「かの雪嶺信濃の国の遠さもて」の句碑が『四日市市民の有志によって建立された。山口誓子は』昭和一六(一九四一)年『に病気となり療養のために四日市市の富田地区の住民となり』、平成六(一九九四)年に九十二歳で死去した。そこには昭和二一(一九四六)年に『天ヶ須賀の須賀浦海水浴場沿いに移住した。天ヶ須賀地区には須賀浦海水浴場があり、海水浴客が宿泊する旅館や別荘地として開発された観光地で天ヶ須賀で考えた俳句があり、天ヶ須賀は自然に恵まれた環境であった。天ヶ須賀は病気の治療や療養には良い土地だった』とある。多佳子の年譜によれば、この誓子の引越は同年六月(四日市市富田より転入)である。当時、誓子は四十五、多佳子、四十七歳であった。]
四日市
出水して町に秋燕啼き溜る
踏切を流れ退く秋出水
蟹の碧秋の出水の町に見る
秋燕や高き帆柱町に泊つ
山口波津女夫人に
夕燒中ともにをみなの髮そまり
[やぶちゃん注:「山口波津女」「やまぐちはつぢよ(やまぐちはつじょ)」と読む。誓子夫人で本名は梅子(明治三九(一九〇六)年~昭和六〇(一九八五)年)。昭和一三(一九三八)年の結婚後に本格的に句作を始め、『馬酔木』同人から夫の主宰する『天狼』同人となった。夫より五つ下であるから、当時、四十歳。多佳子より七つ年下である。。]
尾を見せて狐沒しぬ霧月夜
母と子のトランプ狐啼く夜なり
霧月夜狐があそぶ光のみ
[やぶちゃん注:以上で句集「信濃」は終わっている。]
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