柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 鞏仙
鞏仙
鞏道人とばかり、名も字もなし、またどこの人ともわからなかった。あるとき、魯王にまみえたいと願ったけれど、閽人が取りつがなかった。ちょうどそこへ中貴人が出て来たので、おじぎをして頼んだのである。中貴人は、そのいやしげなようすを見て逐いはらわせたが、やがて、また来たので、中貴人は怒って逐いもし打たせもした。そして人けのないところまで来ると、道人は、にこにこしながら百両の黄金を出し、逐って来た者に頼んで中貴人に言わせるのだった、
「言うてくれ、わしは、もう王さまに会わんでも、いいとな。ただ後苑の花木や楼台などが、よい景色だと聞いているので、わしをつれて遊ばしてくれさえすれば、まんぞくするとな」
そして、逐って来た者へも白銀を賂なったのである。その人は喜んで中貴人に、そのとおり報告した。
中貴人もやはり喜んで道人をつれ、後宰門から入れてくれた。道人は、いろいろな景色を、すっかりへめぐつたうえ、中貴人について楼上に登った。そして中貴人がいまし、窓に寄りかかっているところを、道人が押したので、中貴人は、ただからだが楼の外へ落ちてゆくのを覚えているうちに、細い葛が腰にからんで、宙につるされた。下を見ると、高深いので、目まいがするばかりなのだ。そのうちに、どことなく葛の切れる音がするので、ひどく恐れて、大きな声でどなった。まもなく数人の監が来て、ひどく驚いたのであった。それが地面からたいそうはなれているのを見て、楼に登ってみんなで見まわすと、葛の一端が楼につながれていた。しかし、ほどいて、それを引きあげるには、葛が細くてもてないのだ。あちこちと道人をさがしたけれど、いないのである。みんなは手をつかねたまま計がなかったので、魯王に申しあげた。王は来てみてたいそうふしぎがり、楼の下に茅を敷き、またその上に絮を敷くように命ぜられた。そうしてから蔦を断ち切ろうというのである。やっと、それがすむと、からんでいた葛は、ひとりでに切れたが、よく見れば地面をはなれることが尺にも足らぬほどなので、みんな一度にふきだした。
王は道士のいるところをたずねてみよ、と命ぜられた。尚という秀才の家に泊まっていると聞いて、そこに行ってたずねると、遊びに出たまま、まだ帰らない、ということだった。が、やがて途中で会ったので、引きつれて、王に謁見させた。王は宴を開き座を賜わってから、作劇を見せてくれと言われた。
道土は、
「臣は草野の匹夫で、何もできないのですが、かかる優寵を受けましたからは、女楽をたてまつって大王の寿を祝したいとぞんじます」
と言って、袖をさぐつて美人を取り出し、それを下に置いて、王に向かっておじぎをした。道士は美人に言いつけて瑤池の宴の本を扮らせ、王の長寿を祝させた。女が登場して数語をうたうと、道士はまた一人を取り出した。その美人は、自分が西王母だとそう言った。まもなく王母の侍女の董雙成や許飛瓊など、あらゆる仙姫が、つぎつぎにみんな出てきた。そして最後に職女がきて拝謁し、一襲の天衣を献じた。絢爛たる金色の光りが一堂に映えたのである。王は偽ものだろうと思って、それを見たいと言われた。道士は急に、
「いけません!」
と言ったが、王はきかずに、とうとう手にとって見たのである。それは、まったく縫いめのない衣で、人工ではつくることのできないものであった。道士は、わびしげに、
「臣は誠を尽くして大王のお目にかけたいと思い、しばらくのあいだ、これを天孫から借りてまいったのに、いまや人間の濁気に染まってしまいました。どうして故主にかえせましょう」
と言った。王はまた、歌っている者たちは、すべて仙姫だろうと考えて、その中の一、二人を留めたいと思った。そしてよく見ると、すべて宮中の楽妓だったのである。で、前からおぼえているのでもない今の曲を、どうして、うたったのだろうと思って聞いてみると、楽妓たちはぼうぜんとして、自分でもわかりません、と言うのだった。
道士は、天衣を火にかけて焼いたのち、それを袖の中に納めた。もう一度それをさがさせると、もうなかった。
それから、王は深く道士を重し、府内に留めておこうとすると、道士は、
「野人の性として、宮殿は藩籠のように思われ、かってな秀才の家が、かえって、ましでござります」
と言って夜中になるごとに、必ず、そこに帰るのであるが、引き止められると、やはり、宮殿に泊まってゆくこともあった。酒宴の席などで、たわむれに、四時の花木をあべこべに咲かせたりなどもするのであった。
あるとき王が、
「仙人でも、やはり情を忘れることはできないと聞くが、そうかな?」
と聞かれたら、
「あるいは、仙人はそうかもしれません。しかし臣は仙人ではないのですから、心は枯れ木のようなものです」
と答えた。
ある夜、府中に泊まったので、王は若い楽妓に命じて道士を見に行かせた。楽妓は部屋にはいって、たびたび呼んだが返事がないので、燭をつけてみると、寝台の上にすわっていた。ゆすると、眸をびかりとさせたが、すぐにまた、ふさいでしまった。また、ゆすると、いびきをはじめ、押すと手のままに倒れて、寝こんでしまった。雷のようないびきである。額をほじいてみると指に迕えるほどかたく、鉄の釜のような音がした。楽妓は帰って王に申しあげた。王は鍼で刺してみたが、鍼もはいらなかった。で、また押したが、重くて、ゆすれないのだ。十人あまりで持ちあげて床に投げだすと、千斤もする大きな石を、地面に落としたようだった。夜があけてから、のぞいて見ると、やはり地面に寝ていたが、目をさまして、笑いながら言った、
「ぐつすり寝こんで寝台から落ちたのも覚らなかったとみえる!」
女たちは、道士がすわっている時や寝ている時など、よく、戯れに按でるのであったが、なではじめは、やはりやわらかで、二度めになでるときは、鉄石のように、かたかった。
道士は尚秀才の家に泊まっていたが、よく終夜帰ってこないことがあるので、尚が戸をしめ、朝になってから戸をあけてみると、道士はもう部屋の中に寝ているのだった。
これより前のことであるが、尚は曲妓の恵哥とよい仲で、嫁にゆきましょう、娶ろうと誓いあっていたのである。恵はたいそう歌がうまくて、絃索ではならしたものであった。と、魯王が、その評判を聞いて供奉に召し入れたので、とうとう情好が絶えてしまった。尚は、たえず恵哥のことを思って、通うみちがないのを苦にしていたが、ある夜、道士に向かい、
「恵寄を見ませんでしたか」
と聞くと、
「いろんな姫をみんな見たけれど、だれということは知らんじゃ」
と、答えた。そこで尚が恵寄の顔や年を話すと道士は思いついたので、尚は一言つたえてくれと頼んだ。
道士は笑って、
「おれは世外人じゃから君の塞鴻はできん!」
と言った。それでも尚が、しつこく哀願すると、道士は袖をひろげて、
「やっかいだなあ。ぜひあいたければ、この中にはいりなさい」
と言うので、尚は、のぞいてみた。中は屋のように大きくて、腹ばいになってはいると、光明が透きとおっていて、庁堂のように広かった。そして机や寝台などないものはなく、中にいて少しもうっとうしい気がしないのある。
道士は王府に行って王と対奕ちながら、恵哥が来たのを見て、袍の袖で塵を払うようなふりをした。すると、恵哥は、もう袖の中にはいっていた。しかし他人には見えなかった。
尚はひとりですわって考えこんでいたが、たちまち美人が簷から落ちてきたので、見ると、それは恵哥だった。二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至かった。
尚は言った。
「今日の奇縁は、書いておかなければならないね。おまえと連句をやろうじやないか」
で、壁に書いたのが、
「侯門は海に似て久しく蹤がわからなかった」
と、いうのであった。恵は続けた、
「だれが知ろう、粛郎に今また逢おうとは」
尚は言った、
「袖のなかの乾坤は、ほんとに大きい」
恵は言った、
「離れている人も、思っている女もことごとく包容する」
書いてしまった時、角冠に淡紅色の着ものをきた五人の人がはいってきた。それは、みんな知らぬ人たちで、黙って恵哥をつかまえて行ってしまった。尚は驚き疑うばかりで、さっぱり、わけがわからなかった。道士は帰ってから、尚を呼び出して情事を聞いたが、尚は、かくして、すべてを言わなかった。道士は微笑して衣をぬぎ、袂をうらがえして尚に見せた。よく見ると、蟣のような、かすかな字の蹟がある。それは壁に題した句なのだった。
それから十数日ののち、また袖の中に入れてもらい、前後を合わせて三度も中にはいった。あるとき恵哥が尚に、
「おなかが動くのよ。あたし、ひどく心配だから、いつも帛で、しつかり腰際をしばってるの。王府は耳目が多いから、もしも臨蓐のときがくれば、泣く児を容れるようなところはどこにもありゃしないわ。ねえ、鞏仙人と相談して、あたしがお産の時には、助けてくださいな!」
尚は承諾して家に帰り、道士を見て、床にひれ伏したまま起きなかった。道士は引きおこして言うのだった。
「あんたの言うことは、わしにはもう、わかっとるじゃ。まあ、心配せんでもよい。あんたの宗祧は、これだけなのじゃから、力ぞえをせずには、おれんよ。しかし、これからは、もうはいってはならん。わしが、あんたに報ゆるゆえんは、もともと私情ではないのじゃ」
それから数月ののち、道士は外からはいってくると、にこにこして言った、
「公子をつれてきた。早う襁褓を持ってきなさい」
尚の妻はたいそう賢い女で、年は三十近くであったが、何度も身ごもったけれど、生きているのは、ただ一人で、たまたま生まれた女の子は、ひと月で死んでしまったときであったから、尚のことばを聞くと喜んで、自分で出てきた。
へそ
道士は袖をさぐって嬰児を取り出した。よく寝ていて、臍の緒も、まだ切ってはなかった。尚の妻が受けとって抱いてから、呱々として泣くのであった。
道士は着ものをぬいで言った、
「産の血が着ものについた。これは道門では最も忌ることなのじゃ。いま君のために二十年の着ふるしを一日にして捨てねはならん」
尚は道士に衣をかえさせた。道士は言いつけた、
「その古い物を捨ててはならんよ。銭ほどのきれを焼けば、難産を療し死胎をおろすことができるでの」
尚は道士のことばに従って、血のついた衣をしまっておいた。
道士は、それから長いあいだいたが、あるとき突然、尚に言った。
「しまってある古い着ものは、自用に少しばかり残しておきなされ。わしが死んだあとでも、忘れてはならんよ」
尚は道士のことばを不吉だと思った。道士は黙って行ってしまったが、王府にはいって謁見し、
「臣は死にます」
と言うので、王が驚いて問われると、道士は言った、
「これは有定数で、しかたのないことです」
しかし王は、ほんとにしなかったから、むりに引き留めて手談一局闘わしたのである。それがすむと道士は急に立ちあがった。王が、また止めると、道士は外の家においてくれと願うので、願いのままに許された。道士は駆けて行って寝てしまった。見ると、もう死んでいた。王は棺をととのえて礼に葬ってやられた。尚は弔いに行って哀哭した。そして、いつかのことばが先に告げたのだということを、はじめて悟ったのであった。
遺の衣をお産に使うと、すぐに、ききめがあるので、もらいに来る者の絶え間がなかった。はじめのうちは、やはり汚れた袖をやっていたが、やがて襟を切るようになっても、ききめがないということはなかった。道士の言いつけを聞いていたので、妻に、きっと、難産があるのだろうと思い、血のついた布を掌ほど切りとってだいじにしまっておいた。
と、魯王の愛りの妃が産気づいて三日も生まれなかった。医者が術に困っていると、ある人が尚のことを王に申しあげた。王は、すぐ尚を召された。布の一剤で生まれたので、王はたいそう喜んで、銀や綵緞などを、たくさん贈られた。けれども、尚は、ことごとく、ことわって受けなかった。
王が望みを問われると、尚は言った、
「申しあげられません」
で、ふたたび問われると、尚は頓首して言った、
「もし、いただけれは、臣と旧交のある楽妓恵哥を賜われば満足いたします」
王は恵哥を呼んで、年を問われた。恵哥は言った、
「あたしは十八で王府にはいり、今で一四年になります」
王は恵哥が歯長ているのを見て、群妓をみんな呼び集め、尚の選むにまかされたのである。しかし尚は一人も好きなのはないというので、王は笑って、
「おろかな書生じゃ。十年も前に婚嫁の約束をしておいたのかな」
尚は、ありのままをお答えした。すると王は輿や馬をりっぱにしたくさせ、尚がことわった綵緞で、恵哥のために着ものを作り、王府から送り出してやられた。
恵哥の生んだ子どもは、秀生と名づけられた。秀とは袖の意味なのである。この時十一になっていたが、日ごとに鞏仙人の恩を思い、清明の節には、そのお墓に詣ることを、おこたらなかった。
久しく四川に旅をしていた者が、途で道人に会った。すると道人は一巻の書を取り出して、
「これは魯王府中の物である。来る時に急いでいたので、まだお返しもせずにいる。持っていって返してくだされ」
と言った。
旅の人は帰ってきて、道人はもう死んだのだということを聞き、王に、とどけなかったので、尚が代わって、そのことを申しあげた。王が開いてごらんになると、それははたして道士が借りていったものであった。あやしんで墓を発けてみると、棺は、もぬけの空であった。
その後、尚の長子は若死にをして、そのあとを秀生が受けついだので、尚は、ますます鞏仙人の先見に服したのであった。
注
一 閽人とは、門の開閉をつかさどる人。
二 前漢、季広伝に「上、中貴人をして広に従わしむ」とあり、注に内臣の貴幸者なりとある。
三 東華至真の気が化して、木父すなわち東王父となり、西華至妙の気が化して、金母すなわち西王母となった。王母は崖嶺(こんろん)の圃、闇風(ろうふう)の苑におり、千里の城、十二の玉機があって、左には瑤池を帯び、右には翠水がめぐっているという。
[やぶちゃん字注:「こんろん」「ろうふう」はママ。ルビではない。注はポイントが小さいための仕儀と思われる。向後はこの注を略す。]
四 董双成も許飛瓊も、ともに王母の侍女である。
五 郭翰が、暑月に織女の下降するのを見たが、その衣に縫いめがないので、たずねると、天衣は、もと、鍼線のつくるところではないからだと言った。ということが、霊性録に出ている。
六 史記天官書に、織女は、天女孫也、とある。
七 昔、王仙客の愛人無双が、塞鴻に手紙を託して、王仙客にとどけたという唐小説がある。
八 西遊記のなかに、悟空等を袖の中に入れる仙人のことが出ている。
九 崔郊に婢があったが、はなはだ端麗で音律をよくした。貧乏になってから、婢を連帥千蝢の家に鬻(ひさ)いだが、郊は思慕やまなかったのである。やがて寒食の節になり、婢は崔の家にきて郊にあい、柳の陰に立って馬上で泣くのだった。崔は詩を贈って言うのであった、「公子王孫後塵を逐う、疑珠垂涙羅布を湿す、侯門一たび入って深きこと海のごとし、これより粛郎これ路人」と。公はその詩を見て、令して崔生を召し、婢に命じて帰(とつ)がしめたということが、全唐詩話に見えている。
一〇 童子のかむる冠の意味。
一一 産蓐に臨むということ。昔は草を敷いて産をした。蓐は、草を敷くこと。
一二 王積薪が、ある夜村の宿に泊まって、女が碁を打っているのを壁ごしに聞いた。翌朝見ると碁の具がないので、たずねると、手談で打ったのです、と答えたということが、群仙伝にある。それから碁のことを、手談というようになった。
[やぶちゃん特別注:この場合の「手談」とは囲碁の打つ手を言葉で言うことではなく、仙術を持った者がヴァーチャル・リアリティの仮想の盤に石を打つ音が聴こえたととるべきであろう。
私はこの話柄が忘れられない。十七の時、この話を読んだ時に、尚秀才が恵哥と再会したシーンの『二人は、たがいに驚喜して綢繆臻至かった』という訳文にどきどきし乍らも、すっかり魅了されてしまったからである。だからちょっとだけ語注しておきたい欲求を押さえられない。「綢繆」は「ちうびうしんし(ちゅうびゅうしんし)」と音読みし、「綢繆」の原義は纏わりつくこと・糸などを絡めて結ぶことで、そこから男女が睦み合うこと・馴れ親しむことの意となった。「臻」は「極」と同義で「至」と同じい語であるから、これはもう、男女がくんずほぐれつ(男色も相応に出る「聊斎志異」の中では必ずしも男女である必然性はないのであるけれども)、エクスタシーがその極点に達するということであろうと私には思われるのである。凡愚の十七の私が直感的に感じた何かは、決して誤りではなかったのではあるまいか?]
■原文
鞏仙
鞏道人、無名字、亦不知何里人。嘗求見魯王、閽人不爲通。有中貴人出、揖求之。中貴見其鄙陋、逐去之。已而復來。中貴怒、且逐且扑。至無人處、道人笑出黃金二百兩、煩逐者覆中貴、
「爲言我亦不要見王。但聞後苑花木樓臺、極人間佳勝、若能導我一游、生平足矣。」
又以白金賂逐者。其人喜、反命。
中貴亦喜、引道人自後宰門入、諸景俱歷。又從登樓上。中貴方凭窗、道人一推、但覺身墮樓外、有細葛繃腰、懸於空際。下視、則高深暈目、葛隱隱作斷聲。懼極、大號。無何、數監至、駭極。見其去地絶遠、登樓共視、則葛端繫櫺上。欲解援之、則葛細不堪用力。遍索道人已杳矣。束手無計、奏之魯王。王詣視、大奇之、命樓下藉茅鋪絮、將因而斷之。甫畢、葛崩然自絶、去地乃不咫耳。相與失笑。
王命訪道士所在。聞館於尚秀才家、往問之、則出游未復。既、遇於途、遂引見王。王賜宴坐、便請作劇。道士曰、
「臣草野之夫、無他庸能。既承優寵、敢獻女樂爲大王壽。」
遂探袖中出美人、置地上、向王稽拜已。道士命扮「瑤池宴」本、祝王萬年。女子弔場數語。道士又出一人、自白、
「王母」。
少間、董雙成、許飛瓊、一切仙姫、次第俱出。末有織女來謁、獻天衣一襲、金彩絢爛、光映一室。王意其僞、索觀之。道士急言、
「不可。」
王不聽、卒觀之、果無縫之衣、非人工所能製也。道士不樂曰、
「臣竭誠以奉大王、暫而假諸天孫、今爲濁氣所染、何以還故主乎。」
王又意歌者必仙姫、思欲留其一二。細視之、則皆宮中樂妓耳。轉疑此曲、非所夙諳、問之、果茫然不自知。
道士以衣置火燒之、然後納諸袖中、再搜之、則已無矣。
王於是深重道士、留居府内。道士曰、
「野人之性、視宮殿如藩籠、不如秀才家得自由也。」
毎至中夜、必還其所。時而堅留、亦遂宿止。輒於筵間顛倒四時花木爲戲。王問曰、
「聞仙人亦不能忘情、果否。」
對曰、
「或仙人然耳。臣非仙人、故心如枯木矣。」
一夜、宿府中、王遣少妓往試之。入其室、數呼不應。燭之、則瞑坐榻上。搖之、目一閃即復合。再搖之、齁聲作矣。推之、則遂手而倒、酣臥如雷。彈其額、逆指作鐵釜聲。返以白王。王使刺以針、針弗入。推之、重不可搖。加十餘人舉擲床下、若千斤石墮地者。旦而窺之、仍眠地上。醒而笑曰、
「一場惡睡、墮床下不覺耶。」
後女子輩毎於其坐臥時、按之爲戲、初按猶軟、再按則鐵石矣。
道士舍秀才家、恆中夜不歸。尚鎖其戸、及旦啟扉、道士已臥室中。
初、尚與曲妓惠哥善、矢志嫁娶。惠雅善歌、絃索傾一時。魯王聞其名、召入供奉、遂絶情好。毎繫念之、苦無由通。一夕、問道士、
「見惠哥否。」
答言、
「諸姫皆見、但不知其惠哥爲誰。」
尚述其貌、道其年、道士乃憶之。尚求轉寄一語。
道士笑曰、
「我世外人、不能爲君塞鴻。」
尚哀之不已。道士展其袖曰、
「必欲一見、請入此。」
尚窺之、中大如屋。伏身入、則光明洞徹、寬若廳堂、几案床榻、無物不有。居其内、殊無悶苦。
道士入府、與王對弈。望惠哥至、陽以袍袖拂塵、惠哥已納袖中、而他人不之睹也。
尚方獨坐凝想時、忽有美人自簷間墮、視之、惠哥也。兩相驚喜、綢繆臻至。
尚曰、
「今日奇緣、不可不誌。請與卿聯之。」
書壁上曰、
「侯門似海久無蹤。」
惠續云、
「誰識蕭郎今又逢。」
尚曰、
「袖裏乾坤眞箇大。」
惠曰、
「離人思婦盡包容。」
書甫畢、忽有五人入、八角冠、淡紅衣、認之、都與無素。默然不言、捉惠哥去。尚驚駭、不知所由。道士既歸、呼之出、問其情事、隱諱不以盡言。道士微笑、解衣反袂示之。尚審視、隱隱有字蹟、細裁如蟣、蓋即所題句也。
後十數日、又求一入。前後凡三入。惠哥謂尚曰、
「腹中震動、妾甚憂之、常以緊帛束腰際。府中耳目較多、倘一朝臨蓐、何處可容兒啼。煩與鞏仙謀、見妾三叉腰時、便一拯救。」
尚諾之。歸見道士、伏地不起。道士曳之曰、
「所言、予已了了。但請勿憂。君宗祧賴此一線、何敢不竭綿薄。但自此不必復入。我所以報君者、原不在情私也。」
後數月、道士自外入、笑曰、
「攜得公子至矣。可速把襁褓來。」
尚妻最賢、年近三十、數胎而存一子。適生女、盈月而殤。聞尚言、驚喜自出。道士探袖出嬰兒、酣然若寐、臍梗猶未斷也。尚妻接抱、始呱呱而泣。道士解衣曰、
「産血濺衣、道家最忌。今爲君故、二十年故物、一旦棄之。」
尚爲易衣。道士囑曰、
「舊物勿棄卻、燒錢許、可療難産、墮死胎。」
尚從其言。居之又久、忽告尚曰、
「所藏舊衲、當留少許自用、我死後亦勿忘也。」
尚謂其言不祥。
道士不言而去。入見王曰、
「臣欲死。」
王驚問之、曰、
「此有定數、亦復何言。」
王不信、強留之。手談一局、急起。王又止之。請就外舍、從之。道士趨臥、視之已死。王具棺木以禮葬之。尚臨哭盡哀、始悟曩言蓋先告之也。
遺衲用催生、應如響、求者踵接於門。始猶以污袖與之。既而翦領衿、罔不效。及聞所囑、疑妻必有産厄、斷血布如掌、珍藏之。
會魯王有愛妃、臨盆三日不下、醫窮於術。或有以尚生告者、立召入、一劑而産。王大喜、贈白金、綵緞良厚、尚悉辭不受。王問所欲、曰、
「臣不敢言。」
再請之、頓首曰、
「如推天惠、但賜舊妓惠哥足矣。」
王召之來、問其年、曰、
「妾十八入府、今十四年矣。」
王以其齒加長、命遍呼群妓、任尚自擇。尚一無所好。王笑曰、
「癡哉書生。十年前訂婚嫁耶。」
尚以實對。乃盛備輿馬、仍以所辭綵緞、爲惠哥作妝、送之出。
惠所生子、名之秀生。秀者袖也、是時年十一矣。日念仙人之恩、淸明則上其墓。
有久客川中者、逢道人於途、出書一卷曰、
「此府中物、來時倉猝、未暇璧返、煩寄去。」
客歸、聞道人已死、不敢達王。尚代奏之。王展視、果道士所借。疑之、發其冢、空棺耳。
後尚子少殤、賴秀生承繼、益服鞏之先知云。
異史氏曰、「袖裏乾坤、古人之寓言耳、豈眞有之耶。抑何其奇也。中有天地、有日月、可以娶妻生子、而又無催科之苦、人事之煩、則袖中蟣蝨、何殊桃源雞犬哉。設容人常住、老於是郷可耳。」
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 38 最初の一般講演会の思い出 / 第十一章 了 | トップページ | 僕は »