北條九代記 卷第六 京方武將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(2)承久の乱【二十八】――鏡月房以下三名、詠歌により救わる
二位法印尊長は、十津川に逃籠り、淸水法師鏡月房、同じく弟子常陸房、美濃房三人は搦め捕れて、既に切るべきに極(きはま)る所に、鏡月房一首の歌をぞ詠じける。
勅なれば身をば寄せてき武士(ものゝふ)の八十(やそ)うぢ川の瀨には立たねど
武蔵守泰時、この歌を感じて「命助けよ」と赦(ゆるさ)れけり。一首の歌に師弟三人命を繼(つが)るゝこそ深き惠(めぐみ)の陰德なれ。
[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十八】――鏡月房、詠歌により救わる〉
「二位法印尊長」承久の乱の首謀者の一人。既注。この後、六年間十津川などに潜伏していたが、嘉禄三(一二二七)年六月、京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題北条時氏の近習菅十郎左衛門周則(ちかのり)によって自害しようとしたところを逮捕、誅殺された。
「淸水法師」「淸水」は「きよみづ」である。
以下「承久記」の底本通し番号93の中の一部。
二位法印尊長ハ、十津河ニ逃籠テ有ケレ共、不ㇾ被二搦出一。淸水法師鏡月坊、弟子常陸房・美濃房三人、被二搦取一テ、已ニ切レントスル所ニ、
「聯助給へ、腰折一首仕候ヲ、見參ニ入度」由、申ケレバ、「サラバ」トテ見セ奉ルニ、
勅ナレバ身ヲバ寄テキ武ノ八十宇治河ノ瀨ニハ立ネド
武藏守、此歌ヲ感テ、「助ケヨ」トテ被ㇾ免。纔ノ一首ニメデ給ヒテ、師弟三人ノ命ヲツガルヽコソ、目出カリケル事也ケレ。
以下、「吾妻鏡」承久三(一二二一)年六月十六日の条。
十六日己巳。相州。武州兩刺史移住六波羅舘。如右京兆爪牙耳目。廻治國之要計。求武家之安全。凡今度合戰之間。雖多殘黨。疑刑可從輕之由。經和談。四面網解三面。是世之所讃也。佐々木中務入道經蓮者。候院中。廻合戰計。官兵敗走之後。在鷲尾之由。風聞之間。聞之武州遣使者云。相構不可捨命。申關東可厚免者。經蓮云。是勸自殺使也。盍恥之哉者。取刀破身肉手足。未終命間。扶乘于輿。向六波羅。武州見其體。違示送之趣自殺。背本意由稱之。于時經蓮聊見開兩眼。快咲不發詞。遂以卒去云々。又謀叛衆於所々生虜之中。淸水寺住侶敬月法師。雖非指勇士。從于範茂卿。向宇治之間難宥。献一首詠歌於武州。仍感懷之餘。減死罪。可處遠流之由。下知長沼五郎宗政云々。
勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀨ニタゝネト
今日。武州遣飛脚於關東。依申合戰屬無爲之由也。
○やぶちゃんの書き下し文
十六日己巳。相州、武州の兩刺史六波羅の舘へ移り住む。右京兆の爪牙耳目の如く、治國之要の計りを廻らし、武家の安全を求む。凡そ今度の合戰の間、殘黨多しと雖も、疑しき刑は輕きに從ふべしの由、和談を經(へ)て、四面の網(あみ)、三面を解く。是れ、世の讃へる所なり。佐々木中務(なかつかさ)入道經蓮は、院中に候じて、合戰の計りを廻るらし、官兵敗走するの後、鷲尾(わしのを)に在るの由、風聞の間、之を聞き、武州、使者を遣はして云はく、
「相ひ構へて命を捨つべからず。關東へ申し、厚免すべし。」
てへれば、經蓮云はく、
「是れ、自殺を勸むるの使ひなり。盍ぞ之を恥ぢざらんや。」
てへれば、刀を取り、身肉手足を破る。未だ命を終へざる間、輿(こし)に扶け乘せて、六波羅へ向ふ。武州、其の體(てい)を見て、
「示し送るの趣きに違へて自殺するは、本意に背く。」
の由、之を稱す。時に經蓮、聊か兩眼を見開き、快く咲(わら)ひて詞を發せず、遂に以つて卒去すと云々。
又、謀叛の衆、所々に於いて生虜(いけど)る中、 淸水寺(きよみづでら)住侶(ぢゆうりよ)敬月法師は、指せる勇士に非ずと雖も、範茂卿に從ひ、宇治へ向ふの間、宥(ゆる)し難けれど、一首の詠歌を武州に献ずれば、仍つて感懷の餘りに、死罪を減じ、遠流(をんる)に處すべきの由、長沼五郎宗政に下知すと云々。
勅なれば身をば捨ててき武士のやそ宇治河の瀨にたゝねど
今日、武州、飛脚を關東へ遣はす。合戰無爲(ぶゐ)に屬するの由を申すに依つてなり。
●「佐々木中務入道經蓮」は頼朝流人時代以来の重臣であった佐々木経高(?(一一四二年~一一五一年の間)~承久三年六月十六日(一二二一年七月七日)のこと。以下、ウィキの「佐々木経高」によれば、近江の佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏棟梁佐々木秀義の次男。平治元(一一五九)年の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、伊豆に流された義朝三男頼朝に仕えた。佐々木四兄弟は治承四(一一八〇)年に挙兵した頼朝に従い、八月十七日には平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討つべくその邸宅へと赴き、頼朝と平氏との戦いにおける最初の一矢を放った後、太刀を抜き戦い、兄の定綱と共に信遠を討ち取るが、二十日頼朝に従ったものの、頼朝は石橋山の戦いで敗れる。後、十月二十日の富士川の戦いで平氏は大敗、その挙兵後初の論功行賞に於いて経高ら兄弟は旧領佐々木庄を安堵されている。寿永元(一一八二)年十月十七日には生後二ヶ月余りの頼朝の嫡子頼家の産所から将軍邸へと入る際の輿を担ぎ、建久元(一一九〇)年十一月十一日、大納言(即辞任)に就任した頼朝の石清水八幡宮への参拝に随行している。建久三(一一九二)年九月十七日までに経高は中務丞に任ぜられている。建久四(一一九三)年九月七日、後白河法皇崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられ、建久五(一一九四)年十二月二十六日の鎌倉永福寺の供養、翌年三月十二日の東大寺供養、八月一日の三浦三崎遊覧、八月八日の相模日向山参詣、翌々年五月二十日の天王寺参詣では兄弟らとともに、頻繁に近しく頼朝に随行している。正治元(一一九九)年一月に頼朝が没すると、翌年の七月九日に淡路・阿波・土佐の兵を京に集めたことが後鳥羽上皇の怒りに触れて、八月二日に幕府から淡路・阿波・土佐三ヶ国の守護職を解任される。翌々年に出家して経蓮と称していた経高は、先の京での騒動に対する申し開きと、挙兵の初めに平兼隆を討って以来の自身の履歴を記した書状を長男の高重に持たせて幕府へ送り、それによって赦免を得た経高は十一月十三日、鎌倉へ参じて京で書写した法華経六部を頼朝の月命日に供養、十二月三日の帰京の際には頼家と面会して、先ずは一ヶ国を戻された。その日の後の談話では往時の忘れ難き話を述べては独り涙を拭いて退き、同席した和田義盛らはこれを聞いて貰い泣きしたという。建仁三(一二〇三)年十月に近江国八王子山に拠った比叡山宗徒を攻めよとの勅命を受けた経高は、出家して高野山に在った弟高綱から兵法の助言を受け、弟の盛綱・甥の重綱(高綱嫡男)らと共に軍を発し、宗徒らを退散させている。こうした経緯が泰時の降伏赦免という慫慂の背景にはあったのである。推定生年からは亡くなった当時は若くても六十八、最長で満七十九歳という驚くべき老齢であったのである。この悲惨な僧形の老兵の死を前にし、しかも当時の明恵ら高僧に深く帰依をした泰時であってみれば、これといって感動の巧みもない(逆にその愚直にして素直な詠みっぷりにこそ泰時は惹かれもしたのであろう)和歌をして鏡月房(敬月房)子弟三名の助命をしたという「吾妻鏡」の叙述順列は、すこぶる腑に落ちるという気がする。
●「鷲尾」現在の京都市東山区鷲尾町(わしおちょう)。]
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