「枕中記」注の一部 その主題について
「枕中記」一巻の最大のテーマを私は、
人間にとっての「人生の適」=「生きることのまことの悦び」=
そして、その「生」は同時に連続する「死」と一体のものでもあるがゆえに、
「人の生き死に於ける真の自由」とは何か?
という哲学的な問題提起であると考えている。そうして、史書の列伝のような圧縮率の高い夢記述に対して額縁を成すところのこの前後の部分の内、この冒頭の呂翁と廬生の問答形式のシークエンスが何か妙に細かく丁寧な描写となっているのである。「枕中記」は単に「人生これ夢の如し」といった如何にもなテーマなんぞではない。
夢の中の廬生は一見最終的に、家庭と子孫と権力という総ての社会的幸福の頂点に達して大往生を遂げたように見える。しかし私は、それは見えるだけであって、その夢を見た廬生はそのバーチャルに体験した自己の欲望によって構成演出された自作自演の壮大な叙事詩に、目覚めたその瞬間、大きな空虚感を抱いているのである。でなくして、どうして暫くの間、「憮然」(意外なことに驚き、呆れて)として、次に鮮やかに「此れ、先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」! と 歓喜に転ずることが出来よう?
廬生は夢の中の自身の波瀾万丈の人生に、愛欲・野望・賞賛・猜疑・嫉妬という螺旋の中で行われる、人の欲望に付随する信不信のプラスとマイナスのエネルギーの絶望的な熱交換を知り、結局、その果てに冷却収縮萎縮し、遂には単なる点として零(ゼロ)へと収束していくだけの己れの姿、
欲にとらわれた多くの人間の模式を――
人生的時間の中での連続する欲望の徒労という真実を感得した――
のであると信じて疑わないのである。その観点から前半部を見ると、この「適」の字が字背の骨のように配されていることが分かる。全部で八箇所であるが、私は寧ろ、テーマの意味ではない用法としてプレに使用される、廬生が初めて馬に乗って登場する「將適于田」の「適」、及び如何にも心から楽しんで呂翁と談笑するシーンの「談諧方適」に着目する。そもそも何故、呂翁は廬生に目を留めたのか? それはまさに青馬に跨って悠然泰然として「行く」凛々しい青年廬生(三十歳ではあるが)の姿に惹かれたからに違いない。道士が人に惹かれるのは、その人物が仙骨を持っていることを絶対条件とする。とすれば、この美しい廬生の馬に乗って野良仕事へ向かって適(ゆ)く姿は呂翁にとってまさに「生死に於ける真の自由」を知り得る仙骨を持った人物(教化の候補者)と映ったのだとしか考えられない。そしてそのプエル・エテルヌス、永遠の少年の面影を持つ彼と茶を喫し、語り、呂翁は、そこで如何にもまさに「のびのびとした自由な」彼の人柄に触れた。だからこそ二人は「心から楽しんで談笑する」のである。そうして呂翁は廬生を教化に値する人物と認定、愚痴を零した彼に対して「談諧方に『適』するに」(今さっきまで面白おかしく喋っておったに)、何がお前の「適」じゃ? と水を向けるのである。この二つの「適」の用字をプレに用いているのは私は偶然ではないと思う。その証拠に、夢記述部分には「適」の字は一切使用されず(それは夢の中の廬生の人生には実は「適」はないという暗示でもあると私は思っている。そもそも廬の見る夢をこれが仙術である以上、呂翁は実は事前に知っているのである。そうしてもしその夢が本当に呂翁が最初に言っているような廬にとって正しく「當に子をして、榮適、志しのごとくならしむべし」というものであったなら、その夢記述の中に「適」の字は用いられるのが当然である。それが出ないのは、とりもなおさず、廬生の欲に基づく夢人生には微塵も真の「適」はないという証左なのである)、再度使用されるのは実にコーダの呂翁の決め台詞「人生の適(てき)、亦、是くのごとし。」一度きりなのである。