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2014/05/28

耳嚢 巻之八 狂歌秀逸の事

 狂歌秀逸の事

 

 今は故人なり、橘宗仙院は狂歌の才ありて度々その秀逸を聞しが、或日狂歌よみと人のもてはやせし、興名もとの木阿彌といへるおのこ宗仙院へ來りしに、法印いへるは、御身狂歌に妙を得しと聞く、我等も狂歌を詠出せし事あり、一首即席の吟を聞度(ききたし)とありしかば、題給り候樣、木阿彌乞(こひ)けるゆゑ、花といえる事を詠めとありければ、

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長

言下に詠るを、法印も深く感嘆せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。狂歌シリーズ。既にお馴染みの面々が登場する。

・「橘宗仙院」冒頭に「今は古人となりし」とあり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であることを考えると、「卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済の「橘宗仙院」元孝であるが、彼は延享四(一七四七)年八十四歳で没しており、これ次に示す「もとの木阿彌」の狂歌師としての事蹟からは当て嵌まらないように思われる(元孝の没年には「もとの木阿彌」は未だ二十三歳で狂歌師として知られてはいない)。耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事で同定候補とした同じく奥医で法印であった次代の「橘宗仙院」元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)なら「もとの木阿彌」の活躍年代と生没年では一致するから最有力か。没年が不詳なのが痛い。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している(彼の次の代ならば元春になるが、これは「もとの木阿彌」の生没年代との関係からは考え難い)。

・「もとの木阿彌」耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事で既注。狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。彼女も「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

・「興名」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狂名』。「興」(面白おかしい)でも意味は通らないことはないが、一般名詞としてはないので、訳では狂名とした。

・「散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長」「散ふかと」は「ちらふかと」又は「ちろふかと」で、

……散ってしまうかと人は皆、心煩う――さすれば花にとっても風は百薬ならぬ百病の長(ちょう)……

「風」に「風邪」を掛ける。「散る」「花」「風」がまず縁語で、しかも「煩ふ」「風(邪)」「百病」を別に縁語として利かす。橘宗仙院は奥医師であるから、病いを全体に配して狂歌師同士の挨拶の一首と巧んだ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 秀逸の狂歌の事

 

 今は故人となられた、橘宗仙院殿は狂歌の才、これあり、度々その秀逸なる一首をものされては世間に知られておられたが、ある日のこと、狂歌師として世上にてもて囃されておった狂名「もとの木阿弥」と申す男が、この宗仙院の元を訪ねて参った。

 法印の曰く、

「御身、狂歌に妙を得(う)と聞く。我らも狂歌を詠み出だすこと、これあれば、一首即席の吟を聞きとう存ずる。」

との仰せなれば、木阿弥、

「題を給りたく存じまする。」

と乞うたによって、

「されば――花――といえることを詠まれよ。」

との仰せに、

 

  散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長

 

と淀みなく即座に詠じたを、法印も深く感嘆なされた、とのことで御座った。

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