耳嚢 巻之八 狂歌秀逸の事
狂歌秀逸の事
今は故人なり、橘宗仙院は狂歌の才ありて度々その秀逸を聞しが、或日狂歌よみと人のもてはやせし、興名もとの木阿彌といへるおのこ宗仙院へ來りしに、法印いへるは、御身狂歌に妙を得しと聞く、我等も狂歌を詠出せし事あり、一首即席の吟を聞度(ききたし)とありしかば、題給り候樣、木阿彌乞(こひ)けるゆゑ、花といえる事を詠めとありければ、
散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長
言下に詠るを、法印も深く感嘆せしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。狂歌シリーズ。既にお馴染みの面々が登場する。
・「橘宗仙院」冒頭に「今は古人となりし」とあり、「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であることを考えると、「卷之三 橘氏狂歌の事」に既注済の「橘宗仙院」元孝であるが、彼は延享四(一七四七)年八十四歳で没しており、これ次に示す「もとの木阿彌」の狂歌師としての事蹟からは当て嵌まらないように思われる(元孝の没年には「もとの木阿彌」は未だ二十三歳で狂歌師として知られてはいない)。「耳嚢 巻之七 幽靈恩謝する事」で同定候補とした同じく奥医で法印であった次代の「橘宗仙院」元周(もとちか 享保一三(一七二八)年~?)なら「もとの木阿彌」の活躍年代と生没年では一致するから最有力か。没年が不詳なのが痛い。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している(彼の次の代ならば元春になるが、これは「もとの木阿彌」の生没年代との関係からは考え難い)。
・「もとの木阿彌」「耳嚢 巻之七 郭公狂歌の事」で既注。狂歌師元木網(もとのもくあみ 享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金(あぶりこのはそんはりがね)。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子(ちえのないし)。彼女も「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵(らくりつあん)を構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
・「興名」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『狂名』。「興」(面白おかしい)でも意味は通らないことはないが、一般名詞としてはないので、訳では狂名とした。
・「散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長」「散ふかと」は「ちらふかと」又は「ちろふかと」で、
……散ってしまうかと人は皆、心煩う――さすれば花にとっても風は百薬ならぬ百病の長(ちょう)……
「風」に「風邪」を掛ける。「散る」「花」「風」がまず縁語で、しかも「煩ふ」「風(邪)」「百病」を別に縁語として利かす。橘宗仙院は奥医師であるから、病いを全体に配して狂歌師同士の挨拶の一首と巧んだ。
■やぶちゃん現代語訳
秀逸の狂歌の事
今は故人となられた、橘宗仙院殿は狂歌の才、これあり、度々その秀逸なる一首をものされては世間に知られておられたが、ある日のこと、狂歌師として世上にてもて囃されておった狂名「もとの木阿弥」と申す男が、この宗仙院の元を訪ねて参った。
法印の曰く、
「御身、狂歌に妙を得(う)と聞く。我らも狂歌を詠み出だすこと、これあれば、一首即席の吟を聞きとう存ずる。」
との仰せなれば、木阿弥、
「題を給りたく存じまする。」
と乞うたによって、
「されば――花――といえることを詠まれよ。」
との仰せに、
散ふかと人みなおもひ煩へば花にも風は百病の長
と淀みなく即座に詠じたを、法印も深く感嘆なされた、とのことで御座った。