『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 木古庭の不動の瀧
●木古庭の不動の瀧
龍谷山と號す、木古庭の鎭守なり。堂の邊に瀧あり。高一丈七尺、幅三尺、不動瀧と唱ふ。水田に灌漑す。
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]
新編相模國風土記曰元祿の末、水涸(かれ)て用水に乏しかりしに、寶永四年、本圓寺住職日進。陀羅尼品(だらにほん)を讀誦して祈誓す、依て水舊に復すといふ、此事扁額に記し、今に堂前に掲(かゝ)く、爾來報賽(ほうさい)の爲(ため)、村民等毎月二十七日の夜、此堂に集會し、題目を唱ふ。
[やぶちゃん注:三浦郡葉山町木古庭(きこば)小字大沢に「木古庭不動尊」として現存するが、現在ここは一キロほど離れたところにある日蓮宗大明山本圓寺の持分(境外堂)となっている。本圓寺公式サイトに「瀧不動堂」として詳細な解説があり、それによれば、鎌倉幕府開幕前、不動明王の熱心な信者であった畠山重忠が衣笠城に三浦大介義明を攻めたが、その際、『木古庭の畠山という場所に城を築き、守り本尊の不動明王像を安置して戦勝を祈り、戦ったところ、御利益があって勝利し』『凱旋の後、重忠公が像をこの滝谷山に勧請すると、一夜のうちに山から清水がこんこんと湧き出で、一條の滝となったという』縁起が語られてある。
「元祿の末」元禄は十七年に宝永元年に改元。
「寶永四年」西暦一七〇七年。]
« 萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(16) 「春のたはむれ」(後) | トップページ | 耳嚢 巻之八 雀軍の事 »