今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅4 裏見の瀧 しばらくは瀧に籠るや夏の初め 芭蕉
本日二〇一四年五月 二十日(陰暦では二〇一四年四月二十二日)
元禄二年四月 二日
はグレゴリオ暦では
一六八九年五月 二十日
である。日光の続き。東照宮参拝の翌朝の午前八時頃に上鉢石町五左衛門方を出でて裏見の滝へ向かった。
うらみの瀧にて
しばらくは瀧に籠るや夏(げ)の始(はじめ)
日光山に上り、うらみの瀧にて
郭公(ほととぎす)うらみの瀧のうらおもて
うら見せて涼しき瀧の心哉
[やぶちゃん注:第一句は「島之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)の前書と表記。「奥の細道」では、
暫時は瀧に籠るや夏の初
という表記である。第二句目は「やどりの松」(助給(雲鼓)編・宝永二(一七〇五)年刊か)、第三句は「宗祇戻」(そうぎもどし・風光編宝暦三(一七五三)年刊)。
「裏見の瀧」は栃木県日光市清滝丹勢町(たんぜまち)にある瀧。現在は瀧の上部にあった岩が崩落して裏から見ることが出来なくなっている。日光からは西へ約六キロほど離れた峻嶮の地であるが、二人はその日ここを往復し、早くも正午過ぎには鉢石を立っている。
知られた第一句の「夏(げ)」は夏安居(げあんご)で、元来はインドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺。院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい,終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)とも単に安居ともいう(平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした)。ここは瀧の裏手の岩窟に入って涼んだのを、夏安居の初めと洒落たものである。僧体の芭蕉曾良であればこそ奥羽行脚という夏安居(修行)の始まりにも擬え得るであろう。「奥の細道」では前に曾良の「剃捨て黑髪山に衣更」の句もあって如何にも相応しく響き合う。
第二句の「うらおもて」について私は、山のあちこちで囀る不如帰の鳴き声が、入った瀧の裏にあっても聴こえ、それが微妙に木霊し合い、まさに瀧音と相俟って、何が「うら」であり、何が「おもて」であるのかという、虚実皮膜も反転するような不可思議にして爽快な思いを抱いたと、芭蕉はいいたいのだと読む。瀧の裏に回ったことがある人にはこれはすこぶる実感としてある。少なくともアイスランドの
Seljalandsfoss(セリャラントスフォス)で私はそれを実感したのである(リンク先は私の撮った同瀧の写真。前後に数枚ある)。
第三句の「うら」は擬人化された瀧の「裏(うら)」「内(うら)」「心(うら)」である。なお、この後の須賀川で書かれた杉風宛書簡(四月二十六日附書簡)には曾良の書簡が添付されていてそこにこの句が載るが、そこでは、
日光うら見の瀧
ほとゝぎすへだつか瀧の裏表 翁
うら見せて涼しき瀧の心哉 曽良
何と第二句目の異形句が載り、しかもこの「うら見せて」は芭蕉の句ではなく、曾良の句としてあるという(これは「おくのほそ道
総合データベース 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の「おくのほそ道 六 日光山の章段」の注のデータを参照した)。
以下、「奥の細道」の当該部。
*
廿余丁山を登(ノホ)ツて瀧有岩洞
の頂より飛流して百尺千岩の
碧潭に落岩窟に身をひそ
め入て瀧の裏よりみれはうら
みの瀧と申伝え侍る也
暫時は瀧にこもるや夏の初
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文で、一部に歴史的仮名遣で読みを附した。今回は自筆本に送り仮名を附した)
〇碧潭に落つ → ●碧潭に落ちたり]
« 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅3 日光 あらたうと靑葉若葉の日の光 | トップページ | 義父長谷川世喜男会葬御礼 妻より »