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2014/05/27

北條九代記 卷第六  宇治川軍敗北 付 土護覺心謀略(4) 承久の乱【二十六の二】――宇治の戦い決し、京方敗走す

土護(とごの)覺心は、散々に戰うて、「今は叶ふまじ。軍(いくさ)は是迄ぞ」とて、南を指して落ちて行く。敵三十騎計(ばかり)にて遁さじとて追掛くる。覺心は元來歩立(かりだち)の達者なれば、三室堂の僧坊まで飛が如くに走入りて、客殿を見れば、住持の僧かとおぼしくて睡居(ねむりゐ)たる、其の前に物具を脱置(ぬぎお)きて、剃刀のありけるに、水甕を取具(とりぐ)して緣に出て頭(かしら)を剃りて居たる所に、敵續きてうち入りつゝ、物具の傍(そば)に居ける僧を、敵ぞと心得て、取て抑へて首を取りてぞ歸りける。一舉の謀(はかりごと)に、無慚ながらも命を助り、奈良の方へ落行きたり。熊野の田邊法印は、子息千王禪師を討たせながら其身は泣々(なくなく)熊野にぞ歸りにける。宇治の渡(わたり)京方已に敗北して、横川(よかは)の橋、木幡山(こはたやま)、伏見、岡屋(をかのや)、日野、勸修寺(くわんしゆじ)に至まで、落人多く道々(みちみち)に討たれたり。供御瀨(ぐごのせ)、鵜飼瀨(うかひのせ)、廣瀨、槇島所々に向へられし京勢共、宇治の北の在家に、火の手の上(あが)るを見るよりも我先にと落失(おちう)せて、殘る兵一人もなし。夜に入りければ、寄手は次第々々に靜に川をぞ越えられける。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十六】――宇治の戦い決し、京方敗走す〉

「土護覺心」不詳。底本の人物一覧にも出ない。不敵な坊主で興味があるのだが――いや寧ろ、この戦乱の最中に客殿で居眠りをしていて、人違いされ有無を言わさず首を掻かれてしまった三室戸寺の如何にも運のない凡僧、その横で素知らぬ振りで心静かに頭を剃って「愚僧は本明星山三室戸寺住持誰某にて御座る」なんどとうそぶいているシーンにこそ私の興味はある――というべきであろう。識者の御教授を乞うものである。

「三室堂」京都府宇治市莵道滋賀谷(とどうしがたに)にある明星山三室戸寺(みょうじょうざんみむろとじ)。寺院。本尊千手観音。西国三十三所第十番札所。本山修験道別格本山であるが、創建の正確な事情については不詳。公式サイトはこちらで、その略誌では光仁天皇勅願の精舎とする。宇治橋からは東北へ約一・五キロメートル程離れている。しかしここ、「南を指して落ちて行く」というのは不審。「承久記」本文にはないから、「北條九代記」の筆者の筆が滑った位置誤認と思われる。

「田邊法印」熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった熊野別当であった快実(?~承久三(一二二一)年)。底本の人物一覧によれば、「紀伊国続風土記」によれば、この「田邊法印」は快実のことであり、「熊野別当系図」によれば、『熊野別当法印湛憲の子とある。別称小松法印。』以下に見るように「承久記」古活字本(流布本)の原文では、『彼が戦いに敗れて後、』ある畠の中に這い隠れて九死に一生を得た話が載る(「北條九代記」ではその詳細はカットされている)が、『乱後捕われて処刑された(流布本・慈光寺本・吾妻鏡等)』とあり、「北條九代記」の次の章の「雲客死刑」でも六条河原で処刑されたとある。

「夜に入りければ」六月十四日の夜。前に引いた「吾妻鏡」の同日の最後の部分の書き下し文を再掲しておく。『武州、武藏前司等、筏(いかだ)に乘りて河を渡す。尾藤(びとう)左近將監、平出(ひらで)彌三郎をして民屋を壞(こぼ)ち取りて筏を造らしむと云々。武州、岸に著くの後、武藏・相摸の輩、殊に攻め戰ふ。大將軍二位兵衞督有雅卿・宰相中將範成卿・安達源三左衞門尉親長等、防戰の術を失ひて遁れ去る。筑後六郎左衞門尉知尚・佐々木太郎右衞門尉・野次郎左衞門尉成時等、右衞門佐朝俊を以つて大將軍と爲し、宇治河邊に殘留して相ひ戰ひ、皆、悉く命を亡(うしな)ふ。此の外の官兵、弓箭(きゆうぜん)を忘れ、敗走す。武藏太郎、彼の後へ進み、之を征伐せしめ、剩(あまつさ)へ、火を宇治河北邊の民屋に放つの間、自(おのづか)ら逃げ籠るの族(うから)、煙に咽(むせ)びて度を失ふと云々。武州壯士十六騎を相ひ具し、潛かに深草河原に陣す。右幕下の使ひ〔長衡。〕、此の所に來て云はく、「何(いづ)れの所に迄(いた)らば渡り有るや。見奉るべし。」の由、幕下の命有りと云々。武州云はく、「明旦(みやうたん)入洛すべく候。最前に案内を啓(けい)すべし。」てへれば、使者の名を問ふに、「長衡。」と名謁(なの)り訖んぬ。則ち、南條七郎を以つて長衡に付け、幕下の許へ遣はし、其の亭(ちん)を警固すべきの旨、示し付くと云々。毛利入道・駿河前司、淀・芋洗(いもあらひ)等の要害を破りて、高畠(たかばたけ)邊に宿す。武州、使者を立てるに依つて、兩人、深草に到ると云々。相州、勢多橋に於いて官兵と合戰す。夜陰に及びて、親廣・秀康・盛綱・胤義、軍陣を棄てて皈洛(きらく)し、三條河原に宿す。親廣は、關寺(せきでら)の邊に於いて零落すと云々。官軍佐々木弥太郎判官高重以下、處に誅せらると云々。』。

「勸修寺(くわんしゆじ)」私は勧修寺「くわうじゆうじ(かじゅうじ)」と読むのだとばかり思っていたが、ウィキの「勧修寺」によれば、現在の京都市山科区にある皇室と藤原氏に所縁の門跡寺院真言宗山階派大本山亀甲山勧修寺(開基醍醐天皇・開山承俊・本尊千手観音)の寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることもあるものの、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としているとある一方、『山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である』とあり、ここでも本文は明らかに寺名ではなく地名であるからすこぶる正しいルビということになる。由緒ある寺社の名称を地名として用いる場合に漢字表記や読み方を変えて憚るということはしばしば見られる習俗である。

 以下、「承久記」の当該パート(底本通し番号82~85相当)を示す。 

 奈良法師土護覺心、散々ニ戰テ、今ハ叶間敷トヤ思ケン、落行ケルヲ、敵三十騎計ニテ追懸タリ。覺心元來歩立ノ達者成ケレバ、馬乘ヲモ後ロニ不ㇾ著、三室堂ノアル僧房へ走入テ見レバ、坊主カト覺シタテ、白髮ナル僧アリ。彼ガ前ニ物具脱デ置テ、髮ソリノ有ケルニ、水カメヲ取具シテ緣ニ出テ、頭ヲソラセテ居タリ。敵續テ來リケレバ、坊主無何心物具ノソバニ居タリケルヲ、敵ゾト心得テ、取テ押へテ首ヲ取。ムザンナリシ事也。其後、覺心ハ奈良ノ方へゾ落行ケル。

 熊野法師田部法印ガ子息千王禪師トテ、十六歳ニ成ケルガ、親子返合散々ニ戰ケルガ、千王禪師被取籠被ㇾ討ヌ。法印ハ落行ケルガ、馬ヲ捨テ、アル畠ノ中ニ這隱タリ。敵數多續テ上ヲ越ケレ共、是ヲ不ㇾ知ハ、偏ニ權現ノ御タスケニコソト、賴敷ク覺へテ哀ナリ。
・「熊野法師田部法印」先に注した田辺別当家の快実のこと。


 去程ニ京方ノ軍破ケレバ、皆々落行所ヲ、横河ノ橋・木幡山・伏見・岡ノ屋・日野・勸修寺ニ至迄、所々ニテ組落シ組落シ是ヲ討。サレバ坂東勢共、一人シテ首ノ七ツ八、取ヌ者モナシ。惣判官代、宇治ノ北ノ在家ニ火ヲ懸タリケレバ、是ヲ見テ、供御ノ瀨・ウカヒ瀨・廣瀨・槇島、所々ニ向タル勢共、皆落行テ、留マル者一人モナカリケル。少輔入道親廣、近江關寺ヨリ引分レテ行ケルガ、四百餘騎ニ成ニケル。其モ次第々々ニ落散テ、三條河原ニテハ百騎計ニ成ニケリ。爰ニテ夜ヲ明ス。

 武藏守、其子ノ太郎・伊具次郎、僅ニ五十騎計ノ勢ニテ、深草河原ニヲ取。人是ヲ不ㇾ知、駿河守ハ淀近所ニ堂ヲコボチ、桴ニ組デ河ヲ渡シ、高畠ニ陣ヲ取。武藏守、「泰村、爰ニ候。小勢ニテ打寄ラセ給へ。可申合事アリ」ト宣ケレバ、駿河守三十騎計ニテ來リ加ケル。
・「惣判官代」不詳。「吾妻鏡」の叙述と照らし合わせると、火をつけたのは「武藏太郎」泰時長男北条時氏である。
・「桴」「いかだ」と読む。
・「駿河守」三浦泰村。]

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