杉田久女句集 229 昭和元年 箱崎にて 七句
昭和元年 箱崎にて 七句
病間や破船に凭れ日向ぼこ
間借して塵なく住めり籠の菊
炭つぐや頰笑まれよむ子の手紙
筑紫野ははこべ花咲く睦月かな
山茶花の紅つきまぜよゐのこ餠
ゐのこ餠博多の假寢馴れし頃
ゐのこ餠紅濃くつけて鄙びたる
[やぶちゃん注:「箱崎」現在の福岡県福岡市東区箱崎。福岡市東区南部にあり、現在は東区区役所が置かれている東区の行政上の中心。古い町並みが残っており、筑前国一の宮で旧官幣大社の筥崎宮(はこざきぐう)などの神社や史跡が多く存在する(以上はウィキの「箱崎」に拠る)。底本年譜の大正一五・昭和元(一九二六)年の条に、『十一月、病気療養のため箱崎へ』とあり、『俳句に専心の心を固める』ともある。前掲の坂本宮尾氏の「杉田久女」には『入院治療するほどではなかったのであろう、しばらく福岡の箱崎で部屋を借りて静養』したとある。
「ゐのこ餠」「ゐのこ」は「亥の子」で旧暦十月即ち亥の月の最初の亥の日に行われる祭祀行事で主に西日本で見られるもの。亥の子餅を作って食べて万病除去や子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗いて回ったりする。玄猪・亥の子の祝い・亥の子祭りともいう。参照したウィキの「亥の子」によると、古代中国で旧暦十月『亥の日亥の刻に穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』、『古代における朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』とある。ウィキの「亥の子餅」には、『名称に亥(猪)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したもの、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異があり、特に決まった形・色・材料はない』とあって、「摂津国能勢における亥の子餅」という項を設けて、そこには神功皇后と応神天皇に纏わる詳しい伝承が記されてある。応神天皇の誕生は神功皇后が三韓征伐から戻った筑紫での出来事であり、福岡との関連もありそうである。また、箱崎の筥崎宮参道沿いにある真言宗恵光院の「タウンページ」の記載にある「年間定例行事」の十一月に『初亥の日 いのこ金幣祭』というのがあり、『いのこまつりは地方により祝い方が異るが中国の行事(この日に餅をついて食べると万病がよくなる)を真似て古くは平安時代から伝わる風習があ』り、『いのこ節句というところもあればイロリの焚き初めといい季節の変わり目と考えているところ、稲の収穫を祝うところもある』とし、当院では愛染明王を御神体として、『すし桶と一升桝を用いてその中に明王の金幣を立て、いのこ餅、御神酒を供え季節の野菜や果物を盛りつけて』祀るとある。『すし桶や一升桝を使うのは家庭円満で益々繁昌、良縁、安産を願うという意味』の他に、『イロリを祝うまつり』で、『参詣者には金の御幣と供物のぎんなん、紅白の鏡もち、稲穂』が授けられるともある。]
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