杉田久女句集 231 節分の宵の小門をくゞりけり
京都吉田に鈴鹿野風呂氏訪問 一句
王城、草城、白川御夫婦、雄月氏等
節分の宵の小門をくゞりけり
[やぶちゃん注:これは編年式編集の角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」から、大正一三(一九二四)年のことであることが分かるが、底本年譜には記載がない。久女三十四歳。
「吉田」は京都府京都市左京区南部の地域名。
「鈴鹿野風呂」(すずか のぶろ 明治二〇(一八八七)年~昭和四六(一九七一)年)は俳人。本名、登。京都生。京都帝国大学卒。高濱虚子に師事し、『ホトトギス』同人。大正九(一九二〇)年の京大三高俳句会を母体として日野草城・田中王城らとともに『京鹿子』を創刊、同誌は後に野風呂が主宰となって関西に於けるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後の一時期には旧制京都文科専門学校の最後の校長を務めている。『京鹿子』発行所でもあった吉田中大路町にあった生家は現在、野風呂記念館となっている(主にウィキの「鈴鹿野風呂」に拠る)。当時三十七歳。現代俳句協会の「現代俳句データベース」に載る彼の句を掲げておく。
しぼり出すみどりつめたき新茶かな
北嵯峨の水美しき冷奴
雲を吐く三十六峯夕立晴
「王城」田中王城(明治一八(一八八五)年~昭和一四(一九三九)年)は俳人。京都生。本名、常太郎。初め、正岡子規の句風を慕い、中川四明にも学んだ。後に高浜虚子に師事し、『ホトトギス』同人となり、京都俳壇の第一人者となった。大阪俳壇の先進とともに関西全般に多くの門下を育て、また雑誌『鹿笛』を刊行した(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。ネット上から句を引く。
竹伐るやうち倒れゆく竹の中
水取や廂につゞく星の空
山茶花のあらたに散りぬ石の上
「白川」『京鹿子』同人の水野白川(本名、武)であろう。彼の句はネットでは次の一句しか見つからなかった。
京なれやまして祇園の事始
「雄月」不詳。]
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