最後の歎願をもつて 山之口貘
最後の歎願をもつて
其處に通りかゝつてゐる女(ひと)よ 私(わ
し)は私(わし)の前を知らん振りの氣まづ
い態(なり)で通り過ぎようとするお前を知
つてゐる
水は私(わし)の跫下でせゝら笑ひ 星辰(ほ
しくづ)はあをい光を撤らし
あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐ
る。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけ
て消え去つた。
だのにお前は何故過去の想出の一言(ひとこと)
でさへ私(わし)の口から出るのを拒まうと
するのだ?
否え 否え 私(わし)は決して聲をかけない
つもりでゐる
世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前
は迷惑だと思つてゐはせぬか!
そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の
眼球(めのたま)をお前のあかい舌をもつて
侮蔑(はづか)しめはしまいか
靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ
羞恥(はぢらひ)はお前の耳の側を過ぎ去
り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる
けつど其處に通りかゝつてゐる女(ひと)
よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうと
は思はない。
お前の踵の一瞬(わづか)の躊躇(ためらひ)
を私(わし)に報告(しら)しめてくれ
お前の視線の端を私(わし)におくつてく
れ
あゝ私(わし)は私(わし)の最後の嘆願の
口を押し開いてお前に乞はねばならないの
に
何故知らん振りの氣まづい態(なり)で私
(わし)の前を通り過ぎようとするの
だ? 私(わし)の戀人よ!
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年~大正一〇(一九二一)年の間(バクさん十五歳から十八歳)に創作された作品。思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と校合したが、以下に示すように一部、新全集ではなく、旧全集の表記に従った部分がある。一部に特異な改行部があるため、ブログ幅に対応させて以上のような仕儀をとった。問題の箇所は「あゝ暗い廢頽の魔術を私(わし)にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。」及び「世間の拙い連想から 私(わし)の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか!」と「そうしてお前は 乞喰になつた私(わし)の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑(はづか)しめはしまいか」の三箇所で、これらは前からの続きではなくて、一字下げになっているからである。しかも、それが更に改行される場合(最初の「あゝ暗い廢頽の……」の一箇所)には今までの改行法(前行より一字下げ)と異なり、下げずに前行と同じ高さで改行されてあるからである。
「歎願」題名ではこれで、詩の終わりから三行目では「嘆願」となっているのは、新全集に従った。ここは新全集が解題でわざわざ断っている箇所で、旧全集がかく変えてしまった事実が明らかとなったからである。
「跫下で」「跫下で」の読みは不明。音ならば「キヨウカ(キョウカ)」であるが一般的な熟語とは思われない。「跫(あしおと)の下。足音の元。」という謂いで、意味は通ずるように私は感ずる。新全集ではこれを「足下」とするが、採らない。私は原稿を見ていないが、旧全集がわざわざかく表記しているということは原稿がそうなっている可能性を示唆するものだからである。「跫」と「足」は正字・新字の関係にはないからで、これは新全集の方針にも反することである。但し、確かにそう改変する「そつか(そっか)」で読みは自然とはなるという思いはする。新全集編集者はこれを誤字と採ったものらしい。しかし、やはり私は従えない。「跫下」では読みは不詳なものの、意味が分からなくなるとは言えないからである。
「思つてゐはせぬか!」の感嘆符の斜体化は新全集に拠った。最後の感嘆符は表記通り、普通である。
「乞喰」これも新全集は「乞食」とするが、採らない。「喰」は国字であり、「食」とは正字・新字の関係にないからである。これは新全集の方針にも反することである。新全集編集者はこれを誤字と採ったのであろう。しかし、やはり私は従えない。「乞喰」でも、おや? と思いながらも、「こじき」と読み過ごすことが出来、意味が分からなくなるとは言えないからである。
底本の連続する次行送りの一字下げを無視して表記すると、
最後の歎願をもつて
其處に通りかゝつてゐる女よ 私は私の前を知らん振りの氣まづい態で通り過ぎようとするお前を知つてゐる
水は私の跫下でせゝら笑ひ 星辰はあをい光を撤らし
あゝ暗い廢頽の魔術を私にかけてゐる。しかも人々はみんな私に醜聲をぶつかけて消え去つた。
だのにお前は何故過去の想出の一言でさへ私の口から出るのを拒まうとするのだ?
否え 否え 私は決して聲をかけないつもりでゐる
世間の拙い連想から 私の聲をお前は迷惑だと思つてゐはせぬか!
そうしてお前は 乞喰になつた私の眼球をお前のあかい舌をもつて侮蔑しめはしまいか
靜寂は市街の涯から涯へのたうち狂ひ羞恥はお前の耳の側を過ぎ去り お前の溜息を奪つて私を苦しめてゐる
けつど其處に通りかゝつてゐる女よ あゝ私は決して聲でもつて物語らうとは思はない。
お前の踵の一瞬の躊躇を私に報告しめてくれ お前の視線の端を私におくつてくれ
あゝ私は私の最後の嘆願の口を押し開いてお前に乞はねばならないのに
何故知らん振りの氣まづい態で私の前を通り過ぎようとするのだ? 私の戀人よ!
のようになる(ルビを除去して示した)。【二〇一四年五月二十四日追記】以上は、二〇一四年五月二十四日に行った新全集との校合によって、一部の表記の特異性が判明したため、全面的に改稿した。]
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