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2014/05/06

柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 西湖主


  西湖主せいこしゅ

 秀才の陳弼教ちんひつきょうは字を明允めいいんといい、ちょくれいの人であった。家が困っていたので、副将軍賈綰かかんについて書記をしていたが、洞庭湖に舟を泊めていた時のことである。水面に猪婆竜ちょばりゅう一が浮かんでいるのを見て、賈がそれを射ると、背中にあたった。すると竜の尾をくわえて逃げずにいる魚があるので、いっしよにとらえてほばしらのあたりにつないでおいた。まだ、かすかに気息はあったが、吻をあけたりとじたりして助けを求めるよぅな竜のようすを見て、陳は、あわれに思い、賈に放してやってくれと頼んだ。そして持っていた金創きんそうの薬を、傷ついたところに塗って水の中に放してやった。竜は浮きつ沈みつしながら、しばらくすると、見えなくなった。
 その後、一年余りたってから、陳は北に帰ろうとして、また洞庭湖を渡った。大風のために舟がひっくりかえったが、幸い籠に取りついていたので、一晩漂ったのち、やっと木にひっ掛かって止まった。岸によじのぼったとき、続いて浮かんでくる屍があった。見ると、自分の使っている堂僕ボーイだったので、引きあげたけれども、もう死んでいた。
 童僕の死体にむかって悲しいきもちですわっていたが、あたりを見ると、みどりの小山がそびえ、細柳いとやなぎが青くゆれるばかり、みち行く人もまれで、道を聞くすべもなかった。
 明けから辰後はちじすぎまで、悲しくすわっていたが、ふと童僕のからだがすこし動いたので、喜んでさすっていると、まもなく、たくさんの水をはいて、生きかえった。
 二人とも着ものをぬいで石の上にほしておいた。ひる近くやっと着られるまでにかわいたが、今度は、すきばらが、ごろごろなって、ひもじくてたまらなくなった。二人は村落があればいいがと願いながら、山を越えて急いで歩いた。
 そして山の半腹に来た時、ひゅうと鳴鏑かぶらやの音が聞こえたので、驚いてじっと聞き耳を立てていると、駿馬に乗った二人の女郎おんなむしゃ二が、豆をまくようなひづめの音をさせて駆けて来た。二人ともあかい絹のはちまきをして、もとどりにきじの尾をさし、袖の小さい紫の着ものをき、腰に綠の錦をつかね、一人は矢弾をさしはさみ一人は手に青い弓籠手ゆごてをしていた。
 嶺を越えて山の南側にでると、榛莽はやしのなかで猟をしている数十騎に出あった。みんな同じ装束の美しい女たちだった。
 陳は立ちどまってすすまずにいた。そこへ馭卒べっとうらしい男が走って来たので、たずねると、
 「西湖公主せいここうしゅ首山しゅざんで猟をなさってるんです」という答えであった。陳は、どうしてここへ来たかを話してから、ひもじくて困っていることをつけ加えた。馭卒は同情して、包みの糧食をといて陳にやって、
 「すぐ遠くのほうへ避けておいでなさい。おなりを犯すようなことでもあれば、死罪ですよ」と言いきかせた。
 陳はこわくなって山をかけおりた。林の中にちらちら殿閣ごてんのようなものがあるので、お蘭若てらだろうと思って近よると、しろへいがめぐらされ、渓水が流れているむこうに、朱塗しゅぬりの門が半ばひらき、石橋で通うようになっていた。扉にのぼってながめると、台樹うてなは雲をめぐらして、御苑にまがうばかりである。陳は貴族の園亭だろうかとも疑ってためらいながらはいっていった。
 藤がって路をさまたげ、花のにおいが、人をうつなかを、いくつにも折れ曲った手すりについてとおってゆくと、また別な院宇にわに出た。数十株の垂楊やなぎが朱塗りののきを高くはらって、山鳥が鳴くごとに花びらが飛び、深苑にそよ風がわたれば、ほろほろと楡銭にれぜに三が落ちる。目をたのしませ、心をさわやかならしめるふぜいはこの世のものではないかのようにさえ思われるのである。小さなちんをぬけてゆくと、一架いちだい鞦韆ぶらんこ四が空高く立っていたが、綱が静かにさがって人かげも見えないのだ。閨閣おくに近いのだろうと思い、恐れて、それから先へは行かなかった。と、その時、門のあたりで、にわかに馬のあがきが聞こえて、女の笑い声がしてきた。陳は童僕とともに花の茂みに身をかくした。
 そのうちに笑い声がだんだん近づいて、一人の女の言っているのが聞こえた。
 「今日の猟はつまらなかったわね。えものが少しで」
 するとまた一人物女が言った、
 「公主ひめぎみが雁をおちにならなかったら、けらいや馬に、むだぼねおりをさせたようなものだったわ」
 まもなく、紅い着ものをきた女たちが一人の女郎おんなむしゃをとりまいて亭の中にすわらせた。見ると、筒袖の武装で、年は十四、五ばかり、霧をおさめた低いまげ、風に驚く細い腰、それは玉蕋ぎぎょくずい五瓊英けいえい六でさえくらべものにならないほどの、けだかさ、美しさであった。
 茶を献じたり香をたいたりしている女たちのようすは、錦をつんだようなきらびやかさだったが、やがて、女は立ちあがって階段をおりはじめた。すると一人の女が、
 「公主、馬でおつかれになりましたのに、まだ鞦韆ぶらんこがおできになりましょうか」
 公主は笑ってうなずかれた。すると肩にのせたり、をとったり、裾をからげたり、靴を持ったり、みなで公主をたすけて鞦韆にのせるのであった。
 公主は白い腕をのべ、かるい靴をはき、飛燕のような身の軽さで、雲に入るかと思うほど高く蹴るのであった。やがて、たすけられておりると、みんなは、
 「ほんとに姫君は、仙人でいらっしゃいます」
 と言って、さざめきながら、行ってしまった。
 陳は見ているうちに、魂がぬけたような気がした。人声がしなくなって出てきたのであるが、鞦韆架ぶらんこだいの下に行って考えながら、うろついていると、垣根の下に紅い手巾てふきが落ちていた。美人のなかのだれかがおとしたものだろうと思って、喜んで袂に入れ、亭にのぼって見ると、卓の上に文具がおいてあったので、手巾をひろげてつぎのような詩を題した。

  たわむるは何人たぞ擬半仙ぎはんせん七
  あからさまなり、たおやめの、つまさきに散る金蓮はなはちす八
  広寒 隊裏つきの 九 おとめ応相妒ねたまれん
  莫信、波便上天のぼりたまいそ 一〇 あまつそら

 いてしまうと、それを口ずさみながらそとに出て、またもとのみちをさがしたが、幾重かの門はすでにとざされていた。陳はしばらく、うろつきまわったけれども、出るくふうがないので、あきらめてまた元のところにかえってきて、楼閣や亭台のあいだを歩きつくしたころ、一人の女がはいって来て、陳を見るなり驚いて、
 「どうして、ここに来ることができました?」
 と聞くので陳は、
 「みちをまちがえたんです。助けてください」
 と揖之えしゃくをして言った。
 「紅いてふきを、ひろいはしませんでしたか?」
 「ありましたけれど、もう玷染よごしてしまったんです。どうしましょう」
 手巾を出すと、女はびっくりして、
 「おまえさん、死んでもおっつかないわ! これは公主がいつも持っていらしゃるものよ。それをこんなにぬりたくったんだから、しかたがないわ」
 陳は青くなって、たすけてくれと泣きついた。女は、
 「宮儀だいりをのぞくことでさえ、もうゆるされない罪なのよ。おまえさんは、おとなしそうな儒冠しょせいさんだから、あたしだけの考えで助けてあげたいと思ってたけれど、悪い種を自分でまいたんだから、しかたがないわ!」
 そう言って手巾を持って急いで行ってしまった。陳はむねをどきつかせ、肌をあわだたせ、羽がないために首をのべて死を待たなけれはならないのが恨めしかった。
 しばらくすると女はまた来て、そっと喜んでくれるのだった。
 「あなた、生きるのぞみがありますわ! 公主は、てふきの文字を三、四へんごらんになると、にっこりなすったの。怒ったごようすがないのよ。もしかすると、あなたを許してくださるかもれないから、わかったら知らせに来ましょう。それまでしばらくじっとしていらっしゃい。木に登ったり、垣をくぐつたりしてはいけませんよ。見つかつたら、こんどは、許されないから」
 日はすでに暮れてしまったが、吉か凶かはきまらないし、飢えは焼くように迫ってくるし、陳は、じりじりして死にたいとさえ思った。
 まもなく女が燈をつけてやって来た。じょちゅうを一人つれていて、それにさげさしたとくりふたものから、酒食をだして食わせてくれた。陳がようすを聞くと女は、
 「さっきあたしおりをみて、お庭の秀才が、許していいものなら放してやりましょう、でないと、餓死をいたしますと申しあげたの。すると公主は、しばらくお考えになってから、深夜よなかだのに、あのひとをどこに行かせるの、とおっしゃって、あなたに食べものをあげるように、お命じになりましたの。悪いたよりではありませんわ」
 陳は心配のうちに終夜ひとよをあかした。辰時向尽はちじごろ、女がまた食べものを持って来たので、緩頰とりなし一一てくれと泣きつくと女は、
 「公主ひめぎみは殺すともおっしゃらないし、許すともおっしゃらないんです。あたしたちみたいな下人げにんは、うるさく申しあげられませんの」
 そのうちに、日ざしは、ななめになって西に転じた。陳は女の知らせをただまちかねていた。すると、女が息をはずませながら駆けてきて、
きさき  「あぶないわ! おしゃべりが、あの事をお妃にもらしたもんだから、お妃は、てふきを広げてごらんになり、地に投げつけて、狂傖きちがい一二め! つておっしゃいましたわ!」
 それを聞くと陳はひどく驚いて面如灰土つちいろになり、女の前にひざまずいて、助けてくれと頼んだ。と、その時、わやわや人声が聞こえてきた。女は手をふり、身をかわして行ってしまった。
 数人の官女がなわを持って、洶々どやどや一三とはいってきた。そのうちの一人の女が、つくづくと陳を見ていたが急に、
 「だれかと思ったら、陳さんじゃありませんか?」
 と言うと、索を持った者をおし止めた。
 「およしよ! お妃に申しあげてくるまで待っといで」
 女は身をひるがえして走っていったが、まもなく帰って来て、
 「陳さんをつれてこい、というお妃のおおせです」
 と言った。陳は、ふるえながら女について行った。数十の門をすぎて、とある宮殿に来ると、美しいおんなが銀のかぎのついたあおいすだれをかかげて、
 「陳さまが、いらせられました!」
 と、高らか堅言った。上座には袍服ほうふくをきて、目のくらむようなよそおいをしたきれいな人がすわっていた。陳は地にひれ伏し、ぬかずいて、
 「万里とおくからまいった孤臣わたくしの命を、どうぞお許しくださいませ」
 と申しあげた。王妃は急に立ちあがって、手ずから陳をひきおこし、
 「君子あなたがいられなかったら、あたしの今日はないのです。おんなどもが何も知らずにだいじなお客さまに失礼をしまして、ほんとにもうしわけありません」
 と言うと、花やかなえんをもうけさせ、ほりをした杯に酒をついで賜わった。陳はぼうぜんとしていた。さっぱりわけがわからないのである。すると王妃は、
 「再生のご恩をかえせないのはざんねんなことです。姫の手巾に詩を題していただいたのは、さだまったご縁だろうと思われますから、今夜から遺奉侍おとぎせます」
 思いもよらぬことだった。陳は神惝恍ぼんやり一四して落ちつくこともできなかった。
 夕方になると一人の官女が、
 「公主ひめぎみは、もうちゃんとおしたくがすみました」
 と言いに来た。そして陳を案内してとばりのなかにつれていった
 たちまち笙管ふえの音が、さかんに起こった。階上には、ずっと葦毛氈じゅうたんが敷きつめられ、いりくちざしきまがきかわやなど、いたるところに、すっかり燈籠がともされた。数十人のうつくしい女たちが公主を助けて、婿礼の交拝をさせた、御殿といわずお庭といわず、麝香じゃこうの香がみちあふれているのである。
 やがて、いっしょにとばりにはいった。深く愛し合っている二人なのだ。陳が、
 「臣は旅のもので、いままでにお目にかかったことがないのです。芳巾おてふきを汚して、死罪にもなるところを免れたのさえ幸いですのに、かえって姻好えんぐみをしていただくとは、じつに思いもかけぬことなのです」
 と言うと、公主は、
 「あたしの母は湖君のきさきで、江陽こうよう王の王女なの。去年お帰寧さとがえりをして、あるとき湖で遊んでいたら、矢が流れてきてあたったのを、あなたに助けていただいたうえ、刀圭之薬おくすり一五までいただいたので、一門のものたちは、ありがたく思って忘れずにおりますの。あなた! 人間でないのを、いやがらないでくださいまし。あたし竜王について長生の法を知ってますから、あなたといっしょに長生きをいたしましょうよ」
 と言うので、陳は女が神人だと悟ったのである。
 「あの腰元は、どうしてあたしを知っていたのです」
 と聞くと、公主は、
 「あのとき、洞庭の舟のなかで、尾をくわえている小さい魚があったでしょう。それがあの女なの」
 と言うので、陳はまた、
 「さいしょぼくを捕えた時、殺さないつもりだったら、なぜ、いつまでも許してくださらなかったの?」
 と聞くと、公主はにっこりして、
 「じつはあなたの才学がすきだったの。でも、かってにできないんですもの。一晩寝なかったわ。ひとは知らなかったけれど……」
 と言うので、陳は歎息して、
 「君は僕の鮑叔ほうしゅく一六だ! 食べものをくれたのはだれです」
 と言うと公主は、
 「あねんといって腹心の女なの」
 「阿念のしんせつに対して、どんな報いをすればいいでしょう」
 公主は笑って言った。
 「これから長い間おそばにいるんですから、ゆっくり、うめあわせを考えたって、おそくはありませんわ」
 「大王は今どこにいらっしゃるんです」
 「関聖かんせい一七について蚩尤しゆうを征伐にいらしたんです。それからまだお帰りにならないの」
 そこで陳は御殿で数日を過ごしたが、たよりのない家中のことを考えると、ひどく気にかかるので、平安だという手紙を持たせて、先に童僕を帰してやった。
 洞庭で舟がくつがえったということを聞いた陳の家では、妻や子が喪服をつけてから、もう一年あまりになっていた。そこへ童僕が帰って来たので、はじめて死なないでいることを知ったが、たよりができないので、さすらいあるいているうちに帰られなくなるのだろうと心配するのであった。
 それからまた半年ほどたって、陳がだしぬけに帰ってきた。りっぱななりをして、宝玉を袋にいっぱい入れていた。それから陳の家は何億という金持ちになり、美声、美色をあつめて、世家といえども遠くおよばぬほどの豪奢ごうしゃぶりだった。七、八年の間に五人の子が生まれ、日々お客を集めて宴をひらいていたが、宮室へやといい、たべものといい、ぜいたくなものだった。ある人が、どういうわけでこんな身分になられたんですとたずねると陳は少しも隠さずに話して聞かせた。
 陳の幼友だちに梁子俊りょうししゅんという人があった。十年あまり南方の役人をして、帰りに洞庭湖をとおると、一隻の画一八を見かけた。それは彫りをした欄、朱塗りの窓という美しい船で、笠や歌の響きをかすかに流しつつ、煙波のなかをゆっくりこいでゆくのだったが、美しい人が窓をおしあけ、欄によりかかってあたりを眺めていたので、梁が船の中に目をそそぐと、科頭かとう一九にした一人の若い男が、あしをかさねてその上にすわり、十六、七の美しい女が、側でさすっているのが見えた。きっと楚襄かほくあたりの貴官だろうとは思ったけれど、おつきがひどく少ないので、よく見ると、陳明允だった。
梁は思わず欄によって、高い声で陳を呼んだ。陳は呼び声を聞いて舟をとめ、鷁首へさき二〇に出て梁を迎え、自分の舟に乗りうつらせた。見ると残りの肴が机にいっぱいおいてあって、洒がぷんぷんにおっていた。陳はすぐに、それをかたづけさせた。しばらくすると四、五人の美しい腰元が、酒を進めたり茶をいれたりした。山海の珍味、それは見たこともないものばかりである。梁が驚いて、
 「十年見ないうちに、どうしてこんな富貴な身のうえになったんだ!」
 と聞くと、陳は笑って、
 「君が見くびっていた窮措大ひんしょせい二一だって出世ができないこともなかろう」
 と言う。
 「いま、いっしょに飲んでいたのはだれだい」
 「家内だ!」
 梁はまた怪しんで、
 「家内をつれて、どこへ行くんだ」
 「西の方へ渡ろうと思う」
 梁がまた聞こうとすると、陳は歌をうたい酒をすすめるように言いつけた。その一言とともに、大鼓がかしましく鳴りはじめ、うたふえ二二が入りまじってもう話が聞こえなくなった。梁は美人が前にいっぱい並んでいるのを見て、酔いにまかせ、
 「明允さん! ほんとうにぼくを消魂まんぞくさせてくれないか」
 と言うと、陳は笑いながら、
 「きみ酔ったね。しかし美しい妾を一人買うだけの金を友に贈ろう」
 と言って腰元に言いつけ、ひとつぶのたまを梁にあたえた。
 「これがあれば緑珠りょくしゅ二三でも難なく買える。ぼくがけちでないことを、明らかにするためだ」
そして、
「ちょっとした用事があって忙しいので、ゆっくり友といっしょにあつまっていられないのだ」
 と言って梁をその舟に送り帰し、ともづなをといて行ってしまった。
 梁は帰ってから、ようすを探ろうと思って陳の家に行ってみた。すると陳が客といっしょに酒を飲んでいるので、梁は、ますますふしぎに思い、
   「昨日は洞庭にいたのに、なんという早い帰りようだ」
 と聞くと、陳は、
 「そんなことはないよ」
 と言うので、梁は、見たままを、くわしく話した。一座の人たちは、ことごとく驚いた。陳は笑って、
 「君のまちがいだよ。ぼくに分身の術なんかあるもんかね」
 と言ったが、みんなは、あやしみながら、ついに、わけがわからなかった。
 のち、陳は八十一歳でなくなった。埋めるとき、棺があまり軽いのを、あやしんで開けてみると、棺の中はからだった。

  注

一 猪婆竜は俗に鼉竜と称せられ、爬虫類で中国の江湖にのみ産するものだという。背、尾、鱗甲すべて※魚に似ていて、後足が半蹼をそなえ、その長さ二丈あまり、岸をくずすに足るほどの力を有し、驚くような声で鳴く。皮は鼓をはるによいという。
[やぶちゃん字注:「※」=「魚」(へん)+(「噩」の最下部の中央の縦画が突出して右に曲がってはねる字画)(つくり)。]
[やぶちゃん注:基本、私は本電子テクストに注を附さないつもりであるが、博物学フリークとしてはこれに注さないわけには参らぬ。まず、この「※」は「鱷」の誤植と思われる。「鱷」は「鰐」の同字である。「半蹼」の「蹼」は水搔きで、指の附け根の間に小さな水かきがあることを意味する。これは爬虫綱ワニ目アリゲーター科アリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis である。ウィキの「ヨウスコウアリゲーター」によれば、中華人民共和国(安徽省・江西省・江蘇省・浙江省(本話の部隊である西湖せいこは浙江省杭州市にある)の長江下流域に棲息する中国固有種のワニで、『アリゲーター科では本種のみがユーラシア大陸に分布する。種小名 Alligator sinensis は「中国産の」の意。和名のヨウスコウ(揚子江)は長江下流域の別名。日本でも大分県安心院盆地にある鮮新世の地層から本種の化石が発見されている』。全長は二百センチメートル以下で、口吻は短く、頸部背面を覆う鱗(頸鱗板という)は四枚、『背面の体色は濃褐色や黒、暗褐色』で、『淡黄色の縞模様が入』り、『腹面の体色は淡褐色』である。『口角が切れあがっており、堅い獲物を噛み砕くことに特殊化し』、『後方の歯が球状』を呈する。『幼体は体色が黄色で、黒い縞模様が入』り、『成長に伴い色彩は黒ずむ』。『流れの緩やかな河川や湖沼、池などに』棲み、『冬季になると複雑な横穴の中で』六~七ヶ月間冬眠する。『食性は動物食で、主に貝類を食べるが』、『魚類、鳥類なども』採餌する。『繁殖形態は卵生。枯草を集めた塚状の巣に』十~四十個の卵を産み、約七十日で孵化する。「淮南子」『を始め人間には無害とされることが多く、人間を襲った確実な記録はない』。『食用や薬用とされることもあ』り、その鰐皮は『利用されることもあるが、皮下に皮骨が発達しているため加工が難しく価値は高くない』とある。『紀元前には太鼓の皮に利用されたこともあり、雅楽の鼉太鼓も本種の皮が用いられていた』『ことが由来とする説もある』。『貝類を求めて水田に侵入して稲を倒したり、灌漑用のダムを破壊する害獣とみなされることもあ』ったが、現在は『開発や農薬による生息地の破壊、食用の狩猟、害獣としての駆除、日本住血吸虫駆除対策における食物である貝類の減少などにより生息数が激減』、『安徽省宣城の施設などにおいて飼育下繁殖が行われ』、『蕪湖などに保護区が指定されている』。一九六〇年代から二百頭の野生個体を基に飼育下繁殖が進められ、一九九一年までに四千頭以上の『飼育下繁殖に成功して』かなり古いが、一九六五年現在の生息数は五十頭と推定されている、とある。この数が増えていないとすればこれはもう絶滅種である。陳は同族のお蔭で長生きしたが、今や、彼らは絶滅しかけているとは、如何にも皮肉な現実ではあるまいか?]
二 男のような女のこと。白居易の詩に、色為天下艶、童女中郎、とある。ここでは、女武者、と訳しておく。
三 楡莢は丸く平たくて銭のようだから、これを楡銭というのである。
四 古今芸術図に、鞦韆はもと山戎の戯れであったが、斉桓の北伐から、この戯がはじめて中国に伝わった。唐以来宮中で多くこれを用いるということが出ている。夢華録みると、鞦韆を蹴って架と同じ高さになったとき、宙がえって水にはいるの水鞦韆というそうだ。また鞦韆は、千秋を偽伝したのだという説もある。
五 王蕋は茶蘼のような蔓で、冬はかれ夏は茂り、柘様の葉、紫色の茎で、ふるくなれば株が合して樹となるのである。花苞は初めのうちははなはだ小さく、月を経てだんだん大きくなり、春の末八方に出る。冰糸のような鬚の上に金粟を綴り、花心に胆瓶に類した碧筒状のものがあって、その中からまた花が出、鬚の上で十あまりとなって開く。まったく玉をきざんだようであるところから、玉蕋と名づけたのだ、と群芳譜にある。上郡の安業坊に、古くから玉蕋花があった。ある日のこと、繡した緑の着ものを着、二つの鬟をたかだかと結った女が、花のもとに立ちよった。異香がぶんぷんする。花を見ていた人たちは、たぶん宮中から来た女だろうと思って近よらずにいると、女は、やや、しばらく立っていたが、やがて侍者に言いつけ、いく本か花を取らせて出ていった。みんながながめた時には、すで箪すでに半空でったので、神仙が遊び来たことが、やっとわかった。その余香は月を経ても、なくならなかった、ということが劇談録に出ている。
[やぶちゃん注:ここも例外的に注する。この「王蕋」自体は不詳であるが、「茶蘼のような蔓」というのがヒントにはある。この「茶蘼」とはネット検索によって、中国原産のバラ科キイチゴ属トキンイバラ Rubus rosifolius var. coronaries の仲間であることが解った。トキンイバラは平凡社の「世界大百科事典」によれば、中国南部では常緑樹(本邦では落葉小低木)で、高さは一メートル内外、茎は直立または斜上し、緑紫色で稜が縦に走り角ばる。枝はまばらで殆ど無毛、扁平な棘を散生する。地下茎で増える。葉は互生し、奇数羽状複葉で小葉は三~五枚、小葉は長楕円形で長さ三~六センチメートル、幅は一~三センチメートルで縁には重鋸歯がある、とある。同種の近縁種か。]
六 瓊英は瓊花のこと。珍しい植物で、昔、揚州の后土祠に、ただ一株あった。唐人が植えたのだという。葉は柔平で瑩沢があり、花は大きくて弁が厚く、色が淡黄で、清いかおりがつねならずたかい。仁宗の禁苑に移したが、あくる年枯れたので揚州にもどしたら、また生きかえったけれども、元の至治ちゅうついに枯死した。いま江西贛南道署にこの花があって、非常に珍重されているということだ。
[やぶちゃん注:これも例外的に注する。weblio 辞書の植物図鑑の「けいか(瓊花)」によれば、半常緑低木のスイカズラ科ガマズミ属 Viburnummacrocephalum f. keteleeri で、『中国の江蘇省、揚州市が原産です。隋から唐の時代、「瓊花(チウンホア)」は「玉蘂」とも呼ばれ、その芳香のある黄白色の花が愛でられたといいます。ただ不稔であったために、「聚八仙」という台木に接ぎ木して増やしていたそうですが、やがて元軍の進入とともに絶え、その後は残った台木の「聚八仙」が「瓊花」と呼ばれるようになったといいます。わが国では、鑑真和上の縁で揚州市・大明寺から贈られたものが奈良県の唐招提寺や飛鳥寺などに植栽されています。「ムーシュウチュウ(木綉球)」の近縁種で、高さは4メートルほどになり、葉は卵形から楕円形の革質で、縁には細かい鋸歯があります。4月から5月ごろ、白色の両性花とまわりに8個の真っ白な装飾花を咲かせます。別名で「ハッセンカ(八仙花)」とも呼ばれます』とある。]
七 擬半仙とは、ぶらんこのこと。半仙戯ともいう。
八 南史に、東昏侯が金で蓮花を作り、それを地上に匿いて潘妃にその上を歩かせ、これが歩々蓮花を生ずだといった、ということが出ている。
九 月の中にある宮殿を広寒宮というのである。
一〇 凌波は、曹植の洛神賦に、凌波微歩、羅襪生塵、とある。それから女の歩みを凌波というようになった。
一一 魏豹が謀反したとき、漢王が酈王に向かい、緩頼頰往きて豹に説き、よくこれを降伏させたなら、汝を万戸侯に封じてやろうと言った、ということが史記に出ている。婉曲にたとえを引いて相手の心をひるがえすことである。
一二 傖は、鄙賤なもの。いなか者といった場合にも用いる。呉人は、中州人を傖と称したという。
一三 洶々は、水の声または衆人の騒がしい声である。
一四 恍は、怳に通ず。失意喜ばざることだが、ここでは、恍惚の意味である。
一五 刀圭は万寸匕の十分の一である。
[やぶちゃん注:特に注するが、注自体の意味が不詳である。「刀圭」は「とうけい」で薬を調合する匙を意味するから、それの上位単位が「万寸匕」(音なら「まんすんひ」)らしいが、実定量が不明である。識者の御教授を乞う。]
一六 真の知己という意味。春秋戦国の管仲が、われを生むものは父母、われを識るものは鮑叔と言ったのは、有名な故事である。
一七 宋の大中祥符七年に解州の塩池、いわゆる河東塩は、この塩池の所産なのであるが、その塩池の水が減少して塩の収入が少なくなったという届けがあったので、皇帝は視察の者を派遣された。すると、その者は帰ってきて、城隍神と自称する老人に会いましたら、塩池の害は蚩尤のなすところだと申しておりました、と奏上した。で、帝は近臣の呂夷簡を解池にやって祭りをさせると、その夜の夢に蚩尤があらわれ、上帝は自分にこの塩地の主宰を命ぜられているのだ、しかるに天子が、自分の讐敵である軒轅の祠を池畔にたてたから、塩池の水をからすのだといった。その事をまた奏上すると、侍臣の王欽若が、蚩尤は邪神であります、信州竜虎山の張天師はよく鬼神を使役すると申しますから、師に命じて、蚩尤を平定させては、いかがでしょう、と申しあげた。で、天師を召しておたずねになった。天師は死後神となった忠烈の士のなかでも、蜀将関某は忠勇を兼備し、いま※門の玉泉に廟食していますから、これにお金じになったらよいでしょう、とお答えした。天子は、それに従われた。まもなく鎧をき、剣を佩いた美髯の人が、空からおりてきた。天師は勅命を伝えた。関公は、臣岳瀆の陰兵を会して蚩尤を掃蕩致しましょう、と答えて消えてしまった。ある日、解池の上に黒雲が舞いさがり、風雨雷電にわかに起こって、空中に剣戟鉄馬の音がしていたが、やがて雲がおさまり晴天となってから、見にゆくと、池水がまた、もとのように満々とたえられていた、ということが、関帝録古記に出ている。
[やぶちゃん字注:「※」=「荊」の(くさかんむり)が(へん)の上にのみ被る字体。]
一八 美しくいろどった屋形船のようなもの。
一九 冠をかぶらずに捲髪のままでいること。
二〇 鷁は水鳥。水神をおそれさせる目的で、船首に描く。普書王濬伝に、濬大舟を造り、鷁鳥怪獣を船首に措き、もって江神をおそれしむ、とある。
二一 昔、貧書生が、醋を馬に駄してアルバイトをやっていた。それから、醋を醋大と変えて書生の称呼にした。窮措大はすなわち貧書生のことである。
二二 肉は肉声、竹は笛声である。普書孟嘉伝に「恒温嘉に謂(い)っていわく、妓を聴くに糸は竹にしかず、竹は肉にしかざるは何ぞや、嘉いわく、漸く近し、これをしてしからしむ」とある。
[やぶちゃん字注:「謂(い)って」は本文のママでルビではない。]
二三 緑珠は、姓を梁といい、白州博白県双角山下に生まれたが、艶に美しかったので、晋の石崇が交趾探訪使となったとき、三斛の緑殊にかえて妾にした。のち孫秀が緑珠をくれといったけれど、あたえなかったため、秀は詔を矯(た)めて崇を捕えた。で、録珠は楼上から飛び降りて死んでしまった。
[やぶちゃん字注:「矯(た)めて」は本文のママでルビではない。なお、これはみことのりを捻じ曲げるの意で、詔勅を故意に曲解させてという意、恐らくは捏造したというのであろう。]
[やぶちゃん附注:各話の最後に附された天馬氏の注は底本では二字下げでポイント落ち、各項の二行目以降は前より一字下げである。]

■原文

  西湖主

陳生弼教、字明允、燕人也。家貧、從副將軍賈綰作記室。泊舟洞庭。適豬婆龍浮水面、賈射之中背。有魚啣龍尾不去、並獲之。鎖置桅間、奄存氣息。而龍吻張翕、似求援拯。生惻然心動、請於賈而釋之。攜有金創藥、戲敷患處、縱之水中、浮沉逾刻而沒。
後年餘、生北歸、復經洞庭、大風覆舟。幸扳一竹簏、漂泊終夜、絓木而止。援岸方升、有浮尸繼至、則其僮僕。力引出之、已就斃矣。
慘怛無聊、坐對憩息。但見小山聳翠、細柳搖靑、行人絕少、無可問途。
自遲明以及辰後、悵悵靡之。忽僮僕肢體微動、喜而捫之。無何、嘔水數斗、醒然頓蘇。
相與曝衣石上、近午始燥可著。而枵腸轆轆、飢不可堪。於是越山疾行、冀有村落。
纔至半山、聞鳴鏑聲。方疑聽所、有二女郎乘駿馬來、騁如撒菽。各以紅綃抹額、髻插雉尾。著小袖紫衣、腰束綠錦。一挾彈、一臂靑鞲。
度過嶺頭、則數十騎獵於榛莽、並皆姝麗、裝束若一。生不敢前。有男子步馳,似是馭卒、因就問之。答曰、
「此西湖主獵首山也。」
生述所來、且告之餒。馭卒解裹糧授之。囑云、
「宜即遠避、犯駕當死。」
生懼、疾趨下山。茂林中隱有殿閣、謂是蘭若。近臨之、粉垣圍沓、溪水橫流。朱門半啟、石橋通焉。攀扉一望、則臺榭環雲、擬於上苑、又疑是貴家園亭。
逡巡而入、橫藤礙路、香花撲人。過數折曲欄、又是別一院宇、垂楊數十株、高拂朱簷。山鳥一鳴、則花片齊飛。深苑微風、則榆錢自落。怡目快心、殆非人世。穿過小亭、有鞦韆一架、上與雲齊。而罥索沉沉、杳無人蹟。因疑地近閨閣、恇怯未敢深入。俄聞馬騰於門、似有女子笑語。生與僮潛伏叢花中。未幾、笑聲漸近。聞一女子曰、
「今日獵興不佳、獲禽絶少。」
又一女曰、
「非是公主射得雁落、幾空勞僕馬也。」
無何、紅裝數輩、擁一女郎至亭上坐。禿袖戎裝、年可十四五。鬟多斂霧、腰細驚風、玉蕊瓊英未足方喩。
諸女子獻茗熏香、燦如堆錦。移時、女起、歷階而下。一女曰、
「公主鞍馬勞頓、尚能鞦韆否。」
公主笑諾。遂有駕肩者、捉臂者、褰裙者、持履者、挽扶而上。
公主舒皓腕、躡利屣、輕如飛燕、蹴入雲霄。已而扶下。群曰、
「公主真仙人也。」
嘻笑而去。
生睨良久、神志飛揚。迨人聲既寂、出詣鞦韆下、徘徊凝想。見籬下有紅巾、知爲群美所遺、喜内袖中。登其亭、見案上設有文具、遂題巾曰、

  雅戲何人擬半仙
  分明瓊女散金蓮
  廣寒隊裏應相妒
  信凌波上便九天

題已、吟誦而出。復尋故徑、則重門扃錮矣。踟躕罔計、返而樓閣亭臺、涉歷幾盡。一女掩入、驚問、
「何得來此。」
生揖之曰、
「失路之人、幸能垂救。」
女問、
「拾得紅巾否。」
生曰、
「有之。然已玷染、如何。」
因出之。女大驚曰、
「汝死無所矣。此公主所常御、塗鴉若此、何能爲地、」
生失色、哀求脱免。女曰、
「竊窺宮儀、罪已不赦。念汝儒冠蘊藉、欲以私意相全。今孽乃自作、將何爲計。」
遂皇皇持巾去。生心悸肌慄、恨無翅翎、惟延頸俟死。
迂久、女復來、潛賀曰、
「子有生望矣。公主看巾三四遍、囅然無怒容、或當放君去。宜姑耐守、勿得攀樹鑽垣、發覺不宥矣。」
日已投暮、凶祥不能自必。而餓燄中燒、憂煎欲死。
無何、女子挑燈至。一婢提壺榼、出酒食餉生。生急問消息。女云、
「適我乘間言、『園中秀才、可恕則放之。不然、餓且死。』公主沉思云、『深夜教渠何之。』遂命餽君食。此非惡耗也。」
生徊徨終夜、危不自安。辰刻向盡、女子又餉之。生哀求緩頰。女曰、
「公主不言殺、亦不言放。我輩下人、何敢屑屑瀆告。」
既而斜日西轉、眺望方殷、女子坌息急奔而入、曰、
「殆矣。多言者洩其事於王妃。妃展巾抵地、大罵狂傖、禍不遠矣。」
生大驚、面如灰土、長跽請教。忽聞人語紛挐、女搖手避去。數人持索、洶洶入戸。内一婢熟視曰、
「將謂何人、陳郎耶。」
遂止持索者、曰、
「且勿且勿、待白王妃來。」
返身急去。少間來、曰、
「王妃請陳郎入。」
生戰惕從之。經數十門戸、至一宮殿、碧箔銀鉤。即有美姬揭簾、唱、
「陳郎至。」
上一麗者、袍服炫冶。生伏地稽首、曰、
「萬里孤臣、幸恕生命。」
妃急起、自曳之曰、
「我非君子、無以有今日。婢輩無知、致迕佳客、罪何可贖。」
即設華筵、酌以鏤杯。生茫然不解其故。妃曰、
「再造之恩、恨無所報。息女蒙題巾之愛、當是天緣、今夕即遣奉侍。」
生意出非望、神惝恍而無著。
日方暮、一婢前曰、
「公主已嚴妝訖。」
遂引生就帳。忽而笙管敖曹。階上悉踐花罽。門堂藩溷、處處皆籠燭。數十妖姬、扶公主交拜。麝蘭之氣、充溢殿庭。
既而相將入幃、兩相傾愛。生曰、
「羈旅之臣、生平不省拜侍。點污芳巾、得免斧鑕、幸矣。反賜姻好、實非所望。」
公主曰、
「妾母、湖君妃子、乃揚江王女。舊歳歸寧、偶游湖上、爲流矢所中。蒙君脱免、又賜刀圭之藥、一門戴佩、常不去心。郎勿以非類見疑。妾從龍君得長生訣、願與郎共之。」
生乃悟爲神人。因問、
「婢子何以相識?」
曰、
「爾日洞庭舟上、曾有小魚啣尾、即此婢也。」
又問、
「既不見誅、何遲遲不賜縱脱。」
笑曰、
「實憐君才、但不自主。顛倒終夜、他人不及知也。」
生歎曰、
「卿、我鮑叔也。餽食者誰。」
曰、
「阿念、亦妾腹心。」
生曰、
「何以報德。」
笑曰、
「侍君有日、徐圖塞責未晚耳。」
問、
「大王何在。」
曰、
「從關聖征蚩尤未歸。」
居數日、生慮家中無耗、懸念綦切、乃先以平安書遣僕歸。
家中聞洞庭舟覆、妻子縗絰已年餘矣。僕歸、始知不死。而音問梗塞、終恐漂泊難返。又半載、生忽至、裘馬甚都、囊中寶玉充盈。由此富有巨萬、聲色豪奢、世家所不能及。七八年間、生子五人。日日宴集賓客、宮室飲饌之奉、窮極豐盛。或問所遇、言之無少諱。
有童稚之交梁子俊者、宦游南服十餘年。歸過洞庭、見一畫舫、雕檻朱窗、笙歌幽細、緩蕩煙波。時有美人推窗凭眺。梁目注舫中、見一少年丈夫、科頭疊股其上。傍有二八姝麗、挼莎交摩。念必楚襄貴官、而騶從殊少。凝眸審諦、則陳明允也。不覺憑欄酣叫。生聞呼罷棹、出臨鷁首、邀梁過舟。見殘肴滿案、酒霧猶濃。生立命撤去。頃之、美婢三五、進酒烹茗、山海珍錯、目所未睹。梁驚曰、
「十年不見、何富貴一至於此。」
笑曰、
「君小覷窮措大不能發跡耶。」
問、
「適共飲何人。」
曰、
「山荊耳。」
梁又異之。問、
「攜家何往。」
答、
「將西渡。」
梁欲再詰、生遽命歌以侑酒。一言甫畢、旱雷聒耳、肉竹嘈雜、不復可聞言笑。梁見佳麗滿前、乘醉大言曰、
「明允公、能令我真箇銷魂否。」
生笑云、
「足下醉矣。然有一美妾之貲、可贈故人。」
遂命侍兒進明珠一顆、曰、
「綠珠不難購、明我非吝惜。」
乃趣別曰、
「小事忙迫、不及與故人久聚。」
送梁歸舟、開纜逕去。梁歸、探諸其家、則生方與客飲、益疑。因問、
「昨在洞庭、何歸之速。」
答曰、
「無之。」
梁乃追述所見、一座盡駭。生笑曰、
「君誤矣、僕豈有分身術耶。」
眾異之、而究莫解其故。後八十一歳而終。迨殯、訝其棺輕。開之、則空棺耳。

異史氏曰、「竹簏不沉、紅巾題句、此其中具有鬼神。而要皆惻隱之一念所通也。迨宮室妻妾、一身而兩享其奉、即又不可解矣。昔有願嬌妻美妾、貴子賢孫、而兼長生不死者、僅得其半耳。豈仙人中亦有汾陽、季倫耶。」

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