日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 1 函館到着
第十二章 北方の島 蝦夷
一八七八年七月十三日
今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。大学が私に渡した費用からして、私は高嶺及びフェントン両氏から、ある程度の助力を受けることが出来た。海はことのほか静穏であって、航海は愉快なものである可きだったが、この汽船は、前航海、船一杯に魚と魚の肥料とを積んでいたので、その悪臭たるや、実にどうも堪えきれぬ程であった。船中何一つ悪臭のしみ込まぬものはなく、舳のとっぱしにいて、初て悪臭から逃れることが出来た。この臭気が軽い船暈(ふなよい)で余程強められたのだから、航海はたしかに有難からぬものになった。
[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、これは大学の夏期休暇を利用したモースの専門たる腕足類の採取・研究とともに、東京大学動物学教室用の標本採取を主たる目的とするものであった。一行はここではモースを含めて七名のように書かれているが、実際には文中で「助力を受けることが出来た」とするモースの動物学教室の助教であった高嶺秀夫と予備門の英語教師でアマチュア昆虫採集家であったモンタギュー・アーサー・フェントン、さらに医学部製薬学教授ジョージ・マーチンも同船(微妙に同行とはしていない)していることが矢田部良吉の「北海道旅行日誌」によって判明している。従って実際の北海道行のメンバーはモース、植物学教授矢田部良吉、東大動物学研究室助手で大森貝塚発掘にも参加した種田織三、教育博物館動物掛であった波江元吉、教え子で愛弟子の佐々木忠二郎(実はモースは彼の同輩で前に記した最愛の弟子であった松浦佐用彦も連れて行くつもりであった。しかし哀しいかな、この八日前に彼は亡くなってしまったのである)、小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎(この人は本書では「トミ」「矢田部氏の園丁」「矢田部氏の「助手兼従者」などと記される人物出身地も生年も不詳であるが、磯野先生は『姓から考えて東京巣鴨の植木職人の出ではないか』と述べておられる)、これも前に出た動物学研究室雑用係職員(職名は雇)であった菊池松太郎(本書では「小使」「従者」「マツ」と出る)に加えて、高嶺秀夫、フェントン、ジョージ・マーチン、更に磯野先生の調査によれば、この時、フェントンにはやはりモースの教え子で本作の訳者石川欣一氏の父君石川千代松が同行していたとあるから、少なくともこの九重丸にあっては総勢十一名を数える集団であったということになる。
「今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には矢田部良吉の「北海道旅行日誌」に基づく再構成日録が載り、向後はこれに基づいて注する(日記本文の引用では恣意的に正字化した。以下、これらの注記は略す)。そこには七月十三日午後『七時三菱汽船九重丸ニテ横濱出港』とある。]
図―339
土曜日の夕方、出帆した時には、晴天だった。日曜日も朝の中は晴れていたが、午後になると我々は濃霧に取りかこまれて了い、汽笛が短い間をおいて鳴った。月曜日には晴れ、我々は日本の北方の海岸をよく見ることが出来た。八マイルから十マイル離れた所を航行していながらも、地形の外面は、はっきりと識別することが出来た。このあたり非常な山国で、高い峰々が雲の中に頭をつき入れている。これ等の火山山脈――蝦夷から日本の南部に至る迄の山脈は、すべて火山性らしい――の、奔放且つ嵯峨(さが)たる輪郭の外形を、一つ一つ浮き上らせる雲の効果は素晴しかった。海岸に沿うた場所は、著しい台地であることを示していた。高さは海面から四、五百フィート、所々河によって切り込まれている(図339)。
[やぶちゃん注:「八マイルから十マイル」一二・九~一六・一キロメートル。
「四、五百フィート」一二二~一五二メートル。
「所々河によって切り込まれている」図から推測するに、これは東北太平洋岸のリアス式海岸ではなかろうか。]
火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた私は、丸窓から外面を見て、我々が函館に近いことを知った。町の直後にある、高い峰が聳えている。船外の空気は涼しくて気持がよい。我我は東京から六百マイルも北へ来ているので、気温も違うのである。領事ハリス氏の切なる希望によって、私は彼と朝飯を共にすることにし、投錨した汽船の周囲に集って来た小舟の中から、一艘を選んで出かけた。この小舟は、伐木業者の平底船に似ていて、岸へ向って漕ぎ出すと、恐ろしく揺れるのであった。三日間、殆ど何物も口にしていない後なので、この朝飯前の奇妙な無茶揺りは、どう考えても、いい気持とはいえなかった。然し太陽が登り、町の背後の山々を照らすと共に、私も追々元気になって行ったが、それでも港内の船を批評的に見た私は、どっちかというと、失望を感じたことをいわねばならぬ。何故ならば、ここに沢山集った大形の、不細工な和船の中で、曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである。私がやろうとする仕事に興味を持ち出したハリス氏も、同様に途方に暮れたが、或は碇泊中の少数の外国船から、漕舟を一艘やとうことが、出来るかも知れないといった。
[やぶちゃん注:矢田部の七月十五日の日記には『昨日兩度イルカノ群ヲ見タリ』とありる。モース先生は強烈な魚臭さから、眼前の揺れる波間のイルカよりも、早く上陸したいという切望から遙かに離れたどっしりとした海岸線の景観を見やることで不快感を紛らしていたのかも知れない。
「火曜日の朝四時頃、汽罐をとめる号鐘の音を、うれしく聞いた」矢田部日記の十六日に、『朝五時函館港ニ着ス』とある。
「六百マイル」九六五・六キロメートル。東京―函館間は直線距離では六七四キロメートル弱であるが、東京からの直行海路を試算すると、凡そ一〇〇〇キロメートルになるので、これは恐らく海路上の概算計測したもの(若しくは船員の謂い)と私は思っている。
「領事ハリス」アメリカのメソジスト監督教会宣教師で当時は函館におり、また、アメリカ合衆国領事をも兼ねていたメリマン・コルバート・ハリス(Merriman Colbert Harris 一八四六年~ 一九二一年)のこと。自らアメリカ生まれの日本人であると称したほどに日本を愛し、明治期の日本人クリスチャンに大きな影響を与えた人物で、内村鑑三・新渡戸稲造らに洗礼を授け、松岡洋右を信仰に導いた宣教師としても知られる。オハイオ州出身で、南北戦争では北軍に従軍、戦後、アレガニー大学を卒業、結婚して、明治六(一八七三)年にはメソジスト教会宣教師として妻とともに来日、翌年には函館に赴いて、キリスト教を伝道する傍ら、アメリカ合衆国領事をも兼務した。明治一〇(一八七七)年四月にウィリアム・スミス・クラークがハリスに札幌農学校一期生の信仰的指導を仰いで以来、先に掲げた人物ら多くの後の文化人らに洗礼を授けている。明治一五(一八八二)年に夫人の病気治療のために日本を離れ、太平洋ハワイ方面の宣教師として働いた後、明治三七(一九〇四)年に日本及び朝鮮の宣教監督に推挙されて再び来日、そのまま永住、日本で亡くなった。墓は青山墓地にある(以上はウィキの「メリマン・ハリス」に拠った)。
「曳網の目的に使用し得るようなものは、唯の一つも無かったからである」モースは江の島に引き続き、シャミセンガイを始めとする北方系沿岸性底生生物の、本格的なドレッジによる調査を企図していたことがこれで分かる。]
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