日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 5 北海道駒ヶ岳/水夫たちとその舟唄
図―342[やぶちゃん注:上図。]
図―343[やぶちゃん注:下図。]
翌日は強風で、岸には大きな波が打ちよせた。私は、これは色々な物が打ち上げられたに違いないと思った。そこで一行勢ぞろいをして、大きに期待しながら出かけたが、このような場合によくある如く、殆ど何も打ち寄せられていなかった。私は漁夫の残物堆から、面白い貝を若干ひろった。漁夫の家は、低くて、厚く屋根を葺いた奇妙な形をしていて、その各々が、屢々えらい勢で吹く風の力をそぐ為の、竹を編んだ垣根でかこまれている(図312)。同じ様に風の暴力にさらされる、ノース・カロライナ州ビューフォートの漁夫の小屋は、函館の小屋に似ている。私の家の外廊からは港がよく見え、二十五マイル向こうにはコモガタケと呼ばれる火山が聳えているが、そのとがった峰は、周囲の優しい斜面と顕著な対照をしている。この火山は、今は休息していて、峰にかかる白い雲のような、静かな煙を出している丈だが、三十年前爆発した時には、火山岩燼や石を入江に投げ込んだ(図343)。
[やぶちゃん注:「翌日」明治一一(一八七八)年七月十七日。矢田部日記には『午前試驗室ニ至リ……明朝探底(ドレヂ)ノ用意ヲ爲セリ』(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から正字化して示した。『……』は磯野先生の省略か原本のママかは不詳)とあるから、この昨日完成したラボラトリーに行く前の早朝にビーチ・コーミングに出掛けたものと思われる。
「残物堆」原文は“the refuse piles”。廃物・滓・芥の山。
「面白い貝」データ記載がないのがすこぶる残念。
「竹を編んだ垣根でかこまれている」「函館の古写真10景」というページの上から三枚目(明治九(一八七六)年・背景は函館山)の手前にある建物の周囲にモースのスケッチによく似た垣根が見られる。
「ノース・カロライナ州ビューフォート」ノースカロライナ州南部の東海岸の広大な砂嘴が形成されたところにあるビューフォート。現在はウォーター・フロントのリゾートとして知られているようである。「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所」の冒頭で、『私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。私はフンディの入江、セント・ローレンス湾、ノース・カロライナのブォーフォート等へ同じ目的で行ったが、それ等のいずれに於ても、只一つの「種」しか見出されなかった。』と出る(表記はママ)。
「コモガタケ」原文“Komgatake”。底本では直下に石川氏の『〔駒ヶ岳〕』という割注がある。北海道森町(ちょう)・鹿部(しかべ)町・七飯(ななえ)町に跨る標高千百三十一メートルの成層活火山北海道駒ヶ岳。剣が峰と砂原岳からなる双耳峰で私の好きな山容である。
「二十五マイル」四〇・二キロメートル。ちょっと長過ぎる。現在の地図で函館から山頂直線で三十二・九キロメートル、これでは内浦(噴火)湾に突き抜けてしまう。これは寧ろ、当時のモースが所持していた北海道地図が不正確であったことを示すものであろう。
「三十年前爆発した時」「三十年前」は不審。ウィキの「北海道駒ヶ岳」によれば、この明治一一(一八七八)年から二十二年前の安政三(一八五六)年九月二十五日午前九時頃に大噴火し、新たな火口(安政火口)が形成されたとあり、その際の死者は約十九~二十七名。噴出物量は約〇・三平方キロメートルとある(それ以前だと百八十四年も前の元禄七(一六九四)年の大噴火になってしまう。なお、現在見るような双耳峰と馬蹄形カルデラはその当時から二百三十八年前に遡る寛永一七(一六四〇)年に起きた噴火及びそれに先駆けて発生した大規模な山体崩壊によって形成されたもので、その後も何度か噴火を繰り返しているが、モースが見た山容は距離から見ても現在のそれと大きくは変わらないものと思われる。
「火山岩燼」原文“cinders”。「かざんがんじん」と読む。「燼」は燃え残り、燃えさしのこと。“cinder”は地質学用語で火山から噴出した噴石の意。
「入江」北側の内浦(噴火)湾。]
港内をあちらこちらと漕ぐ水夫達は、南の方の水船を漕ぐ水夫達のそれとは全然違う、一種奇妙な歌を歌う。それは音楽的で、耳につきやすい。
図―344
水未達は堂々たる筋骨たくましい者共で、下帯以外には何物も身につけず、朽葉林檎みたいに褐色である。船を漕ぐのに、彼等は橈(かい)を引かず、押すのであるから、従って舳(へさき)の方を向いている。橈の柄の末端には、木の横木がついている。彼等は一対ずつをなして漕ぎ、漕刑罪人を連想させる。橈座は単に舷に下った繩の環で、この中に橈を通す。写生図(図344)は、米を積んだ舟である。舟によっては、片舷に六、七人漕手がいるのもあり、これ等の人々が口々に歌う奇妙な船唄が、水面を越して来るのを聞くと、非常に気持がよい【*】。
※ 日本の極南方、鹿児島湾で、私は水夫達が同じ歌を歌うのを聞いた。その後米国へ帰った時、霹国の芸人団がセーラムを訪問し、「ヴォルガ水夫の歌」と呼ばれる歌を歌ったが、これが非常に強く、函館の歌を思わせた。かかる曲節は、容易に北露からカムチャッカへひろがり、千島群島を経て蝦夷へ入り得るであろう。
[やぶちゃん注:このシークエンス、モースは日本のヨイトマケの唄等を今まで奇妙で非音楽的と表現してきたことを考えると、重ねて表現しているこの記憶に残る舟唄は極めて例外的にモースの耳に心地良かったことを示唆している。所謂、ソーラン節や江差追分(若しくはその系統の舟唄)の類であろうと思われる。但し、この注にあるようなロシアの舟歌を起源とするというのは如何なものか? 因みに、ウィキの「ソーラン節」では起源を青森県野辺地町周辺の「荷揚げ木遣り唄」から変化したとし、原曲は江戸中期の流行り歌説を挙げ、『当時の御船歌と呼ばれる儀礼の歌や小禾集という俗謡集に"沖のかごめに"と言う一節に酷似した歌詞があり、その流行歌がやん衆』(春の漁期に合わせて東北や北海道各地から西海岸の漁場へ集まって来た出稼ぎ漁師のこと)『とともに、北海道にわたったという』とある。また、ウィキの「江差追分」(コンマを読点に変えた)には、『渡島半島の日本海沿岸に位置する桧山郡江差町が発祥の地で』、『江戸時代中期以降に発生したとされている。信濃の追分節に起源があるとするのが定説のようである』とし、その経緯は『信濃国追分宿の馬子唄が、北前船の船頭たちによって伝わったものと、越後松坂くずしが謙良節』(けんりょうぶし:越後の民謡「松坂」が変化したもので、新潟県新発田市出身の検校松波謙良が作ったとされる。越後の瞽女や座頭・船人たちが「松坂」を各地へ持ち回ったために、日本海側の各県で唄われている。秋田・青森・北海道の一部では、検校が「松坂」を唄ったために「検校節」と呼ばれる。「検校節」の名が、なまって「けんりょう節」になり、松波謙良の名と結び付いて「謙良節」となった。以上は暁洲舎「日本の民謡 曲目解説」に拠った)『として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは、寛永年間、南部国の出身で、謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。その後,歌い継がれる間に幾多の変遷を経て,浜小屋節や新地節など多くの流派が発生』したとある。モース先生、ロシア起源というのはちょっと戴けませんね。
「橈」原文は“oar”。ウィキの「櫂」には『英語では、ボートなどで使用する船べりに支点を持つものを"oar"(オール)と呼び、カヌーなどに用いる船べりに支点を持たないものを"paddle"(パドル)と言って区別するように、日本語でも、それぞれを「櫂」(かい)と「橈」(かい)と書いて区別することがある』とある。この場合、舷側に固定されて下がった繩を支点とするから、立派なオール「櫂」の類いと言い得るであろう。
「朽葉林檎」原文“russet apples”。朽葉色のリンゴ、表面にサビの入ったリンゴのこと。説明するよりグーグル画像検索「russet apples」を見た方が早い。]