柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 天馬氏の序言及び例言
[やぶちゃん注:以下、底本角川文庫版の第一巻冒頭から電子化を行う。以下の柴田天馬氏の「序言」及び「例言」については、ルビは( )で読みを示し、傍点「・」は太字とした。ここのみ、一部の語について当該段落末に私の語注を附した。]
序言
聊斎志異は、聊斎によって志(誌)るされた怪異譚であります。何度読みかえして飽かず、おもしろいので、中国では広く愛読され、訳者が見ただけでも、木版、鉛版、石版等十数種の刊本があります。志異註の著者呂叔清は、聊斎志異を読んで寝食を志るるに至った、と言い、「臣に聊斎志の癖有り」という遊印をほらせておしまくったほどで、それから聊斎癖ということばが生まれたのであります。しかし志異の愛読者は、中国だけに限られてはいません。選訳ではありますが、英訳され、独訳され、露訳され、邦訳されて、西と東へ延びていきました。ケンブリジ大学の教授ジャィルス博士は、志異のおもしろさを、アラビヤン・ナイトに比し、志異の文章を、カーライルだけが並行しうるとさえ言っています。教授もまた聊斎癖の一人でありましょう。
聊斎志異はその名のように怪異譚ではありますが、濃艶嬌痴(きょうち)の情話が多く、読んでいるうちに、神女、仙女、鬼女、狐女等が、いつか愛すべく親しむべきこの世の佳人のように思われてくるのであります。しかも、神韻縹渺(ひょうびょう)として、濃艶をいっそう濃艶に、嬌痴をいっそう嬌痴ならしめているのは、まったく著者の大才と妙筆によるのであります。
[やぶちゃん注:「濃艶嬌痴」「濃艶」は艶(あで)やかで美しいこと。非常に艶(つや)っぽく美しいことで、「嬌痴」は「おぼこ」の意で、体つきは大人びているものの、未だ色恋を解しないことを指す。]
志異は全十六巻で、中、小編小説と小話との四百四十五編をおさめ、上は王侯から下はこじきにおよぶまで社会各階級の人物を網羅して、老若、男女、貧富、賢愚、善悪、美醜等が、残るところなく全巻ちゅうにに描写されております。だから志異を注意して読めば、一部の中国風俗絵巻を繰りのべるように、明末清初の風俗習慣が手に取るごとくわかるのであります。明末清初は中国文明の復興期で、その文明を骨格として、今日の中国文化は肉づけられているのでありますから、中国を知るうえにも、好資料なのでありましょう。
志異をひもとく者は、だれでも、これほど多くの不思議なことを、どうして集めたのたろうと疑いますが、著者の自誌に「人の鬼を談ずるを喜び、聞けば、すなわち筆に命じ、ついにもって編をなす。これを久しゅうして、四方の同人、また郵筒をもって相寄す」とあるので見ると、著者が、人から聞いて書いたものと、諸方の学者たちが提供してくれた材料を書きなおしたものとを合わせて、四百余編の怪奇談を集めえたことが、うかがわれるのであります。材料収集の苦心談として、次のようなことも言い伝えられています。聊斎は家の前に腰かけをすえて、笊(ざる)に入れたたばこをそなえ、旅行者を見ると呼び止めて、奇怪な話をさせた、というのです。これは、聊斎の自誌にある「人の鬼を談ずるを喜び」云々から生まれ出た想像説だ、と一笑に付する人もありますが、一笑に付すること自体も、また想像にすぎません。
郵筒をもって材料を提供した四方の同人は、大部分が秀才だったろうと思われます。というのは、志異ちゅうの主人公に秀才が多いからであります。
志異の最初の出版者である趙荷村大守の例言ちゅうに「この編の初稿は鬼狐伝と名づけられた。ところが鬼と狐は、先生の才筆で世間に紹介されるのを恐れ、先生が挙人の試験を受けに試験場にはいると、先生を取り巻いてじゃまをした。で、帰ってから、鬼、狐以外の条項を加えて、志異と名づけた」という一節があります。聊斎は、その試験で落第したので、そんな伝説が生じたのでありましょうが、中国第一の怪奇譚聊斎志異の著者にまつわる伝説としては、興味深いものがあります。
志異に対して、そのころの学者から寄せられた題詩のなかで、一代の碩学(せきがく)王漁洋の七絶は絶唱と言われていますが、それは「姑(しば)らく妄(みだ)りに之(これ)を聴く、豆棚瓜架雨糸のごとし、料(はか)るに応(まさ)さに人間の語を作(な)すを厭(いと)いて、秋墳鬼唱の詩を愛聴するなるべし」というのであります。前記のように、聊斎は志異の著に没頭したために挙人の試験に及第することができませんでした。しかし、それは応試の文章が悪いのではなく、試験官が不正であるか不明であるからだと思って、不平にたえなかったようです。それで自然、人間というものをあさましく感じ、秋墳鬼唱の詩を聴くことを喜ぶようになったのだろうと、王漁洋は推測したわけなのです。志異に、目まぐるしいくらい多くの典故があるのも、落第した自外の学識を世に示して、鼎(かなえ)の軽重を問わんとしたのだ、と評する人があるのも、やはり同じような推測から生まれた強い同情なのでしょう。しかし、あまりに典故が多いので、志異は難読の書だといわれていましたが、呂叔清が三年の歳月をついやして「聊斎志異註」を著わし、のち、本文の末尾に注釈を加えたものが出版されるようになって、志異の読者は、にわかに増加したのであります。
[やぶちゃん注:「豆棚瓜架」は「とうほううか」と読み、豆や糸瓜(へちま)を支える柱や棚のこと。]
本巻には、典故を、そのまま用いなければ意味の通じないものだけに注釈を加え、意訳しうる典故は、ただちにこれを意訳してしまいました。読者の煩を避けたいと思ったからです。
著者蒲松齢(ほしょうれい)は、山東省淄川(しせん)の人で字(あざな)を留仙、号を柳泉といい、聊斎は、その斎号であります。明朝の崇禎十三年(西暦一六四〇年)の生まれで、清朝の順治十五年(西暦一六五八年)十九歳で博士弟子員となり、康熙二十四年(西暦一六八五年)四十六歳で廩膳生に補せられ、翌々年考試を受けて落第しました。康熙五十年(西暦一七一一年)七十二歳で貢生に補せられ、同五十四年(西暦一七一五年)七十六歳で卒しました。聊斎の死年には、七十六歳説(胡適その他)と八十六歳説(魯迅その他)とありましたが、胡適博士が、人をやって聊斎の碑文を石摺(いしず)りにさせて考証したので、七十六歳の正しいことが決定したのであります。
[やぶちゃん注:「博士弟子員」現在の通常の大学の学生に相当する資格と思われる。
「廩膳生」「りんぜんせい」と読む。現在の大学に於ける給費生・奨学生に相当する。明の太祖の時(一三六九年)に府州県に学校を設けたが、その学生を「生員」と呼び、その生員を廩膳生・増広生・附生の三種に分け、トップ・クラスの廩膳生には毎月米六斗が支給された、と「廣漢和辭典」にある。
「考試」科挙考試。科挙試のこと。
「貢生」ウィキの「貢生」によれば、『明清両代に生員(秀才)の優秀な者で、国子監で学ぶことを許可された者を指す。明代には歳貢・選貢・恩貢・細貢があり、清代では恩貢・抜貢・副貢・歳貢・優貢・例貢があった』。毎年或いは三年ごとに『各府学・州学・県学の中から生員を選抜して国子監に送った。これを歳貢と称したため、選抜された生員は貢生または歳貢生と呼ばれた。恩貢は皇帝の即位やその他の慶事があったときに「恩詔の年」として歳貢の枠外で行われた選抜である。抜貢は朝廷が特に優秀な生員を国子監に選抜する制度で』、六年目ごとに行われていた。『副貢とは副榜(郷試の補欠合格者)の中から選ばれた者を指す。例貢は金銭で貢生の資格を取得することである』。『貢生のほかにも国子監には監生がいた。監生は試験によって国子監に入った者ではなく、多くは高官の子弟または功臣の子弟であった』とある。]
聊斎が何歳で志異を書きはじめたかは明らかでありませんが、二十歳台であったろうと思われます。そして死ぬまで書き続けたもののようです。
訳者
例言
[やぶちゃん注:以下、底本では各条の二行目以降は一字下げである。]
一 本書各編の順序は、広く行なわれている趙本(聊斎志異最初の刊行書)の順序とは同じでない。趙本の例言ちゅうに「原本は、およそ十六巻であるが、初めは、ただ、そのもっとも雅なるものを選みあつめて十二巻としたけれども、刊すでに竣(おわ)って、ふたたびその余を見ると、愛すべくして捨てることができぬから、ついにこれを続刊した」とある。十二巻までは、わが中編小説・短編小説くらいのものであるが、十三巻以後になると単章隻句に類するものが多く、読む者に竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の感を起こさしめる憾みがあるから、本書では十三巻以後の各条を、十二巻以前の各条ちゅうに插入あんばいし、大珠小珠玉盤に落つるの観をなさしめんと欲した。したがって全面的に順序を変更するにも至ったのである。ただし趙本の順序を変更したものは、ひとり本書のみではなく、白話聊斎志異、原本聊斎志異その他、指を屈して一掌にあまるほどである。
[やぶちゃん注:「大珠小珠玉盤に落つる」白居易の「琵琶行」の「大珠小珠落玉盤」の一節。琵琶の音(ね)は大小沢山の真珠が大きな皿の上に散り落つる時の音のようであるの意。]
一 同題異事のものは、〇〇第二則、〇〇第三則として、これを一題下に続記するのが、趙本の編例であるのに、同本第十三巻に雹神の一編があって、第十六巻にも雹神があり、第十四巻に義犬の一題があって、第十六巻にも義犬があり、十巻、十三巻に三生があり、十三巻、十五巻に宅妖があるのは、まったく校讎(こうしゅう)が疎漏と見るべきだ。ただし、原本任和余集の題詞ちゅう、今刻前十二巻は皆そ(趙荷村)の手定で、後四巻は、すなわち、これを付与する者だ、とあるから、校讎の疎漏の責は、趙太守に帰すべきでない。
[やぶちゃん注:「校讎」校合(きようごう)に同じい。文章や字句を比較照合して誤りを正すこと。校讐。校正。
「手定」てずから、自分で定めること。]
一志異各編ちゅう、異史氏いわくとして、著者の短評を項末に付したものがあるが、多くは旧儒的訓戒にすぎず、読後の興味をそぐものが少なくないから、一括これを割愛した。
[やぶちゃん注:既に電子化した「酒虫」のように例外的に訳してあるものもある。]
一 原本には、まま魯魚(ろぎょ)のあやまりがあって、従容(しょうよう)としてはいる、客に従ってはいる、のごとく、判別に苦しむものが少なくない。たいがいは訂正したつもりであるが、もし、あやまりがあったら、高教を賜わりたい。
[やぶちゃん注:「魯魚のあやまり」「魯」と「魚」の字は字体が似ていて誤りやすいところから、間違え易い文字。また、文字の誤り。「魯魚亥豕(ろぎょがいし)」「烏焉馬(うえんば)の誤り」などともいう。]
一 本書は原文を増減せぬようにと心がけ、訳語は、なるべく漢音を避け、通俗平易な和訓をもってしたが、あまり露骨に訳しえぬような章句には、とくに模糊(もこ)たらしめたところもある。
一 本書は、送り仮名の慣例に従わず、一字であるべき送り仮名を、二字にした場合もあるし、句読もなくてよいところに、施した場合があり、長い傍訓を用うれば句詞のととのうところを、短い傍訓でがまんした場合もある。これらは、組み版にさいし、傍訓と傍訓の接触を避けるためで、まことにやむを得なかったのである。
一 本書の注釈は、半ばを呂湛恩の聊斎志異註に取り、半ばは訳者の注釈である。
[やぶちゃん注:以下に底本では目次と明末清初中国地図が入る。なお、底本では天馬氏の訳文に勝るとも劣らぬ味のある井上洋介氏の挿絵が挿入されているが、井上氏の著作権は存続しているので省略した。是非、底本を購われて味わって戴きたい。]