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2014/06/30

日向のスケツチ   山之口貘

 日向のスケツチ

 

ひろびろとした天上の海はゆれうごき

大氣の潮流に仄白い帆舟がうかび

ふくらむ地皮の中からぽぷらあの木は伸び出て

すくすくとのびいで

淡い蔭の煽動するあたりに嬌者が跳ね囘り

べらべらと蝶のやうに跳ねまはり

この娘達の舌端はまひるの蓄音機ではないか

香り高い線香の白煙のやうな空氣が、

ぽかぽかと膨張する日向の風景で

私は新しい感情のチユーブを絞り

めろめろとしぼり

處女の氣分で胸のパレツトをうちひらき

さうしてかろやかな明るい淡彩の繪をかかげよう。

 

[やぶちゃん注::初出は大正一四(一九二五)年八月発行の『抒情詩』。ペン・ネームは「山之口貘」。前の「夜は妊娠である」と「晝はからつぽである」と「莨 ―ニヒリストへの贈物―」と本詩の四篇が掲載された。本詩の創作年代及び諸事情は夜は妊娠である」の私の注を参照されたい。]

莨 ―ニヒリストへの贈物―   山之口貘

 莨 ―ニヒリストへの贈物―

 

諦らむるものの吐息はけぶるのである

深い深い地の底に吸はれてけぶるのである

 

うちつづくこの怪しげな平面に直角で

高い高い 昇天の涯で

ああ 疲れた生命のまうへ

死んだ月の輪にけぶるのである

 

 

うちふるふ希望の觸手の末梢はしびれ

得體の知れない運命にすつかり瘦せてしまうて

とほくとほく眞空をめざしてけぶるもの

それは火葬場を訪ねる賓客(まらうど)の莨です。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一四(一九二五)年八月発行の『抒情詩』。ペン・ネームは「山之口貘」。前の「夜は妊娠である」と「晝はからつぽである」と本詩と以下に掲げる「日向のスケツチ」の四篇が掲載された。本詩の創作年代及び諸事情は夜は妊娠である」の私の注を参照されたい。]

晝はからつぽである   山之口貘

 晝はからつぽである

 

私は干潟に死んだ黄ろい貝殼箱である

 

枯れた五つの官能を日向に投げだして

停電する六感は 無を示して

しろい半日の

空間は大きな空つぽの紙箱である。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一四(一九二五)年八月発行の『抒情詩』。ペン・ネームは「山之口貘」。前の「夜は妊娠である」と本詩と以下に掲げる「莨 ―ニヒリストへの贈物―」「日向のスケツチ」の四篇が掲載された。本詩の創作年代及び諸事情は「夜は妊娠である」の私の注を参照されたい。]

夜は妊娠である   山之口貘

 夜は妊娠である

 

さても

さてもこの夜天に燦燦と燃え昇るもの

無數の希望の纖纖と伸びる

暗い靈感をめざしてのび■もの

 

おう このはげしい電流の淫蕩に

夜の空間はうるはしい妊娠である。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一四(一九二五)年八月発行の『抒情詩』。「■」は底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」本文では「る」に推定されてある。ペン・ネームは「山之口貘」となっている。バクさんが「貘」を名乗った現存する最古の発表詩群がこれ(以下参照)、ということになろう。

 この詩は「ぼくの半生記」(一九五八年十一月から十二月にかけての『沖繩タイムス』への二十回連載)の以下の記載によって、創作は大正一二(一九二三)年中、九月一日の関東大震災に遭遇する前後(起筆はすべて震災前であろう)、被災者恩典で沖繩に帰京する直前に同誌の懸賞募集に投稿した四篇(本詩と以下に掲げる「晝はからつぽである」「莨 ―ニヒリストへの贈物―」「日向のスケツチ」)の内の一篇であることが分かる。以下に当該部分を引用する(底本は一九七六年刊の思潮社版旧全集「山之口貘全集 第三巻 随筆」)。

   《引用開始》

 話は、前後するが、震災でぼくが帰郷する直前であったが、東京で「じょ情詩」という詩専門の雑誌にぼくは投稿したことがある。

 内藤振策、赤松月船、松本順三、伊福部隆輝、佐藤惣之助、金子光晴、井上康文といった顔ぶれが執筆していた。その雑誌が、詩の懸賞募集をやったことがある。当選者の詩集を出版してやるというのが、その懸賞の条件になっていたので、応募してみようとの気持がおこった。でも応募するくらいなら、当選するものを書かなくては、なるまいとおもい、ぼくはまず選者の顔ぶれをよく吟味した。七、八人の選者の中から自分の好きな選者を指定してよいとのことだったので、ぼくは佐藤惣之助氏を選んだ。佐藤氏の詩がいちばんいいとおもったからではなく、佐藤氏がみとめてくれそうな詩を、ぼくが書けるとおもったからなのである。

 震災の罹災民としてぼくが沖縄にかえるとき、当選を確信しつつ、富士見町のポストにその詩稿を投函した。「日向のスケッチ」「昼は空っぽである」「夜は妊娠である」という三篇の詩である。それが発表されたのはぼくが沖縄に帰ってからのことであった。自分としては、佐藤惣之助ばりの詩を書いたつもりだったが、当選ではなく、佳作とされて発表されていた。なんでもそのときの応募作には賞に価いする優秀作がなかったということだったらしい。

 あとでぼくが詩集を発行するときに、これらの詩は自分の詩集に入れなかった。

 つまりは、詩作の動機に先に述べた意味の不純があったと考えたからなのである。

 ぼくが懸賞に応募したのは、これが初めでもあれは、終りでもある。

   《引用終了》

「じょ情詩」はママ。『「日向のスケッチ」「昼は空っぽである」「夜は妊娠である」という三篇の詩』とあるが、実際には先に示した四篇である(その辺りの事実はこれらの詩を新たに掘り起こしてくれた思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の松下博文氏の解題をお読み頂きたい)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 5 札幌にて(Ⅰ) 札幌農学校のこと / 羆のこと【注は凄惨な内容を持つので注意!】

M371
図―371

 札幌の町道は広くて、各々直角に交っている。全体の感じが我国の西部諸州に於る、新しい、然し景気のいい村である。政府の役人が住んでいる西洋館もいくつかあるが、他の家はみな純粋の日本建である。ブルックス教授は心地よく私を迎え、そして汗をふき、身なりをととのえ終った私を連れて、学校と農場とへ行った。学校は我国の田舎の大学と同じ外見を持っていた。設計にも、建築にも、趣味というものがすこしも見えぬ、ありふれた建物である。一つの部屋には、小樽の貝塚で集めた、器具や破片の、興味の深い蒐集があった。私は咽喉から手が出る位、それ等がほしかった。装飾のある特徴は、大森の陶器を思わせたが、形は全く違っていた(図371)。棚の上の、これ等並に他の品々(主として鉱物)を見た後、私は農場に連れて行かれたが、そこにはマサチューセッツ州のアマスト農科大学のそれに似せて建てた、大きな農業用納屋があった。昨年私はある機会から、この模範納屋の絵のある同大学の報告を見た。我々とは非常に異る要求を持つ日本人ためめに、このような建造物を建てることは、余りにも莫迦(ばか)らしく思われた。然しこの地方を馬で乗り廻し、気候のことをよく知って見ると、私には我々が考えているような農業を、我々の方法で行うことが可能あることと、従って我々が使用する道具ばかりでなく、我々のと同じ種類の納屋も必要であることが理解出来た。納屋の内には、何トンという乾草があった。我々は円屋根に登って周囲の素晴らしい景色を眺め、下りる時には、梁木から遙か下の乾草の上へ、飛び降りたりした。これ等の事柄のすべてに牛の臭が加って、私を懐郷病(ホームシック)にして了った。ブルックス教授の家では、新鮮な牛乳を一クォート御馳走になった。私自身が蝦夷の中心地におり、且つこの場所は僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していたということは、容易に考えられなかった。この附近にまだ熊がいることは、去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺されたという、ブルックス教授の話が証明している。日本人が、単に農業大学を思いついたばかりでなく、マサチューセッツの農科大学から、耕作部を設立する目的で、一人の男を招いたことは、大いに賞讃すべきである。札幌は速に生長しつつある都邑である。ラーガア麦酒(ビール)の醸造場が一つあって、すぐ使用する為の、最上の麦酒を瓶詰にしている。このことは、瓶に入った麦酒一ダースを贈られた時に聞いた。

[やぶちゃん注:「マサチューセッツ州のアマスト農科大学」ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark 一八二六年~一八八六年)はマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)学長であったが、教え子の新島襄の紹介によって日本政府の熱烈な要請を受けて一年間の休暇を利用して訪日するという形で明治九(一八七六)年七月に札幌農学校教頭に赴任していた。クラークの立場は教頭で名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語では“President”と表記することが開拓使によって許可され、実質的には殆んどクラークが校内の全てを取り仕切っていたとウィキの「ウィリアム・スミス・クラーク」にある。ここでモースが描写しているのは札幌農学校第二農場にモースの肝入りで建築された牧牛舎のことと思われる。ウィキの「札幌農学校第2農場」によれば、『クラークは、実践を中心とした農業教育を提唱し、当時は「札幌官園」という名で機能していた土地一帯を「農黌園(のうこうえん)」として移管、実践農場としての利用が開始された。この農黌園という名称は「College Farm」の日本語にしたものである。園内は2つの区域に分けられ、学生の農業教育の研究を対象とした「第1農場」が現在の北海道大学南門周辺に、そして畜産の経営を実践する農場としての役割を担った「第2農場」が現在の大型計算機センターと環境研が位置する場所一帯に建設された』。『この第2農場では、それまで日本人になじみの無かった酪農・畜産経営を実践できる実習施設として機能し、外国種の家畜・牧草や畜力農機具、さらにはマサチューセッツ州立農科大学にならって産室・追込所・耕馬舎を建設した。この建造物はクラークにより「Model Barn」と記載され、日本語でも「札幌農学校模範家畜房」と名づけられた。この名称はクラークの北海道農業の模範となるようにとの願いが込められたもので、建物群が象徴的であることもあり、後になって第2農場の建物群そのものを指すようになった』。『モデルバーンは1877年秋に完成。北海道大学内の記念建造物の中では最も古く、バルーンフレーム構造やツーバイフォー方式の工法を用いて造られた洋風の農業建築は国内においても珍しいものである。そのほかにも、W・ブルックスが設計にあたったとされる「第2農場玉蜀黍庫(穀物庫)」も1877年に建築され、こちらは「Corn Barn(コーンバーン)」と呼ばれた』とある。クラークは翌年の明治一〇(一八七七)年五月に離日したが、その後の『1889年には日本で最初と推定されている乳牛ホルスタイン種が導入されるなど、農場は北海道における畜産や酪農が普及する中心となり、日本へ畜産を導入した施設としては成田の御料牧場における技術導入と並ぶ国内畜産の発祥の地とも言われている』とある。モースが珍しくノスタルジア(「懐郷病(ホームシック)」。原文“homesick”)に襲われたのはまさにこのモデル・バーンであったと思われる。リンク先では建設当初の姿に復元された北海道大学構内にあるその牧牛舎の画像も見られる。今度、是非一度、訪ねてみたい。

「一クォート」底本では直下に石川氏の『〔六合余〕』という割注が入る。米クォート(1 quart 0.946 ml)では現在、九四六・四ミリリットル相当。一合は約一八〇ミリリットルであるから、「六合余」は一〇八〇ミリリットル強となってしまう。石川氏は英クォート(1 quart 1137 ml)で換算しているように思われる。

「僅か八年前までは実に荒蕪の地で只猛悪な熊だけが出没していた」この時点から八年前というと明治三(一八七〇)年であるが、この数字が意味する起点はよく分からない。北海道の開拓使の設置はその前年の明治二年七月八日であるから、その辺りを漠然と言ったものか。

「去年四人の男を順々に喰った(その一人を喰うためには家をこわした)という、猛々しい奴が、一匹殺された」ここでモースは「去年」と述べているが、これは恐らく獣害(じゅうがい)事件として記録されたものとしては日本史上三番目に大きな被害を出した「札幌丘珠(おかだま)事件」の名で知られるヒグマの襲撃による死傷事件のことであろう。これはモースが来た半年前の明治一一(一八七八)年一月十一日から同十八日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で発生した。以下、ウィキの「札幌丘珠事件から引く(【注意!】かなり凄惨な記述が現れるので自己責任でお読みになられたい)。『現在の札幌市は人口200万人弱と東北以北最大の都市であるが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり。市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8000人に満たなかった』。「第一の事件」の項。『1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見する。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡する。理不尽な形で冬眠を覚まされたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏で鹿児島県人の森長保が指揮を執る駆除隊が編成された』。『同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現:札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現:豊平区月寒)、白石村(現:札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現:札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった』「第二の事件」の項。『犠牲になった堺一家の家屋は、俗に「拝み小屋」と呼ばれる形式の簡素な小屋だった札幌区の北西部・丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)。アイヌ語の「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)を地名語源とする』『この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、やはり当時は古木が延々と連なる森林地帯であった。その中に細々と拝み小屋』『を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治6年ころこの地に入植した堺倉吉も、そのような開拓民の一人であった。妻・リツと周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった』『17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒する。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまう。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつも村民に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇女は重傷を負った』。『18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された』。『加害ヒグマはオスの成獣で、体長は』一・九メートルという恐るべき巨体で、『警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された』とある。以下、その解剖に立ち会った札幌農学校第一期生大島正健の叙述が回顧録『クラーク先生とその弟子たち』(教文館一九八九年刊)から引用されているが、その際、二三の学生たちは、これ幸いとクマ肉をこっそり切開して事前に食っていた。その後に解剖が進み、『内臓切開に取り掛かったが、元気のよい学生の一人が、いやにふくらんでいる大きな胃袋を力まかせに切り開いたら、ドロドロと流れ出した内容物、赤子の頭巾がある手がある。女房の引きむしられた髪の毛がある。悪臭芬々目を覆う惨状に、学生はワーッと叫んで飛びのいた。そして、土気色になった熊肉党は脱兎のごとく屋外に飛び出し、口に指を差し込み、目を白黒させてこわごわ味わった熊の肉を吐き出した』という強烈なシーンが描かれている。また、この時の『解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている』ともある。

「ラーガア麦酒(ビール)」底本では直下に石川氏の『〔貯蔵用ビール〕』という割注が入る。ラガー(Lager)は原料に麦芽を使用し、酵母を用いて十度以下の低温で熟成させながら比較的長時間の発酵を行わせたビールで、酵母が最終的に下層に沈み込むために下面発酵と呼ばれる。現在、広義にはそれを瓶や缶に詰めた後に加熱殺菌した貯蔵用(向け)ビールのことをいう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 4 小樽から札幌へ モース先生、馬に乗る / 銭函の集落

 数マイル行った所で、私は初めて馬に乗った。私は馬に乗りつけているような様子をして乗ったが、まことに男性的な、凛然たる気持がした。馬がのろのろしていて、余程烈しく追い立てぬ以上、走らずに歩き続けたことは事実であるが、それにも拘らず私は指揮官になったような気がして、あだかも世界を測量する遠征隊を率いているかの如く感じた。馬の運動に馴れるには、しばらく時間を要したが、間もなく万事容易になり、かなりな心配を以て馬を注視したことによって、私はある程度の平安さを以て景色を注視することが出来た。路の両側にはいたる所、大きな葉の海藻が日に乾してあった。十マイルにわたって路はデコボコな小径で、而もある個所は非常に嶮しかった。切り立った崖に沿うて行く時には、書物に所謂「一歩をあやまれば」、私は千切の深さに墜落していたことであろうが、馬の方でそんな真似をしない。もっとも鞍の上でグラグラするので、私はいささか神経質になっていた。やがて平坦な路へ来たので、私は大胆にも馬に向ってそれとなく早く行くことを奨めて見た。だが私は、即刻それを後悔した。実に苦痛に満ちた震揺を受けたからである。四本の脚の一本一本の足踏が、私を空中に衝き上げ、その度に十数回の弾反(はねかえり)が伴った。私は早速馬を引きとめた。だが札幌へ着く迄に、私は馬の強直な跳反(はずみ)に調子を合わせて身体を動かすコツを覚え込んだので、非常に身体が痛くはあったが、それでも、どうやらこうやら、緩い速度で走らせることが出来た。

[やぶちゃん注:先に記したように驚くべきことにモース(一八三八年生まれ。本邦は天保九年)は四十歳になるこの歳まで(モースの誕生日は北海道旅行の一月前の六月十八日)馬に乗ったことがなかったのである。

「数マイル」一マイルは一・六〇九キロメートル。モースの乗馬は先に記した矢田部日誌により石狩湾の最南奥の銭函(ぜにばこ)であったことが分かっている。小樽から東南へ約十五キロメートルで、確かに一〇マイルには足らない。恐るべき正確な表現と言える。

「大きな葉の海藻」昆布。]

M370

図―370

 我々が最初に休んだのは、ねむそうな家が何軒か集って、ゲニバクの寒村をなしている所であった(図370)。我々が立寄った旅籠(はたご)屋には、昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいるのを見ると、蝦夷島を横断した大名の行列が思い出された。今やこの家は滅亡に近く米は粗悪で、私は私の「化学試験所」に、何物まれ味のある物を送るのに困難した。村を離れると路は広くなり、海岸から遠ざかった。今や暑熱は堪え難くなり、我国にいるものよりも遙かに大きい馬蠅が、何百となく雲集して来た。刺されると非常に痛いと聞いていた私は、彼等に対して恐怖の念を抱いた。一生懸命に蠅をよけたり蹴ったりしようとする馬は、立て続けにつまずいて、私を頭ごしに投げ出しかけたりした。時々馬は頭を後に振って、鼻で私の脚をひどく打った。私は真直に坐り、そして馬も真直にしていることが、非常に六角敷(むつかし)いことを知った。

[やぶちゃん注:「ゲニバク」底本では直下に石川氏による『〔銭函〕』という割注が入る。原文は“Genibaku”。は現在の北海道小樽市最東端に位置している銭函(ぜにばこ)地区。ウィキ銭函によれば、ここは『アイヌが住む時代から鮭漁の場所として栄え、その後ニシン漁で栄えた時代には各家庭に銭箱があったという伝説が残り、それが今の銭函の地名に由来しているといわれている。北海道開拓の父、島義勇が札幌に開拓府を建設するにあたり、交通、交易の要所として仮本府を置いた場所でもあり、その後も明治14年の鉄道開通の時も小樽と共に開駅した歴史のある場所である』とある。この開拓府仮本府の廃止(明治三(一八七〇)年四月)後の一時的な寂れがモースの描写の「昔の活動と重要さとのしるしが残っていた。誰も人の入っていない部屋が、長々と並んでいる」に現われているように思われる。現在は『札幌市のベッドタウン化しつつあり、特に3丁目は同市手稲区星置の市街に隣接しているため、人口は増加傾向にある。また、準工業地帯として軽工業的な工場が立ち並び銭函工業団地を形成している。一方、漁師町の流れをくむ1丁目及び2丁目地域では、昔ながらの商店やもちろん現役の漁師が住む歴史ある街として現存している』とある。モース先生、風評被害で訴えられますぜ。

「蝦夷島を横断した大名の行列」原文は“the daimyo processions that used to pass across the island”。小樽は河口に松前藩がオタルナイ場所(この「場所」とは江戸時代の蝦夷地(北海道・樺太・千島列島)で松前氏が敷いた藩制の一つで松前氏家臣が現地蝦夷(アイヌ)と交易を行う知行地のことをいう。ここはウィキの「場所」に拠った)を開いてはいるが、藩主が蝦夷縦断したとは思われないから、これは松前藩の蝦夷探訪のための一隊か、若しくは明治になってからの開拓使以下の入植開拓団の誤認ではなかろうか?

「化学試験所」彼の胃。モースの好きな比喩。

「大きい馬蠅」原文は“a huge horsefly”。この英語は一般には双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目Brachycera に属するミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorphaのアブ類でもアブ下目アブ科 Tabanidae のウシアブ Tabanus trigonus・アカウシアブ Tabanus chrysurus (特に後者はまさしく大型でしかもオレンジがかった縞模様がスズメバチによく似ていて――恐らく捕食者への擬態である――私が最も恐怖するアブである)及び狭義のハエ類に属しながら吸血する短角亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ Stomoxys calcitrans などが候補となる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 3 小樽から札幌へ 張碓カムイコタン

M369_2

図―369

 はるか遠くには、函館へ帰って行く我々の乗船が見えた。美事な懸崖もいくつか過ぎたが、その一つには端の広い分派瀑がかかっていた。私は日本へ来てから、いまだかつてこれ程画家の為の題材の多い場所を見たことがない。鉛筆や絵筆を使用したい絶景が、実に多かった。図369はそれ等の景色の一つで、場所はカマコタンと呼ばれ、長い、鸞曲した浜を前に、高さ八百フィートの玄武岩の崖が聾えている。所々で、これ等の崖は、最も歪められた石理(いしめ)を見せていた。玄武岩の結晶が完全なのである。非常な量で流れ出した熔岩が、冷却するに従って、次から次と、火のような流れが結晶したのである。石理は写生すべく余りに複雑であった。

[やぶちゃん注:「端の広い分派瀑」原文は“a broad cascade”。幅広く階段状に連続する滝。

「カマコタン」底本では直下に石川氏の『〔神威古潭〕』の割注が入る。原文は“Kamakotan”。ウィキ「「カムイコタンによれば、『アイヌ語の地名で、カムイ(神)+コタン(村、居住地)すなわち「神の住む場所」を意味する。北海道および周辺島嶼で見られ、神居古潭(古丹)・神威古潭などと漢字表記される』。『地形の面や神聖な場所であるとして、人が近寄りがたい場所にしばしばこの名が付けられる』とある。このカムイコタンは現在の小樽市張碓(はりうす)町朝里付近の石狩湾沿いにあるもの。C62星人氏のブログ「楽しい旅は手作りの企画で」の神恵内旅と小樽、海を眺めながら散策(張碓編1)の下から三番目の『朝里海岸から見ると、岬の突端は「カムイコタン」の場所』というキャプションのある写真の先端部が緑で覆われているものの、形状が崖の形状がモースのスケッチとよく一致する。

「八百フィート」二四三・八メートル。国土地理院の地図で見ると、この位置の附近の尾根上の高度表示に二五四メートルとある(その尾根は更に南に登って五〇〇・八メートルの石倉山に延びている)。]

2014/06/29

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 32 平泉 光堂での棄てられた一句 螢火の晝は消えつゝ柱かな

本日二〇一四年六月二十九日(陰暦では二〇一四年六月三日)

   元禄二年五月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十九日

である。【その三】実は光堂で創られていながら、恐らく最も知られていない芭蕉の句が次の句である。

 

螢火(ほたるび)の晝は消えつゝ柱かな

 

[やぶちゃん注:曾良本「おくのほそ道」で、先の「五月雨や年々降(ふる)も五百たび」の次に書かれて、見セ消チとなっている句である。この「晝は消えつゝ」の語自体は百人一首で知られる大中臣能宣朝臣の、

 御垣守衞士のたく火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ

に基づくが、山本健吉氏の「芭蕉全句」の評釈によれば、この眼目は霜雪に朽ちた金の『柱に昼の蛍を見たのは、芭蕉の幻であろう』『芭蕉の詩心は』実際には頽廃を食い止めた鞘堂を想像の中で『取り払』い、イメージされた『廃屋の中の、七宝の散り失せ』てしまった『朽ちた柱に、一匹の昼の蛍をを止まらせ』たのだとされ、昼の蛍、それは結局、清少納言の言う「冷(すさま)じきもの」に当たり、『火の消えた冷(すさま)じいさまの「昼の蛍」を取り合わせたところに、荒廃した光堂に寄せる芭蕉の感慨があった』。『同じく光堂を詠みながら、彼はその光耀と荒廃と、二様に詠み上げようとしたらしい。少なくとも「五月雨のふり残してや」』(その先行句も含めて)『だけでは、芭蕉の光堂から受けた感動は尽くされなかったのである。ただし句勢が弱いため、芭蕉はこの句を棄ててしまった』と美事に詠み解いておられる。蓋し、名評釈である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂 

本日二〇一四年六月二十九日(陰暦では二〇一四年六月三日)

   元禄二年五月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十九日

である。【その一】この日、芭蕉は平泉に到達、かのハレーションのような夢幻の名吟二句をものした。まずは「夏草や」の句。

 

  奥州高館(たかだち)にて

夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡

 

  奥州高館にて

なつ草や兵どもの夢の跡

 

[やぶちゃん注:第一句は「猿蓑」の前書で「奥の細道」の、第二句は「泊船集」の句形。

 以下「奥の細道」。

   *

三代の榮耀一睡の中にして大門の跡は

一里こなたに有秀衡か跡は田野

になりて金鷄山のみ形を殘す

先高館にのほれは北上川南部より

流るゝ大河也衣川は和泉か城を

めくりて高館の下にて大河に落入

康衡等か旧跡は衣か關を隔て

南部口を指かためゑそをふせくと

見えたり扨も義臣すくつて此城に

籠り功名一時の草村となる

國破れて山河あり城春にして

靑々たりと笠打敷て時のう

つるまてなみたを落し侍りぬ

  夏艸や兵共か夢の跡

  卯花に兼房みゆる白毛かな 曾良

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇康衡        → ●泰衡

[やぶちゃん注:誤字。]

●城春にして靑々たり → ●城春にして草靑みたり

 ここでは一つだけ注して、後は【その二】に譲りたい。

「兼房」十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)。「義経記」にのみ登場する架空の義経の家臣。ウィキの「十郎権頭兼房によれば、『源義経の北の方(正室)である久我大臣の姫の守り役で、元は久我大臣に仕えた』六十三『歳の武士。義経の都落ちに北の方と共に付き従う。平泉高舘での義経最期の場面では、北の方とその子である』五歳の若君と亀鶴御前及び生後七日であった『姫君を自害させ、義経の自害を見届けて高舘に火をかける。巻八「兼房が最期の事」では敵将長崎太郎を切り倒し、その弟次郎を小脇に抱えて炎に飛び込み壮絶な最期を遂げ』る老義臣として描かれている。彼だけでなく『義経の北の方とされる久我大臣の姫、その子亀鶴御前と生後間もない姫君』というのも『いずれも架空の人物であり、歴史上では義経とともに死んだ正室は河越重頼の娘の郷御前で、子は』四歳の女児のみであったとされるとある。]

 

 

【その二】金色堂の句。

 

五月雨(さみだれ)を降(ふり)のこしてや光堂

 

五月雨や年々(としどし)降(ふり)て五百たび

 

五月雨や年々降(ふる)も五百たび

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句と第三句は曾良本「奥の細道」の推敲過程の句形の再現。実際には第二句が最初に書かれてあって、「降て」が「降も」と改められた上、さらに第一句の句形に直されている。従って推敲過程順に並べ直して読み易く書き換えると、

 

五月雨や年々降りて五百たび

   ↓

五月雨や年々降るも五百たび

   ↓

五月雨を降りのこしてや光堂

 

となる。

 以下「奥の細道」。

   *

兼て耳驚したる二堂開帳す經堂は

三將の像を殘し光堂は三代の棺を

三尊の佛を安直す七宝散うせて

玉の扉風にやふれ金の柱霜雪に朽て

既頽廢空虛の叢となるへきを

四面新に囲て甍を覆て風雨を凌

       と

暫時千歳の記念をはなれり

  五月雨や年々降りて五百たひ

  螢火の晝は消つゝ柱かな

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇安直す       → ●安置す

[やぶちゃん注:誤字。]

●記念をはなれり   → ●記念をはなれり

[やぶちゃん注:「を」の右にミセ消チで「と」と記す。]

■やぶちゃんの呟き

 最初に。最後の「螢火の晝は消つゝ柱かな」の句は恐らく皆さんは見慣れぬ句であろう。別に【その三】として公開する。

 この日の「曾良随行日記」は以下の通り。
 

十三日 天氣明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊澤八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ關・中尊寺・(別當案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不ㇾ行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。經堂ハ別當留守にて不開。金雞山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅歸ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。 

 最早よく知られることだが、これを以って諸家は実際には見ていなかった「經堂は三將の像を殘し」の虚構の「三將の像」を致命的誤りとして論う。具体的には――「三將」は清衡・基衡・泰衡であるが、同経堂にある三体の像は獅子に乗る文殊菩薩と獅子を曳く優塡(うでん)王に善財童子であるという「事実」をである――しかし乍ら言い添えておくと実際にはそこには後(あと)まだ二体、仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)と婆藪(ばそう)仙人が安置されてあって全五体で文殊五尊像を成すのである。

 この議論はしかし、今の私にはすこぶる退屈な話としてしか聴こえぬのである――いや、かくいう私も高校教師時代、確かに鬼の首を捕ったようにこの「虚構」を解説していたのだが、今、そうした自分を実におぞましく思っているのである。

 そんなことは、この平泉の名シーンを味わうのには、全く以って不要なことだからである。況や、雨が降っていたか晴れていたかなんぞは全く問題の外である。私は高校時代にこの段を読んで以来、快晴の(前句はそこに草いきれの光景が附加される)景以外を平泉の段に想起したことは一度もない。どう転んでも、この「五月雨の句」に五月雨が降っていなければならないという必要条件はないし、そもそもが「三將」と言わずに、ここに正直に「うどん」だか「ぜんざい」だかというくだくだしい事実情報の添え物を店開きする必要も、これ、さらさらないからである(但し、正直言っておくと私はこの平泉の文殊の五尊像が個人的には頗る好きではある)。

 よろしいか?

 ここは――『芭蕉の「奥の細道」という系の中の一つの極北の金字塔としての特異点たる平泉』――なのである。

 そこは――『虚も実も総てが呑み込まれた芭蕉の創造した厳粛荘厳なる心象風景』――なのである。

 

 この「平泉の段」こそは実に――『「奥の細道」の最も優れたモンタージュが施された芭蕉遺愛のプライベート・フィルム』だったのである。]

2014/06/28

耳嚢 巻之八 租墳を披得し事

 租墳を披得し事

 

 大御番の健士(こんし)山田喜八郎は衞肅(もりよし)が歌の友にて、予が許へも來りしが、かの先租は大猷院樣御代被召出(めしいだされ)しか、又は別家なりしか、古へは谷中感應寺の旦家にてありし。彼(かの)寺不受不施宗門の事にて廢寺となり、今天台宗なり。其頃山田氏も外ヘ菩提所をかへけるが、先祖の法名等もしれず年月の忌日も不詳ゆゑ、當喜八郎色々せんさくなしけれどしれず。さるにても其法名忌日も不知(しれざる)は本意なしと、兩度感應寺に至り、其譯斷りて古墳有(あり)し所を搜しけるが、大小の古墳夥敷(おびただしく)苔にうもれて不知(しらざれ)ば、詮方なく立(たち)歸らんとして、さるにても我(わが)孝道の不屆(ふとどき)にや、兩日まで墓所をあまねくさがしけるに其志をとげず、最早此上はせん方なしと、丹誠觀念して立出んと見返りし向ふに、山といふ文字の石牌あり。心ゆかしにと立寄りて苔を落(おと)し見れば、山田某と覺えし先祖の名あり。夫(それ)より雀躍して洗(あらひ)みがきて其法名実名もしるれば、念頃に追善供養して、系譜御糺(ただし)の節も書出(かきいだ)しける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。古人の墳墓を見出し苔生すを洗い出だすというシチュエーションは七つ前の「奇成癖有人の事」と有意に連関する。

・「租墳を披得し事」右に『(尊經閣本「搜」)』と傍注。「祖墳を搜(さがし)得し事」で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版もそうなっている。それで訳した。

・「健士」はもとは平安時代に陸奥国の辺境を警備した兵士で、租税を免ぜられて食料を支給された。この当時は思うに大御番(大番。将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職)若しくはそれらの職に従事する武士ををかく呼んだものか。

・「山田喜八郎」底本の鈴木氏注に、『安通。安永五』(一七七六)『年(二十五歳)家督、三百五十石。寛政三』(一七九一)『年大番となる。根岸衛粛』(もりよし:杢之丞衛粛。鎮衛の子。)『よりは年長である』(山田安通の生年は宝暦二(一七五二)年になるから根岸より十五歳年下である。しかしこれは『衛粛よりは年長である』どころではないというのが私の印象ではある。)。『山田家は長右衛門直弘のとき家光に召出されて三百五十石を領した。その子右馬助は谷中感応寺に葬』られ、『孫直保は牛込感通寺に葬』られたとあった後は、『以後の歴代には寺名を記していない。文中、「山田某」とあるのは家譜にも直弘の子を某とし、諱名を記していない』とあるから、どうも幕府から激しい弾圧を受けた日蓮宗のファンダメンタリズムであった不受不施派から実はこの山田家は離脱していなかったのではないかという疑いを私は推測するものである。ともかくもこの『安通の努力で漸くこれだけを探り出したのであろう』というのが、鈴木氏の言いたいことであろうと私は読む。もし、間違いがあれば御指摘を乞うものである。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光。

・「感應寺」現在の東京都豊島区目白の鼠山にあった日蓮宗の寺院。通称、鼠山感応寺で正式名称は長曜山感応寺。ウィキ感応寺豊島区によれば、天保四(一八三三)年の宗門改により天台宗へ改宗した長耀山感応寺を中山法華経寺の知泉院の日啓とその娘の専行院らが林肥後守・美濃部筑前守・中野播磨守らを動かして再び日蓮宗に改宗する再興運動を起こしたが、輪王寺宮・舜仁法親王の働きにより日蓮宗への改宗は中止となって長耀山感応寺から護国山天王寺(現在の東京都台東区谷中に現存)へ改称した。ウィキ天王寺によると、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。不受不施派は江戸幕府により弾圧を受け』、日蓮宗十五世日遼の元禄一一(一六九八)年に強制的に改宗され、日蓮宗十四世日饒及び同十五世日遼はともに『八丈島に遠島となる。廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王が寺の存続を望み』、慶運大僧正を天台宗第一世『として迎え、毘沙門天像を本尊とした。慶運大僧正は、後に善光寺を中興する。当寺の改宗をもって、祖師像は瑞輪寺に引取られていった』とある。

・「心ゆかしに」原義は心惹かれる様子を言う。岩波版長谷川氏注に、『念のために。少しの疑念もなく調べおおせたと思えるように』と注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 先祖の墳墓を辛くも捜し出だしたる事

 

 大御番の健士(こんし)山田喜八郎は、私の嗣子(しし)である衞肅(もりよし)の和歌の友にして、私の元へもよく訪ねて来る御仁である。

 彼の先租は――大猷院家光公の御代に召し出だされたか、又は、別に相応の家格を持ったる別家であったかは定かではないが――ともかくも古えは谷中の感応寺の檀家であった。

 ところがこの寺は件(くだん)の不受不施宗門の咎めによって廃寺となり、今は天台宗の天王寺となって御座る。

 今は、この山田氏も他ヘ菩提所を変えて御座ったものの、先祖の法名等も分からず、逝去その他の詳しい過去帳の年月の忌日も、これ、不詳で御座ったゆえ、当喜八郎も、いろいろと詮索致いてみはしたものの、一向に御先祖の詳しい事蹟は、これ、知れなんだと申す。

 それにしても、先祖の法名や忌日も不明と申すは、これ、あまりに孝を失して本意なきことと、何度も元の感応寺――現在の天王寺――を訪れては、そうした過去の事実を隠さず語って、寺の許可をも得て、古き先祖の墳墓のあった場所を捜して御座ったものの、大小の古墳、これ夥しく苔に埋もれ、全く、先祖の墳墓の在り処(か)はこれ、分からざれば、詮方なく立ち帰らんとしたと申す。

 そうして、

『……それにしても……これは……我らが孝の道の至らぬからであろうか……何日もかけて墓所をあまねく捜したるに……我らがこの志しを遂げることが出来ぬとは……これ……最早……今日限り……この上は……いかように致さんとも……詮方なきものと……申すべきか……』

と、遂に心底、観念致いて、最早、寺を立ち出でんとした……

――その時

――ふっと見返った

――その向うに

――「山」

という文字(もんじ)の石牌が
――見えた……

「……こ、こ……これは!」

――と、その墓石に走り寄り

――苔を素手で搔き落として見た

――ところが

――「山田某」

――と読める!

――これ

――まさしく先祖の名で御座った。……

……それより歓喜雀躍致いて、その古墳を洗い磨いてみたところが、その法名も実名も確かに、先祖のものと正しく合(お)うたによって、懇ろに追善供養致いて、新たに墳墓をも建て、系譜の御糺しの一節も墓に彫りあげた、ということで御座った。

橋本多佳子句集「紅絲」 麦秋

 麦秋

 

蟇いでゝ女あるじに見(まみ)えけり

 

更衣水にうつりていそぎつゝ

 

ひと聴きて吾きかざりしほとゝぎす

 

病める掌にのせて藤房余りたり

 

更衣雀の羽音あざやかに

 

虻は弧を描きをり想ひ伸びざりき

 

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき

 

ほとゝぎす新しき息継ぎにけり

 

あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ

 

麦秋や乳児(ちご)に嚙まれし乳の創

 

麦刈が立ちて遠山恋ひにけり

 

雀斑(かすも)をとめ野の麦熟れは極まりし

 

[やぶちゃん注:「かすも」雀斑(そばかす)の古語で「滓面」「飼面」の字を宛てる。]

 

麦束をよべの処女(をとめ)のごとく抱く

 

菜殻火は妻寝し方(かた)ぞ沖の漁夫

 

青蛇の巻き解けてゆく尾の先まで

 

隠るゝ如茗荷の花を土に掘る

 

とゞまれば鋤牛の身の暮るゝなり

 

青梅の犇く記憶に夫(つま)立てり

 

吾よりも薄暮の蝶のためらはず

 

朝曇る地(つち)の起伏を蝶いそぐ

 

藤房の隙間だらけに入日時

 

藤房の堪ゆるかぎりの雨ふくむ

 

百合折らむにはあまりに夜の迫りをり

 

何うつさむとするや碧眼万緑に

 

黴の中一間青蚊帳ともりけり

 

濡れ髪を蚊帳くゞるとき低くする

 

  杉田久女句集出版ときゝて嬉しさに堪へず

  一句

 

松高き限りを凌霄咲きのぼる

 

[やぶちゃん注:「杉田久女句集」は昭和二七(一九五二)年十月二十日の刊行(角川書店)であるが、本句集「紅絲」はその前年の昭和二六(一九五一)年六月一日刊行(目黒書店)であるから、刊行の一年以上前に「杉田久女句集」の企画が多佳子の耳に正式に伝わる程度に本格始動していたことが分かる。因みに久女が句生前に句集を出せなかった元凶ともいうべき高浜虚子の序文は昭和二十六年六月十六日の、編者で久女の長女であられる石昌子さんの後書きである「母久女の思ひ出」は昭和二十六年九月二日のクレジットであることから考えると、六月十六日に書かれることになる「杉田久女句集」の序を、虚子が引き受けたという情報を多佳子が「紅絲」の刊行のかなり以前に、虚子か又はその周辺の人物から聴き知っていたことを意味しているのではあるまいか? でなくてはこの句をこの「紅絲」に入集することは難しいからである。何よりこの句は句集「紅絲」の丁度、中央位置に配されてあるのである。これは私はもう少し考察する価値のある事実ではないかと考えている。

 因みに今日これをブログに公開する二〇一四年六月二十八日、偶然にもこの直前にブログアップ杉田久女には、まさに、

 

 凌霄花(のうぜん)の朱に散り浮く草むらに

 

が入っていた。]

 

僧恋うて層の憎しや額の花

杉田久女句集 245  花衣 ⅩⅢ

 

紅苺垣根してより摘む子來ず

 

牡丹芥子あせ落つ瓣は地に敷けり

 

凌霄花(のうぜん)の朱に散り浮く草むらに

 

[やぶちゃん注:「凌霄花」シソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ Campsis grandiflora 。参照したウィキの「ノウゼンカズラ」によれば、「凌霄花」のほか、「紫葳」とも書く。『夏から秋にかけ橙色あるいは赤色の大きな美しい花をつける、つる性の落葉樹。気根を出して樹木や壁などの他物に付着してつるを延ばす。花冠は漏斗状。結実はまれである。中国原産で、平安時代に渡来したといわれる』。『ノウゼンというのは凌霄の字音によるといわれる。古くはノウセウカズラと読まれ、これがなまってノウゼンカズラとなった。霄は「空」「雲」の意味があり、空に向かって高く咲く花の姿を表している。夏の暑い時期は花木が少なく、枝を延ばした樹木全体に、ハッとするような鮮やかな色の花を付け、日に日に咲き変るので、よく目立つ。花の形がラッパに似ていることから英語では』“Chinese trumpet vine”『「トランペット・フラワー」、「トランペット・ヴァイン」あるいは「トランペット・クリーパー」と呼ばれる』とある(“vine”と“creeper”は孰れも蔓(つる)・蔓性植物の意)。グーグル画像検索「ノウゼンカヅラ」はこちら。]

 

流れ去る雲のゆくえや靑芭蕉

 

晴天に廣葉をあほつ芭蕉かな

 

夕顏や遂に無月の雨の音

 

かへり見ぬ葡萄の蔓も花芽ぐむ

 

霖雨や泰山木の花墮ちず

 

[やぶちゃん注:「霖雨」は音は「りんう」であるが、ここは訓じて何日も降りつづく「ながあめ」である。]

 

活け終へて百合影すめる襖かな

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(23) 酒場の一隅より(Ⅲ)

 

その朝の痛める心はらちもなく

また來よといふ人を憎みぬ

 

宵ごとの父の小言を時ありて

きかざることを悲しみとする

 

放蕩の報ひというふに餘りにも

あきらめられぬことがあるかな

 

[やぶちゃん注:「報ひ」はママ。]

 

いかでわれ罪を悔いんや悲しきは

矛盾といへる鬼のすること

 

[やぶちゃん注:「矛盾」は原本では「矛循」。誤字と断じて訂した。]

 

生じいに神のこゝろを量りたる

その天罰がわれを苦しむ

 

[やぶちゃん注:「生じい」はママ。]

 

新宿のレストラントのよごれたる

紺簾をくゞる夜のならはし

 

[やぶちゃん注:「紺簾」はママ。校訂本文は「暖簾」に訂する。恐らくはこの校訂は九分九厘正しいのであろうが、私には朔太郎の眼に「紺の暖簾」が現前としてあったのだと思われ、これを容易に誤字として訂することが出来ないのである。]

 

なんとなく若き女とつれだちて

淺草などへ行きたくなりぬ

 

一人にて梅見に行きしがそのことが

悲しくなりて逃げてかへりぬ

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(5) 承久の乱最終戦後処理【四】――土御門院、土佐次いで阿波へ遷幸す

隱岐の法皇第一の御子は、土御門院と申し奉る。去ぬる承元三年三月に、御心ならず御位を下(おろ)し奉りしかば、御恨(おんうらみ)深く、法皇には御不孝の如くにて、今度の御謀叛にも與(くみ)し給はず。關東にも兎角の沙汰には及ぼすして、都の内におはしましける所に、仰出されけるやう、一院配所にましまし、我が身都に安堵し給はば不孝の罪深かるべし。同じ遠國にこそ栖み給はめとて、九條の襌定殿下(ぜんぢやうてんが)右大將公經卿(きんつねのきやう)に仰せられしかば、この由關東へ仰遣(おほせつかは)さる。右京〔の〕大夫義時以下の人々、憐み奉りて、この上は力及ずとて、同十月十日、土佐國へと定められ、鷹司萬里小路(たかつかさまでのこうぢ)の御所より出し奉る。御供には少將定平、侍従貞元、女房三人、御道中も哀なる御事、多かりけり。須磨や明石の夜の浪、千鳥の聲も遠近(をちこち)なり。高砂、尾上(をのへ)の曉(あかつき)の夢、男鹿(をしか)の音(ね)にや醒(さま)すらん。比は神無月(かみなづき)十日の事なれば、野邊(のべ)の草叢霜枯れて、山路の梢も疎(まばら)なり。御衣(ぎよい)の袂に秋を殘して、露の滋(しげ)さぞ勝りける。讃岐の八島を御覽ずれば、安德天皇の御事を思召出され、松山を見やらせ給ふにも崇德院の御有樣思ひ續け給ふ。何事を見聞給ふにつけても今は只御身一つにつまされて、思沈(おもひしづ)み給ひけり。土佐國に著き給へども、御住居、餘(あまり)に少(ちひさ)き御事なれば、阿波國へ遷(うつ)らせ給ふ。阿波と土佐との中山にて、俄に大雪降り出て、路(みち)、雪に埋(うづも)れ、駕輿丁(かよちやう)も行きなづみければ、御輿(みこし)を搔据(かきす)ゑ奉り、如何なるべきとも覺えざりしかば、院、御涙に咽(むせ)ばせ給ひて、

  浮世にはか〻れとてこそ生れけめ理(ことわり)知らぬ我が涙かな

邊(あたり)松の枯枝、切下(きりおろ)し、御燒火(おんたきび)を奉り、供奉の人々も、是(これ)にあたりて、衞士(ゑじ)の焚く火にあらねども、折から哀(あはれ)に悲しくて、皆、涙をぞ流しける。夜も漸(やうやう)明方になりければ、雪も晴れて、空、爽(さはやか)に四方(よも)の梢も白妙なり。御迎ひの人、參り加(くはゝ)り、道、踏分けさせて、阿波國へならせ給ふとて、

  浦々に寄する白浪言問はん隱岐の事こそ聞かまほしけれ

今年、如何なる年なれば、三院、二宮(じきう)、遠島に遷され、公卿、官軍、刑戮(けいりく)に逢ひぬらん。不思議なりける運命かなと、高きも賤きも時節の變をぞ歌ひける。時房、泰時、朝時、義村、信光、長淸等は、一天の君を擒(とりこ)にし、九重の都を劈(つんざ)きて、猛威を振ひて鎌倉にぞ歸りける。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【四】――土御門院、土佐次いで阿波へ遷幸す〉

「承元三年三月」後掲するように底本とした「承久記」自身の誤り。承元四年十一月が正しい。後鳥羽天皇の第一皇子であった土御門天皇(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)の在位は建久九(一一九八)年二月から承元四(一二一〇)年十一月二十五日までであった。即位後も事実上、後鳥羽上皇による院政が敷かれていた。しかし穏和な性格が幕府との関係上心許ないと判断した後鳥羽上皇は彼に退位を迫り、この日、異母弟である順徳天皇に譲位、同年十二月五日に上皇となった(以上はウィキの「土御門天皇」に拠る)。

「九條の襌定殿下」九条道家。

「十月十日」「吾妻鏡」に拠れば閏十月十日である(後掲)。

「鷹司萬里小路」「萬里小路」は現在の京都府京都市下京区万里小路町(まりこうじちょう)に相当するが、「鷹司」を冠している理由が分からない。現在の京都市上京区鷹司町(たかつかさちょう)は「萬里小路」とは遙か離れている(因みに藤原北家で五摂家の一つとして近衛家より分立(近衛家実四男兼平を祖とする)した「孝司」家があるが、これは兼平の居処が同町にあったことに由来する。また、名家の家格を有する藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流支流(吉田資経四男資通を祖とする)の「萬里小路」家(までのこうじけ)もあるがこれも資通の居処が同町にあったことに由来する。但し、両家ともに鎌倉中期に始まるのでこの記載とは直接の関係はない)。以下に見るように元にした「承久記」にもそうあるが、京に暗い私には不審である。当時の「萬里小路」に接して「鷹司」の地名があったものか? 識者の御教授を乞うものである。

「高砂、尾上の曉の夢」「百人一首」で知られる大江匡房(まさふさ)の第七十三番歌や藤原興風の第三十四番歌に基づく。「高砂」は一般名詞では「高く積もった砂」の意で「高山」、「尾上」は「峰(を)の上(うへ)」で「山峰」であり、前者の和歌「高砂の尾(を)の上(へ)の桜咲きにけり外山(とやま)の霞たたずもあらなむ」では一般名詞乍ら、後者の「誰(たれ)をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」では具体な播磨国加古郡高砂(現在の兵庫県高砂市南部)の浜辺、その西に隣接する尾上神社(兵庫県加古川市尾上町長田字尾上林)にある松の名所「尾上の松」として歌枕となった(そこから「高砂の」は「まつ」「尾上」にかかる枕詞ともなった)。位置的には土佐遷幸の途中に当たるのでここは固有名詞と採ってよい。

「松山を見やらせ給ふにも崇德院の御有樣思ひ續け給ふ」保元の乱に敗れた崇徳天皇は讃岐国(現在の香川県坂出市)に配流されたが、最初に着いた湊が「松山の津」(現在の坂出市松山地区)であった。増淵勝一氏の訳はここを崇徳院ではなく『弟の順徳院』と訳しておられるが、不審である。

「土佐」現在の高知県西部にある幡多郡。ここまでの遷幸から都に近い阿波への遷幸(幕府の配慮に拠る)やその行在所については様々な伝承があり、ここに示されたような孝心の貴種の数奇な流離一色というわけではないように見受けられる。次の次の注のリンク先に詳しい。必見。

「阿波」現在の徳島県阿波市に御所跡があるが諸説ある。やはり次の注のリンク先に詳しい。

「阿波と土佐との中山」この「中山」は一般名詞の「国境の山中」の意であろう。T. HONJO氏のブログ「サイエンスにゆかりのある歴史散歩」の「土御門上皇(第83代天皇、歌人)の流刑(土佐、阿波)にまつわる歴史伝承、承久の乱、遠流、百種和歌、とは」によれば、このルートも確定しておらず、『伝承地の分布から、阿波の山城谷村(山城町、三好郡)を経て吉野川沿いを通ったとする説(南海道、四国山脈を横断、阿波西部の山越え後、阿波の行在所へ)、南方海岸沿いの陸路を北上してきた説(南海道、室戸の手前の奈半利から野根山を越え、土佐、阿波の海浜を経て、阿波の行在所へ)など』があるとある。

「駕輿丁」「輿舁(こしかき)」とも。奈良時代以降、朝廷に属して主として天皇や上皇などの行幸・御幸の際にその輿(こし)を担(かつ)いだり、輿の前後につけた綱を手にとったりして行歩した下級職員の呼称。

「御輿を搔据ゑ奉り」この「奉る」は、高貴な人が車・船・馬・輿などに「乗る」場合の尊敬語の敷衍的用法と思われる。御輿を路の傍らにお降(お)ろしになられ。

「浮世にはか〻れとてこそ生れけめ理知らぬ我が涙かな」――私はもともと「この世にはあってはかくあれ(この様な運命を身に引き受けよ)」と定められて生まれて来たのであろう……それが仏の説く真実(まこと)である……だからそれを当然のこととして受け止めて嘆くには及ばぬはずであるのに……その理りを弁えることもなく……徒らに流れ出ずる愚かなる我が涙であることよ――。

「衞士の焚く火」百人一首の大中臣能宣の第四十九番歌、

 御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)の焚く火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ

を受けたもの。切々たる恋情の昼夜の憂いを、荒涼凄愴たる折衷の悲慟に転じた。しかいし、やや演出が過ぎる気が私にはする。

 以下、「承久記」であるが、筆者は敗将佐々木広綱(七月二日に梟首)の四男勢多伽(せいたか)丸が広綱の弟で幕府軍の将佐々木信綱によって斬首される一部始終及びやはり敗軍の将三浦胤義(先に示した通り、七月六日太秦にて自害)の東国に残していた幼い子供達五人の凄惨な処刑場面を総てカットして、「承久記」(下)の末尾の土御門院の事蹟をここに採用している。以下、筆者が省略した部分を含め、底本通し番号104から最後の108まで総てを示す。これによって「〇北面西面の始 付 一院御謀叛の根元 竝 平九郎仙洞に參る」以降の注で、前半の一部(底本通し番号の1~10パート)を除く「承久記」の電子化をしたことになる。近い将来、省略部も含めて、一括通読版を作製する予定である。

 

カミツカタノ御事ハサテ置ヌ、下ザマニモ哀ナル事多カリケリ。佐々木山城守廣綱ガ子ニ勢多伽丸トテ、御室ノ御所ニ御最愛ノ兒有。「廣綱罪重シテ被ㇾ切ヌ。其子勢多伽サテシモウシ。定テアラケナキ武士共參テ責進ラセ候ハンズラン。サナラヌ先ニ、出サセマシマシ候ハンハ、穩便ノ樣ニ候ナン」ト人々口口ニ申ケレバ、御室、「我モサ思召」トテ、芝築地上座信俊ヲ御使ニテ、鳴瀧ナル勢多伽ガ母ヲ召テ被ㇾ仰ケルハ、「勢多伽丸七歳ヨリ召仕テ、已ニ七八歳ガ程不便ニ思召共、父廣綱ガ罪深シテ被ㇾ切ヌ。其子ニテ可ㇾ遁共不ㇾ覺。武士共參テ申サヌ先ニ被ㇾ出バヤト思召ハ如何ニ」ト被ㇾ仰ケレバ、母承リモ不ㇾ敢、袖ヲ顏ニ推當テ、涙ヲ流シ、「兎ニモ角ニモ御計ヒニコソ」ト泣居タリ。勢多伽、今年ハ十四歳、眉目心樣世ニ超タレバ、御所中ニモ雙ビ無ケリ。見人袖ヲシボリツヽ、カヤクキ著タル淺黄ノ直垂ニ、「最後ノ時ハ是ヲ著替ヨ」トテ、朽葉ノ綾ノ直垂ヲ給フ。勢多伽、切ラレン事ト聞バ、サコソ心細モ思ヒケメ、涙ノ進ケルヲモ、サル者ノ子ナレバニヤ、サリゲナクモテナシケルゾ哀ナル。日來馴遊ケル兒達、出合テ名殘ヲ惜ミ送ラントス。此程祕藏セシ手本、モテ遊ビナドクバリ與へテ、「各、思出シ給ン時ハ、念佛申訪給へ」ト云テ出ツヽ、御所中ノ上下、是ヲ見ニ目モ昏心迷ヒ、袖ヲシボラヌハ無ケリ。

●「カヤクキ」不詳。識者の御教授を乞う。

 

 大藏卿法印覺寛ヲ召テ被ㇾ仰ケルハ、「六波羅へ行テ云ン樣ハ、「山城守廣綱ガ子、七歳ヨリ被召置テ、不便ニ思召セ共、父罪深シテ被ㇾ切ヌレバ、其子難ㇾ遁ケレ共、是ガイトケナキニハ何事ヲカ仕リ可ㇾ出ナレバ、法師ニナシテ親ノ後世ヲモ弔ハセント思召セ共、定テ申ンズラント覺ル間、先出シ被ㇾ遣也。餘ニ不便ナレバ、我ニ預ナンヤ。大事有バカケヨ」ト云テ見ヨ」ト被ㇾ仰テ、又勢多伽ニ仰ケルハ、「汝、不便サ限無ケレ共、力不ㇾ及。ウラメシク思ナヨ。ナラビノ岡ヲバ死出ノ山ト思ヒ、鴨河ヲ三途ノ河ト可ㇾ思」ト被仰含我御身ヲアソバサルヽト覺シクテ、

  埋木ノ朽ハツべキハ留リテ若木ノ花ノテルゾ悲シキ

 サテ大藏卿法印・勢多伽、一車ニ乘具シテヤク出セバ、母跡ニカチハダシニテ歩、泣トモナク倒ル共ナタ慕行ツヽ、法印、「車ノシリニ乘給へ」ト云へ共不ㇾ乘、六波羅へ行著テ、勢多伽ヲ先ニ立テ侍へ入、「御室ヨリノ御使候」トイハスレバ、武藏守出合タリ。法印、令旨ノ趣ヲ申開セケレバ、ツクヅクト打守リテ、「誠ニ能兒ニテ候ケリ。君ノ不便ニ思召ル、モ御理ニ候。左候ハヾ、暫預進ラセ候ハン。此由ヲ被ㇾ申候へ」ト被ㇾ申ケレバ、勢多伽ガ母、庭ニ臥マロビテ泣悲ケルガ、此御返事ヲ聞、起揚リ、武藏守ヲヲガミ、「七代迄、冥加ヲハシマシ候へ」トテ、車ニノセテ返ル程ニ、叔父ノ佐々木四郎左衞門尉信網參リタリ。「廣綱ト兄弟ナガラ中惡ク候シ事、年比被知召テ候。勢多伽童ダニ被助置候ハヾ、信綱モトヾリ切テ、如何ニモ罷成候ハン」ト申ケレバ、是ハ奉公他ニ異ナル者也、彼ハ敵ナレバ力不ㇾ及トテ、樋口富小路ヨリ召返テ、信綱ニ被ㇾ預。軈テ郎等金田七郎請取テ、六條河原ニテ切ントス。勢多伽、御所ヨリ給ヒツル朽葉ノ直垂著替テ、車ヨリ下、敷皮ニ移リ、西ニ向テ手ヲ合セ、念佛百反計申、父ノ爲ニ囘向シ、我後生ヲ祈念シツヽ、首ヲノベテ被ㇾ打ケリ。母、空キカラダニ抱付、絶入絶入呼キ叫有樣、目モアテラレズ。上下涙ヲ流サヌハ無ケリ。御室ハ、「空キカラヲ成共、今一度見セヨ」ト被ㇾ仰ケル間、車ニカキ入テ歸リ參ル。是ヲ御覽ゼラレケル御心ノ中、譬ン方モ無ケリ。

 

 其外、東國ニモ哀レナル事多キ中ニ、平九郎判官胤義ガ子共五人アリ。十一・九・七・五・三也。ウバノ尼ノ養ヒテ、三浦ノ屋部ト云所ニゾ有ケル。胤義其罪重シトテ、彼ノ子共、皆可ㇾ被ㇾ切ニ定メラル。叔父駿河守義村、是ヲ奉テ、郎等小河十郎ニ申ケルハ、「屋部へ參テ申サンズル樣ハ、「力不ㇾ及、胤義御敵ニ成候シ間、其子孫一人モ助カリガタク候。其ニ物共、出サセ可ㇾ申」トテ遣ス。十郎、屋部ニ向フテ此由申ケレバ、十一ニナル孫一人ヲバ留メテ、九・七・五・三ニナル子共ヲ出シケリ。小河十郎、「如何ニ、ヲトナシタヲハシマス豐王殿ヲバ出シ給ハヌ哉覽」ト申ケレバ、尼上、「餘ニムザンナレバ、助ケント思フゾ。其代リニハ尼ガ首ヲトレ」ト宣ケレバ、ゲニハ奉公ノ駿河守ニモ母也、御敵胤義ニモ母也、ニクウモイト惜モ有間、力不ㇾ及、四人計ヲ輿ニノセテ返リニケリ。鎌倉中へハ不ㇾ可ㇾ入トテ、手越ノ河端ニヲロシ置誰バ、九・七・五ハ乳母乳母ニ取付テ、切ントスルト心得テ泣悲ム。三子ハ何心モナク、乳母ノ乳房ニ取付、手ズサミシテゾ居タリケル。何レモ目モアテラレヌ有樣也。日已ニ暮行バ、サテアルべキ事ナラネバ、腰ノ刀ヲ拔テ搔切々々四ノ首ヲ取テ參リヌ。四人ノ乳母共、空キカラヲカヽへテ、聲々ニ呼キ叫有樣、譬テ云ン方モナシ。ムクロ共輿ニノセ、屋部へ歸リテ孝養シケリ。祖母ノ尼、此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ、各云シ言ノ葉ノ末モワスラレズ、今ハトテ出シ面影モ身ニ添心地シテ、絶入給ゾ理ナル。

●最後の「此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ」の部分、意味が取れない、識者のご教授を乞うものである。

 以下が本文が採用した土御門院の事蹟となり、これを以って「承久記」は終わっている。

 

 抑、隱岐ノ法皇第一御子、中ノ院共申、又ハ土御門院共申ケル。承元三年三月、御心ナラズ御位ヲスベラセ給シカバ、御恨探クシテヲハシマシケル。サレバ御不孝ノ如ニテ、關東ヨリモ兎角ノ沙汰ニモ不ㇾ及、都ニヲハシケル。被ㇾ仰ケルハ、「承元ノ古へ、其恨深トイへ共、人界ニ生ヲ受ル事、是父母ノ思也。然ルニ一院配所ニマシマシナガラ、我身都ニ安堵シテ居事、彌不孝ノ罪深カルべシ。同遠國ニコソ栖メ」ト九條禪定殿下幷ニ右大將公經ニ被ㇾ仰ケレバ、此旨ヲ關東へ被仰遣。左京權大夫義時以下ノ人々、憐ミ奉リテ、此上ハ力不ㇾ及トテ、同十月十日土佐ノ國ト被ㇾ定テ、鷹司萬里小路ノ御所ヨリ御出立アリ。外戚土御門大納言定通卿參リテ、泣泣出シ奉ツル。御供ニハ少將定平・侍從貞元、女房三人、醫師一人參リツヽ、御道スガラモ哀ナル御事共多カリケリ。

 

 須磨・明石ノ夜ノ波ノ音、高沙・尾上ノ曉ノ鹿ノ聲、神無月十日餘ノ事ナレバ、木々ノ梢、野邊ノ叢、霜枯行氣色ナルニ、御袖ノ上ニハ秋ヲ殘シテ露探シ。讃岐ノ八島ヲ御覽ズレバ、安德天皇ノ御事ヲ思召被ㇾ出、松山ヲ御覽ジテハ、崇德院御事押計ラセ給テ、何事ニツケテモ、今ハ御身一ノ御事ニ思召沈マセ給ゾ哀ナル。角テ土佐國ニ付セ給ニ、御栖居チイサキ由申セバ、阿波國へ移ラセ給程ニ、阿波ト土佐ト兩國ノ中山ニテ、俄ニ大雪降ツヽ前後ノ路モ分ガタク、御輿カキモ歩カネ、上下ノ輩行ヤラザリケレバ、御輿カキスヘテ、如何ナルべシ共不ㇾ覺。院、御涙ニムセバセマシマシテ、

  浮世ニハカヽレトテコソ生レケメ理リシラヌ我涙カナ

 被召仕ケル番匠一人有。眉目カタチヨカリケレバ、侍次郎ト名付ラレタリ。「御供仕ラン」ト頻ニ望申ケルヲ、「田舍ニテ造作ヲモセバコソ番匠ハイラメ、只罷留レ」ト仰ケレ共、アナガチニ進ミテ參リケルガ、具足モチテ木ニノボリテ、枯タル枝共切ヲロシ、御輿ノ前二取積テ燒。供奉武士共ノ前ニモ燒ケレバ、下﨟皆安堵ス。君モ少シ御心ノビサセ御座テ、「番匠只今大切ナリ」トゾ被ㇾ仰ケル。フル雪モ物ナラズシテ、夜モ明ニケレバ、御送ノ人モ參重リ、御迎ノ輩モ加リケレバ、道蹈分サセテ阿波國へ成セ給トテ、

  浦浦ニヨスル白浪事問ハンヲキノコトコソ聞マホシケレ

 

 承久三年六月中ノ十日、如何ナル月日ナレバ、三院・二宮遠島へ趣セマシマシ、公卿・官軍、死罪・流刑ニ逢ヌラン。本朝如何ナル所ナレバ、恩ヲ知臣モナク、恥ヲ思フ兵モ無ルラン。日本國ノ帝位ハ、伊勢天照太神・八幡大菩薩ノ御計ヒト申ナガラ、賢王、逆臣ヲ用ヒテモ難ㇾ保、賢臣、惡王ニ仕へテモ治シガタシ。一人怒時ハ、罪ナキ者ヲモ罰シ給フ、一人喜時ハ、忠ナキ者ヲモ賞シ給ニヤ。サレバ、天是ニクミシ不ㇾ給。四海ニ宣旨ヲ被ㇾ下、諸國へ敕使ヲ遣ハセ共、隨奉ル者モナシ。カヽリシカバ、時房・泰時・義村・信光・長淸以下、數萬ノ軍兵、三ノ道ヨリ責上リケレバ、靡カヌ草木モ無リケリ。

 

承久記下終

 

 「吾妻鏡」の承久三 (一二二一) 年閏十月十日の条を最後に掲げておく。

 

十日庚寅。土御門院遷幸土佐國。〔後阿波國。〕土御門大納言〔定通卿。〕寄御車。君臣互咽悲涙。女房四人。幷少將雅具。侍從俊平等候御共。此君。大化滂流萬邦。慈惠充滿八埏御之間。不申行。遂日緒之處。縡起於叡慮。忽幸于南海云々。天照大神者。豊秋津洲本主。 皇帝祖宗也。而至于八十五代之今。何故改百皇鎭護之誓。 三帝。兩親王。令懷配流之耻辱御哉。尤可恠之。凡去二月以來。 皇帝。幷攝政以下。多天下可改之趣蒙夢想告御。新院御夢。或夜。有船中御遊之處覆其船。或夜。又老翁一人參上一院。叡慮者一六由告申。又七月十三日。可定天下事者。吉水僧正坊夢。年來熏修壇上有馬。件馬俄以奔出者。依之。僧正於向後者。不可奉仕 仙洞御祈禱之旨。潛插意端云々。是等何非宗廟社稷之所示哉。然而君臣共不驚之御。爲長卿獨不醉之間。恐怖云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十日庚寅。土御門院土佐國〔後に阿波國。〕へ遷幸す。土御門大納言〔定通卿。〕御車を寄せ、君臣互ひに悲涙に咽(むせ)ぶ。女房四人幷びに少將雅具・侍從俊平等、御共に候ず。此の君、大化、萬邦に滂流(はうりう)し、慈惠、八埏(じゑはちえん)に充滿し御ふの間、申し行はずして日緒(につしよ)を遂ぐるの處、縡(こと)、叡慮より起こり、忽ち南海に幸すと云々。

 天照大神は、豊秋津洲(とよあきつしま)の本主(ほんしゆ)、皇帝の祖宗なり。而るに八十五代の今に至り、何故に百皇鎭護の誓ひを改め、三帝・兩親王に配流の耻辱を懷かしめ御ふや。尤も之を恠(あや)しむべし。凡そ去ぬる二月以來、皇帝幷びに攝政以下、天下を改むべしの趣き、夢想の告げを蒙り御ふは多し。新院の御夢に、或る夜、船中に御遊有るの處、其の船、覆る。或る夜は又、老翁一人、一院に參上し、叡慮は一六の由、告げ申す。又、七月十三日、天下の事を定むべしてへれば、吉水(よしみづ)僧正坊の夢に、年來(としごろ)、熏修(くんじゆ)の壇上に馬有り。件の馬、俄かに以つて奔り出づてへれば、之れに依つて、僧正、向後に於ては、仙洞の御祈禱を奉仕すべからざるの旨、潛かに意端に插(さしはさ)むと云々。

是等、何れも宗廟社稷(そうべうしやしよく)の示す所に非ずや。然而れども、君臣、共に之を驚き御はず。爲長卿獨り、醉はざるの間、恐怖すと云々。

●「土御門大納言〔定通卿。〕」土御門定通。土御門天皇は彼の甥に当たる。親幕派であったが、承久の乱では後鳥羽院政の関係者として連座し失脚した。彼の異父姉であった源在子が土御門天皇の生母である。

●「大化、萬邦に滂流して」「大化滂流」は孔安国「古文孝経序」の一節にある「上に明王あれば、則ち大化滂流して六合に充塞す。若し其無ければ、則ち斯の道滅息せん」辺りが元であろう。則ち、「上に聖王が現れて人として最も大切な「孝」の正しい在り方を示されたことによってその広大な徳は自然、あらゆる人民をも感化し、世の隅々に至るまで「孝」の道が満ち満ちた。もしもそのような聖王がいなかったら、即ち、かくも大切な「孝」の道は滅び絶えていたに違いない」という一節である。ここで已にしてこの土御門院の配流が彼自身の孝心によるものであることが示されているのである。

●「慈惠、八埏に充滿し」慈しみの心で以って他に恵み施す広大な心で、「八埏」は国の八方の果て。全土に孝道の手本を遍く自ら示して満たしたということであろう。則ち、ここは続く「叡慮より起こり」を前倒しで説明する形で土御門院の孝心を讃えた表現なのだと私は読む。大方の御批判を俟つ。

●「申し行はずして日緒を遂ぐる」「日緒」は相応の日にちで、政道について一切の発言や行動をとることなく日を暮して居れたうちに、の意。

●「八十五代」土御門天皇は第八十三代で次が異母弟順徳天皇、その次が第八十五代仲恭天皇となるのであるが、彼は即位も認められていなかったために諡号や追号がつけられず、九条廃帝として明治三(一八七〇)年に天皇として認められるまでは数に入っていない。承久の乱直後の七月九日に後堀河天皇が正式に践祚した(次章参照)。但し、この本文の「八十五代」は明らかに、そこで国と民を守ることを忘れて承久の乱を引き起こしてしまったところの御代ということで、やはりこの九条廃帝仲恭天皇の御代を指している。

●「一六」は骰子。ここは一六勝負で博奕。転じて運任せの冒険的な行為。

●「七月十三日、天下の事を定むべし」この日はまさに後鳥羽上皇が隠岐遷幸の当日である。

●「吉水僧正坊」天台座主慈円。西園寺公経とともに承久の乱では一貫して後鳥羽上皇に反対の立場をとった。

●「熏修の壇上」護摩を修する神聖なる壇。

●「宗廟社稷の示す所」「宗廟」祖先のみたまや、祖先の位牌を置く所で、狭義には皇室の祖先を祭るみたまや、伊勢神宮などを指す。「社稷」は元来は中国に於ける国家祭祀の中枢を担う「社」(土地神を祀る祭壇)と「稷」(穀物神を祀る祭壇)の総称。ここでは広く神仏を指し、それらから凶兆として示された、神仏に見放されたという謂いで用いている。

●「爲長卿」菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年)は公卿で九条家に仕えた儒学者。元久元(一二〇四)年に文章博士となったその年に土御門天皇の侍読となり以後五代に亙る天皇の侍読を勤めた。建暦元(一二一一)年には従三位に叙されて公卿に列した(菅原氏が公卿となったのはかの菅原道真以来のことであった)。備後権守・大蔵卿を経て承久三(一二二一)年には正三位・式部大輔となる。この頃、北条政子の求めに応じて「貞観政要」を和訳して献じている。後鳥羽・順徳院に近侍したにも拘わらず、彼が承久の乱後に咎めを受けなかったのは、為長が家司として務めていた九条家(特に九条道家)が親幕派で彼も一貫して同様の立場をとっていたため、承久の乱後に政権を握った九条道家の政治顧問として朝廷の中枢に留まることが出来たことによる。官は参議、位は正二位にまで昇って「国之元老」として重んじられた(以上は主に「朝日日本歴史人名事典」に拠った)。

三味線の子   山之口貘

 三味線の子

 

島の歌 島の歌

島は三味線の子!

若い男は歌つてゐる流暢で粗野な聲

三味線の音は、人々の胸に永遠に祕む悲哀を魅する心

 

島の歌 島の歌

 

若い男は細い目にからだを動かしながら調子をとる

人々の歌ふまゝの呼吸は島――

私は聞いてゐる永遠を永遠へ流れる感情の征服者の聲音

 

三味線の音は人々に温順な惡魔

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年八月二十一日附『八重山新報』に掲載された。ペン・ネームは「三路生」。この直後のバクさん十九歳の秋、画家を志して最初の上京を果した。いわば現存する出郷直前の一篇である。「三味線」は「さんしん」と読みたくなるが、ウィキ三線によれば、「さんしん」は必ずしも沖繩方言の絶対的汎用語ではなく、バクさんのテリトリーであった首里周辺では「三味線(しゃみせん)」の呼称が併存していたことが分かる。]

見知らぬひとに   山之口貘

 見知らぬひとに

 

貧しい私の胸の鼓動が

おゝあなたを見たとき

どんなに速かになつたことでせう

見知らぬか愛ひとよ

私は何のためにペンを握つたのでせう………

見知らぬひとへ何かを書くとき

私はなぜ動悸の急ぎを見るのだらう

おゝあの優しい頰せるひとよ!

素朴な生活に育まれて行かうとする

か哀相な貧しい私を

あの温い美しい指先に書かれる

優しい懷しい詩や歌で

慰めて下さることは出來ないのでせうか?

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二二・二・一八』とある。大正一一(一九二二)年三月十一日附『八重山新報』に次の「愛――B姉に捧ぐ」とともに掲載された。ペン・ネームは「三路」。]

2014/06/27

ツイッターで「忌野清志郎名言集」さんにフォローされた記念に

僕の過去記事――

杉田久女句集 244  花衣 Ⅻ

今日はちょいとバクさんの詩の新全集との対比検証に入れ込んだために、見た目更新がなかったな。一つ――



蟬涼し長官邸は木がくれに

 

ひきのこる岩間の潮に海ほうずき

 

薔薇むしる垣外の子らをとがめまじ

 

藁づとをほどいて活けし牡丹かな

 

牡丹を活けておくれし夕餉かな

 

牡丹やひらきかゝりて花の隈

 

牡丹や揮毫の書箋そのまゝに

 

牡丹にあたりのはこべ延ぶがまゝ

 

牡丹にあたりのはこべ拔きすてし

 

端居して月の牡丹に風ほのか

 

隔たれば葉蔭に白し夕牡丹

2014/06/26

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(4) 承久の乱最終戦後処理【四】――後鳥羽院妃にして順徳院生母修明門院重子の愁嘆、後鳥羽院と生母七条院殖子の和歌贈答

取分(とりわけ)、修明門院の御歎(おんなげき)、世には例(たぐひ)もおはしまさじと見奉るも餘あり。一院は隠岐國、新院は佐渡島、西の空、北の雲、何(いづれ)に付けても苦しきや、傾(かたぶ)く月を御覽すれば、隱岐の方(かた)、御言傳(おんことづて)せまほしく、初雁が音(ね)を聞召せば、佐渡の有樣問はまほし。澤邊(さはべ)の螢の集(すだ)くにも、御物思(おもひ)と共にこがれ、遠山の霞の棚引くも、晴れぬ歎を知らすらん。東一條の先帝おはしませば、佐渡院(さどゐん)の御形見とは思召せども、いとゞ御慰(おんなぐさみ)はなかりけり。七條の女院は、老いたる御身にいつとも期(ご)せぬ都歸(みやこがへ)り、今日や明日やと思召す。御歎の色、日に從ひて增(まさ)らせ給ひ、思召し沈ませ給ふ由聞召して、隱岐の御所より、

  たらちめの絶やらで待つ露の身を風より先にいかで問はまし

七條院御返(おんかへし)。

  なかなかに荻吹く風の絶ねかしおとづれ來れば露ぞこぼる〻

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【四】――後鳥羽院妃にして順徳院生母修明門院重子の愁嘆、後鳥羽院と生母七条院殖子の和歌贈答〉

「東一條の先帝」既注の順徳天皇第一皇子(母は九條良経の娘東一条院藤原立子)の九条廃帝仲恭天皇。

「絶やらで」底本頭書に『增鏡にはきえやらで』とある。

「なかなかに荻吹く風の絶ねかしおとづれ來れば露ぞこぼる〻」「荻」は花の「荻」と「隠岐」を掛ける。――いっそ心尽くしの風の便りなど……遣り送りなさいまするな……あなたのことを思い焦れて、今にも萩におく露のように、命の絶えてしまいそうな、この私の元に、隠岐の優しい風の便りが訪れると、それだけで露の儚い涙がこぼれてしまいますから――「露」は言わずもがな乍ら、涙に加えて、老いた自身の身の今にも儚くなりそうな命をも同時に象徴している。

 以下、「承久記」(通し番号103の残り)。

 

中ニモ修明〔門〕院ノ御嘆、類少ナキ御事也。ゲニモ一院ハ隱岐へウツサセ給ヌ。又、新院、佐渡へ被ㇾ流サセ給フ。月日ノ西へ傾バ、隱岐ノ御所へ御事傳セマホシク思召、ハツ雁ガ昔ノヲトヅレハ、佐渡ノ御所ノ御事共トハマホシク、人家ヲ照ス螢ハ御思ト共ニ焦レ、遠山ニ滿タル霧ハ御嘆ト共ニ晴ヤラズ。東一條院、先帝マシマセバ佐渡ノ院ノ御形見トハ思召セ共、御慰ハ無リケリ。七條ノ女院、老タル御身ニハイツ共期セヌ都返リ、今日ヤ明日ヤト思召、御嘆ノ色、日ニ隨ヒテ増ラセ給ヒツヽ、思召沈マセ給由聞召及ビテ、隱岐ノ御所ヨリ、

  タラチメノクエヤラデ待露ノ身ヲ風ヨリ先ニ爭デトハマシ

七條院御返事、

  中々ニ萩吹風ノ絶ネカシ音信クレバ露ゾコボルヽ]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 2 小樽から札幌へ コンブ漁を見る

 

M367

図―367

 

 

M368

図―368

 七月二十九日に、我々は小樽を立って札幌へ向かった。我々が小樽で集めた標本は大きな酒樽に詰めた。標本というのは、大きな帆立貝の殻百個、曳網で採集した材料を酒精(アルコール)漬にした大きな石油鑵一個、貝塚からひろった古代陶器その他である。馬は宿屋の前まで引いて来られた。洋式の鞍をつけた二頭は、矢田部教授と私の為であり、他には荷物用の鞍がついていたので、毛布を沢山、詰絮(つめわた)として使用する必要があった。我々の荷物は、大型の柳行李二個であった。供廻の馬子は別に乗馬を持っていたが、佐々木氏と下男とは歩く方がいいといった。日本人にとっては、三十マイルは何でもないのである。車も、人力車もないので、我々は札幌から先は、蝦夷を横断するのに、百五十マイルを馬に乗るか、歩くかしなくてはならぬ。毎日変った馬――而もそのある物は荒々しい野獣である――にのって、悪い路を、百五十マイルも行くことを考えた時、札幌から蝦夷の東海岸に至る道路は、割合によいとは聞いていたが、私はいささか不安にならざるを得なかった。私が生れてから一度も馬に乗ったことが無いというのは、不思議だが事実である。腕を折ったり、頭を割ったりした友人の思出や、鐙(あぶみ)に足がひっからまった儘引きずられて死んだ人達の話が、恐怖の念を伴って私を悩した。然し私は馬に乗ることになっていたのだし、歩く時間はなし、よしんば落ちて頭を割った所で、私はそれを天意として神様を不敬虔に非難したりせず、私自身の教育に欠けた点があった結果と見ることにしよう。とにかく、土着民の面前で、醜態を演ずることを余り望まぬ私は、町の出口まで馬を曳かせ、私自身は歩いた。所が非常に気持がよいので、四マイルか五マイル歩き続け、そこで初めて小馬にまたがった。道路は十マイルの間、海に沿うていた。崖にトンネルをあけた所が二ケ所あった。図367はその一つから小樽を見た景色である。新鮮な空気が海から吹きつけ、そして波は彼等の「永遠に続く頌歌」を歌った。岸を離れた漁夫達は、海藻を集めるのに忙しかった。それは大きなラミナリアで、乾燥して、俵にして支那へ輸出する。漁夫達は長さ十フィートの棒のさきについた、一種のフォークで、棒の一端に横木のついた物を使用する。この棒を海藻の茂った場所につっ込み、数回くるくる廻し、海藻を繋留場から引きはなす様な具合に、からみつける(図368)。

[やぶちゃん注:ちょっと意外であるが、モースはこの時生まれて初めて馬に乗ったのであった(後の段でその実際が語れる)。モースの内心の恐怖がよく伝わってくる面白い記述である。回想記録であるここでは半ば冗談交じりの余裕で述べているが、どうしてその時は、結構、真剣に恐懼していたものと思われる。矢田部日誌によれば、これは明治一一(一八七八)年七月二十九日で、午前七時半に小樽を出発、東南へ十五キロメートル程海岸線を行った石狩湾の最南奥の銭函(ぜにばこ)へ午前十一前に着いたが、そこに札幌から手配された馬二頭が待っていた。十二時頃に銭函を出発、午後四時前には札幌へ着いたとある。

「三十マイル」約四八・三キロメートル。これは小樽―札幌間の距離。直線でも三三キロメートルある。

「百五十マイル」二四一・四キロメートル。以降の彼らの行程を現在の地図上で実測して見ると、この小樽から札幌を経て室蘭までが概測で一五七キロメートル、そこでモースは小蒸気船で内浦湾の湾口を森へと向かい(直線距離で約四一・三キロメートル)、そこから函館までが約四三キロメートル、計二四一・三キロメートルとなり、ぴったり一致する。

「四マイルか五マイル」六・五~八・一キロメートル。

「十マイル」約一六・一キロメートル。

『「永遠に続く頌歌」』原文は“"everlasting anthem."”。

「ラミナリア」(原文は“Laminaria”)直下に石川氏の『〔昆布〕』という割注が入る。“Laminaria”は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属するコンブの中でもコンブ(ゴヘイコンブ)属 Laminaria を指す種名である。しかし、ウィキの「コンブ」を見ると、我々が、普段、食する馴染みのコンブ類は以下を記載する。

 マコンブ(真昆布)Saccharina japonica

 オニコンブ(羅臼昆布)Saccharina diabolica

 リシリコンブ(利尻昆布)Saccharina ochotensis

 ホソメコンブ(細目昆布)Saccharina religiosa

 ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布)Saccharina angustata

 ナガコンブ(長昆布=浜中昆布)Saccharina longissima

 ガッガラコンブ(厚葉昆布)Saccharina coriacea

 ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus

 ガゴメコンブ(籠目昆布)Saccharina sculpera

    (シノニム:Saccharina crassifolia, Kjellmaniella crassifolia

ところが、別なコンブの学術論文をみると、これら上記の馴染みのコンブ類の学名をすべて Laminaria とするものを見出す(例えば川井唯・四ツ倉典滋氏の共同論文北海道産コンブ属植物の系統分類の現状リシリコンブを中心に(PDF・二〇〇五年三月発行『利尻研究』所収)。マコンブは Laminaria japonica と記載する)。ウィキもよく見ると、孰れにもコンブ属という和名を併記してあり、この辺の分類は確定していないことが分かる。なお、この属名 Saccharina (サッカリナ)はサッカリンと同じで、「砂糖」の意のラテン語“saccharum”由来で、コンブのグルタミンの持つ甘みに由来するものであろうかと思われる。

「長さ十フィートの棒のさきについた、一種のフォーク」「十フィート」は約3メートル。これは北海道水産業改良普及職員協議会編になるサイト「北海道の漁業図鑑」の漁業マコンブ)にある「マッカ」、若しくは漁業(ナガコンブ)」にある「かぎ(鈎)」又はより深い所に用いる「ねじり(かたしば)」或いは漁業(ミツイシコンブ)」にある「カギ棹」又はより深い所に用いる「ネジリ」と呼ばれる漁具である。モースのスケッチの形状から見ると、渡島のマコンブ漁の「マッカ2」とある漁具写真が非常によく似ている。リンク先の写真を見ているだけでコンブ・フリークの私(かつては常時五種類以上のコンブを用意し、それをそのまましゃぶるのを至福としていたほどのフリークであった)は幸せになってくるのである。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(22) 酒場の一隅より(Ⅱ)

 

新しき我等が軍の尖兵の

中にまぢれる皷手の少年

 

[やぶちゃん注:「まぢれる」はママ。「皷手」は「こしゆ(こしゅ)」で軍隊の戦列兵の鼓手。「皷」は「鼓」の異体字。筑摩版全集校訂本文は「鼓」に訂する。]

 

たゞ人は物言ふおきもうつむける

少年とのみ我を見るらむ

 

わがまへに人いくたりかつまづきし

かの途を行きこの途をゆく

 

僅かなる在府の錢を思ひつゝ

酒場を出でゝ風に吹かるゝ

 

その心ダイナマイトに似たれども

弱々しげに見ゆる少年

 

事ごとに心跳りてときめきし

十七の春とらふ由なし

 

その頃の十七才の少年と

われを思へる祖父(おぢ)のいましめ

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集校訂本文は「才」を「歳」に訂する。]

 

何時となく覺えしものを罪てふか

かくれてあそび酒を飮むこと

 

待合(まちあひ)の勘定書と質札と

白銅とのみ殘れる財布

 

[やぶちゃん注:「白銅」白銅貨。当時流通していたのは菊を刻印した五銭白銅貨幣と後発の同じく稲を刻印した五銭白銅貨幣。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅹ

  杜藻君來訪、大谷山に訪づ

 

折りとりて君に嗅がする枯荏かな

 

[やぶちゃん注:「杜藻君」ホトトギス派の俳人京極杜藻(とそう 明治二七(一八九四)年~昭和六〇(一九八五)年)。元京極運輸商事会長。本名は友助。「大谷山」不詳。蛇笏のいた現在の山梨県南巨摩郡南部町万沢境川の近くでないとおかしいが山名・山号ともに発見出来ない。識者の御教授を乞う。「枯荏」は「かれえ」で「荏」はシソ目シソ科シソ属エゴマ変種エゴマ Perilla frutescens var. frutescens 。]

 

春蘭は實の枯れ枯れに靈芝生ふ

 

靈芝とる童に雲ふかき甌窶かな

 

[やぶちゃん注:両句が本句集の標題句。「甌窶」既注。先の「春鹿を射て舁きいでし甌窶かな」に『注。甌窶は山の高処にして傾斜せる地を云ふ。』とあり、そこで私は『「甌窶」は「おうる」と読ませているらしい。諸注は高台の狭い土地とする。「甌」は原義が小さな平たい鉢、「窶」は小さな塚や岡を指す。通常は「おうろう」であるが、小丘の謂いの場合、「ル」という音を持っている。』と注した。]

 

くさ飼えば夜寒の老馬ゑまひけり

 

除夜の鐘龕の一炷睡りけり

橋本多佳子句集「紅絲」 梅雨の藻

 梅雨の藻

 

言葉のあと花椎の香の満ちてくる

 

花椎やもとより独りもの言わず

 

花椎の香に偽りを言はしめし

 

[やぶちゃん注:「花椎」シイブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の花は先に挙げた栗と同じく男性の前立腺から分泌するスペルミンを含む。]

 

ガラス戸より薄暮の蝶を出してやる

 

夜の雨より飛び入りし蛾の濡れもゐず

 

いとけなく植田となりてなびきをり

 

梅雨の藻よ恋しきものゝ如く寄る

 

厚板の帯の黴より過去けぶる

 

かぎりなく出てしやぼん玉落ちて来ず

 

母の手より穂絮の一つづゝとびゆく

 

[やぶちゃん注:「穂絮」は「ほわた」と読む。穂綿。綿の代用にしたチガヤ・アシなどの穂。母となった娘の誰かを詠じた現在詠とも読めないことはないが、私はこれは多佳子の回想吟ではないかと読む。多佳子の母は昭和一七(一九四二)年十一月七日に亡くなっている。]

 

海南風死に到るまで茶色の瞳(め)

 

[やぶちゃん注:本句は誰かの追悼吟か。識者の御教授を乞う。]

 

うとましき人離るればかげろへり

 

毛絲編む手の疾(はや)くして寄りがたき

 

白桃に入れし刃先の種を割る

 

あぢさゐが藍となりゆく夜來る如

 

花苑にて指の先より蝶たゝす

杉田久女句集 243  花衣 Ⅺ 久女ちゃんは蛙好き!

大樹下の夜店明るや地藏盆

 

[やぶちゃん注:「地藏盆」は八月二十三日~二十四日(古くは陰暦七月二十四日)に行われる行事で石地蔵にお飾りをして祀り、様々な余興を行う。地蔵祭り。地蔵会(じぞうえ)。]

 

涼み舟門司の灯ゆるくあとしざり

 

羅に衣(そ)通る月の肌かな

 

遠泳の子らにつきそひ救助船

 

潮あびの戻りて夕餉賑かに

 

潮あびの子ら危險なし旗たてゝ

 

上つ瀨の歌劇明りや河鹿きく

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和八(一九三三)年のパートに配されている。を流れる川に佇み蛙の声が響き、その上流直近に歌劇場があるのであろうか? ロケ地が私には分からない。識者の御教授を乞うものである。]

 

水疾し岩にはりつき啼く河鹿

 

河鹿きく我衣手の露しめり

 

河鹿なく大堰の水も暮れにけり

 

[やぶちゃん注:「大堰」は「おほい」で大堰川のことか。京都府北桑田郡南部から船井郡園部町・八木町と亀岡市を経、保津峡(この部分は保津川とも呼ばれる)に入るまでの河川で、保津峡の出口嵐山から下流は桂川と名を変えて淀川に合流する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。]

 

病快し河鹿の水をかふるなど

 

忘れゐし河鹿の蜘蛛を捜さばや

 

[やぶちゃん注:ちょっとした発見! 久女は蛙が好きで飼っていた!] 


蛙きく人顏くらく佇めり

山之口貘第二詩集「山之口貘詩集」新作十二篇 思潮社新全集との対比検証終了

山之口貘第二詩集「山之口貘詩集」で追加された新作十二篇の思潮社新全集との対比検証終了し、「鮪に鰯」の対比検証に入った。今日初めて新全集では「鮪に鰯」に限っては清書原稿があるものはそれを本文テキストとして採用しているため、従来、我々が知っていた詩とは微妙に異なるプロトタイプが読めるということに気づいて僕は小躍りしたのである!――バクさん、楽しいッ!――

愛――B姉に捧ぐ   山之口貘

 愛――B姉に捧ぐ

 

接吻けませう――

私達の魂はそのとき

小躍りする歡喜の中に

温い、そして永遠の美しい愛を求めるでせう

私達の接吻に

戀は無価價です

えゝ

愛です

強く深刻になる憂なのです

優しい撫子の花と露の接吻のやうに

私は只あの熱い唇の欲しさに――

泡暗い小路をとぼとぼ二人で歩くときも

冷たい私の唇はムクムク動いてゐるのです。

温い光の露の光るやうに、

私の魂は小さな胸にも■ずいてゐます。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二二・二・八』とある(前の「Y生へ」と同日)。大正一一(一九二二)年三月十一日附『八重山新報』に次の「見知らぬ人に」とともに掲載された。ペン・ネームは「三路」。発表時はバクさん満十八歳。底本では九行目の「憂」を『文脈上』『誤植』と断じて、

 

強く深刻になる愛なのです

 

と『校訂』し、判読に迷った最終行は、

 

私の魂は小さな胸にもうずいてゐます。

 

と推定されてある。本文は解題を参考に原詩を復元した。後者は問題ないとして、前者の誤植判断については私は微妙に留保するものである。恐らくは正しい判断であろうとは思う。しかしこんなことが許されるならば、それこそ難解を絵に描いたような現代詩人のどれそれ、詩人の死後見つかるそれらは、これ皆、誤植扱いにされて全く別な詩に変貌しないとも限らないからである。私はこうした場合は、例えばせめて筑摩書房版の「萩原朔太郎全集」のように(私はその『校訂』にも強い疑義に感ずる部分が多々あるが)、『校訂本文』の下にその原形を全文示すか、若しくは解題に原形を掲げるべきであると思う。

 「B姉」不詳。詩の内容から実際の姉(バクさんには二人いる)ではあるまい。イニシャルはBではないが、発表時から遡る二年前にバクさんが熱愛し婚約までした喜屋武呉勢(きゃん/ぐじー:姓名と読みは随筆「私の青春時代」による)の可能性が高いように私には思われる。呉勢は知人の下級生の高等女学校に通う『姉』であって、随筆「ぼくの半生記」の冒頭では『彼女はぼくとおなじ年頃だった』とあるからである。年譜によれば、大正九(一九二一)年経済恐慌が起こって父重珍の事業が失敗し、大正十二年頃までには家族が離散したとあり、貘もこの時、中学四年で中退しているが、その直後の大正九年九月に『呉勢より一方的に婚約解消を申し渡される』とあるから、もし、これが呉勢であるとすれば、傷心の中の懐旧と秘かな決別の意を含んだオードとなる(無論、それ以後に恋した別人の可能性もあるが、私の直感ではやはり彼女なのである)。この発表の年の秋に画家を志してバクさんは上京するからである。]

サイト「鬼火」開設9周年記念 サイト一括版 鬼城句集

サイト「鬼火」開設9周年記念として「鬼城句集」を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。サイト完全一括版は私の大嫌いな高浜虚子と、大須賀乙字の「序」及び鬼城の「例言」に奥附(画像附)を添え、一部の注を増補してある。9年前、酔って遊び心で創った自分のサイトを、ここまで構築し得るとは実は全く想定していなかった。感慨無量である。向後ともよろしくお願い申し上げる。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 30 石巻から一関へ

本日二〇一四年六月二十六日(陰暦では二〇一四年五月二十九日)

   元禄二年五月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十六日

である。この日、松島を発った芭蕉は曾良の慫慂によるものか、石巻へ向かっている。翌十一日は登米(とめ:現在の宮城県北部にある登米市。岩手県との県境にある。)、十二日は増水により馬上ながら悪路の山越えをしてようよう平泉の足掛かりとなる一関へ到着している。以下、「奥の細道」の「石の巻の段」をしめす。

   *

十二日平和泉と心指あねはの松

緒たえの橋なと聞傳えて人跡

稀に雉兎蒭-蕘の往かふ道そこ

ともわかす終に路ふみたかえて石

の卷といふ湊に出こかね花咲と

よみて奉たる金花山海上に見渡

數百の廻船入江につとひ人家地をあらそ

ひて竈のけふり立つゝけたりおもひ

かけすかゝる處にも來れる哉と宿からん

とすれと更宿かす人なし漸々

まとしき小家に一夜を明して

明れは又しらぬ道まよひ行袖の

わたり尾ふちの牧まのゝかやはら

なとよそめにみてはるかなる

堤を行心ほそき長沼にそふて

戸伊摩と云所に一宿して平泉に

至る其間廿餘里程とゝ覺ゆ

   *

■やぶちゃんの呟き

「十二日、平泉と心指し」事実は五月十日。これは虚構というより、瑞巌寺を参拝した日を五月九日から十一日に虚構したのに合わせると、こうするしかなかったのである。それにしても道に迷って石巻へ行くはずもなく、この松島を発った五月十日の「曾良随行日記」の、喉の渇きに水を求めんとした二人に対し、『家毎に湯乞共不ㇾ與』という村人の反応といい、これら、前後全体が私には頗る怪しげなものに見えるのである。

「あねはの松」奥州の名松の一つである姉歯の松。歌枕。

「緒だえの橋」現在の宮城県北部の大崎市(旧古川市)を流れる緒絶川に架かる橋。悲恋絡みの歌枕。

「雉兎蒭-蕘」「ちとすうぜう(ちとすうじょう)」で、「雉兎」は雉や兎を追うその猟師、「蒭蕘」の「蒭」は「芻」で草刈る人を、「蕘」は樵を指す。

『「こがね花咲」とよみて奉たる金花山』「万葉集」巻十八の大伴家持が聖武天皇に奉った奥羽産の金が初めて発見された(東大寺盧舎那仏を塗るため)ことを言祝ぐ四〇九七番歌(長歌四〇九四の反歌三首の三句目)、

 天皇(すめろき)の御代榮えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く

に基づく。

「金花山海上に見渡シ」「海上」は「かいしやう(かいしょう)」。牡鹿半島東南端にある島である金華山。古く俗伝で金の産地として誤称されていたらしい。なお、芭蕉が辿り着いた石巻の湊からでは金華山は見えないので、田代島若しくはその南東にある網地(あじ)島の孰れか又は重なって見えた両方を誤認したものと思われる(それとも実は何らかの理由で金華山まで行ったのか?)。

「宿からんとすれど更に宿かす人なし」当日の難渋振りを示すために、当日の「曾良随行日記」から全文を引いておく。

 

十日 快晴。松島立(馬次ニテナシ。間廿丁計)。馬次、高城(キ)村、小野(是ヨリ桃生郡。弐里半)、小野(四里餘)、石卷、仙台ヨリ十三里餘。小野ト石ノ卷(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不ㇾ與。刀サシタル道行人、年五十七、八、此躰ヲ憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立歸、同道シテ湯エオ可ㇾ與由ヲ賴。又、石ノ卷ニテ新田町四兵ヘト尋、宿可ㇾ借之由云テ去ル。名ヲ問、 ねこ村、コンノ源太左衞門殿。如ㇾ教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云ヘ上ル。石の卷中不ㇾ殘見ゆる。奥の海(今ワタノハト云)・遠島・尾駮の牧山眼前也。眞野萱原も少見ゆル。歸ニ住吉ノ社參詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。

 

「水」でなく「湯」であるのは、水当たり(食中毒)を用心したためである。この親切な武士のことは「奥の細道」には出ないが、芭蕉にはよほど強く印象に残ったものらしく、後年の曾良宛書簡の中でこの時のことを如何にも懐かしそうに思い出している。因みにこの親切な武士は今野源太左衛門といい、岩波文庫萩原恭男校注版「おくのほそ道」(一九七九年刊)の「曾良随行日記」の注によれば小野郷根古邑(ねこむら)五百石伊東重良の家臣と推定されている。

「まどしき」「貧(まど)し」である。

「袖のわたり・尾ぶちの牧・眞のゝ萱原」孰れも現在の石巻市の北上川沿いにあった歌枕。 「戸伊摩」「といま」。現在の宮城県登米(とめ)市にあった旧登米町(とよままち)の古名。

「其間廿餘里」「間」は「あひ(あい)」。松島を起点として平泉までの合算実動距離。二十里は七八・五、二六里で一〇二・二キロメートル。この二十六日から前日の二十八日の一関までの山本胥氏の作成された距離移動表から計算すると、徒歩八十六、馬十七キロメートルで、計一〇三キロメートルになるので「餘」は六里強を指して自然である。]

2014/06/25

山之口貘処女詩集「思辨の苑」全詩篇の思潮社新全集との対比検証終了

山之口貘処女詩集「思辨の苑」全詩篇の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」と対比検証を終了、過去のブログでの電子データを更新した。幾つかのミス・タイプも訂正出来、バクさんの詩の呼吸のリズムをさらに体感もし、大変有意義であった。残る「山之口貘詩集」及び「鮪に鰯」も続けて検証、また、既刊詩集未収録詩篇の電子化も継続して行ってゆく所存である。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅29 雲巌寺

本日二〇一四年六月二十五日(陰暦では二〇一四年五月二十八日)

   元禄二年五月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十五日

である。【その二】【その一】で述べた通り、「奥の細道」では五月「十一日、瑞巌寺に詣づ」とあるのであるが、実際には芭蕉はこの九日の松島着後すぐに瑞巌寺の総てを拝観し終えてしまっている。以下、「瑞巌寺の段」を示す。

   *

十一日瑞岩寺に詣當寺三十二世の

昔眞壁の平四郎出家して入唐

歸朝の後開山す其後に雲居禪師

の德化に仍て七堂甍改りて

金壁莊嚴光を輝シ佛土

成就の大伽藍とはなれりける

彼見佛聖の寺はいつくにやとしたはる

   *

 荘厳なる七堂伽藍総てを見学したにしては如何にも記載があっさりし過ぎている。事大主義的権威的なそれらに芭蕉は日光東照宮の時と同じ、ある種の違和感や反発を覚えたのではなかったか?(山本胥氏も「奥の細道事典」で同様の見解を示しておられる(同書二一七頁) 私はかつて三度、松島に行ったことがあるが、その三度目に禅宗高僧(見る僧の殆どが相応に年配であった)の全国大会みたようなものがこの雲巌寺で開かれたのに遭遇、その日泊まったホテル(一応、松島一番の高級ホテルと称されるもの)でバー・ラウンジに行ったところが、黄色や臙脂の色鮮やかな法衣をまとった坊主どもが三々五々、誰もミニ・スカートのコンパニオン・ガールを侍らせて、頭と顔を脂で照らつかせながら、ブランデーなんぞを傾け、葉巻なんぞまで吸っているのに出くわしてしまったのである。その数たるや、半端でない。既に酔っていた私は怒り心頭に発して、部屋へ戻って飲み直したという厭な経験がある。だから何となく、この芭蕉の不快が分かるような気がするのである。

「十一日、瑞岩寺に詣ず」既に述べた通り、虚構。諸家、その虚構の理由を述べるが、孰れも今一つ私には腑に落ちぬ。……やはり、芭蕉は怪しいよ。……

「瑞岩寺」瑞巌寺。臨済宗妙心寺派松島(しょうとう)青龍山瑞巌円福禅寺。天長五(八二八)年に慈覚大師を開基として天台宗延福寺として創建され、鎌倉時代に臨済宗建長寺派円福寺となり、さらに天正六(一五七三) 年頃に臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変わり、特に伊達正宗によって伊達家菩提寺として庇護を受けた(以上はウィキの「瑞巌寺」に拠った)。

「真壁の平四郎」鎌倉時代、禅に傾倒した執権北条時頼が武力で本寺の天台派僧徒を追放、法身性西(ほっしんしょうさい/せいさい)を住職に据えたが、その禅宗としての雲巌寺の開山の、常陸の国真壁郡猫島村の生まれと伝えられる彼の俗名である。彼の波瀾万丈の生涯については個人サイト「松島塾」の「法身(ほっしん)伝」が詳しい。瑞巌寺の公式サイトには天台宗延福寺は鎌倉時代中期、開創以来二十八代約四百年の歴史を以って滅したとし、法身禅師が開山とされて天台宗延福寺に遷じた寺は円福寺と命名されたが、その正確な開創年は分かっていないとある(この二十八代で天台宗が終わったというのと「當寺三十二世の昔」という数字の有意な四代分は時頼・法身による強制改宗という衝撃的事実とは何だか齟齬する感じがする)。ウィキには天台宗徒追放の理由の一説として、時頼は『酒肉をとり色に惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けた』と記す……が……はてさてあの日、私がホテルで見たのは正しく『酒肉をとり色に惑う』クソ禅『僧の退廃』そのものであったと断言して、よい……

「入唐」「につたう(にっとう)」。

「徳化」「とくげ」。

「七堂」七堂伽藍。禅宗では仏殿・法堂・僧堂・庫裏・三門・東司・浴室。

「金壁莊嚴」「こんぺきしやうごん」。

「佛土成就の大伽藍」西方浄土にある理想の仏国土をこの世に顕現させた大寺院の意。

「見佛聖」平安末期、雄島に庵住した見仏上人のこと(「見仏聖の寺」というのはその雄島にあった彼の庵と伝えられた見仏堂(妙覚庵)のこと。当時は既に跡となっていた)。伯耆国の人で長治元 (一一〇四) 年に松島雄島に渡って島内に籠ること十二年、法華経六万部を読誦したという。「奥の細道菅菰抄」の契史の書き入れに、『西行上人、能登の切浦にてこの聖にあひし後、この聖を慕ひて松島まで來られしことなどあれば、「かの」とは申されたり』但し、これは「撰集抄」巻三の第一「松嶋上人事」に載る怪しい話(見仏上人は超自然の法力を体得していて能登と松島を瞬時にテレポーテションしたとある)に基づくものではある。]

虐げられるもの   山之口貘

 虐げられるもの

 

薄暗い部屋の中に

淋しく、雨の降る音は聞える

濕つた部屋の中に、私は

人生の聞きいたしい悲鳴を聞き

てそして自分も悲鳴をあげてゐ

るあゝ多くの

人間の氣の暴惡さが

しみじみ私の

胸を刺して止まない……

弱いものの昨日の勇健は

今總てに制抑されつゝ

か哀相にも

瞳を閉ぢて泣いてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二二・一・一八』とある(前の「Y生へ」と同日)。大正一一(一九二二)年二月十一日附『八重山新報』にやはり前の「Y生へ」とともに掲載された。ペン・ネームは「佐武路」。以上は、最も不可解な「人生の聞きいたしい悲鳴を聞き/てそして自分も悲鳴をあげてゐ/るあゝ多くの」の文字列を含め、底本とした思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」の解題に基づいて復元した掲載紙本文の文字列そのものである。但し、同新全集ではこれを誤植と断じて本文を以下のように『意味が通るよう掲載紙本文を修正し』(解題)ている。正字化して示す。

 

 虐げられるもの

 

薄暗い部屋の中に

淋しく、雨の降る音は聞える

濕つた部屋の中に、私は

人生のいたいたしい悲鳴を聞きて

そして自分も悲鳴をあげてゐる

あゝ多くの

人間の氣の暴惡さが

しみじみ私の

胸を刺して止まない……

弱いものの昨日の勇健は

今總てに制抑されつゝ

か哀相にも

瞳を閉ぢて泣いてゐる。

 

概ね穏当な『修正』とは言えるが、しかし例えば、この錯雑した文字列からは、

 

人生の悲鳴を聞きていたいたしい

そして自分も悲鳴をあげてゐる

 

や、

 

人生の悲鳴を聞いていたし

そして自分も悲鳴をあげてゐる

 

を引き出すことも可能ではある。私はこれほど文字列の錯綜があり、原稿草稿もない場合(解題の書き方からはそうした校合可能な何物かがあるようには思われない)、寧ろ、本文では不可解な文字列のママの形を採り、解題で校訂案を提示するのがよいと考えている。一言附しておく。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅28 松島 嶋々や千々にくだけて夏の海

本日二〇一四年六月二十五日(陰暦では二〇一四年五月二十八日)

   元禄二年五月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十五日

である。【その一】この日、塩釜を船出して正午頃、遂に芭蕉は念願の松島に辿り着いた。先にも述べたが、実は芭蕉は松島でちゃんと句を作っている(「奥の細道」ではこの「翌々日」の「五月十一日、瑞巌寺に詣づ」とあるのであるが、実際には芭蕉は、この九日の松島着後すぐに瑞巌寺の総てを拝観し終えてしまっている。ここは松島総説部が長いので、順列を変えずに【その二】として後に記すこととした)。

 

  松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の

  人の風情、此の島にのみ思ひ寄せて、心

  を盡し、巧みをめぐらす。およそ海の四

  方(よも)三里計りにて、さまざまの

  島々、奇曲天工の妙を刻みなせるがごと

  し。おのおの松生ひ茂りて、麗しき花や

  かさ、言はむかたなし。

嶋々や千々(ちぢ)にくだけて夏の海

 

  奥州松島にて

島々や千々にくだきて夏の海

 

松島や千々に碎(くだけ)て夏の海

 

[やぶちゃん注:第一句は「蕉翁文集」(土芳編・宝永六(一七〇九)年完成)の「松島詞書」に載る句形(これに限っては前書及び句は中村吉雄氏の「細道句碑とその周辺 曾良『随行日記』をたよりに」(文芸社二〇〇二年刊)を参考にした)、第二句目は「奥の細道菅菰抄附録」(奥細道附録【菅菰後考】・梨一著・文政一一(一八二八)年少波写)の、第三句目は「俳諧一串抄」(亦夢(えきむ)著・天宝元(一八三〇)年序)の句形。但し、曾良の「俳諧書留」にも載らぬことから、これは旅の後の創作とも言われる。

 ともかくもこの句、如何にもショボい。「奥の細道」に載せなくてよかった。

 なお、存疑の句としては、

 

松島や夏を衣裳に月と水

 

がある(この句の部分異形句が他に三句有り)が、恥の上塗りである。採らない。

 以下、「奥の細道」塩釜から松島の段。

   *

[やぶちゃん注:頭の八字は前の「末の松山」から「塩釜」の段の末尾「から殊勝に覺らる」の分の空欄。]

        早朝鹽竈の

明神に詣ツ國守再興せられて

宮柱ふとしく彩-椽きらひやかに

石の階九尋に重り朝日あけの玉

かきをかゝやかすかゝる道の果塵土

のさかひまて神㚑あらたにまします

こそ吾國の風俗なれといと貴し

神前に古き宝-燈有かねの戸ひら

のおもてに文治三年和泉三郎

奇進と有五百年來の俤今目

の前にうかひてそゝろに珍し

渠は勇義忠孝の士也佳名今

に至りてしたはすと云事なし誠人能

道を勤義を守て佳命をおもふへし

名も又これにしたかふと云り

日既午にちかし船をかりて松嶋に

渡ル其間二里餘小嶋の礒につく

抑松嶋は扶桑第一の好風に

してをよそ洞庭西湖を恥す

東南より海を入て江の中三里浙(セツ)

江の潮(ウシホ)をたゝふ嶋々の數を盡して

欹(ソハタツ)ものは天を指ふすものは波に圃(ハラ)

匐(ハウ)あるは二重にかさなり三重に

疊(タヽミ)て左りにわかれ右につらなる負る

あり抱(イタケ)るあり、兒-孫愛すかことし

松のみとりこまやかに枝-葉汐風に

吹たはめて、屈-曲をのつからためた

るかことし其氣色窅(ヨウ)然として

美人の顏を粧ふ千早振神のむかし

大山すみのなせるわさにや造-化の

天工いつれの人か筆をふるひ詞を

盡さむ

小嶋が礒は地つゝきて海に成出たる嶋也雲

          石

居禪師の別室の跡坐禪■なと有將松

の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて落

ほ松笠なと打煙たる草の庵閒に住なし

いかなる人とはしられすなから先なつかしく立

寄ほとに月海にうつりて晝のなかめ又

あらたむ江上に歸りて宿を求れは窓を

開き二階を作て風雲の中に旅寢する

こそあやしきまてたへなる心地はせらるれ

             曽良

  松島や鶴に身をかれほとゝきす

予は口をとちて眠らんとして

いねられす旧庵をわかるゝ時素堂

松嶋の詩あり原安適松がうらしまの

和歌を贈らる袋を解てこよひの

友とす且杉風濁子發句あり

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

 

〇かゝる道の果塵土のさかひまて神㚑あらたにましますこそ吾國の風俗なれといと貴し

 ↓

●かゝる道の果、塵土の境まで、神靈あらたにましますこそ、吾國の風俗なれと、いと貴けれ。

 

〇誠人能道を勤義を守て佳命をおもふへし名も又これにしたかふと云り

 ↓

●誠、「人、能く道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふ。」と云へり。

 

〇小嶋の礒につく        → ●雄島の磯につく

〇抑松嶋は扶桑第一の好風にして

 ↓

●抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして

〇小嶋か礒は          → ●雄島が磯は

〇海に成出たる嶋也       → ●海に出たる島也

〇且杉風濁子發句あり      → ●且、杉風・濁子(ぢよくし)が發句あり

■やぶちゃんの呟き

「鹽竈の明神」現在の宮城県塩竈市一森山(いちもりやま)にある鹽竈神社。

「國守再興せられて」ウィキの「鹽竈神社」によれば、『近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した』とあり、『初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは』元和五(一六一九)年に社領二十四貫三百三十六文を寄進、慶長一二(一六〇七)年に社殿造営を行い、第二代藩主忠宗は寛永一三(一六三六)年に鐘楼を再興、寛文四(一六六四)年に拝殿、さらに慶安三(一六五〇)年には長床(神社建築の一つで本殿の前方にたつ細長い建物。単なる拝殿ではなく、修験者,行人(ぎようにん:平凡社「世界大百科事典」によれば、諸堂の管理や供華点灯を始めとして炊事給仕など寺社に於いて雑務に従事した僧。)らの宿泊や参籠の場を提供する建築区画を指す。)を修造している。三代藩主綱宗は伊達騒動で万治三(一六六〇)年に家督を子綱村に譲ったが、寛文三(一六六三)年に大幅な社殿改築を行うとともに社領七貫五八四文を寄進しており、彼は『歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せ』、芭蕉来訪の前の、貞享二(一六八五)年には塩竈の租税免除や市場開催許可及び港湾整備を行って同地を手厚く遇している。貞享四(一六八七)年には『吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙され』、さらに後の元禄六(一六九三)年には『神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させ』、元禄八(一六九五)年には『社殿の造営計画を立てて工事に着手』、九年後の第五代藩主吉村の宝永元(一七〇四)年に竣工している。『この時造営されたものが現在の社殿である』とある。ここで芭蕉が言うのは、無論、伊達綱村のこと。

「宮柱ふとしく」「ふとしく」は元来、「古事記」に出る「太知る」(ラ行四段活用)、「万葉集」に出る「太知く」(カ行四段活用)という動詞で、宮殿の柱などをしっかりと立てるの意。諸注は「内外詣」(金剛流の伊勢神宮の神事を扱う特異な能)など、謡曲の慣用句とする。

「彩-椽」は「さいてん」と読み、彩色を施した垂木(たるき)のこと。山から切り出したままの材を用いた白木の垂木をいう「采椽」からの造語とする(後半は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」の注に拠る)。

「九尋に重り」流布本では「九仭」で非常に高いことをいう。「書経」の「旅獒」に基づく「九仞の功を一簣(き)に虧(か)く」という故事成句で知られる(九仞の高い山を築くのに最後の一杯の簣(き:もっこ。)の土を欠いても完成はしない。転じて長い間の努力も最後の詰めの僅か一つで完成せずに失策となるという譬え)。

「あけの玉かきをかゝやかす」先の富山奏氏の注にやはり謡曲の慣用句とする。

「文治三年」西暦一一八七年。

「和泉三郎」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男で藤原泰衡の異母弟。泉三郎は通称。泉冠者とも。ウィキの「藤原忠衡」によれば、文治三年十月二十九日、『父秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗するよう遺言して没した。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された』(「吾妻鏡」文治五年六月二十六日の条。享年二十三)。『「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は忠衡のものとする説があったが』、昭和二五(一九五〇)年の実見調査によって確認された晒首の『痕跡から、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している』。『妻の佐藤基治(信夫荘司)の娘は、忠衡の菩提をとむらうため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した』というとある。佐藤基治は「弁慶が笈をもかざれ紙幟」の注をも参照されたい。総ては意識的に「平泉」に向くベクトルとして配置されてあるのである。

「五百年來」文治三年から元禄二年までの間は五百二年。今の我々は西暦によって簡単に区間計算が可能であるが、山本胥氏も「奥の細道事典」で素朴な疑問として述べておられるが、当時の人々は一体どのような方法で以って計算をしていたのであろうか? 各将軍の在位が何年、開幕から何年、どれそれの戦さがその何年前という足し算を常に意識の中で心得ていたのであろうか? いや、西暦年号を覚えるのが厭で、日本史も世界史も選択しなかった(私は地理と政経を選択した。孰れにせよ、それで受けた新潟大と富山大は落ちたのであったが)私には頭が下がるばかりである。

「人、能く道を勤め、義を守りて佳命をおもふべし、『名も又、これにしたがふ。』と云へり」「古文真宝後集」の韓愈「進學解」(進學の解)に『動而得謗、名亦隨之』(動きて謗(そし)りを得、名も亦、之に隨ふ)とあるのに拠る。これは韓愈の実体験に基づく感懐で、私は「行動すると悪口をいわれ、名声や評判もそれに随って悪くなるというわけだ。」の謂いであるが、ここはそれをポジティヴな意味、「名声もまたその人の正しい節に基づいた正しい行動に伴って自然、生ずるものなのである、という意に反転させてある。

「船をかりて」当時の出船場所は現在のJR仙石線本塩釜駅の市役所壱番館庁舎前の道の向かい辺りであった。

「二里餘」約七・九キロメートル。

「小嶋の礒」流布本は「雄島(をじま)の磯」。これならば、松島海岸の島の知られた島の固有名。渡月橋で陸と繋がる歌枕で、古来より真言密教の修業の場でもあった。現在の松島海岸駅の東南四〇〇メートル程の位置にあり、現在は「おしま」と濁らない。

「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして」流布本で追加されたこの謂いは、新潮古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」の注によれば、「ことにふりたれど、同じこと、また今更に言はじとにもあらず」という「徒然草」第十九段の謂いを踏まえ、さらに例の仙台で世話になった嘉右衛門加之が天和二(一六八二)年に実質的に執筆した大淀三千風撰「松島眺望集」にある『それ松島は日本第一の佳境なり』『けだし松島は天下第一の好風景』などとあるのを指す、とある。

「三里」約一一・八キロメートル。この数値は恐らく最初に上陸した雄島から東の宮戸乃尖端である萱野崎辺りまでの直線距離(地図上で一一・七キロメートル)を指しているように思われる。

「浙江の潮」景勝地浙江省西湖の傍を流れる銭塘江(せんとうこう)。河口では潮波が垂直の壁となって激しく河を逆流する海嘯(かいしょう)現象が発生することで知られるが、松島湾の潮汐は特異ではない。寧ろ芭蕉はここで永年の潮汐現象によって奇岩奇石が生じたことを言わんとしているのであろう。

「兒孫愛すがごとし」杜甫の七律「望岳」(岳を望む)の首聯、

 西嶽崚嶒竦處尊

 諸峰羅立似兒孫

  西岳 崚嶒(りようそう)として 竦處(しようしよ)すること尊し

  諸峰 羅立して 児孫(じそん)に似たり

――五岳の名峰西岳たる華山は高く嶮しく、そして、その聳えてどっしりとしているさまはまことに尊い。それに比べれば、他の視界にある諸峰は、確かに連なり突っ立ってはいるものの、所詮、華山という祖の子どもか孫のようなものである。――というのに基づく。

「窅然」恍惚として見とれること。

「顏」「かんばせ」と読む。

「大山ずみ」「大山祇」(正しく「おおやまづみ」)で山を掌る神名。

「雲居禪師」「うんご」と読む。土佐生まれの臨済宗妙心寺派禅僧。寛永一三(一六三六)年の第二代藩主伊達忠宗に招かれて瑞巌寺に入り、伊達氏の保護もあって瑞巌寺中興の祖となった。瑞巌寺の七堂伽藍の整備は彼の手に成る。芭蕉来訪の三十年前の万治二(一六五九)年に七十八で没している。

「別室」雲居禅師個人の座禅堂。把不住軒(はふじゅうけん)と号した。

「坐禪■」「石」は右に行間に添えてあるが、「■」の部分には小さな「ハ」に似た何かが書かれている。但しこれは、行間で補った文字がここに入ることを示すためのただの記号であるのかもしれない。識者の御教授を乞うものである。

「草の庵」先に示した三千風の「松島眺望集」にここには先の把不住軒の他に、『また松吟庵とて道心者の室あり』とあり、また「曾良随行日記」にも『御嶋、雲居の坐禪堂有。その南に寧一山の碑之文有。北に庵有。道心者住す。』と記す。

「江上に歸りて宿を求むれば、窓を開き、二階を作りて風雲の中に旅寢するこそあやしきまてたへなる心地はせらるれ」芭蕉が泊まったのは、「曾良随行日記」によって、やはりかの仙台の加右衛門の紹介による久之助と称する者の旅宿であった。瑞巌寺総門付近にあったものと推定されている。絶景一等地のロケーションである。

   ――――――

★「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」この句、何故か、曾良の「随行日記」や「俳諧書留」に載らず、二年後の「猿蓑」に出現する(他に「陸奥鵆」「続雪丸げ」)。

   *   *   *

   松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ、

 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

   *   *   *

一応、この前書が作句の下敷きをばらしてはいる。則ちこれは、鴨長明の「無明抄」の「千鳥鶴の毛衣を着ること」の、

   *   *   *

俊惠(しゆんゑ)法師が家をば歌林苑と名づけて、月ごとに會しはべりしに、祐盛法師、其會宿にて、寒夜千鳥と云ふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々珍しなどいふほどに、素覺といひし人、たびたび是を詠じて、「面白く侍り。但、寸法や合はず侍らん」と、言ひ出でたりけるに、とよみ(響)になりて笑ひののしりければ、事冷めて止みにけり。「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば甲斐なきものなり」となん、祐盛、語り侍りし。すべては此歌の難心得ず侍るなり。鳥はみな毛を衣とするものなれば、程につけて千鳥も毛皮着ずはあるべき。

   *   *   *

とある一節に基づく(本文は安東次男「古典を読む おくのほそ道」のものを参考に正字化して読み易くした。但し、これは最後は省略されている模様である)。頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈には、この祐盛法師の和歌は「猿蓑さがし」(空然著・文政一二(一八二九)年)に、

   *   *   *

 身にぞ知る眞野の入江に冬の來て千鳥もかるや鶴の毛衣

   *   *   *

とするも『何の集に出ているのか知らない』とする。

 私はこの「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」という句、実は芭蕉の作ではないかと疑っている。詠んだものの、「嶋々や千々にくだけて夏の海」よりはひねりが利いているがどうも観念的で芭蕉の気に入らず、曾良に与えたのではなかったか? わざわざ句の直後に「予は口を閉ぢて」と句を詠まなかったことを暗示させているのも如何にもなポーズではないか? なお、後の「松島の詩」の注も是非、参照されたい。

 最後に。本句にはしかし、「奥の細道」全体での構造上の妙味が別にある(それは安東次男氏も前掲書で以下に示すように指摘しておられるが、私自身、高校の古典の授業でそれに気づき、はっとし、その「対(つい)」の心憎さに思わず呻ったのを決して忘れないのである)。それは、この「松島」の段に対して後に『恨むが如く』絶妙の観音開き、対称絶景として立ち現れることになる「象潟」の段で、芭蕉が詠んだ二句目、

 

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 

が、まさにこの同行の弟子曾良の句(とされる)、

 

松島や鶴に身をかれほとゝぎす

 

と美事な鏡像を成しているからである。安東氏は「象潟」の段のこの「汐越や」の句注で、『象潟(芭蕉)の「鶴脛」は、松島(曾良)の「鶴に身をかれ(ほととぎす)」の写しだというのが何ともしゃれた、同行俳諧である。こういうところを見落とすと俳諧紀行は無意味になる』と述べておられる。……これ何だか、田舎のしょぼくれた高校生の「僕」が安東さんに褒められたようで、ちょっと嬉しいのである……。……駄目押しだ……因みにその授業を受けた富山県立伏木高等学校の学び舎が立っている丘は……その古えの名を「如意が丘」というのだ……知らない?……「義経記」をお読みなさいな……「義経記」ではね、まさにここの近くの「如意の渡し」こそが、あの「安宅」関のエピソードに設定されているんだよ……芭蕉の好きな義経のね……もう一つ、言おうか?……その高校の近くには氷見線の越中国分という駅があるんだが……芭蕉の「奥の細道」の知られた名句――「わせの香や分入右は有磯海」――のロケーションと完全に一致するのはね、ここをおいて他にはないんだよ……

   ――――――

「旧庵」深川芭蕉庵。

「素堂」芭蕉の俳友山口素堂。芭蕉より二歳年長。芭蕉と知り合う前に芭蕉所縁の北村季吟との接触があり、同流の系統で句も蕉風に近いが、終生、あくまでよき友人であった。

「松島の詩」は以下。芭蕉は特に素堂の漢詩の才を推賞したという。

 夏初松島自淸幽

 雲外杜鵑聲未同

 眺望洗心都似水

 可憐蒼翠對靑眸

  夏初(かしよ)の松島 自(おのづか)ら淸幽

  雲外の杜鵑(とけん) 聲 未だ同じからず

  眺望 心を洗ふ 都(すべ)て水に似たり

  憐れむべし 蒼翠の靑眸に對するを

因みに、この二句目はそれこそ「千鳥もかるや鶴の毛衣」を思い出す前に「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の作句の動機となっているように思われないか?(これについて言及する諸注は管見限り見当たらない) とすれば、これをつまびらいているのは曾良ではなく、芭蕉である。前の句の作句者はやはり曾良ではなく、芭蕉なのではあるまいか?

「原安適」(生没年未詳)医師で歌人。晩年は阿波徳島藩主蜂須賀綱矩(つなのり)に仕えたとされ、享保(一七一六年~一七三六年)の初め頃、七十三歳で死去したともいう。江戸の地下歌壇の第一人者で芭蕉だけでなく、曾良とも親しかったらしい(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「松がうらしまの和歌」餞別の和歌は不明。「松がうらしま」は古典集成富山氏の注によれば、『宮城県七ヶ浜(しちがはま)。歌枕』とある。個人サイトと思われる「宮城県ナビ」の「東北の歌枕の地を訪ねて」の「七ヶ浜町」「松ヶ浦島(まつがうらしま)/御殿崎(ごてんざき)」に、『御殿崎は平安時代には松ヶ浦島と呼ばれ、当時の和歌の枕言葉として、その名は京の都まで知られていました。松ヶ浦島は、松ヶ浜地方の総称で、その中心が御殿崎だったのです。実際に、平安の大宮人(おおみやびと)(京都の宮中に住まう人々)は、松ヶ浦島を歌会の歌題としました』。『藩政時代になると、仙台藩主伊達家の遊覧地となりました。その中心となったのが、伊達政宗が松ヶ浜でもっとも眺めのよい鴻ヶ崎(こうがさき)に建てさせた仮館でした。その後、鴻ヶ崎は、お殿様の仮館が建つところという意味から御殿崎と呼ばれるようになり、その地名が今も残されています』として、写真の下にここを詠った古歌が並ぶ。この歌枕についての諸本の記載は乏しく、大変有り難かった。

「濁子」中川甚五兵衛。江戸詰めの大垣藩士で江戸蕉門の一人。]

2014/06/24

Y生へ   山之口貘

 Y生へ

 

惡であつても

自己が

他のものに邪魔されたと

思ふとき

自分を善と見る

そして反抗心は、ムラムラと

燃えのぼり

顏には靑筋を立てる

それこそ

自己に無理解な人間だ

自己に對する〔社会に對しても〕

いさゝかの愛もない人間だ

反抗の心を

矢鱈に左右するものは

所謂杓子定規で、

氣の毒な人間だ

自己の惡を知らない反抗心は

卑劣な人間の

眞理と云へやう……

きみは

卑劣な人間の創造者

に過ぎない。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二二・一・一八』とある。大正一一(一九二二)年二月十一日附『八重山新報』に次ぎの「虐げられるもの」とともに掲載された。ペン・ネームは「佐武路」。
「Y生」邪推すれば第三者に読めないこともない――しかし――「Y生」とは実は山之口貘自身への弾劾とも読めるような気が私にはしている。バクさんなら、あり得る、そんな気が今はしている――

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅27

本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)

   元禄二年五月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十四日

である。【その三】「壺の碑」を見た後、先に示したように芭蕉はこの日の午後二時頃に塩釜に到着、その後に「古今和歌集」「源氏物語」などで知られた歌枕「末の松山」を見ている(「曾良随行日記」八日の条『未の尅、塩竈に着、湯漬など喰。末の松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等を見廻り歸。出初に鹽竃のかまを見る。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衞門狀添。錢湯有に入。』)。「奥の細道」の「末の松山」の段を示す。発句はない。

   *

それより野田の玉川沖の石を

尋ぬ末の松山は寺を造りて

--山と云松のあひあひ皆墓原

にてはねをかはし枝をつらぬる

契りの末も終はかくのこときと

かなしさも増りて鹽かまの浦に

入逢のかねを聞五月雨の空聊

はれて夕月夜かすかに籬か嶋も

程近しあまの小舟こきつれて

肴わかつこゑこゑに

綱手かなしもよみけむ歌のこゝろも

しられていとゝあはれ也其夜目盲法

師の琵琶をならして奥上るりと云もの

をかたる平家にもあらす舞にもあらすひ

なひたる調子打上て枕ちかうかしましけれと

さすかに邊國の遺風忘れさるもの

から殊勝に覺らる

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇綱手かなしもよみけむ歌のこゝろもしられて → ●「つなでかなしも」とよみけん心もしられて

〇邊國の遺風                → ●邊土の遺風

■やぶちゃんの呟き

 全体を支配する感傷の実景とその実感が実に素晴らしい。……これは歌枕をパッチ・ワークしたみたような「作り物」なんかでは、決して、ない――

「野田の玉川沖の石」孰れも歌枕。「野田の玉川」は六玉川の一つで、多賀城跡の東方凡そ一キロメートル、塩釜との境付近にある、現在の塩竈市大日向から多賀城市内を通って砂押川に注ぐ小さな流れをそれと今に伝え、「沖の石」は末の松山から南へ伸びる道を下った直近、旧八幡村の農家の裏にあった奇石が連なる池を指すとする。「千載和歌集」「恋二」の二条院讃岐の第七六〇番歌、

 我戀はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし

で知られる(彼女は後にこの和歌によって「沖の石の讃岐」と呼ばれたとされる)が、実際にはこの和歌が元となって歌枕として設定された逆歌枕であったものらしく、事実、この二つの歌枕は孰れも伊達綱村の代に設定された新歌枕であった。

「末の松山は寺を造りて末--山と云」「末--山」は「まつしようざん」と音読みする。現在の多賀城市八幡の北にある末松山宝国寺(伊達正宗の代に再興。現在は臨済宗妙心寺派)。仙台藩重臣天童氏の菩提寺。本堂の奥に老松が聳える小丘の辺りが歌枕「末の松山」と言われ、これは既に鎌倉時代には比定されていたことが古記録から分かる。ここには当時、連理の枝を模した相生の松など青松数十株があり、本の松山・中の松山・末の松山と三つの松山があったともされ、ここからは海も望見された。

「はねをかはし枝をつらぬる契り」「翼を交はし、枝を連ぬる契り」ご存知、不変の恋の誓約の象徴で比翼連理の契り。

「入逢のかね」来世までもという祈誓も所詮空しい墓原の散骨相から、諸行無常の響きをもって、次のシーンの「平家にもあら」ざる「奥浄瑠璃」へと響き合うようになっている。

「籬が嶋」歌枕。塩釜沖の小島。

「こぎつれて肴わかつ」漕ぎ連ねて岸へ戻り来ては、威勢よく、漁(すなど)った魚を分け合う。……美事なリアリズムではないか!――

「綱手かなしもよみけむ歌のこゝろもしられていとゝあはれ也」源実朝の「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」を指す。これは前の「あまの小舟こきつれて肴わかつこゑこゑ」を受けて「世の中は常にもがもな」「のこゝろもしられ」るように、大観的な無常感を、刹那の常民の生き生きとした景とオーバー・ラップさせて、心憎い。

「奥上るり」奥浄瑠璃。御国浄瑠璃ともいい、仙台地方を中心に語られた古浄瑠璃風の芸能。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「末の松山」の注によれば、当時は義経奥州下りの段などが演じられたという。……私にはこの盲目の琵琶法師のその節が、はっきりと聴こえる――

「舞」幸若舞。室町時代に流行した簡単な舞を伴う語り物。南北朝時代の武将桃井直常の孫の幸若丸直詮(なおあき)を始祖とすると伝える。多く軍記物を題材とした。

「ものから」接続助詞(形式名詞「もの」+格助詞「から」)。古文の試験でよく出るいやらしいものは逆接の確定条件であるが、ここは素直に「ものだから」で理由・原因を表す。……ああ、実に確かに私は永い間、如何にもいやらしい試験問題を作り続けたものだったとつくづく思う……試験など、糞喰らえ、だ!――]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑

本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)

   元禄二年五月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十四日

である。【その二】岩切で「奥の細道」に踏み入って、「十符の菅」を見物した後、芭蕉は塩釜へと向かうが、その途中、市川村の多賀城跡(現在の宮城県多賀城市市川字城前周辺)で「壺(つぼ)の碑(いしぶみ)」と当時されていた碑を、芭蕉も無論、そのものと信じて親しく実見、以下の通り、非常に深く感動したのであった。しかし実はこれは「壺の碑」ではなかった(後注参照)。「奥の細道」の「壺の碑」の段を示す。発句はない。

   *

  壷碑 市川村多賀城ニ有

つほの石ふみは高さ六尺餘橫三尺計歟苔を

穿て文字幽也四維国界之數里を印此城

神亀元年按察使鎭守苻將軍大野

朝臣東人之所里也天平宝字六年

參議東海東山節度使同將軍惠

美朝臣※修造而十二月一日と有

[やぶちゃん注:「※」=「獦」-「葛」+「萬」。]

聖武皇帝の御時に当れりむかし

よりよみ置る歌枕多く語傳ふ

といへとも山崩川流て道あらたま

り石は埋て土にかくれ木は

老て若木にかはれは時移り

代變して其跡たしかならぬ

事のみを爰至りてうたかひなき

千歳の記念今眼前に古人の心

を閲す行脚の一德存命の悅

羇旅の勞をわすれて泪も落る

はかり也

   *

■やぶちゃんの呟き

「壷碑」これは征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。ウィキの「つぼのいしぶみ」によれば、十二世紀末に編纂された「袖中抄」十九巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村將軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とあるもので、後に歌枕として西行・藤原清輔・源頼朝ら多くの和歌に詠まれ文章にも綴られたが、永く当該比定の決定的な碑は見つかっていなかったそれらの後世の和歌では孰れも『「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということを』この歌枕の特異的属性として使用している。実は現在も比定不能である。詳しくは当該ウィキを参照されたいが、この多賀城碑壺碑説(これは三千風や嘉右衛門ら民間の風流人士による歌枕比定の地方文芸活動とは別に、公的にも伊達藩自体が藩内に古えの歌枕を強引に比定しようとする謂わば文芸的ナショナリズムのようなものが当時存在したことがリンク先や諸本に見える)の他に、青森県東北町の坪(つぼ)村の千曳(ちびき)神社に、ある石碑を千人で曳いて社の地下に埋めたとする伝承があり、昭和二四(一九四九)年になって千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間にある谷底に落下していた巨石を発掘したところが「日本中央」という文字の彫られた碑が発見され、これが壺の碑であるとする説がある(但し、この地までは田村麻呂が到達していないことと、発見時の保全が杜撰であったために真贋の鑑定は不能となった)。
 ところが、伊達綱村の代に、ここ多賀城跡より一つの碑が発掘され、それが当時、その「壺の碑」であると比定され、芭蕉もこれを真の「壺の碑」として対面したのであった。事実は養老八・神亀元(七二四)年の多賀城創建と天平宝字六(七六二)年の多賀城改築を伝える記念碑であったことが現在、明確となっている。ウィキの「多賀城碑によれば、『石材は花崗砂岩(アルコース)』(現地の南東百メートルに露出する中生代三畳紀の利府層』が非常によく似た岩石を含む)、碑本体の高さは約一・八六メートル、幅約一メートル、厚さ約五〇センチメートルで、『その一面を平らにして字を彫っている。その額部には「西」の字があり、その下の長方形』の線刻の内側に十一行百四十字『の碑文が刻まれている。碑に記された建立年月日は』天平宝字六年十二月一日で多賀城の修築記念に建立されたと考えられている。『内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年』(七二四年)『に設置され、恵美朝狩(朝獦)』(後注)『によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる』。『現在は多賀城跡内の覆堂の中に立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間』(一六五八~一六七二年)『の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった』。以前は偽作説もあったが、現在では真作と考えられており、また日本『書道史の上から、那須国造碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされ』ている。以下、芭蕉も懸命に判読しようとした同ウィキに載る碑文テクストを示しておく(「神」を正字化した)。

 

多賀城

去京一千五百里

去蝦夷國界一百廿里

去常陸國界四百十二里

去下野國界二百七十四里

去靺鞨國界三千里

此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將

軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置

也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山

節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守

將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也

天平寶字六年十二月一日 

 

「高さ六尺餘横三尺計歟」「六尺」は約一・八二メートル、「三尺」は九一センチメートルであるから現在の実測にほぼ一致する。

「四維国界」「しゆいこくかい」で四方の国境。

「神亀元年按察使鎭守苻將軍大野朝臣東人之所里也」「神亀元年」は聖武天皇即位の年で西暦七二四年。この年の四月に蝦夷の反乱が勃発、当時、安房・上総・下総三国の按察使で式部卿であった藤原宇合(うまかい:右大臣藤原不比等三男。)が持節大将軍に任命されて出兵しているが、実はこの前後に「鎭守苻將軍大野朝臣東人」則ち、大野東人(おおののあずまびと ?~天平一四(七四二)年)が蝦夷の鎮定とその経営に尽力した。彼は先立つ養老四(七二〇)年に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠としてまさにこの多賀柵(たがのさく)を築いたのであった。天平元(七二九)年には陸奥鎮守将軍に任ぜられていた彼が鎮兵の行賞を奏上しており、その後も蝦夷の開拓を進めて、天平五(七三三)年にはそれまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移設するなどしている(ここはウィキの「大野東人」による。不審なことに「奥の細道」の注釈本はこうした彼の事蹟を詳述しておらず――ものによっては完全にスルーしていてこれを先に示した藤原宇合に誤読するような悪注もある――私は今回の注で初めて彼の具体な事蹟を知った)。「所里也」芭蕉の誤判読。「所置也」(置く所なり)で最初期の防衛線としての山塞としての多賀柵(多賀城(たがのき))を築いたことを指す。

「天平宝字六年」西暦七六二年。

「參議東海東山節度使同將軍惠美朝臣※」「※」は示した通り(「獦」-「葛」+「萬」)であるが、これも芭蕉の誤判読で「獦」である。これは奈良時代の公卿藤原朝狩(あさかり ?~天平宝字八(七六四)年)のことで名は「朝獵」「朝狩」とも書き「恵美朝獦」とも称した。藤原仲麻呂(太保(右大臣)恵美押勝)四男で従四位下・参議。天平宝字三年に正五位下となって陸奥鎮守将軍に任ぜられて蝦夷鎮撫に下向した。以下、ウィキの「藤原朝狩」によると、天平宝字四(七六〇)年に父仲麻呂が太師(太政大臣)に任ぜられると、朝狩も先の陸奥国に於ける蝦夷の鎮撫と皇民化、無血による雄勝城(おかちのき:朝狩が前年に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。現在は比定不能。)完成の功により、従四位下に叙されて同年中には仁部卿及び東海道節度使にも任ぜられた。天平宝字六(七六二)年に仲麻呂が正一位に昇叙されると、朝狩は兄の真先・訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子四人が同時に公卿に列するという異例の事態となり、まさに位人臣を極め栄耀栄華を誇った仲麻呂一族であったが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになって仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところが上皇が激怒して天皇から政権を奪い、道鏡派(孝謙上皇派)と仲麻呂派(淳仁天皇派)の対立抗争が勃発する。天平宝字八(七六四)年九月に仲麻呂は反乱を計画するも密告により発覚、孝謙上皇派に先手を打たれたため、仲麻呂一族は平城京を脱出、朝狩もこれに従った。仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国国衙に入って再起を図ろうとしたが、官軍に先回りされてこれを阻まれ、仲麻呂八男の辛加知(しかち)が国司を務めていた越前国を目指したが、官軍が越前国衙へ先回りして未だ事変勃発を知らなかった辛加知を斬殺した上、国境の関を封鎖、仲麻呂一族は近江国高島郡に退いて抵抗するが、結局、一族悉く滅亡したとある。

「聖武皇帝の御時に当れり」誤り。聖武天皇の在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年八月)で、天平宝字六(七六二)年は淳仁天皇(淡路廃帝(あわじはいたい))の第五年である。

「木は老ひて若木にかはれば」先の段の武隈の松、次の末の松山などを念頭におく表現。

「代變じて」「よへんじて」と読む。

「記念」「かたみ」と読む。

「行脚の一德、存命の悦び」この行脚の旅の果報として、また、こうして命あること、それゆえにこの古えの歌枕の碑に逢えたことの悦び。 

 

 芭蕉は碑文の内容からも、それが確かな「壺の碑」であるという確信は必ずしもなかったもののようにも思われる。しかし芭蕉にとっては「壺の碑」の真贋などは、実はどうでもいいことであったに違いない。まさに白河関越え以降、初めて確かな「物」としての奥州の古蹟を目の当たりにしたことが芭蕉を「奥の細道」に入った実感として深く心に落ちたのであった。頴原・尾形訳注角川文庫版本文評釈にも、『壺の碑のくだりを特に標題を付して、『古文真宝後集』の「碑類」に擬した独立の一章に仕立てあげたのは、それが遠い古代の姿をそのままに現前していることに対する感動の強烈さによるもので』、「壺の碑」としての真贋など『は当時の芭蕉の関知するところではなかった』とし、

   《引用開始》

すべて陸奥の歌枕が、未知の辺境、古代的なるもの、異国的なるものへのあこがれの上に成り立っている中でも、壺の碑は文化果つる所として最も強く中世の歌人たちの辺境への思慕を駆り立てた詩材であったが、芭蕉にはこの遣物がただに古代の姿をそのままに存しているだけでなく、碑面の文字を通して古代国家のさいはての地を踏まえ四維の国境を望んだ「古人の心」をさながらに語りかけていると思われたのである。碑面の文字を写し取ることは、したがって、この一章の中では特に重要な意味をになっている。古代の遺石に刻まれた古代の文字に接しての感慨を述べている点で、これは韓退之(かんたいし)の「石鼓歌」、蘇東坡の「後石鼓歌」と一脈通ずるところがあるが、ただ違うのは、それらが古代の文字を解し得ぬ嘆きを述べているのに対して、これは「千歳のかたみ」として「古人の心」に触れ得た「喜び」を語っている点である。天地の流転の相の中に、永劫不変の「千歳のかたみ」「古人の心」を感得した芭蕉のこの歴史的感動は、やがて不易流行論の提唱へと展開してゆくことになる。

   《引用終了》

と評してある。私はこれに激しく共感する。まさに芭蕉がこの碑に激しく共感したように、である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅25 あやめ草足にむすばん草鞋の緒

本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)

   元禄二年五月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月二十四日

である。【その一】先に述べた通り、芭蕉は五月四日に白石を午前七時半頃に発って、最長不倒距離である五十キロを踏破して、午後六時半頃、仙台に到着している。ところが、紹介状によって予定していた宿所を頼みとしていた仙台藩士には断られ、ここにいると思っていた旧知の俳人大淀三千風もとうにこの地を出ていたなどして、仙台での滞在には予想外の困難が待っていた。そうしたプラグマティクな理由もあるか、現存する発句はこの八日(実際の句作は餞別を貰った前夜であろうが、そうするのは却って無粋というものである)までない。それでも画工の嘉右衛門というよき友人にも出逢え、仙台の名所歌枕など、いろいろなところを案内して呉れた。この句は仙台を発つその時の餞別句である。

 

  仙臺に入(いり)て、あやめふく日也。旅

  宿に趣(おもむ)き、畫工嘉右衞門(かゑ

  もん)と云(いふ)もの、紺の染緒(そめ

  を)付(つけ)たる草鞋(わらぢ)二足

  餞(はなむけ)す。さればこそ風流のしれ

  もの、爰にいたりて其實をあらはす

あやめ草足にむすばん草鞋の緒

 

あやめ草紐にむすばん草鞋の緒

 

[やぶちゃん注:第一句は「鳥之道集」(とりのみちしゅう・玄梅編・元禄十年序)の前書で句形は「奥の細道」と同じ、第二句は「泊船集」の句形。

 「曾良随行日記」はこの間の事情を以下のように記す。

 

五日 橋本善衞門殿ヘ之狀、翁持參。山口與次衞門丈ニ而宿ヘ斷有。須か川吾妻五良七ヨリ之狀、私持參、大町貳丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衞方ヘ屆 。甚兵衞留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不ㇾ知。其後、北野や加衞門(國分町ヨリ立町へ入、左ノ角ノ家ノ内)ニ逢、委知ル。

六日 天氣能。龜ガ岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ歸ル。

七日 快晴。加衞門(北野加之)同道ニ而權現宮ヲ拜。玉田・横野ヲ見、つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。藥師堂、古ヘ國分尼寺之蹟也。歸リ曇。夜ニ入、加衞門・甚兵ヘ入來 。册尺幷横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衞門持參。翌朝、のり壹包持參。夜ニ降。

八日 朝之内小雨す。巳の尅より晴る。仙臺を立。十符菅・壷碑を見る。未の尅、塩竈に着、湯漬など喰。末の松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等を見廻り歸。出初に鹽竃のかまを見る。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衞門狀添。錢湯有に入。

 

とある。小雨が上がって晴れた清々しい気の中、嘉右衛門の餞別である、足が摺れぬようにと紺の染緒のついた草鞋を履いた芭蕉と曾良、芭蕉は――このあなたの心の籠った染緒に、私は未だに差し置かれてある邪気を払う軒菖蒲を引き抜き、あなたの心配りに敬意を表して、これからの旅の安全のためにそれを一緒にこの緒にひき結んで、旅立ちまする――というのである。

   *

名取川をわたつて仙台に入あやめふ

く日也旅宿をもとめて四五日逗留す

爰に畫工加右衞門と云ものあり聊心

ある者と聞て知る人になるこの

もの年比さたかならぬ名ところを考置

侍れはとて一日案内す宮城野の

萩茂りあひて秋のけしきおもひ

やらる玉田よこ野つゝしかおかはあせひ

咲比也日かけもゝらぬ松の林に

入て爰を木の下と云とそむかしも

かく露ふかけれはこそみさふらひみ

かさとはよみたれ藥師堂天神の

御社なとおかみて其日はくれぬ

猶松嶋塩かまの所々畫にかきて

送る且紺の染緒つけたる草鞋

二足はなむけすされはこそ

風流のしれもの爰に至りて

其實を顯す

 あやめ草足に結ん草鞋の緒

彼畫圖にまかせてたとり行はおくの細道

の山際に十符の菅有今も年々十符の

菅菰を調て国守に獻すと云り

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇秋のけしきおもひやらる  → ●秋の氣色思ひやらるる。

[やぶちゃん注:流布本は連体中止法。]

■やぶちゃんの呟き

「あやめふく日」菖蒲葺く日で五月五日端午の節句。実際の仙台滞在二日目がこの日であった。飯塚の「五月朔日」から「岩沼に宿る」で、ど素人でも本文の虚構がバレるように出来ている。芭蕉は虚構を隠そうとしていないことがこれで判明する。一部の芭蕉密偵説が「奥の細道」の虚構を隠密行動の隠蔽のためとする説には私は全く従えない。が、この伊達藩内での芭蕉の動静や「曾良随行日記」に見えるところの、偶然の一致とは思われぬ、立て続けのトラブルというのは、やはり気になる。藩士橋本善衞門が宿所を断りながら、その代替の宿舎をさえ紹介していないのには、藩内の芭蕉個人に対する警戒心が作用しているようにさえ思われ、この後の松島を発った五月十日の「日記」の、喉の渇きに水を求めんとした二人に対し、『家毎に湯乞共不ㇾ與』という村人の反応はとりもなおさず、伊達藩が公に触れた、部外者との接触を禁じたものであったに違いないと読むからである。因みに実は私は芭蕉の密偵説を多少信じている部分がある。それはやはり、芭蕉が本書の冒頭で「まづ心にかか」ったと述懐したところの松島で、何故、名吟を作り得なかったのかというありがちな素朴な疑問と、こうした奇妙な不都合の山積から弾き出されてくる奇妙な暗合なのである。実際、この後も「奥の細道」には発句が平泉まで全く登場せず、現存する全句集でも後掲する松島での句とされるピンとこない凡庸な「島々や千々にくだけて夏の海」一句が残るのみである。彼は実は何かに忙しくて、松島で名吟を作り得なかったのではなく、そうした心のゆとりをさえ持てない状態にあったのではなかったか? という推理である。これは必ずしも私のトンデモ説でも何でもないようで、例えば金谷信之氏の「情報千一夜物語」の「奥の細道はスパイ行(情報収集)」には『最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである』とあるのにはちょっとほっとした(芭蕉の前半生には不明の部分が多いが、近年の研究によって水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に相応な事務職として関与していたことが分かっている)。

「畫工加右衞門」芭蕉が仙台で訪ねようとした(というより、宿泊のための有力第二候補としていた)大淀三千風の高弟で俳諧書林を営んでいた北野屋嘉右衛門。俳号は和風軒加之(かし)。先の「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」をも参照されたい。

「年比さだかならぬ名どころを考へ置き侍ればとて」永年私は、場所の定かならざる歌枕につき、いろいろと調べては考証なんどをして御座いますればとて、の意。

「宮城野」仙台市東方の郊外一帯。著名な歌枕。

「玉田・よこ野」古い歌枕で摂津や河内説もあるが、この前に大淀三千風やこの嘉右衛門らによって仙台の歌枕と比定されていたやはり仙台市東方の郊外の地。

「つゝじがおかはあせひ咲比也」榴(つつじ)ヶ岡。現在の仙台市若林区木(き)の下で、これは前の二つの歌枕とセットで源俊頼の「散木奇歌集」の第一五六番歌、

 取りつなげ玉田横野の放れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり

を踏まえる(あせみ:あせび。馬酔木。)。この馬酔木の花は無論、歌からの引用であって、とあるその頃が美しいであろうという謂いである。

『昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ』は「古今和歌集」巻第二十「大歌所御歌」の「東歌」、一〇九一番歌、

 みさぶらひみかさと申せ宮城野の木(こ)の下露(したつゆ)は雨にまされり

を踏まえたもの。――古えもかくも露が深かったからこそ古歌に於いて「御侍(貴人の御家来衆)よ、ご主人に『御笠を召し下さいませ』と申し上げなさいませ、この宮城野の木(こ)の下に落ちて参ります露は雨にもまさっておりまするから。」とは詠んでおるのである、という意である。

「藥師堂」木の下にある陸奥国分寺跡。伊達正宗により再興されたもの。

「天神の御社」榴ヶ岡にある天神社。四代伊達綱村が建立したもの。

「風流のしれもの」風流の痴れ者。芭蕉と心を一にする風狂人という絶賛この上なき褒賞の言辞である。

「おくの細道」固有名詞。本書と同名にも拘わらず諸注、菅、否、すげない。僅かに新潮古典集成の「芭蕉文集」で富山奏氏が、『仙台市より多賀城市への同注の岩切(いわきり)附近。三千風ら』『によって名所と定められたが、芭蕉がこれを紀行の題名としたのは、辺土の旅に新しい風雨がを想像する意欲を込めたものである』と記すのみ。私はこの見解に強く賛同する。本書「奥の細道」はここに、芭蕉の意識の中で当時のモダンな新歌枕を謀らんとする目論見として起動していると私は思うのである。

「十符(とふ)の菅(すげ)有り。今も年々十符の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守に獻ず」頴原・尾形校注角川文庫版注に、『編み目十筋をもって幅広く編んだ菰の料としての菅。古歌に陸奥の名産とされ、当時、岩切付近で栽培されていた』もので、『伊達綱村の郷土の名産保護奨励策による』とある。]

2014/06/23

橋本多佳子句集「紅絲」 蘇枋の紅 Ⅴ

 

しやぼん玉窓なき廈(いへ)の壁のぼる

 

コンクリートに童子のしやぼん玉はずむ

 

旅の椅子仔雀はいま地(つち)にゐて

 

  清、一周忌近し、面影を忍びて 三句

 

死が近し翼を以て蝶降り来(く)

 

太虚より蝶落ちにおつ身をもだえ

 

手にとりて死蝶は軽くなりにけり

 

[やぶちゃん注:先に出た不詳の「伊地知清」氏であろう。]

 

旅了らむ燈下に黒き金魚浮き

 

夜具の下畳つめたき四月尽

 

枕せば蚊ごゑ横引くひとの家

杉田久女句集 242  花衣 Ⅹ

 

せゝらぎに耳すませ居ぬ山櫻

 

花腐(くだ)つ雨ひねもすよ侘びごもり

 

船長の案内くまなし大南風

 

翠巒を降り消す夕立襲ひ來し

 

旱魃の舗道はふやけ靴のあと

 

夜毎たく山火もむなしひでり星

 

汲み濁る家主の井底水飢饉

 

水飢饉わが井は淸く湧き澄めど

 

夏の海島かと現れて艦遠く

 

煙あげて鹽屋は低し鯉幟

 

大阪の甍(いらか)の海や鯉幟

 

目の下の煙都は冥し鯉幟

 

男の子うまぬわれなり粽結ふ

 

櫛卷の歌麿顏や袷人

 

ミシン踏む足のかろさよ衣更

 

蒼朮(そうじゆつ)の煙賑はし梅雨の宿

 

焚きやめて蒼朮薫る家の中

 

[やぶちゃん注:「蒼朮」中国華中東部に自生する多年生草本のキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎を乾燥させた生薬。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがある。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、草体の『日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれ』、『特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。]

 

おくれゐし窓邊の田植今さかん

 

早苗水走り流るゝ籬に沿ひ

 

おくれゐし門邊の早苗植ゑすめり

 

一人寢の月さへさゝぬよき蚊帳に

 

踏みならす歸省の靴はハイヒール

 

寮の娘や歸省近づくペン便り

 

[やぶちゃん注:この句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和八(一九三三)年のパートに配されてある。一見、この年に東京の女子美術専門学校に進んだ次女光子のようにも見えるが、実は長女昌子がこの前年昭和七年八月に横浜税関長官房文書係雇として就職しており、角川版の前年パートに後に出る

  昌子よりしきりに手紙來る 三句

春愁の子の文長し憂へよむ 

春愁癒えて子よすこやかによく眠れ

望郷の子のおきふしも花の雨

の三句が載ることから、私はこれらは「寮の娘」という措辞から長女昌子を詠んだものと推定する。前の句はかく並べられると「ハイヒール」からやはり昌子のように見えるが、角川版では創作年代未詳の『昭和四年――昭和十年』パートに配されてあるので断定は出来ない。本底本句集は時期の異なる句が季題別に纏められているので、その点、一読連作ととるのはこれ以降の「歸省子」の句群でもかなり危険であることを言い添えておく。]

 

歸省子の琴のしらべをきく夜かな

 

歸省子やわがぬぎ衣たゝみ居る

 

[やぶちゃん注:角川版では大正一四(一九二五)年のパートにある。この時、昌子十四歳、光子九歳であるから、この「歸省子」は(ご本人である長女石昌子さんの編になる底本年譜にはご本人と次女光子さんの事蹟記載が極めて少ないので特定は出来ない)感触としては長女昌子か。]

 

いとし子や歸省の肩に繪具函

 

[やぶちゃん注:この句に描かれたのは「繪具函」から次女光子と考えてよいであろう。]

 

歸省子と歩むも久し夜の町

 

遊園の暗き灯かげに涼みけり

 

起し繪の御殿葺けたる筧かな

 

[やぶちゃん注:この句、今一つ、句意が取れない。「起し繪」は組立灯籠(くみたてとうろう)とか立版古(たてばんこ)とも言い、しばしば子供の絵本に見られる建物・樹木・人物などを切り抜いて枠の中に立て、風景・舞台などが立体的に再現されるようになっている絵をいう。辞書には茶室の絵図面などにも用いられたとある。「葺けたる」の「葺く」はカ行四段活用であるから、これは已然形か命令形となるが、すると以下の「たる」が分からない。起し絵の御殿が遠近感に齟齬が生じて庭の筧が屋根を葺いているように見えるという意であるなら、連用形接続の完了の助動詞「たり」で「御殿葺きたる」として――御殿葺きとなってしまった(しまっている)筧よ――とするか、若しくは体言接続の断定の助動詞「たり」で「御殿葺(ぶ)きたる」として――御殿の葺(ふ)きとなっている筧よ――でなくてはおかしいと思う。識者の御教授を俟つものである。]

ウォン・ウィンツァン 福島の子供たちの為の 魂のチャリティコンサート

昨日、ウォン・ウィンツァンさんの「福島の子供たちの為の 魂のチャリティコンサート」をウォンさんとフェイスブック仲間の父に付き添って聴かせて頂いたが、2000年頃より私の好きだった幾つかのNHK絡みの楽曲がウォンさんの曲と知り(ほかにも幾つかは恐らくウォンさんの作曲になるものと推測され)、大変感銘した。雨上りの庭園とともに不思議な瞑想の中に入ることが出来た。

2014/06/22

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(3) 承久の乱最終戦後処理【三】――順徳院佐渡遷幸、後鳥羽院皇子雅成親王は但馬へ、同頼仁親王は備前国児島へ配流さる

同二十二日、新院は佐渡國へ移されさせ給ふ。御供には冷泉中將爲家朝臣、花山〔の〕院少將、甲斐(かひの)兵衞佐教經、上北面藤左衞門〔の〕大夫安元、女房右衞門佐局(のすけのつぼね)以下三人ぞ參り給ふ。かくは定聞(さだめきこ)えしかども、爲家朝臣は、ひとまどの御送(みおくり)をも申されず、花山院少將は勞(いたはり)とて道より歸上(かへりのぼ)られ、右兵衞佐教經は道にて身罷りぬ。新院、いとゞ御心細く御送の者共迄も御名殘惜ませ給ひて、今日計(ばかり)明日計と留めさせ給ふぞ哀なる。長歌遊(あそば)して九條殿へ參らさせ給ふ返歌(かへしうた)に、

  長(ながら)へて譬へば末に歸るとも憂(うき)はこの世の都なりけり

九條殿も御歌の返(かへし)とてなが歌遊して返歌ありける。

  厭ふとも長へて經る世中の憂にはいかで春を待べき

同二十四日、一院の御子、六條〔の〕宮雅成親王は但馬國、次の日、冷泉宮賴仁親王は備前の兒島(こじま)へ移されさせ給ふ。衣々(きぬぎぬ)の御別取々の御歎申すも中々愚なり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【三】――順徳院佐渡遷幸、後鳥羽院皇子雅成親王は但馬へ、同頼仁親王は備前国児島へ配流さる〉九条道家の返歌は歯が浮くように私には感じられて仕方がない。というよりこれは自分も御意に等しゅう御座いますなんどと言いながら、望みのない願いなど裁ち切るが宜しゅう御座いましょう、と傷を抉っているようにさえ思われる。

「冷泉中將爲家朝臣」藤原定家の子であった(冷泉)為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。

「花山院少將」一条能氏(生没年未詳)。花山院侍従。一条少将。弟能継とともに鎌倉幕府と繋がりが深く、源実朝が暗殺された建保七(一二一九)年正月の右大臣拝賀式にも出席している。承久の乱では叔父の信能・尊長らは上皇方の首謀者となっている。能氏は「尊卑分脈」に承久の乱で梟首されたとあり、上皇方であったともされるが、「吾妻鏡」には順徳院の佐渡配流に同行し、病いのために途中で京に戻ったという記録が見られる。「承久記」慈光本では弟の能継が乱後に斬首されたとあって能氏との混同が見られる、とウィキ一条能氏にある。増淵氏の現代語訳では『義氏』と割注する。

「ひとまど」一応の。それなりの。藤原(冷泉)為家は本書が元にした「承久記」の記事(後掲)などによれば、順徳天皇の佐渡配流の供奉者として召されたものの応じなかったとある。晩年は阿仏尼との間に冷泉為相を儲けている。

「六條宮雅成親王」(正治二(一二〇〇)年~建長七(一二五五)年)は後鳥羽院皇子。ウィキ雅成親王によると、この後、『父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた』とある。

「但馬國」但馬国城崎(きのさき)郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)。

「冷泉宮賴仁親王」(建仁元(一二〇一)年~文永元(一二六四)年)は後鳥羽院皇子。ウィキの「頼仁親王」によれば、『実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた』ものの、承久の乱によってかく配流となり、『同地において薨去したとされ』る。

「備前の兒島」備前国豊岡庄児島(現在の岡山県倉敷市児島)

 以下、「承久記」(底本通し番号102及び103冒頭部)。

 

 同廿二日、新院、佐渡國へ被ㇾ移サセ給。御供ニハ、冷泉中將爲家朝臣・花山院少將・甲斐兵衞佐教經、上北面ニハ藤左衞門大夫安元、女房右衞門佐局以下三人參給フ。角ハ聞へシカドモ、爲家ノ朝臣、一マドノ御送ヲモ不ㇾ被ㇾ申、都ニ留リ給。花山院少將ハ、路ヨリ勞ハル事有トテ歸リ被ㇾ上ケレバ、イトヾ御心細ゾ思召ケル。越後國寺泊ニ著セ給テ、御船ニ被ㇾ召ケルニ、右兵衞佐則經、ヤマヒ大事ニヲハシケレバ、御船ニモ不ㇾ入シテ留メラレケルガ、軈テ彼コニテ失給ニケリ。新院、佐渡へ渡ラセ給。都ヨリ御送ノ者共、御輿カキ迄モ御名殘惜マセ給テ、「今日計、明日計」ト留メサセ給。ナガ歌遊バシテ、九條殿へ進ラサセ給フ。奧ニ又、

  存へテクトヘバ末ニ歸ル共憂ハ此世ノ都ナタケリ

九條殿、ナガ歌ノ御返事有。是モ又、奧ニ、

  イトフ共存へテフル世ノ中ノ憂ニハ爭デ春ヲ待べキ

 

 同廿四日、六條宮但馬國、同廿五日、冷泉宮備前兒島へ被レ移給フ。カヽル御跡ノ御嘆共、申モナヲザリ也。

 

 「吾妻鏡」も一応示す。承久三(一二二一)年七月。

 

廿日壬寅。陰。新院遷御佐渡國。花山院少將能氏朝臣。左兵衞佐範經。上北面左衞門大夫康光等供奉。女房二人同參。國母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄錄。羽林依病自路次皈京。武衞又受重病。留越後國寺泊浦。凡兩院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚爲之如何。

○やぶちゃんの書き下し文

廿日壬寅。陰り。新院、佐渡國に遷御。花山院少將能氏朝臣、左兵衞佐範經、上北面左衞門大夫康光等、供奉す。女房二人同じく參る。國母修明門院・中宮一品宮・前帝以下、別離の御悲歎、甄錄(けんろく)に遑(いとま)あらず。 羽林、病に依つて路次(ろし)より皈京す。武衞、又、重病を受け、越後國寺泊浦に留まる。凡そ兩院の諸臣、存没の別れ、彼是(かれこれ)共に傷嗟(しやうさ)せずといふこと莫し。哀慟甚だし、之れを如何ん爲(せ)ん。

●「中宮一品宮」順徳帝の中宮九条立子(建久三(一一九二)年~宝治元(一二四八)年)。当時二十九歳。

●「甄錄」はっきりと述べること。

●「傷嗟」傷み歎くこと。

 

廿四日丁未。六條宮遷坐但馬國給。法橋昌明可奉守護之由。相州。武州加下知云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿四日丁未。六條宮、但馬國へ遷坐し給ふ。法橋昌明、守護し奉るべきの由、相州、武州下知を加ふと云々。

 

廿五日戊申。冷泉宮令遷于備前國豐岡庄兒嶋。佐々木太郎信實法師受武州命。令子息等奉守護之云々。」阿波宰相中將。〔信成。〕右大辨光俊朝臣等赴配所云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿五日戊申。 冷泉宮、備前國豐岡庄兒嶋に遷らしむ。佐々木太郎信實法師、武州の命を受け、子息等をして之を守護し奉ると云々。

阿波宰相中將〔信成〕、右大辨光俊朝臣等、配所へ赴くと云々。]

橋本多佳子句集「紅絲」 蘇枋の紅 Ⅳ 雀の巣かの紅絲をまじへをらむ――橋本多佳子のスキャンダラスな句――

  遠く鼓ヶ浦を想ふ 一句

 

雀の巣かの紅絲をまじへをらむ

 

[やぶちゃん注:「鼓ヶ浦」既注。現在の三重県鈴鹿市寺家町鼓ヶ浦には師山口誓子が住んでいた。本句集「紅絲」の標題句である。誓子は同句集序を、

 

 「紅絲」は、多佳子俳句を貫く一筋の何かもの悲しいものである。

 

と擱筆している(太字は底本では傍点「ヽ」)。本句、句集標題を引き出し得るような佳句とも思われぬ。思われぬがしかし、とんでもない問題作ではある。これを句集の標題句とするに躊躇しない確信犯としての多佳子、序のコーダをかくもぬけぬけと綴る確信犯としての誓子……この男の師と女弟子の相聞をスキャンダラスと言わずして何と言おう……それはそれでしかし、当時の二人それぞれが身に引き受けなくてはならなかった試練でもあったには違いあるまい……]

杉田久女句集 241  花衣 Ⅸ 

 

落椿の葉くぐり落ちし日の斑かな

 

蒼海の波騷ぐ日や丘椿

 

梅莟む官舍もありて訪れぬ

 

花見にも行かずもの憂き結び髮

 

盛會を祈りて花にゆく遠く

 

花影あびて群衆遲々とうごくかな

 

花ふかき館に徑ある夜宴かな

 

花莟む梢の煙雨ひもすがら

 

襟卷に花風寒き夕べかな

 

たもとほる櫻月夜や人おそき

 

神風にこぼれぬ花を見上げけり

 

故里の藁屋の花をたづねけり

 

[やぶちゃん注:久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日に父赤堀廉蔵、母さよの三女として官吏であった父の任地であった鹿児島県鹿児島市平(ひら)の馬場(現在の鹿児島市の中央部である鹿児島県鹿児島市平野町)で生まれたが、その後、父の転勤で久女四歳の時に岐阜県大垣へ、翌年辺りには沖繩県那覇市へ、明治三一(一八九七)年には台湾の台北へと移り住んでいる。ここにいう「故里」とはしかしなかなかに難しいものがある。久女にとってはこれら以外にも父の信州の実家もその中に含まれていたと思われるからであるが、ここでわざわざ「たづねけり」と詠じた辺りからは(再訪し得る圏内としても)鹿児島の生家を指すもののように私は読む。]

石垣用吉氏に捧ぐ   山之口貘

 石垣用吉氏に捧ぐ

 

顏は知つてゐないが

おれは何となく、あの

純な心

理屈の無い心が可愛

そして

この理智だらけのおれは

廉恥を缺ゝずには居られない

 

戸外に見える

靜かな

どんより曇つた空に

きみの心はどんより曇る

そらが晴れると

きみの心もまた晴れる

これが純な心でなくて何だ

其處には何の理屈もない

純心其のものは、既に

きみの詩をなしてゐるのだ。

 

[やぶちゃん注:「缺ゝ」はママ。但し、底本は「欠ゝ」。底本では最終行に下インデントで『一月五日』とある。大正一一(一九二二)年一月二十一日附『八重山新報』に先の「我がひとみ」と「苦痛の樂天地」とともに三篇掲載された。

 「石垣用吉」不詳。冒頭の「顏は知つてゐない」というのが最大のネックで、実際にバクさんはこの詩人(沖縄文学全集編集委員会編1991年海風社刊「沖縄文学全集 第1巻 詩Ⅰ」に彼の名を見出せる)に実際に逢ったことはないのかも知れないが、その作品は見知っている。しかもそのミューズの霊感に対して共感するバクさんの心情は多分に、「可愛」という第一印象、しかもそれをわざわざ「この理智だらけのおれは/廉恥を缺ゝずには居られない」とストイックに弁解せざるを得ないところに逆のこの時期(バクさん満十八歳)の青年にありがちな同性愛的な傾斜感情が濃厚に匂う。石垣用吉氏とは何者か、そこから謎解きは始まらなければならない。]

2014/06/21

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(2) 承久の乱最終戦後処理【二】――後鳥羽院隠岐遷幸

同じき十三日、隱岐國へ移し奉るべしと聞えければ、文あそばして、九條殿へ參らせらる。「君しがらみと成りて」とあり。そのおくに

  墨染の袖に情をかけよかし涙ばかりもきちもこそすれ

御供には殿上人出羽〔の〕前司重房、内藏權頭(くらごんのかみ)清範、女房二人伊賀局、白拍子龜菊ぞ參りける。既に都を立ち給ひ、水無瀨殿(みなせどの)を御覽じ遣(やり)て、爰にあらばやと思し召されけるも、せめての御事と哀なり。

  たちこむる關とはなさで水無瀨川霧猶霽れぬ行末の空

播磨國明石〔の〕浦に著(つか)せ給ふ。「こゝは何所(いづく)ぞ」と御尋あり。「明石補浦」と申しければ、

  都をば暗闇にこそいでしかど月は明石の浦に來にけり

白拍子龜菊、かくぞ詠みける。

  月影はさこそ明石の浦なれど雲居の秋ぞなほも戀しき

美作(みまさか)と伯耆(はうき)との中山を越えさせ給ふとて、向(むかひ)の岸に細道の目見えけるを「何所(いづく)へ通ふ道ぞ」と御尋ありければ、「都へ通ふ古道(ふるみち)にて候」と申しければ、千代の古道ならば、都にも近かるべきにと思召し遣らせ給ひて、

  都人誰ふみそめて通ひけん向ひの道のなつかしきかな

出雲國大濱湊(おほはまのみなと)と云ふ所に著せ給ふ。見尾(みを)ヶ崎(さき)と云ふ所なり。修明門院の御方へ此所より遣し給ふ御書の奧に、

  知るらめや浮身を崎の濱千鳥なくなく絞る袖の氣色(けしき)を

是より御舟に召して雲の浪、煙の波を漕(こぎ)過ぎて、隱岐國あまの郡(こほり)刈田郷(かりたのがう)と云ふ所に御所とて造り設けたる、怪しげなる庵の内に入らせ給ふ。海少し近ければ、寄せくる波の音高く、梢を傳ふ嵐の聲、御夢をだに結ばねば、いとゞ憂き世を侘(わび)しらに、猿(ましら)な泣きそと悲(かなし)ませ給へども、都に歸る傳(つて)もなし。

  われこそは新島守(にひじまもり)よ隱岐の海のあらき波風心して吹け

家隆卿(かりうのきやう)この御歌を都にて承り、後の便(たより)に詠みて奉られける。

  寢覺して聞かぬを聞きて悲しきは荒磯浪の曉のこゑ

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【二】――後鳥羽院隠岐遷幸〉

「九條殿」親幕派の九条道家。既注。

「君しがらみと成りて」底本頭書に、

 「流行く我身みくづとなりぬとも君しがらみとなりてとゞめよ」(菅公)

とある。菅原道真が大宰府に流される際に宇多法皇に奉ったとされる和歌で「大鏡」の宿的「左大臣時平」伝に著名な「こち吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなきとて春をわするな」の直後に所収するが、そこでは、

 ながれゆく我は水屑(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ

である。

「美作」山陽道の美作国。現在の岡山県東北部。

「伯耆」山陰道の伯耆国。現在の鳥取県中部・西部。

「中山」現在の岡山県真庭郡新庄村附近。

「向の岸」旭川の対岸。

「千代の古道ならば、都にも近かるべきに」「千代の古道」とは歌枕。平安の都人が嵯峨野や広沢池、嵐山に物見遊山に向かうために用いた山城国葛野郡(かどののこおり)へ向かう古道と伝えられるが、一説には文芸の世界だけの道ともされる。孰れにせよ、「古道」の語が都へと向かうそれを連想させたのである。

「出雲國大濱湊」「見尾ヶ崎」美保関。現在の島根県松江市美保関町。後掲する「吾妻鏡」によれば到着は承久三年七月二十七日であった。京を発ったのが十三日、十四日かかっている。

「修明門院」後鳥羽天皇の寵妃藤原重子。既注。

「隱岐國あまの郡刈田郷」隠岐国海部(あま)郡刈田郷(郡名は海士郡とも書く)。現在の隠岐郡海士町(あまちょう)。

「侘しらに、猿な泣きそ」は、「古今和歌集」の凡河内躬恒の一〇六七番歌、

   法皇、西川におはしましたりける日、猿、

   山のかひに叫ぶといふことを題にてよま

   せたまうける

 ましらな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ

に基づく。これは延喜七(九〇七)年九月十日に宇多上皇が大井川へ御幸した際の歌。「侘しらに」は副詞。もの哀しげに。こちらは悲痛な叫び声をやめて行幸を言祝げと猿に投げかけているのを、後鳥羽院は自身の哀傷を悪戯に増幅させるのをやめよというネガティヴなものに転じている。

「家隆卿」藤原定家と並び称せられた歌人、公卿藤原家隆。後鳥羽院のかつての和歌の指南役であった。後鳥羽院が隠岐に流された後も題を賜って京から和歌を贈ったりもしている(ウィキの「藤原家隆」に拠る)。

 以下、「承久記」(底本通し番号101の途中から101まで)。

 

 同十三日、隱岐國へ移シ可レ奉卜聞へシカバ、文遊シテ九條殿へ奉ラセ給フ。「君シガラミト成テ、留サセ給ナンヤ」トテ、

  墨染ノ袖ニ情ヲ懸ヨカシ涙計モクチモコソスレ

加樣ニ被ㇾ遊ケルトナン。御乳母ノキヤウノ二位殿、アハテ參テ見進ラスルニ、譬ン方ゾ無リケリ。七條院・修明門院モ御幸ナル。互ノ御心ノ中、申モ中々疎也。御供ニハ、殿上人、出羽前司重房・内藏權頭淸範、女房一人、伊賀局、聖一人、醫師一人參ケリ。已ニ都ヲ出サセ給、水無瀨殿ヲ通ラセ給トテ、爰ニテ有バヤト被思召ケルコソ、セメテノ御事ナレ。

  タチ籠ル關トハナサデ水無瀨河霧猶晴ヌ行末ノソラ

 サテ播磨國明石ニ著セ給テ、「爰ハ何クゾ」ト御尋アリ。「明石ノ浦」ト申ケレバ、

  都ヲバクラ闇ニコソ出シカド月ハ明石ノ浦ニ來ニケリ

又、白拍子ノ龜菊殿、

  月影ハサコソ明石ノ浦ナレド雲居ノ秋ゾ猶モコヒシキ

 美作卜伯耆トノ中山ヲ越サセ給フトテ、向ノ岸ニホソミチ有。「何クへ通フ道ゾ」ト御尋有ケレバ、「都へ通フ古キ道ニテ」ト申ケレバ、

  都人タレ蹈ソメテ通ヒケン向ノ路ノナツカシキカナ

 出雲國大八浦ト云所ニ付セ給フ。見尾崎ト云所也。其ヨリ修明門院へ御書ヲ進ラセ給。

  シルラメヤ浮身ヲ崎ノ濱千鳥泣々シボル袖ノケシキヲ

 是ヨリ御舟ニメシテ、雲ノ波・烟ノ波ヲ漕過テ、隱岐國アマノ郡カリ田ノ郷ト云所ニ、御所トテ造儲タリケレバ、入セ給フ。海水岸ヲ洗ヒ、大風木ヲワタル事、尤烈シカリケレバ、

  我コソハ新島モリヨ澳ノ海ノアラキ波風心シテフケ

都ニ家隆卿傳承リテ、後ノ便宜ニ、

  ネザメシテキカヌヲ聞テ悲キハアラ礒浪ノ曉ノ聲

●「御乳母ノキヤウノ二位殿」後鳥羽天皇乳母であった卿二位藤原兼子(けんし 久寿二(一一五五)年~寛喜元(一二二九)年)。亡き実朝の後継者問題では北條政子に接近したが、承久の乱の勃発により、結果的に倒幕側の中心となった兼子に繫がる一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となったが、老年の兼子は都に留まり、乱後八年を生きながらえている(以上はウィキ藤原兼子に拠った)。


 以下、勝者の「吾妻鏡」の記載は如何にも流石にあっさりとしている。前回省略した後鳥羽院の大浜の湊への現着記事の七月二十七日の条をまず掲げておく。

廿七日庚戌。上皇著御于出雲國大濱湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以皈洛。付彼便風。被献御歌於七條院幷修明門院等云々。

  タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ

  シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

○やぶちゃんの書き下し文

廿七日庚戌。上皇、出雲國大濱湊に著御、此の所より御船に遷坐す。御共の勇士等、暇まを給はり、大略以つて皈洛(きらく)す。彼の便風(びんぷう)に付きて、御歌を七條院幷びに修明門院等に献じらると云々。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を風よりさきにいかでとはまし

  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥嶋々(しまじま)しぼる袖のけしきを

●「庚戌」誤り。戊申。

●「彼の便風に付きて」隠岐島へ渡るための風待ちの間にことよせて。

●和歌はを参照されたい。

 隠岐到着の八月五日の条。

五日丙辰。上皇遂著御于隱岐國阿摩郡苅田郷。仙宮者改翠帳紅閨於柴扉桑門。所者亦雲海沈々而不辨南北者。無得鴈書靑鳥之便。烟波漫々而迷東西之故也。不知銀兎赤鳥之行度。只離宮之悲。城外之恨。増惱叡念御許也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日丙辰。上皇、遂に隱岐國阿摩(あま)郡苅田(かりた)郷に著御。仙宮(せんぐう)は翠帳紅閨(すいちやうこうけい)を柴扉桑門(さいひさうもん)に改め、所は亦、雲海沈々(ちんちん)として南北を辨ぜずてへれば、鴈書靑鳥(がんしよせいてう)の便りを得るは無し。烟波漫々にして東西を迷ふが故に、銀兎赤鳥(ぎんとせきてう)の行度(かうど)を知らず。只だ離宮の悲み、城外の恨み、増々叡念(えいねん)を惱まし御(たま)ふ許りなりと云々。

●「翠帳紅閨」美事な翠帳を垂れて鮮やかな紅色に飾った寝室。本来は貴婦人の閨房を指す。

●「柴扉桑門」「柴扉」は柴 (しば) で作った粗末な扉(とぼそ)、「桑門」は出家して修行する沙門のことであるが、前と対句になって粗末な侘び住まいをいう。

●「雁書靑鳥」ともに手紙。前者は蘇武に関わる知られた故事による。「靑鳥」は前漢の東方朔が青鳥の飛来を見て西王母の使いだといった「漢武故事」に見える故事から、使者や使い、転じて書簡の意となった。

●「銀兎赤鳥」は将棋の駒の一つ。現在知られる本将棋ではなく、より多い駒数と盤面を持つ泰将棋や最大の大局将棋にある駒の名である。「赤鳥」不詳。同じく駒で「行鳥(ぎょうちょう)」ならある。前の「靑鳥」と対句表現にしたものか。以下の「行度」からも筆者は明らかに将棋の駒の名称として用いていると考えられる。前の「銀兎」は月、「赤鳥」は太陽をシンボライズするもののようには読める。識者の御教授を乞うものである。

●「行度」これは将棋の対戦中に当該の駒を動かし得る総ての可能性をいう語のようである。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅸ



巨陽いづ茶園の霧を吸ひにけり

 

峯の木や舌甜めあふて鵯の二羽

 

椋落葉黄菊すがれとなりにけり

 

[やぶちゃん注:「椋」マンサク亜綱イラクサ目ニレ科エノキ亜科ムクノキ Aphananthe aspera 。]

 

地靄たつ靑なんばんの名殘り花

 

[やぶちゃん注:「靑なんばん」青唐辛子。通常はナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum の栽培種の未熟な緑色のものを言う語である。ここはその青い実の成る中に遅咲きの花が咲いている光景か。]

 

辣韮の花咲く土や農奴葬

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(21) 酒場の一隅より(Ⅰ)

 酒場の一隅より

 

薄暗き酒場の隅にあるひとが

我に教へし道ならぬこと

 

[やぶちゃん注:これは朔太郎満二十四歳の時、『スバル』第三年第四号(明治四四(一九〇三)年四月発行)に「萩原咲二」名義で掲載された一首、

 薄暗き酒場の隅に在るひとが我に教へし道ならぬ道

の表記違いの相同歌である。]

 

賭奕(ばくち)はも如何に樂しきその錢を

持ちて女を買ふは尚よき

 

[やぶちゃん注:「賭奕」はママ。]

 

くどくどと佛頂面にかのやから

何ごとを説く春の灯のまへ

 

あることを知らで言ひしが不覺にも

わが一生のあやまちとなる

 

もるひねを計(はか)りあたへよぴすとるを

のんどにあてよたれかとくせよ

 

あゝ遂に今日も死にえずぴすとるを

ふところにして酒店に入る

 

學校を追はれし我がさかしげに

世を罵れば親はまた泣く

 

悲しきは生をしたへる執心が

また一方に死を願ふこと

 

我をよく誰れか如何にととかせよ殺すとか

あるひは活かすとかいづれにかせよ

 

[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。]

 

人竝に可笑しきことも言ひ居れば

誰れか知るらん死を願ふ子と

 

酒を飮むその時の外の我を見れば

生きてあるごとし死にてあるごとし

 

醉ひどれの臭き息をば酒のまぬ

ときに嗅ぐより悲しきはなし

苦痛の樂天地  山之口貘

 苦痛の樂天地

 

我が行かんとする樂天地

我が身にしみじみ沁む

寒む風は海より

今我と、我が苦悶をさらひ

行くらし

そは彼方の樂天地へと

おゝ……

死は我に迫り來る

冷たく廣大な海の波とともに

はるかを吹き來る風とともに

我が嬉しき心

死を嬉ぶ心さらひに。

 

[やぶちゃん注:二箇所の「」斜体はママ。底本では最終行に下インデントで『一月五日』とある。大正一一(一九二二)年一月二十一日附『八重山新報』に「我がひとみ」と後の「石垣用吉氏に捧ぐ」とともに三篇掲載された。]

橋本多佳子句集「紅絲」 蘇枋の紅 Ⅲ どこまでも風蝶一路会ひにゆく

  石田波郷を東京郊外清瀬病院に見舞ふ。手

  術直後にてその瞳に会ひしのみ 一句

 

どこまでも風蝶一路会ひにゆく

 

[やぶちゃん注:この訪問の翌月(と思われる。前句注からの推定)、昭和二五(一九五〇)年六月に刊行された波郷の句集「惜命」は子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられているとウィキの「石田波郷にある。石田波郷は大正二(一九一三)年生まれで多佳子より十四も年下であった。彼は昭和一九(一九四四)年に左湿性胸膜炎を発症、永きに亙る闘病の末、昭和四四(一九六九)年に満五十六歳で肺結核のために亡くなった。但し、多佳子はそれに先立つ六年前の昭和三八(一九六三)年五月二十九日に肝臓癌・胆嚢癌及びその転移により、満六十四歳で既に亡くなっている。]

橋本多佳子句集「紅絲」 蘇枋の紅 Ⅱ

  駿二、啓子代々木に新居構へる

 

夕焼に柵して住む煙突を出し

 

夫婦して耕土の色を変へてゆく

 

夜の皿よりとりし葡萄の房短か

 

[やぶちゃん注:昭和二五(一九五〇)年五月の年譜に『三女啓子が代々木に新築、上京、滞在』とある。多佳子五十一。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 1 モース、アイヌの小屋を訪ねる

 第十三章 ア イ ヌ

 

 我々は宿屋の召使いに、町の裏手のアイヌの小屋で、舞踊だか儀式だかが行われつつあるということを聞いた。私は往来でアイヌを見たことはあるが、まだアイヌの小屋へ入ったことがない。そこで一同そろって出かけ、大きな部屋が一つある丈の小屋の内へ招き入れられた。その部屋にいた三人のアイヌは、黒い鬚(あごひげ)を房々とはやし、こんがらかった長髪をしていたが、顔は我々の民族に非常によく似ていて、蒙古人種の面影は、更に見えなかった。彼等は床の上に、大きな酒の盃をかこんで、脚を組んで坐っていた。彼等の一人が、窓や、床にさし込んだ日光や、部屋にあるあらゆる物や、長い棒のさきに熊の頭蓋骨を十いくつつきさした神社(これは屋外にある)にお辞儀をするような、両手を変な風に振る、単調な舞踊をやっていた。長い威厳のある鬚をはやした彼等は、いずれも利口そうに見え、彼等が程度の低い、文盲な野蛮人で、道徳的の勇気を全然欠き、懶惰(らんだ)で、大酒に淫し、弓と矢とを用いて狩猟することと、漁とによって生計を立てているのであることは、容易に了解出来なかった。私と一緒に行った日本人が、私がどこから来たかを質ねた所が、彼等は私を、日本人と同じだと答えた。

[やぶちゃん注:前に一部出した矢田部日誌の七月二十七日の条に『早朝ヨリ船改所ノ宮峯喜代太氏ニ掛合ヒ一屋ヲ借受、当港滞在中ノ試験室卜爲セリ。午後森屋』(これがラボとして借りた元旅籠の屋号なのであろう)『ノ裏方ナル蝦夷人ノ家ニ至リ奇ナル舞ヲ見タリ』とある。

「長い威厳のある鬚をはやした彼等は、いずれも利口そうに見え、彼等が程度の低い、文盲な野蛮人で、道徳的の勇気を全然欠き、懶惰で、大酒に淫し、弓と矢とを用いて狩猟することと、漁とによって生計を立てているのであることは、容易に了解出来なかった」というモースの謂いから、このアイヌに対する差別的な評が、偏見に満ちた本州の日本人によって創り上げられた当時の謂れなき定式であったことがはっきりする。

「私と一緒に行った日本人が、私がどこから来たかを質ねた所が、彼等は私を、日本人と同じだと答えた。」原文は“One of the Japanese with me asked them where I came from, and they answered that I was the same as the Japanese!”これは少し分かり難いのであるが、モースの同行者である日本人が、試みに(完璧な欧米人にしか見えないモースを指さして)「この人はどこから来た人だと思うか?」と訊ねてみたら、アイヌの長老たちは「この人もシャモ(日本人)と同じだ。」と答えたということであろう。それは、所詮、アイヌの神聖な地を汚すために侵入してきた者たちだという意味ではなかろうか? そう、解釈した時、直前に配された侮蔑的なアイヌへの風評を力強く弾き返す言葉として私には読めるからである。大方の御批判を俟つ。]

 

 泥酔した一人の老人が、彼等の持つ恐怖すべき毒矢を入れた箭(や)筒を見せ、別の男が彼に「気をつけろ」といった。彼が一本の矢を持ち、私の後を単調な歌を歌いながら奇妙な身振で歩き廻った時、私は多少神経質にならざるを得なかった。一人の男は弓弦を張り、彼等の矢の射(ゆみい)り方をして見せたが、箭筒から矢を引きぬく時、彼は先ず注意深く毒のある鏃を取り去った。この鏃は竹片で出来ていて、白い粉がついているのに私は気がついた。使用する毒はある種の鳥頭(とりかぶと)だそうで、アイヌ熊が殺されて了う程強毒である。

[やぶちゃん注:「北海道野生動物研究所」に門崎允昭氏のアイヌとトリカブトという詳細な研究が載る。それによれば、全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチンを含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根に加えて、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属 Dasyatis に属するアカエイ類の尾の毒針も用いられたとある。必見。]

 

 我々は彼等に、彼等の酒器を再び充すべく二十セントをやった。酒が来ると、我々は彼等と一緒にそれを飲まなくてはならなかったが、彼等の不潔な杯から酒を飲むことは、虫を食うより、もっといやだった。アイヌは自分等の順番になると、大きな漆塗の杯に、酒をなみなみとつぎ、彫刻した紙切りナイフに似た、長い、薄い木片を杯の上にのせ、腰を下してから、いろいろな動作をつづいて行った。先ず例の棒を取り上げ、その一端を酒にひたしてから、彼等自身の前に酒を僅かパラパラと撒いたが、これは牛乳から塵か蠅かを取りのぞくのに似ていた。彼等はこの動作を数回やり、酒の滴を四方八方に向かって捧げたが、私は彼等が神々に向かって、この大事な酒を、如何に僅かしか捧げないかに気がついた。次に彼等は房々した鬚を撫で、あだかも感謝の意を表するかの如く、手を上方へ、鬚の方へ向けて、変な風に動かした。この長い前置きがあった後に、彼等は杯を持上げて口に近づけ、棒を取って濃い口鬚を酒から離しながら飲んだ。これ等の棒は、口鬚棒と呼ばれる。興味のあるアイヌ模様を刻んだ物も多い。

[やぶちゃん注:ここに出る自然神への酒を奉げる儀式はアメリカ・インディアンの行う同じ儀式との共通性を容易に感じられたはずなのであるが、モースは何故か全く述べていない。

「彫刻した紙切りナイフに似た、長い、薄い木片」「口鬚棒と呼ばれる」(原文“mustache sticks”)「興味のあるアイヌ模様を刻んだ物も多い」とあるのはアイヌ民族がカムイ(神)に祈る儀式(「カムイノミ」と呼ぶ)で用いる木製祭具「イクパスイ(Iku-pasuy)」である。主に参照したウィキイクパスイ」によれば、『アイヌ語でIku が「酒を飲む」、pasuyは「箸」を意味』『日本語では「捧酒箸」と翻訳される。なお、漢字を間違えやすいが「棒」酒箸ではなく「捧」酒箸である』。長さ約三十センチメートル・幅二センチメートル・厚三ミリメートルほどの薄い板状のもので、材として『よくもちいられるのはカツラ・ハンノキ・ミズナラなどである。通常は表面に彫刻した飾りがほどこされ、一端は尖っている。その先を酒につけて酒の滴を火やイナウ』(inaw inau :御幣に酷似したアイヌの祭具の一つ。カムイや先祖と人間の間を取り持つものとされた。但し、御幣よりも神への供物としての性格が強い。ここはウィキナウ」に拠る)『に振りかけて祈祷する。尖端の裏側には矢尻のような形が刻まれる。この形はパルンベ(舌)と呼ばれる』。『さらに裏面には持ち主をあらわす印である「アイシロシ」が刻まれ、表面には父系の祖印をあらわす家紋「イトゥクパ」が刻まれ』てある。『イクパスイはかつて「ひげベラ」と訳されることがあったが、それは左手で杯を持ち右手でイクパスイを持って酒を飲む際に、酒の中に髭が入らないようにおさえる役割を果たしていたと推測したからである。しかし本来のイクパスイの役割は神々に献酒し人々の願いを伝えることにある』(これでモースが「口鬚棒と呼ばれる」と記している意味が判明する)。『アイヌ民族は、イナウと同じようにイクパスイも魂(ラマッ)』(「ラマッ」はアイヌ語)『を帯びており、神々への願い事を伝えてくれる使者であると考えていた。イクパスイは畏敬をもって扱われ、特に父系のイトゥクパが刻まれたものは家に一つしかなく、狩猟の旅に出る時は必ず身につけることになっていた』とある。]

M365

図―365

 

 小舎は単に大きな、四角い一部屋で、文字通り煤で真黒になっている。炉は土の床の中央部の四角い場所で、その上には天井から、鍋や薬鑵(やかん)をつるす、簡単な装置が下っている。彼等の家庭用品の多くは、日本製の丸い漆器に入っていた。いろいろな点、例えば歌を歌う時の震え声、舞踊、その他の動作で、日本人との接触の証跡が見られたが、これ等は或は数世紀前、アイヌが、全国土を占領していた頃、日本人がアイヌから習ったのかも知れない。小舎には戸口以外にも、一つか二つ隙間があったが、暗すぎてこまかい所は見えなかった。図365は、その暗い所でした写生図を、申訳だけに出したものである。アイヌの小舎については、今にもっと詳しいことを知り度いと思っている。

[やぶちゃん注:モースはこの時、原日本人としてアイヌ以前にいた先住民族(プレ・アイヌ)が存在し、彼らが大森貝塚人であったと考えており、その後にアイヌが北方からやって来、その後に現日本人がアイヌを北方に追ったと考えていたようであるが、現在はアイヌは和人に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来、北海道に住んでいた人々の子孫であるというのが定説である。]

M366

図―366

 

 我々が小舎にいた時、アイヌ女が一人入って来た。彼女の顔は大きく粗野で、目つきは荒々しく、野性を帯びていた。彼女は一種の衣類を縫いつつあったが、ちょいちょい手を休めては蚤を掻いた。私は今迄にアイヌの女を三人見たが、皆口のまわりに藍色の、口髭に似た場所を持っていた(図366)。これは奇妙な習慣であり、見た所は勿論悪いが、日本人の既解婦人の黒い歯の方が倍も醜悪である。

[やぶちゃん注:モースはこれが刺青であることには気がついていないようである。ウィキの「アイヌ文化」の刺青」によれば、『アイヌにも部族ごとに特徴的な刺青をする習慣があった。刺青は精霊信仰に伴う神の象徴とされる大切なものであったが、江戸幕府や明治政府によって度々禁じられた』。『特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。髭を模した物であると思われているが、神聖な蛇の口を模したとする説もある。まず年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに分けて、小刻みに刺青を入れる』とある。リンク先には実際の正装アイヌ写真が載り、『口の周りに刺青をほどこした女性。耳にニンカリ(耳輪)をつけ、首にはレクトンペ(首飾り)を巻き、タマサイ(ネックレス)を下げる』とキャプションにある。]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 二 解剖上の別 (1)

     二 解剖上の別

 

 外形では雌雄の別がないよやうでも、身體を切り開いて内部を見ると、直に雌雄の知れる動物もなかなか多い。昔から「誰か鳥の雌雄を知らんや。」といふが、これは烏を解剖せぬ人のいふことで、腹を切り開けば、雌雄は誰にも直にわかる。雌ならば卵粒の明な卵巣と太い輸卵管とがあり、雄ならば一對の睾丸と細い輸精管とがあつて、その差が極めて明らかであるから、決して間違へる氣遣ひはない。鳥類には雞・「くじやく」などの如く雌雄によつて形の違ふもの、「きじ」・鴨などの如く色の違ふものもあるが、烏のやうに雌雄の全くわからぬものも頗る多い。「わし」・「たか」・「ふくろふ」の如き食肉鳥、文鳥・「カナリヤ」の如き小鳥類、鶴・「さぎ」等の如き水鳥類も多くは雌雄全く同色同形で、たとひ僅小の相違があつても、素人にはわからぬ位のものである。蛙・蛇・龜の類も外形では雌雄の區別がわからぬことが多く、魚類なども殆ど全部雌雄同じやうに見える。尤も雌は卵のために腹の膨れて居ることが多いから、腹の丸さ加減で雌雄の鑑定の出來る場合もある。いづれにしても、これらは一寸腹を切り開いて見さへすれば雄か雌か直に知れる。さてかやうな動物では受精は如何にして行はれるかといふに、水中と陸上とでは大に違はざるを得ない。前に述べた通り、水中に住む動物では、雄と雌とが別々に吹き出した生殖細胞が水中で隨意に出遇ふことが出來るが、陸上に産卵する動物では、そのやうな體外受精は到底行はれぬ。植物ならば、花粉が風に吹き飛ばされて遠方まで空中を運ばれることがあるが、動物の精蟲は乾けば忽ち死ぬから、液體外に出ることが出來ず、隨つて卵細胞に達するまで絶えず濡れ續けて居なければならぬ。それ故陸上の動物では、精蟲は必ず何らかの方法で雄の體から雌の體へ直に移し入れる必要がある。外形上雌雄の別のわからぬやうな動物の受精の方法を見ると、實際體外で受精するものと、體内で受精するものとがあり、體外で受精するものは悉く水中で産卵する種類のみに限つて居る。

Uokoubi

[魚の交尾の一例]

 親の身體を出てから、卵と精蟲とが水中で出遇ふことの難易は、兩親の居る場處が互に遠いか近いかによつて非常に違ふ。互に遠く相隔つた處で、一方では卵を、一方では精蟲を吹き出したのでは、その間に受精の行はれる望は極めて少ないが、接近した處で同時に、生殖細胞を吹き出せば、殆ど全部受精することが出來よう。それ故、體外受精をする動物は多くは一箇處に群居して居るもので、「うに」などの如きも、小船から覗いて見ると、淺い海底の岩の凹みに幾つとなく列んで居る。しかしこれは雌雄相近づくために、わざわざ遠方から集まつて來たのではなく、たゞ同じ處に育つたものである。魚類の如き運動の自由なものになると、これと違ひ同じく體外受精が行はれるのであるが、産卵期になると雄は雌を追うて接近し、雌の産卵すると同時にこれに精蟲を加へようと努める。金魚や「ひごひ」を鉢に飼うて置いても、卵を産む頃になると雄が頻に雌を追ひ掛けて游ぎ廻るが、これはたゞ生まれた卵に直に精蟲を注ぐためであつて、決して眞の交尾が行はれるのではない。「さけ」などは日ごろは深い海に住みながら、産卵の季節が近づくと遠く河を遡つて淺い處まで達し、尾で砂利を掘つて凹みを造り、そこで雌が卵を産めば雄が直に精蟲を加へる。その頃の鮭は卵も精蟲も共に十分に成熟して、生まれるばかりになつて居るから、手で體を握つて腹を搾れば直に溢れ出るが、かくして出した卵と精蟲とを水中で混じ、なほ淸水中に飼うて置くと漸々發育して終に幼魚となる。これは「さけ」の人口孵化法と稱して、今日處々で「さけ」を殖やすために行うて居るが、このやうなことは無論體外受精をする動物でなければ行はれぬ。尤も稀には普通の魚類にも眞に交尾するものがある。こゝに示したはその一例で、直立しているのは雌、卷き付いて居るのは雄であるが、雄と雌とは生殖器の開口を密接せしめるから、精蟲は少しも水中に出ることなしに直に雄の體から雌の體に移り入ることが出來る。また鰻は「さけ」とは反對で、つねには河や池に居るが、卵を産みに海まで降るもの故、人工的に受精せしめることは到底望まれぬ。養魚場に飼うて居る鰻は、すべて幼いときに捕へたものに餌を與えて生長させるだけに過ぎぬ。鰻は胎生すると言ひ傳えて居る地方もあるが、これは腹の内にいる蛔蟲類の寄生蟲を、「鰻の子」であると早合點したためで、全く觀察の誤である。

[やぶちゃん注:「普通の魚類にも眞に交尾するものがある」例えば条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(又はメバル科 Sebastidae とも)メバル亜科カサゴ Sebastiscus marmoratus が体内受精を行い、卵胎生で仔魚を産むことが知られている。相原岳弘氏撮影になるカサゴの交尾 大瀬崎」ではこの図に酷似した交尾行動を動画で見ることが出来る。必見。

「鰻は」「人工的に受精せしめることは到底望まれぬ」ウィキの「ウナギ」によれば、『ウナギの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2002年には三重県の水産総合研究センター養殖研究所(現「増養殖研究所」)が仔魚をシラスウナギに変態させることに世界で初めて成功し』てはいるものの、『人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用が掛かり、成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接繋がっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。そうした中での2010年、水産総合研究センターが人工孵化したウナギを親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功したと発表』、『25万個余りの卵が生まれ、このうち75%が孵化したと報じており、先に述べた稚魚の漁獲高減少もあって、期待を集めている。だが、孵化直後の稚魚の餌の原料にサメの卵が必要で、毎日水を入れ替えなければならず、人工環境ではほとんどオスしか生まれないため産卵のためにホルモンによるメス化が必要など、コスト面で課題が多く残されている』。『2013年には、プランクトンの糞や死骸が餌となることが突き止められた。また、鶏卵やヤマメの精巣も餌になることが判明し、幼生は約9割が育つまでになった。しかし、2013年の現状ではシラスウナギ1匹にかかるコストは飼料代、設備投資、人件費、光熱費など1000円以下では無理だといわれて』おり、『環境庁は、実用化には2020年ごろまでかかると発表している』とある(但し、最後コストと実用化の記述部分には要出典要請が示されてある)。

「腹の内にいる蛔蟲類の寄生蟲」「水産食品の寄生虫検索データベース」(リンクをした場合に通知を要請しているのでリンクしない)やウナギ料理のサイトなどによれば、内臓部への寄生でウナギの子と誤認され易いと思われるものはウナギの鰾(厳密には鰾腔内)に寄生する線形動物門双腺綱旋尾線虫目カマラヌス亜目トガリウキブクロセンチュウ Anguillicoloides crassus 辺りかと思われる。天然ウナギには多量に寄生するが、調理によって死滅するので問題なく、そもそも人体には寄生しないとある。また、ウナギ専門の料理人のネット上の経験談では、「鰻の子」と誤認されたもので過去に何度か見たことはあると表現上の温度差がある(養殖の場合は寄生数は少ないのかも知れない)。その実見談では五~六センチメートルとあり、データベースの記載とも一致する。但し、そういう情報とは別にウナギの胃腔内に多く寄生する扁形動物門吸虫綱二生吸虫亜綱アジゲア目 Azygiida の一種がいるようだが、画像を見る限りでは、「鰻の子」のようには見えず、寄生部位からも誤認しにくいように私には思われた。]

杉田久女句集 240  花衣 Ⅷ 鶴料理る 附 随筆「鶴料理る」



盆に盛る春菜淡し鶴料理る
 

 

鶴料理るまな箸淨くもちひけり 

 

[やぶちゃん注:「鶴料理る」「つるつくる」と読む。新年の季語である。ウィキの「ツル」の「文化」の項には、『江戸時代には鶴の肉は白鳥とともに高級食材として珍重されていた。武家の本膳料理や朝鮮通信使の饗応のために鶴の料理が振る舞われたことが献立資料などの記録に残されている。鶴の肉は、江戸時代の頃の「三鳥二魚」と呼ばれる5大珍味の1つであり、歴史的にも名高い高級食材。三鳥二魚とは、鳥=鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、魚=鯛(タイ)、鮟鱇(アンコウ)のことである』とある。久女にはこの折りの様子を綴った随筆「鶴料理る」(『かりたご』昭和九(一九三四)年四月号)がある。以下に全文を紹介する(底本第二巻所収のものを恣意的に正字化した。太字は底本では傍点「ヽ」)。この二句と併せて以下を読む時、久女の中に稀有の日本女性の優しさを見る思いが私にはするのである。

   《引用開始》

 

 鶴料理る 

 

 一月三十一日の夜、ちさ女さんがきて、

「朝鮮の妹から白鶴を一羽送つてきましたから、先生にも一と片もつて來ました」

といつて、お皿にのせた一塊の鶴の肉をさし出した。

 鶴の肉といふものは、私が子供の時、東京の實家で、やはり朝鮮から送られたのを食べた事はあるが、もう三十年も前の事で、一向覺えもないので、手にとりあげて眺めると、牛肉の樣な赤い肉だつた。

「これは胸の肉なのでございますよ。ゆふべは二時頃迄鶴を料理(つく)るのにかゝりました。そして肉は、けふ主人と二人で三十軒ばかりおわけしました、白鶴は剝製にやつたりして、此三日ほど鶴の事でさわいでます、お隣の方など、鶴は食べた事ないからたつた一片下さい、おつしやるから二三片差上げましたら、今日は、汽車にのつて直方の七十幾つかのお母さんにあげにお出になるさうです」

と、ちさ女さんは鶴の肉を方々へわけて、自分達夫婦は骨ばかりしやつぶつたとも愉快げに話して笑ふのだつた。

「先生もう一片の方は、縫野さんの坊ちやんに上げて下さい。いくよさんがあんなに心配していらしたから」

と、ちさ女さんはもの優しく言ひおいて歸つていつた。

 翌日私は、草庵のまはりを步きまはつて、まだ莟の固い紫色の蕗の莖や、芹、嫁菜をつんで來、市場へいつて、赤い小蕪や春のお菜を五六種買つて來た。

 それらをきれいに洗ひ、塗盆にのせて、居間の疊の上に置いた。へやの中はきれいに取かたづけられ、名香の煙がしつかに流れてゐた。

 燈下の屛風の前に、まないたをすゑて坐つた私は、一塊の鶴の肉や、庖丁、摘草籠に入れた芹よめな、盆に瑞々ともられた春菜の彩どりをめでながら、白布をしいた狙板の上で、しづかに鶴を庖丁しはじめた。

 私はふと氣がついて、机の上の歲事記をひつぱり出し、鶴の庖丁といふ所をめくつて見た。

 例句が少いので、鶴を料理る宮中の古式を想像する事もかたく、千年切も萬年切もわからないが、鶴の肉を、すき乍ら、大空を飛翔してゐる白鶴を想像したり、ちさ女さんの語つた、鶴のもものうす紅色の肉だつたら一層料理るのにも感じがいいだらうにとそんな事を思ひつゝうすくへいだ肉を、古代蒔繪のふたものにもりならべるのであつた。

 此蒔繪のふたものは、主人の家が昔大庄やをしてゐた頃殿樣から拜領したといふ根ごろ塗の本膳中の御椀なので、三百年前の、金箔總まき繪の大時代もの。私が朝夕机邊にむいて、愛でてゐる器なのであるが、白鶴の肉に芹や若菜、蕗の珠等山肴をもりよせて、じつと眺めてゐると、何ともいへぬ古典のなつかしさがわいてくるのだつた。

 さてその翌日は、そのふたものを持つて、記念病院をたづね、手術後の令息の容體をきいてから、白鶴の肉をあげると、いく代さんは、看病やつれした顏に喜びの色をうかべて

「靜彌さん。すぐ煑てあげませうね、ですが瀧川さんも、昨日から酸素吸入してらして、大分おわるいから一片でもさし上げませう」

とふた物のまゝ、令息の友人で大分容體のわるい瀧川さんの病室へ出てゆかれたが、直ぐ戾つてきて、

「先生瀧川さんの奧樣が大變お喜びになつて、でもおはつに頂戴してはすまないから今頂戴にこちらから出ますとおつしやつてでした」

との事。まもなく瀧川夫人が小皿を手にしては入つてきて私にもあいさつされ、鶴の肉を三切もらひ、ふきのたうや他の春菜もとりそへて歸られた。私も御病人の御見舞をのべて、せめて、日がかゝつても全快さるゝ樣にいのつた。

 いくよさんは、火鉢に小い鍋をかけて鶴の肉をにはじめた。私は袂から、長崎のあちやさんと、オモチヤの鈴と、香椎でひろつた橿のみを、靜彌さんの枕もとにさし出した。

 病人はねどこの上に起き上つて大變機嫌がよく、私のあげた鈴をならして、鶴の吸ものの出來るのをまつてゐる。そこへ御主人も製鐵所の歸りみちにたちよられ、

「先生も御一緖に御食事しておかへりなさい、今日は私の誕生日だから」

とすゝめられるので、つい私も吞氣にそのきになり、御病人があの古蒔繪のうつはで、機嫌よく白鶴の吸ものを吸はれるそばで、縫野御夫婦と一緖にのんびりと御馳走をいたゞいた。

 私のもつていつた鶴の七片のうち。のこりの三きれを、縫野氏の令息がたべ、一片を御主人が誕生日の祝ひにとたべ、又私宅ののこりの鶴の肉は、節分の夜八十一の老母と、主人と私とが一片づ一、千年の壽にあやかるやうにと語りあひながら賞味したのであつた。

   《引用終了》

底本では最終行下インデントで創作クレジット『(九年三月十七日記)』が入っている。

「ちさ女」は久女の俳句弟子土井ちさ女であろう(「九州の女流俳人を語る」(『女性風景』昭和一〇(一九三五)年五月号の記載)。また、「縫野さん」「いくよさん」「縫野御夫婦」というのも同じ評論で、久女の弟子として並ぶ中の『八幡製鐡所の夫人』『縫野いく代』(但し、この二つの文字列は底本では一緒には並んでいない)と出る人物かと思われる。

「鶴の庖丁」は「つるのはいちやう(つるのほうちょう)」と読み、江戸時代、正月十七日に将軍家から朝廷に献上した鶴を清涼殿で料理した儀式。舞御覧(正月十七日または十九日に宮廷舞楽を奏して天皇に献じた行事)の前儀として、行内膳司の庖丁人が衣冠を正し、故実に則って調理され、舞御覧の間に於いて御前に供された。ネットで検索しても、歳時記の項としてはあるものの、久女の言うように、例句が見当たらない。

「ふたもの」蓋物。通常は陶器のそれを挿すが、「根ごろ塗」(根来塗:日本の塗装技法の一種で、黒漆による下塗りに朱漆塗りを施す漆器。呼称は和歌山県の根来寺に由来する。)「金箔總まき繪」とあるから古雅な漆器の蓋の附いた椀である。

「橿のみ」カシの実。ブナ目ブナ科Fagaceae の実。どんぐり。

「瀧川さん」不詳。「令息の友人で大分容體のわるい瀧川さん」「昨日から酸素吸入」とあるところを見ると彼らは結核患者かと推測される。

「長崎のあちやさん」お手上げかと思ったら、個人ブログ「まこっちゃんの好奇心倶楽部【恋文】」の基礎からわかる長崎弁講座(10)「阿蘭陀さん」、「阿茶さん」、「じげもん」に、『「阿茶(あちゃ)さん」とは、中国人の親称で』、『“あちらさん”から来ている言葉だそうです』とあり、長崎古賀人形の「阿茶さん」の写真が載る。これに間違いあるまい。]

耳嚢 巻之八 チンカと云病銘の事

 チンカと云病銘の事

 

 北海の人、最初に足赤く星の如くあざのごときもの出來て、漸々黑くなり、齒莖など黑くなりて、凡(およそ)百日に餘り死せし由。其病ひ亞港(ヲロシヤ)の地などは多く、チンカといふよし。醫宗金鑑外科部(いそうきんかんげかぶ)に、靑腿牙疳(せいたいがかん)とあるは右のチンカの事にて、右治療の法は、右の金鑑にあり。もゝの黑くなりし處は、針して血を取(とり)てよしとある由。與住(よずみ)醫生(いせい)來りて物語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。謂わば、本格疾病シリーズの一つ。この病気は明らかにビタミンC欠乏症である、体の各器官で出血性障害が発生し、特に歯肉の出血(及びそれに伴う歯の脱落)が見られる壊血病の症状である。それにしても、鎖国の当時としては、樺太から直に南下して得られたそれとは思われず、それこそシベリアを西へ向かい、欧州を経て、喜望峰を廻り、インド洋から中国を経由、迂遠な旅をして長崎までやって来た情報であろう。それにも拘わらず、正確なロシア語の音を記しているということは驚くべきことであるように思われる。

・「チンカ」現行ロシア語で「壊血病」を意味する“цинга”(ツィンガー)である。

・「足赤く星の如くあざのごときもの」底本では右に『(尊經關本「足江赤星の如あざの如き者」)』と傍注する。

・「亞港(ヲロシヤ)」は底本のルビ。ここでは「ヲロシヤ」とルビを振って漠然とした広範囲のロシアの汎名として用いているようにも見えるが、「亞港」は狭義にはサハリン(樺太)島北部の古都アレキサンドロフスク=サハリンスキーの日本名の呼称である。因みに「おろしや」の「お」は発音し易くするための接頭語として附したもので、ネット上では一説に古語ではラ行音が発音し難い音として嫌われており、奈良時代まではラ行音を語頭に置かなかった、発語に当該行の音が来ることを避ける傾向があったからともいう(例えばこちらのQ&A「日本語はなぜ「ラ行」が嫌い?」を参照されたい)。

・「凡百日に餘り死せし由」ウィキ壊血病」によると、十六世紀から十八世紀の大航海時代にはこの壊血病の原因が分からなかったために船乗りには海賊以上に恐れられた。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の長期航海に於いては百八十人の船員のうち百人がこの重度のビタミンC欠乏症によって死亡しているとある。一七五三年になって、『イギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを摂ることによってこの病気の予防が出来ることを見出した。その成果を受けて、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海』(一七六八年~一七七一年)では、『ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた』。但し、『当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。しかし、これらは加熱によってビタミンCが失われているため、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている。そして主にザワークラウトのおかげだったことが当時は分かっておらず、さらにクックは帰還後に麦汁を推薦したため、結局長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進ま』ず、『ビタミンCと壊血病の関係が明らかになったのは』、一九三二年のことであったとある。因みに「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。

・「醫宗金鑑外科部」清の乾隆四(一七三九)年刊行の乾隆帝勅撰、医官呉謙らの編になる九十巻の漢方医学全書。臨床的で実用的な医学書として高く評価された。

・「靑腿牙疳」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『靑眼牙疳』とするが誤写。「醫宗金鑑外科部」の「外科卷下 股部」の最後に「靑腿牙疳」とある。私は読みこなせる訳ではないが、識者の参考に供するために中文サイトより当該部分を引用しておく(一部の漢字表記と記号を変更、一部の改行を続けた。中間部の服用塗付処方の薬剤のパートは割愛したが、本文にも出る皮下出血の瀉血法は残した)。

   《引用開始》

靑腿牙疳

【方歌】靑腿牙疳何故生、只緣上下不交通、陽火炎熾陰寒閉、凝結爲毒此病成。靑腿如雲茄黑色、疲頑腫硬履難行、牙疳齦腫出臭血、穿破腮唇腐黑凶。

【注】此證自古方書罕載其名、僅傳雍正年間、北路隨營醫官陶起麟頗得其詳。略云軍中凡病腿腫色靑者、其上必發牙疳。凡病牙疳腐血者、其下必發靑腿、二者相因而至。推其原、皆因上爲陽火炎熾、下爲陰寒閉鬱、以至陰陽上下不交、各自爲寒爲熱、各爲凝結而生此證也。相近地、間亦有之、邊外雖亦有不甚多、惟地人初居邊外、得此證者、竟十居八九。蓋中國之人、本不耐邊外嚴寒、更不免坐臥濕地、故寒濕之痰生於下、至腿靑腫、其病形如雲片、色似茄黑、肉體頑硬、所以步履艱難也。又緣邊外缺少五穀、多食牛、羊等肉、其熱與濕合、蒸瘀於胃、毒火上熏、致生牙疳、牙齦腐腫、出血、若穿腮破唇、腐爛色黑、即爲危候。邊外相傳、僅有令服馬乳之法。麟初到軍營診視、靑腿牙疽之證、亦僅知投以馬乳。歷既久、因悟馬腦之力、較馬乳爲效倍速、令患者服之、是夜即能發出大汗、而諸病減矣。蓋腦爲諸陽之首、其性溫暖、且能流通故耳。兼服活絡流氣飲、加味二妙湯、宣其血氣、通其經絡、使毒不得凝結。外用砭法、令惡血流出、以殺毒勢。更以牛肉片貼敷、以拔出積毒、不數日而愈。蓋黑血出、則陰氣外泄、陽氣即隨陰氣而下降、兩相交濟、上下自安也。由是習爲成法、其中活者頗多、因不收自私、著之於書、以公於世、並將所著應驗諸方、備詳於後。

[やぶちゃん注:中略。]

又方 砭刺出血法

方法 用三棱扁針、形如錐挺者、向腿之靑黑處、勿論穴道、量黑之大小、針一分深、或十針、二十針俱可、務令黑血流出。外以牛肉割片、貼針眼並黑處。次日再看、如黑處微退、仍針仍貼。如無牛肉、當頂刺破、用罐拔法。

[やぶちゃん注:中略。]

不治

一 形氣衰敗、飲食不思者不治。

一 牙齒俱落、紫黑流血、腐潰穢臭者不治。

一 腿大腫腐爛、或細乾枯者不治。

   《引用終了》

以上は管見する限りに於いてやはり壊血病の症状を記している。但し、この瀉血法は効果があるとは思われないし、寧ろ、感染症の危険が高まるように思われる。

・「與住醫生」多出。根岸の主たる情報屋の一人で、初出の「人の精力しるしある事」の鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 チンカという病名の事

 

 北の海辺に住まう人で、最初に下肢の股などの、皮膚の薄い部分に、赤く星の如き、痣(あざ)のようなものが出来て、それが消えぬままに黒くなり、特に桃色であるべき歯茎が真黒になるという。そうして、そうなってしまうと凡そ百日も経たぬうちに亡くなるという。

 その病い、特に露西亜極東の樺太島北方にある都、亜港(あこう)の地などでははなはだ多く、現地の言葉で「チンカ」という、とのことである。

 清の医学全書「醫宗金鑑外科部(いそうきんかんげかぶ)」に、「靑腿牙疳(せいたいがかん)」とあるのは、正にこの「チンカ」のことを指しており、その治療法がこの「醫宗金鑑外科部」にも記載されてあって、皮下や粘膜・歯肉などの黒く変色してしまった患部には、針を刺して血を取るのがよい、と記しあるという。

 例の与住医師が、先般、私の元へ参った折りの物語である。

2014/06/20

松を剪定するということは哲学以外の何ものでもないという語(こと)

義父の四十九日で名古屋に行き、昨日今日で義父が丹精込めた庭をとりあえず本来あったのに近い姿に復元出来た。しかし松の剪定だけは、恐ろしく哲学的だということが分かった。近くでこれでいいと思っても、囲碁のように(私は実は囲碁も将棋も暗いのであるが)ちょっと離れるとその剪定の最下劣さに驚く。だからと言って、さらに手を加えようとすると丸裸になってしまうのだ。松葉一本一本の四方への張り出しが、恰も多変数関数のように「凸である」ことをどう「全体で捉えるか」ということのように感じられた(無論、私の尊敬する数学の先輩から聴いたことの、半可通の譬えに過ぎないのだが)。ああ、義父に生前、教えて貰えばよかった、と切に感じたのであった――

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅24 笠島はいづこさ月のぬかり道

本日二〇一四年六月 二十日(陰暦では二〇一四年五月二十三日)

   元禄二年五月  四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 二十日

である。【その二】「曾良随行日記」を見ると、

 

四日 雨少止。辰の尅、白石を立。折々日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神と云有。その別當の寺の後に武隈の松有。竹がきをして有。その辺、侍やしき也。古市源七殿住所也

  ○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、

   左の方一里計有、三の輪・笠島と村並て

   有由、行過て不ㇾ見 。

  ○名取川、中田出口に有。大橋・小橋二つ

   有。左より右へ流也。

  ○若林川、長町の出口也。此川一つ隔て仙

   臺町入口也。

 夕方仙臺に着。其夜、宿國分町大崎庄左衞門。

 

とある。【その一】で述べたように、順列が入れ替えられ、しかも以下に示す通り、「奥の細道」では泊まっていない岩沼に泊まったと虚構しているのである。しかもこの日は白石を午前七時半頃に発って、今までの「奥の細道」の旅の最長不倒距離である五十キロを踏破して、午後六時半頃に仙台に到着しているのである。まさに勘違いのしようのない、ハードな一日であったのである。

 

笠島はいづこさ月のぬかり道

 

  奥州名取の郡(こほり)に入(いり)て、

  中將實方の塚はいづくにやと尋(たづね)

  侍れば、道より一里半ばかり左の方(か

  た)、笠島といふ處に有(あり)とをしゆ。

  ふりつゞきたる五月雨、いとわりなくなく

  打過(うちすぐ)るに

笠島やいづこ五月(さつき)のぬかり道

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「猿蓑」の句形で「曾良書留」には(【 】は右傍注)、

 

   泉や甚兵へニ遣スの發句・前書。

   【册尺一枚、前ノ句。】

   中將實方の塚の薄も、道より一里ばかり

   左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に

   及侍れば、わりなく見過しけるに、笠島

   といふ所にといづるも、五月雨の折にふ

   れければ

笠嶋やいづこ五月のぬかり道       翁

 

と出る。初案である。

 貴種流離の典型ともいうべき藤原実方については既に注したが、実方は長徳四(九九九)年十二月、任国であったここで馬に乗ったまま笠島道祖神前を通った際、乗っていた馬が突然倒れて下敷きになって馬もろともに没し、そのままこの地に埋葬されたという。これは「源平盛衰記」や謡曲「実方」で広く知られていた。芭蕉の「笈の小文」に帰郷の際に杖突坂で落馬した話が載り、「かちならば杖つき坂を落馬哉」の句が載る。もしかすると芭蕉は歌人実方よりも、稀代の伊達男で困ったちゃんであった破滅型アウトロー・ヒーロー実方にこそ、言い知れぬ魅力を感じていたのやも知れぬ。それだけに、この泥だらけの遥拝回向という仕儀もまたよしと芭蕉に思わせたのではなかったか? 芭蕉に隠された悪童性にこそ私は実は惹かれているのである。

 「奥の細道」を「武隈の段」を含めて一気に示す。

   *

[やぶちゃん注:前の「伊達の大木戸をこす」から改行せずに続く。最初の空欄二字は、「こす」。]

  あふみ摺白石の城を過て

笠しまの郡に入れは藤中

將實方の塚はいつくの程ならんと

人にとへは

これより遙右に見ゆる山際の里を

みのわ笠嶋と云道祖神の社かたみ

の薄今に侍りとをしゆ此比の五月雨に

道いとあしく身つかれ侍れはよそなから

なかめやりて過るにみのは笠島も

         五月雨の折にふれ

                たりと

  笠島はいつこさ月のぬかり道

 

   岩沼宿

 

武隈の松にこそ目覺る心地はすれ

根は土際より二木にわかれてむかしの

姿うしなはすとしらる先能因法師おもひ

出往昔むつのかみにて下りし人此

木を伐て名取川の橋杭にせられたる

事なとあれはにや松は此たひ跡もなしとは

よみたり代々あるはきりあるひは植次

なとせしと聞に今將千歳の

かたちとゝのほひてめてたき松のけしきに

なん侍し

  たけくまの松みせ申せ遲櫻

  と擧白と云ものゝ餞別したり

  けれは

  櫻より松は二木を三月越シ

 

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇あふみ摺白石の城を過て    → ●鐙摺白石の城を過ぎ

〇道祖神の社かたみの薄今に侍り → ●道祖神の社・かたみの薄、今にあり

〇岩沼宿            → ●岩沼に宿る。

[やぶちゃん注:表記通り、ただ字下げで「岩沼宿」と出る。ここは貼り紙による補正がされている箇所で、前の行の「みのは」以下も窮屈に字が詰めてあって、相当な推敲がなされていることが分かる。]

「みのは笠島も五月雨の折(をり)にふれたりと」「みのは」は現在の名取市高館川上にある箕輪で、その南隣りに名取市愛島笠島(旧名取郡笠島村)があり、孰れも当地の地名。それらに「箕(蓑)」「笠」という折からの五月雨の縁語が含まれているという風流から、の謂い。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅23 櫻より松は二木を三月越シ

本日二〇一四年六月 二十日(陰暦では二〇一四年五月二十三日)

   元禄二年五月  四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 二十日

である。【その一】前日の三日は飯坂から白石へ向かいそこで宿泊、この四日の午前八時頃に出た芭蕉は、まず阿武隈川の河口北岸に位置する岩沼の、竹駒明神の別当寺裏にある竹垣をした、陸奥の数多い歌枕の中でも藤原実方・橘季通・西行・能因など詠歌の多さでは屈指の名松「武隈の松」を見ている。「奥の細道」では笠島の段と恣意的に入れ替えられているが、ここでは実際の時系列に従って示す。岩沼宿は古くは「武隈(たけくま)」と呼ばれ、奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場として栄え、多賀城へ下向する官人のための旅館(武隈館)が置かれて、承和九(八四二)年には伏見稲荷を勧請したこの竹駒神社が創建されるなど古くから重要な宿駅であった(ここは主にウィキの「岩沼市」に拠った)。

 

  武隈(たけくま)の松みせ申せ遲櫻(お

  そざくら)と、擧白(きよはく)と云も

  のゝ餞別したりければ

櫻より松は二木(ふたき)を三月越(みつきご)シ

 

  むさし野は櫻のうちにうかれ出(いで)

  て、武隈はあやめふく比(ころ)になり

  ぬ。かの松みせ申せ遲櫻と云けむ擧白何

  がしの名殘も思ひ出て、なつかしきまゝ

  に

散うせぬ松や二木を三月ごし

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目はまさに挙白編「四季千句」(元禄二年奥書)の句形で初案。

「擧白」蕉門門人草壁挙白。奥州出身(恐らくはこの武隈の近辺か)であったらしい。「武隈の松みせ申せ遲櫻」は江戸出立の際の芭蕉への彼の餞別句で、かの芭蕉旅立ちの頃、まだ残っていた遅咲きの桜があった。それを……師が奥州へお入りになる頃にはそれすらも散っていましょうほどに――せめても古歌に知られ、私にとっても懐かしい二木の銘木武隈の松なりとも、天然の自然よ、師へと美事に、それをお見せ申せ……という謂いであろう。挙白の肉声が伝わる。

「二木」土の際から二つに分かれていることをいう。以下の「奥の細道」で芭蕉の言うように、後に何度も植え替えられたものであるが、現存するそれも二股に分かれてある。これは、「後拾遺和歌集」の橘季通の一〇四一番歌、

   則光朝臣のもとに陸奥に下りて武隈の松

   をよみ侍りけり

 武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ

を踏まえつつ、「櫻より」の上五は江戸出立から今までの「三月」(千住を発った三月二十七日からだと三十六日であるが、「草の戸も住替る代ぞひなの家」の桃の節句からだと、六十日、正しく「三月」になるのである)の「みつき」に「見」を掛けて、さらに季通の古歌の「見き」へと通わせ、中七は同じく季通の歌をそのままに裁ち入れながら「松」には三月も「待つ」に掛けて、しなやかな武隈の松を実見し得た悦びを、挙白の餞別への三月振りの返礼の挨拶としたものである。諸本は初案(「散りうせぬ松」で松落葉を利かせて夏の句)や決定稿(芭蕉がいう名所の雑の句)の季を云々するが、問題にならぬ。芭蕉自らが述懐するように、一句の中にあって季の詞ならぬものはない、というのが私の支持するところである。諸家は多く、この句を評価しないようであるが(句自体は確かに技巧を凝らしながらも面白い句ではない)、私はこの「武隈の松」の段全体が「奥の細道」の旅に於ける芭蕉の大切な通過点としてあったのだ感じている。だからこそ、道順を時系列で前の笠島と入れ替えて示したのだと私には思われるのである。武隈の松という大切な陸奥の祝祭的「細道」に出逢うためにはどうしても、難渋し、歌枕を諦め、「ぬかり道」を抜けてくる必要があったのだ。

   *

[やぶちゃん注:この前に「笠島の段」が入る。【その二】で煩を厭わず、「笠島」から「武隈の松」までの全文を示すこととする。]

武隈の松にこそ目覺る心地はすれ

根は土際より二木にわかれてむかしの

姿うしなはすとしらる先能因法師おもひ

出往昔むつのかみにて下りし人此

木を伐て名取川の橋杭にせられたる

事なとあれはにや松は此たひ跡もなしとは

よみたり代々あるはきりあるひは植次

なとせしと聞に今將千歳の

かたちとゝのほひてめてたき松のけしきに

なん侍し

  たけくまの松みせ申せ遲櫻

  と擧白と云ものゝ餞別したり

  けれは

  櫻より松は二木を三月越シ

   *

■やぶちゃんの呟き

「武隈の松にこそ目覺る心地はすれ」角川文庫版「おくのほそ道」は「徒然草」の十五段、

 いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。

を引くが、ここはまさにそのような古典籍による飾りなどではなく、まさに奥の細道の入口の三里塚の如く、新鮮な自然実景への感動としての芭蕉のメルクマールとしてのランドスケープとして感じられたのだと私は信じて疑わない。

「往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人此木を伐て名取川の橋杭にせられたる」昔、陸奥守となって赴任した藤原孝義なる者がこの松を切って橋に使用したことが顕昭「袖中抄」や藤原清輔「奥義抄」に載るが、名取川のそれとしたという記事は見当たらない、と安東次男氏の注にある。

「松はこのたび跡もなし」前の伝承を受け、「後拾遺和歌集」の能因法師の一〇四二番歌、

 みちの國にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける

 武隈の松はこのたび跡もなし千歳を經てやわれは來つらむ

を踏まえた謂い。]

2014/06/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅22 笈も太刀も五月にかざれ紙幟

本日二〇一四年六月 十八日(陰暦では二〇一四年五月二十一日)

   元禄二年五月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十八日

である。【その二】この日の午前中に信夫文知摺の石を見た後、午後は芭蕉の愛する義経所縁の瑠璃光山医王寺を訪ね、そこで一句をものした。「奥の細道」では日を「五月朔日也」と虚構している。虚構の意図に就いては後に注する。

 

笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)

 

弁慶が笈をもかざれ紙幟

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は曾良本「奥の細道」の句形でこれが初案と思われる。

 この「かざれ」という命令形には、実は一見、過去の伝承を無条件に受け入れているかに見える芭蕉の古跡故実遺蹟に対する、ある種の強いリアリスティックな反発感が読み取れるように思われる。「曾良随行日記」を見ると以下のようにあるからである。やや長いが、彼等の実行程を知るためにも引く。

   *

一 二日 快晴。福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、カメアヒイガラベ村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七八丁、山ノ方ヘ行テ谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ觀音堂有。杉檜六七本有。虎が淸水ト云小ク淺キ水有。福嶋ヨリ東ノ方也。其邊ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀨ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ四五丁ニテ瀨ノウヱ也。山口村ヨリ瀨ノ上ヘ貳里程也。

一 瀨ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、貳本づゝ同ジ樣ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ經ナド有由。系圖モ有由。福嶋ヨリ貳里。こほりヨリモ貳里。瀨ノウヱヨリ一リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。福嶋ヨリ貳里。こほりヨリモ貳里。瀨ノウヱヨリ一リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。晝ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿。湯ニ入。

   *

ここで実は芭蕉は「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ經ナド有由。系圖モ有由」、則ち、「由」であって、芭蕉は義経の笈と「称する」ものも、弁慶の書写したと「称する」経も系図と「称する」ものも見ていないのである。これは勿論、後の金色堂と同様に寺僧や堂守がおらず、物理的に見られなかったのかも知れない。見たいと言ったにも拘わらず見られなかったのかも知れない(後述)。少なくとも「見なかったという事実」は「随行日記」の発見を待たずして、否、少なくとも「奥の細道」を初めて私が読んだ時に私はそう感じた。

 則ち、私は以下のように初読時に感じたのである。

 彼はそう「称せられた」物どもが芭蕉には、ある種下らぬ贋物として認識されていたからではないのか、と。「爰に義經の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす」というそっけない言いはまさにそれを証左するものではあるまいか?

 義経の北方逃避行伝説は実際にはずっと後世になって作られたものだが、そこでは平泉以北、北海道に至る点々としたルートが辿れ、そこここに史実上はあり得べからざる義経や弁慶の置いて行ったと「称する」「笈」なんぞがあることを私は知っている。ともかくも、芭蕉はこの当時、既に生じていたであろう判官贔屓、義経生存説の噂話に対しては、一線を画していたと考えるものである。そもそも本当に悲劇の貴種を愛する者は、その人物が実は死なずにどこかでこれこれこうした、こうしようとした、が、残念なことに失敗した、なんどという最下劣な、貴種流離の疵にしかならぬ江戸浄瑠璃の世界のようなトンデモ伝説としての流言飛語には、実は極めて冷淡であったはずだと思うからである(但し、私は個人的には実は私は義経の大陸逃避行説を可能性としてはあり得たと考えている。但し、ジンギスカン=義経説という近代のファナティックな軍人によるでっち上げのそれとは全く別なものとしてである)。されば、芭蕉がこの句で「かざれ」と強い口調で言い放つ意図が見えてくる気がする。そもそも秘かに北へ逃避行する義経主従の誰彼が「太刀」を何らかの礼として気軽に置いて行ったのでは悲劇の武士の面目はそれこそ丸潰れであるし、そんな太刀などあろうはずもないのだ。だからこそ芭蕉はありがちな「笈」の後に、仰天の「太刀」を配したのだ(「奥の細道」の前文では確信犯で)。

――私が愛する義経主従の、その怪しげな笈だろうが、最も噴飯物に価する太刀だろうが、何もかも――ええぃ! 皆、什物なんぞとして祭り上げるのはやめにして、いっそ、頑是ない今の子らの節句の飾り物にするがいい! それだったら、きっと義経・弁慶主従のまことの供養に、そして貧しい子らの育ちを願うに相応しいものとなろうぞ!――

禅僧の如く一喝している、というのが私の読みなのである。

 なお、山本胥氏は「奥の細道事典」で、私とは全く異なった解釈をなさっておられる。即ち、「不入」を「入らず」ではなく、「入れず」と読み、結構、苦労して探し当てた医王寺では実際には、寺僧が芭蕉が見たかった義経弁慶所縁のそれらの拝観を断ったのだとされ、「奥の細道」の本文がその行間で訴えている真相は『「寺に入て茶を乞へば、(すげなく門前ばらいをくう。)爰に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物とす(るが、それを見せてくれない。)」だから、すぐあとにつけた「笈も太刀も」の句は、五月だから、鯉のぼりのように自慢たらしく誰にでも見せるようにすればよいのに、と非難をこめてよんだとも受けとれる』(ルビは省略した)とし、実は芭蕉はこの医王寺で受けた仕儀を恨んでここを綴ったのだとされる。だから、その不快感が尾を引いて、続く飯坂温泉の段にある、『遙なる行末をかゝえて、斯る病覺束なしといへど、羇旅邊土の行脚、捨身無常の觀念、道路にしなん』というブルージーな感懐を援用、遂にこうした旅程の不備(それは多分に先達者たる曾良の責任ということになろう)と医王寺の仕打ちに対してキレた芭蕉が『一歩も動きたくなくな』って、『道路に寝ころび、手足をばたばたさせてダダをこねる幼児に返』ったような憤りこそがこの前後の字背に潜むのだとされる。非常に面白い(特に芭蕉が一歩も動きたくなくなったというところは確かにリアルではある)。面白いが、であれば、実は笈も弁慶の遺墨も見れなかったことをこそ書かねばなるまい。それでなくては読者へそうしたプラグマティックな怒りは伝わらない。山本氏の読解は近代になって「曾良随行日記」が見つかって「不入」を見てしまった我々だからこそ辿りつける『真相』『真意』であって、「奥の細道」を精読しても出てくる解ではないと私は思うのである(言っておくが、私の解釈は「不入」を示してはいるが、句の解釈上は、それを必要条件とするものではない)。

 因みに「紙幟」とは、山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、『寛永ごろから民間で武者絵や鍾馗(しょうき)などを紙に刷ったのぼり』(当然これはそれほど高価なものとは思われないし、所詮、彩色したややきらびやかな上製品としても、所詮、雨が降ればだらだらばらばらになるところの紙絵に過ぎぬ)『で、端午の節句に立てる。折しも五月であるから、義経主従の笈も太刀も節句の飾り物とせよ、と言った』のだとされ、『そこらには紙のぼりや鯉のぼりなどが五月の空にひるがえる景色が目についたのである』と評しておられる。私に言わせれば、この寺に什物としてあるそれらは所詮、そうした勇ましい武者絵の、しかしたかが「紙幟」の類いと全く同じだ! だったらいっそのこと、一緒にこの五月の節句にこそ「かざれ」! それこそ真実だ! と珍しく、芭蕉は実は句の背後で珍しく憤っているのではないか、と読むのである。なお、安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」のこの「紙幟」の注にさりげなく、貝原益軒の「日本歳時記」を引いているが、そこには五月『朔日より五日まで、兒童の弄事とす』とあるとして、わざわざ「朔日より」に傍点を打っておられる。安東さんらしい。これこそ――「まさにその通りにせよ! だから私は嘘をついて「五月朔日」とわざわざしたのだ!」――という芭蕉の心の叫びが、怒りが聴こえると私は思うのである。安東さん、やっぱ、大好きだわ!

大方の御批判を俟つものではある。

 以下、「奥の細道」(漢字の踊り字「〱」は「々」に代え、平仮名の「〱」は正字化した)。

   *

月の輪のわたしを越て瀨の上と云宿に

佐藤庄司か旧跡はひたりの山際一

里半計に有飯塚の里鯖野と聞

て尋々行に丸山と云に尋あたる

是庄司か旧館也麓に大手の跡な

と人の教をしゆるにまかせて泪を落

かたはらの古寺に一家の石碑を殘

中にも二人の嫁かしるし先あはれなり

をんななれ共かひかひ敷名の世に聞へ

つるもの哉と袂をぬらしぬ堕涙

の石碑も遠きにあらす寺に入て

ちやを乞へは爰に義經の太刀弁慶か

笈をとゝめて什物とす

  弁慶か笈をもかされ帋幟

五月朔日の事也其夜飯塚にとまる

出湯あれは湯に入て宿をかるに

土坐に筵を敷てあやしき貧家也

ともし火もなけれはゆるりの火かけに

寐所をまうけてふす夜に入て雷

鳴雨しきりに降てふしたる上に

雨もり蚤蚊にせゝられて眠らす

持病さへおこりて消入許になん短

夜の空もやうやう明れは又旅立ぬ猶

夜の名殘心すゝます馬かりて桑折

の驛に出はるかなる行末をかゝえ

てかゝる病覺束なしといへと羈旅

邊土の行脚捨身無常

の觀念道路にしなんこれ

天の命なりと氣力聊とり直し

道縦横に踏て伊達の大木戸を

こす[やぶちゃん注:以下、改行字空けなしで次の武隈の段に続く。]

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇弁慶か笈をもかされ帋幟 → ●笈も太刀も五月にかざれ帋幟

〇出湯あれは湯に入て   → ●温泉(いでゆ)あれば湯に入て

[やぶちゃん注:表記通り、読みは同じであるが、一応、示しておいた。]

〇ゆるりの火かけ     → ●ゐろりの火かげ

[やぶちゃん注:「ゆるり」は「いろり」に同じい。]

〇ふしたる上に雨もり   → ●臥せる上より漏り

〇桑折の驛に出ス     → ●桑折の驛に出づる

[やぶちゃん注:「出ス」は「出づ」の誤記であろう。流布本は連体中止法。]

■やぶちゃんの呟き

 私のこれは「注」ではなく、「呟き」である。しかも私のプロジェクトはあくまで句をシンクロニティで味わうことが主眼で、高校の古典の授業の再現をしようというのではない。だから特に興味のない地誌及び故実語注を語る気はさらさらない。ここではそれを特に我儘に出そうと思う。意味の分からぬ向きには有象無象の注釈書やネット上の「おくのほそ道」の美事な紙幟の如きサイトがまさに氾濫して翻っている。そちらをどうぞご覧あれかし。

「佐藤庄司」佐藤元治(基治)(生没年不詳)。鎌倉初期の陸奥の豪族で、後に出る「二人の嫁」の「二人」、義経の忠臣佐藤継信及び忠信兄弟(後述)の父。信夫及び伊達郡の管理者として信夫庄庄司或いは湯庄司と号した。妻は藤原秀衡の娘(ウィキの「佐藤基治」では秀衡の父『基衡の弟清綱(亘理権十郎)の娘で秀衡のいとこに当たる乙和子姫』とする)であったともされ、文治五(一一八九)年の奥州合戦の際、信夫庄に於いて頼朝率いる鎌倉軍に抵抗して捕らえられたが、後に赦免されて本領安堵されたとも伝えられると「朝日日本歴史人物事典」にはある。ウィキの「佐藤基治」では奥州藤原氏との関係について、さらに突っ込んで書かれていて、『乙和子姫には、継信・忠信・藤の江・浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の三男忠衡に娶わせ岳父として同盟関係を築いた』とし、『歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったかとする説を唱えている。飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸(源義経側室)とある』と記す。また奥州合戦での事蹟についても、文治五(一一八九)年八月、『源頼朝が奥州討伐のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと石那坂(現在の福島市平石)に陣を』張って防戦、「吾妻鏡」文治五年八月八日条によると、『この合戦で基治は鎌倉方の常陸入道念西子息である伊佐為宗らと戦って敗れ、晒し首にされたとある』一方で(私の電子テクスト「北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート3〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉」の注に全文引用があるの参照されたい)、同じ「吾妻鏡」同年十月二日条『によると、赦免されて本領に戻った』とある(「吾妻鏡」の同条には『二日、戊子(つちのえね)、囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別當等、厚免を蒙りて各々本所へ歸ると云々』とある)。『福島県白河市表郷中野庄司戻には、基治に由来する「庄司戻しの桜」がある。伝承によると、義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたという(現在は案内板のみ残る)』。『石那坂で戦死したとする資料が多いが、『信達一統誌』では生け捕りの後赦免され、後「大鳥城」で卒去したとあり、『大木戸合戦記』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある』と記す(最後の注を参照されたい)。

「一家」「いつけ」と読む。佐藤一族。

「二人の嫁がしるし」佐藤継信・忠信の妻の墓碑(現存しない)。伝承や古浄瑠璃「八島」などでは、二人は夫たちが義経に忠義を尽くして死んだと知った際(兄継信は義経郎党として平家追討軍に加わったが屋島の戦いで討死にしたというのが事実。「平家物語」では平教経が義経に放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされるが、射手である教経自身が実際には一ノ谷の合戦で討死している。弟忠信は都を落ちる義経に同行するも宇治の辺りで義経と別れて都に潜伏、文治二(一一八六)年九月に人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人糟屋有季に居所を密告されて潜伏していた中御門東洞院で襲撃され、奮戦の末、自害して果てた。以上はそれぞれウィキの佐藤及び佐藤忠信に拠った)、彼女ら自らが鎧甲を着して、恰も両兄弟が生きて凱旋したかのような形(なり)に身を包んで、兄弟の病床にあった老父母を慰めたとすることを踏まえ、「をんななれ共かひかひ敷名の世に聞へつるもの哉と袂をぬらしぬ」と感慨したのである。この芭蕉のテンションの高まり方は特異点と言える。

「堕涙の石碑」「堕涙」は「だるゐ(だるい)」で、見れば涙を流ずにはおれない石碑の謂い。「晋書」の「羊祐伝」に載る故事。晋の襄陽の名将であった大守羊祜(ようこ)の没後、その遺徳を慕った民が生前に彼がその景観を愛した峴山(けんざん)に建てたという羊公碑。その銘文を読めば誰もが清廉な羊祜を惜しんで泣いたという、孟浩然や李白も詠んだ名跡である。

「義經の太刀弁慶が笈」前に記した通り、虚構。実際には義経の笈と弁慶書写の経。

「持病」芭蕉は慢性的な胃腸疾患と胆石、痔疾などを持病としていたといわれている。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻で既に注したが、彼の死因は潰瘍性大腸炎が疑われ、この痔というのも実はそれであったのかも知れない。

「五月朔日の事也」前に述べた通り、虚構。事実は五月二日。

「道縱横に踏で伊達の大木戸を越す」この「伊達の大木戸」、現在の福島県国見町にあった伊達藩領内に入るための関所は、古の義経に忠義を尽くした佐藤兄弟の父佐藤庄司が奮戦の末に敗退し、頼朝軍の捕虜となった古戦場であった(前注参照)。まさにこの最後の「道縱横に踏(ふん)で伊達の大木戸を越す」という大袈裟な表現は、かつての老兵佐藤基治が最後の死を賭して大童となって奮闘した、その荒武者振りの様を芭蕉自らに擬えたものとして理解出来るのである。実はそうした役作りのためにも、この直前の異様にブルージーな荒涼たるプレ画面が必要だったのではないか? この延々続く異様な「五月朔日」の光景は、まさにそうした演出なのだと私は思うのである(実際、「曾良随行日記」にも持病の悪化は記されておらず、この後の旅程を見ても芭蕉の歩みには結滞が全く見られない)。なお、この「縱横に踏で」については、山本胥氏の「奥の細道事典」に昭和二二(一九四七)年に志田延義氏が『俳句研究』に発表した「六方(法)説」を紹介されている。これには個人的には非常に興味をそそられはした。則ち、寛文年間(一六六一~一六七三年)には歌舞伎に取り入れられていた、当時の町奴(まちやっこ)風の例の大袈裟な手振り足振りのあれである。確かに現在の歌舞伎では「勧進帳」の弁慶の飛び六方、「義経千本桜」「鳥居前の段」の佐藤忠信(実は源九郎狐)の狐六方と義経・弁慶絡みで強烈な親和性が窺われるものではある。何より私自身が個人的に、文楽の「勧進帳」や、何より、黒沢明の映画作品の中で最も好きな「虎の尾を踏む男達」の愛するエノケンの六方のパロディを即、想起してしまってジーンとくるからではある。しかし、どうも違う。元禄の芭蕉が、たかだか二十年ばかり前にアクロバティックな歌舞伎に取り入れられたばかりの、事大主義的なヤンヤ喝采型のオーバー・アクトに好感を持っていたようには、私は実は思えないからである。志田氏のそれは心情的にはどこかシンパシーを感ずるものの、私には最終的に、現代の我々の眼前に堆積した文芸作品の一部の、心霊写真のようなシミュラクラに過ぎないものにしか思われないのである。]

ダニエル・キイスに

ダニエル・キースに花束を……コートにすみれを……

Violets for yours furs

John Coltrane

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

本日二〇一四年六月 十八日(陰暦では二〇一四年五月二十一日)

   元禄二年五月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十八日

である。【その一】四月二十九日に乙字ヶ滝を見た芭蕉は、そのまま等躬の誂えた馬で小作田を経由して磐城街道の守山宿へ着き、そこで問屋善兵衛の饗応を受け、同所の神宮寺大元明王及び善法寺に参詣の後、また善兵衛の用意した馬に乗って、その日のうちに岩城街道を北へ向かい、阿武隈川を舟で渡って、日の入り前に郡山の旅宿に到着しているが、「曾良随行日記」は最後に『宿ムサカリシ』と記している。翌五月一日(同年の四月は小の月)日の出とともに出立、歌枕の安積の里を経、かの安達が原の黒塚を見た。その日の宿である福島には日の入りより少し前に到着している。「曾良随行日記」は前日と対称的に最後に『宿キレイ也』と記す(この二つの宿評の間に安達ヶ原が入っているのは私には興味深い。「キレイ」な宿こそ実は鬼婆の宿りの表の様子であり、「ムサ」き部屋こそカニバルの魔の空間だから。芭蕉はこの逆の体験に却ってせっかくの幻想を萎ませてしまったのかもしれないなどと勝手に夢想もするのである)。この五月一日の実動距離は実に四十九キロメートルに及んでいる(ここまでで最長)。翌二日、快晴の中を出立、すぐに信夫(しのぶ)の里(現在の福島市北東部の山口地区。旧信夫郡岡山村山口)の文知摺(もじずり)観音境内にある信夫文知摺の石を見たものと思われる。 

 

早苗(さなへ)とる手もとや昔しのぶ摺(ずり) 

 

  忍ぶもぢ摺の石は、陸奥(みちのく)福島

  の驛にありて、往來(ゆきき)の人の麥草(む

  ぎくさ)を取(とり)て、この石を試みけ

  るを、里人ども心憂く思ひて、此谷に轉(こ

  ろば)し落しぬ。石の面(おもて)は下樣(し

  たざま)に伏したれば、今はさするわざす

  る事もなく、風雅の昔に替はれるを嘆きて

早苗つかむ手もとやむかししのぶ摺

 

  しのぶの郡しのぶ摺の石は、茅(ちがや)

  の下に埋れ果て、いまは其(その)わざも

  なかりければ、風流のむかしにおとろふる

  事ほいなくて

五月乙女(さをとめ)にしかた望(のぞま)んしのぶ摺 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「卯辰集」(楚常編・北枝補・元禄四年奥書)の、第三句目は「曾良俳諧書留」の句形。第三句目には、

加衞門加之ニ遣ス

とある。これは「奥の細道」にも出る、この句を作った後日に着いた、仙台宮城野で知り合った画工北野加右衛門で、俳号を和風軒加之(かし)と称した。その出逢った後に、この既に作った句を彼に送った、それを曾良が書き留めておいたのであろう。それ故に「俳諧書留」では俳句の順列の齟齬が生じているように見えるのである。

 本句はまずは、百人一首で知られる河原左大臣源融の、

みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに亂れそめにし我ならなくに

に代表される信夫の里の面影である。「しのぶもぢずり」は、福島県伊達郡川俣町字寺前の「本田絹」本田 語氏のサイト「絹の工場」の「しのぶ もちづり」をご覧戴くに若くはない。何故ならここでは実際に石を用いた古式の「文知摺染の再現」のところでその行程と出来上がった染物が写真で一目瞭然だからである。その解説によれば、『「しのぶもちずり」とは、山繭をつむいで織り、天然染料で後染めする絹織物』で、『奈良時代からの養蚕と絹織物の産地であったこの地方で、自然の石(綾形石)を利用した摺り染めの絹織物が、「信夫絹」・「しのぶもちずり」として宮中に献上され、おおいに好評を博し、その「みだれ染め」といわれる紋様から、「乱れ心」を意味する枕詞』さえ生まれたとする。この何か不思議な響きを持つ名については『綾形石の自然の石紋と菱形、しのぶ草の草の葉形を摺り込んだ風雅な模様が、信夫もちずり絹と言う説。また一説には、「もじ」とは真っ直ぐでなく、もじゃもじゃしたという意味らしく、いろいろな色彩が入り乱れて染められ、その乱れた模様がなんとも優雅であったという説』が伝わっているとある。以下、「石の伝説」の部分の「信夫文知摺保勝会」の掲示板より転記したものを掲げさせて頂くと(一部記号を追加・除去し、空欄を詰めた)、

   《引用開始》

 貞観年中(九世紀半ば)の頃、陸奥国按察使(あせち・巡察官)源融(みなもとのとほる)公が、このあたりで道に迷い、この里(山口村)の長者と出会う。その娘虎女と恋仲になるが、都からの使いにより、公は再会を約して都に戻ることになった。

 再会を待ちわびた虎女は、「もちずり観音」に百日詣りの願をかけ、満願の日に、観音様のお告げをいただく。文知摺石を磨きあげると、愛しい人が現れるとのこと。毎日、心と祈りを込めて磨いていると、公の面影が浮かんで見えた、しかしそれは一瞬のことで、思慕の情は益々つのり、嘆き、悲しんだ虎女は、ついに病の床につくことになってしまった。

 病がいよいよ重くなり、明日をも知れずという時に、都から公の虎女にあてた歌が届けられた。

   みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに

 この悲恋を伝え聞いた近々の子女たちが、自分の恋しい殿方の面影に出逢う為に、競って文知摺石を磨きに押し寄せたため、田畑を荒らされる農民が、怒って山から石を落としたために、現在の位置に鎮座したとされている。またこの石を「鏡石」と別名で呼ばれるのは、このことがあってからだそうである。

   《引用終了》

このサイトだけで私は国文学的な先行作の諸引用をする必要を感じていない。何より『あらかじめ湿した羽二重を敷き、藍の生葉を摺り込む』及び『水洗いした紅花を摺り込む』とある画像の仕草を見て頂きたい。これはまるで田植えの手つきとそっくりだと私は思うのである。

 既に述べてきたように、一句を感ずるためには私は何よりも実際の想起出来る映像へのヒントこそが必ずや必要条件なのであって、故実や古歌といった文芸作品の飽き飽きした堆積は十分条件(それもやや退屈な)でしかないと考える口なのである(事実、この句がインスパイアしたと思しい和歌は諸本が出す参考歌には全く見当たらない)。そうして芭蕉のこの句の魂も、私は実は、それに尽きると心得ているのである。

 芭蕉は――稲霊(いなだま)を招ずるところの巫女の末裔である早乙女たちの幽かに艶っぽい、その、苗代用の田の苗を取って実際の本当の田に植え替える(恐らくは後者の田植えにそれを代表させているとしてよい)仕草に、古代染めをした古えの神聖な織姫たちの「しのぶ摺り」の手捌きを重ね合わせて、遙かに古き代の神女の面影を「偲んで」いるのである。初案と思われる第三句は早乙女を出してそれをあからさまにあつらえ望む形で(ここにはしかし恋の色に染めておくれという、芭蕉の早乙女への恋句の雰囲気が濃厚にあるように私には思われる)、あまりに如何にもであると感じたに違いなく、早乙女を字背に送ったものの、「つかむ」では艶やか感じが出ず、また字余りが野暮な野夫の腕のようなごっつさを呼んでしまい、何より下五「しのぶ摺」の「する」の連想動作とも微妙に食い違う。自ずと選ばれたのが「とる」であったと考えると、私は実に腑に落ちるのである。そうしてその見えない早乙女こそが、遙かに前の影の早乙女の登場たる「田一植ゑて立ち去る柳かな」と美しい額縁をなし、その額の中には「風流の初めやおくの田植うた」という一枚の絵、否、一曲の艶やかな早乙女たちの田植え唄が美しく嵌め込まれているのである。

 以下、「奥の細道」を引く。

   *

 

等窮か宅を出て五里計檜皮

の宿を離れてあさか山有道より

近し此あたり沼多しかつみ刈比

もやゝちかふなれはいつれの草を花

かつみとは云そと人々に尋侍れとも

更知人なし沼を尋人にとひかつみ

かつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ

二本松より右にきれて黑塚の岩屋

一見し 福嶋に泊るあくれはしの

ふもと摺りの石を尋て忍ふのさとに行

はるか山陰の小里に石の半土に埋てあり

里の童への來りてをしへけるむかしは

この山の上に侍しを往來の人の麥艸を

あらしてこの石を試侍をにくみて

この谷につき落せは石のおもて下

さまにふしたりと云さもあるへき事もや

  早苗とる手もとやむかししのふ摺

 

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇福嶋に泊る     → ●福島に宿る

○さもあるへき事もや → ●さもあるべきことにや

■やぶちゃんの呟き

「五里計」「ごりばかり」と読む。凡そ一九・六キロメートル。

「檜皮の宿」「ひはだのしゆく(ひわだのしゅく)」と読む。現在の福島県郡山市日和田町。

「あさか山」現行流布本では「淺香山」とする。安積(あさか)山。現在の郡山市日和田町字安積の安積山公園がある小さな丘に同定されている。歌枕。

「此あたり沼多し」古歌で「安積(あつみ)の沼」は次の故事に基づく歌枕。

「かつみ」本文にもあるように、すでに正体不詳の花の名である。藤原実方の故事に基づく。「無名抄」等によれば、長徳元(九九五)年に一条天皇の面前で藤原行成と歌について口論となって怒った藤原実方が、行成の冠を奪って投げ捨てて天子の怒りを買い、歌枕を見て参れと命ぜられ、陸奥守に左遷された(実際には清少納言との三角関係によるスキャンダルが喧嘩の原因という説もある)。彼はこの地で端午の節句(芭蕉がここを過ぎたのもまさに直近の五月一日であった)を迎えたが、人々が節句にもかかわらず菖蒲(しょうぶ)を葺かないのを見、国府の役人に質すと、そのような習慣はなく、この地にはその菖蒲(しょうぶ)なるものがないと答えたことから、その代わりとして「安積の沼」に咲く花「かつみ」という花を刈り取って軒に葺かせるようにした、とする。この「かつみ」は真菰(まこも)とも菖蒲(あやめ)とも蘆(あし)の花とも言われるものの、現在でも正体不明である。なお、郡山市では単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒメシャガ
Iris gracilipes をこの「カツミ」として「市の花」としているが、沼で刈るという表現から考えると、ヒメシャガではないと私は思う。この異様に長々しい部分――「かつみ刈るころもやや近」いからと、どの花を「花がつみ」というのかと逢う人ごとに狂人のように訊ねるが、「さらに知る人もな」い。それでも遂には自ら沼を訪れ、またしても人に問い、ついには「かつみかつみ」と狂ったようにつぶやきつつ、可憐な幻の花「かつみ」を探し求める老いたる芭蕉の異常なる姿――は非常に気になる。それを綴ったのも大いに気になるのである。則ち、これに基づく「新古今和歌集」の「恋四」のよみ人しらずの六七七番歌、

 みちのくのあさかの沼の花かつみかつ見る人に戀ひやわたらむ

を念頭においていることを考えれば、この和歌が――時々わずかに垣間見るだけ、だからこそ、こうしていつまでもその人への恋しい気持ちが、永遠に続いてしまうのであろうか――という微妙な恋句であることから、この時、芭蕉はまさに私が先に挙げた謡曲「恋重荷」や「綾鼓」の、老いらくの恋に身を焦がして遂にはそれを命と引き換える主人公と自身を重ねているのではないか? そうしてその恋の相手はずっと以前に登場していた。――「かつみかつみ」と「かつみ」を「かさね」ねるそれは実は「かさねかさね」の謂いではなかったか?……早乙女のエロチシズムが芭蕉の永遠の少女への恋に再び火を熾したといってもよい……さてさてこれも……私の勝手な妄想ではあるが……

「二本松」現在の福島県二本松市。日和田の約十キロメートル北に位置する。

「黒塚の岩屋」現在の二本松市安達ヶ原にある観世寺境内にある。サイト「巨石巡礼」の安達原・観世が解説もあって、何よりモノクロームの写真が秀抜である。それにしても芭蕉は何故、黒塚で句をものさなかったのか? 芭蕉が謡曲「黒塚」をどう料理したかと想像するだけでもわくわくするのであるが、以上のように「奥の細道」本文では何故か異様にそっけない(「かつみかつみ」がファナティクに長いのに)。これは恐らく「黒塚」の持つ強烈な猟奇性を、結局は連句的で流暢な構成を志向する「奥の細道」に遂に投げ込み得なかったからだと私は推理している。芭蕉はここで「恋」を選ぶためにあえて「鬼趣」を捨てたのである。存外、鬼趣を好んだ芭蕉が「奥の細道」では敢えてそれを意識的に避けている感じがする。これはまたどこかで再説してみたい。

「石半土に埋てあり」「いし、なかば、つちにうずもれてあり」と読む。

「さもあるべき事もや」「さもあるべきことにや」孰れも、本当にそんなことがあるものだろうか? いや、そんな酷いことは決してあるまい。という歌枕の衝撃的な無風流でプラグマティクな理由による衰亡に対する、芭蕉のそうした酷い原因の否定を含んだ反語的疑問文であると私はとる。原案の係助詞「も」だと、土地の人々が田畑を荒らされることに業を煮やし、遂には伝説の石を突き落とした、という破廉恥極まりない行いに対して、いや、そんな残酷なことも世にはあろうかも知れぬ(もしかすると芭蕉はここで僅かに斬り捨てたこの直近の黒塚の鬼婆の余香(残臭)を利かせたものかも知れない)というニュアンスを私は強く感じる。寧ろ、そんなこと、あろうはずはない、というのが決定稿ではないか。芭蕉は「奥の細道」で意に反した深い失望や刺すような批難は決して表現していないからである。そんな口を尖らしたような指弾が孕んでいたら、何より、直後の句の拭い難い疵がつくからである。]

2014/06/17

生物學講話 丘淺次郎 第十章 雌雄の別 一 別なきもの (3)

 さてかやうな動物が生殖するときには、如何にして卵と精蟲とを出遇はしめるかといふに、これは實に簡單を極めて居る。即ち生殖細胞の成熟する期節が來ると、雌は勝手に海水中へ卵を吹き出し、雄は勝手に海水中へ精蟲を吹き出すだけであるが、卵や精蟲が小さな孔から吹き出されるところを横から見て居ると、人が煙草の烟を鼻の孔から吹き出して居るのと少しも違はぬ。かしこでは雄が精蟲を吹き出し、こゝでは雌が卵を吹き出すと、卵と精蟲とは水中を漂うて居る間に相近づく機會を得て、精蟲は卵の周圍に游ぎ集まり、かくして受精が行はれるのである。されば「うに」や「ひとで」の子供にも父と母とは慥に有るが、産まれる前に既に緣が切れて居るから、親と子との間には始から何の關係もない。父は我が子の母を知らず、母は我が子の父を知らず、しかも幾千・幾萬の雄と雌とが同じ海に住んで居ること故、どの雌の産んだ卵がどの雄の精蟲と相合するかわからぬ。かゝる動物では受精は全く獨立せる生殖細胞の、互に相求める力によつてのみ行はれるのである。

 

 右の如き方法による受精は、無論水中に住む動物でなければ行はれぬ。そして水中で卵と精蟲との出遇ふのは、餘程までは僥倖によること故、卵の多數が受精せずしてそのまゝ亡びることもないとは限らぬ。特に水中には小さな卵や弱い幼蟲を探して食ふ敵が非常に多く居るから、精蟲に遇はぬ前に他の餌食となるものも澤山あらう。また小さな幼蟲となつてから食はれるものも頗る多からう。さればこの類の動物は、かやうな損失をも悉く見越して餘程多くの卵を産まぬと、種族保存の見込みが十分に立たぬわけであるが、實際飼うて置いて見ると、その生殖細胞の産み出されることは實に非常なもので、水槽函内の海水が全部白く濁る程になる。植物でも蟲媒花の花粉が無駄に散つて居ることは少くないが、松などの如き風媒植物の花粉は驚く程多量に生じて、恰も硫黄の雨でも降つたかの如くに地上一面に落ち散るのも、恐らくこれと同じ理窟であらう。

 

 卵も精蟲もまづ親の身體から離れ、しかる後に水中で勝手に受精するたうな動物は、「うに」や「なまこ」の外にもなほ幾らもある。普通に人の知つて居るものから例を出せば、「はまぐり」・「あさり」・「しゞみ」などの二枚貝類が皆これに屬する。「はまぐり」でも「しゞみ」でも一疋づつ悉く雄か雌かであるが、介殼だけで區別の出來ぬは勿論、切り開いて内部を見ても全く同樣である。それ故、多數の人々は常に食ひ慣れて居ながら、雄と雌とがあることさへ心附かぬ。一體雌雄の體形上の相違は、主として雄の精蟲を雌の體内へ移し入れるための器官、または兩性を相近づかしめるための裝置の差にあるゆえ、雌雄が相近づく必要のないやうな動物に、雌雄體形の相違のないのは當然である。「くらげ」や「さんご」なども雌と雄とがあるが、身體の形には何の相違もない。

[やぶちゃん注:『「はまぐり」でも「しゞみ」でも一疋づつ悉く雄か雌かである』は厳密には正しくない。軟体動物門斧足(二枚貝)綱異歯亜綱シジミ科上科シジミ科 Cyrenidae に属するシジミ類のうち、全国に分布する汽水性のヤマトシジミ Corbicula japonica と琵琶湖固有種の淡水性のセタシジミ Corbicula sandai は確かに雌雄異体で卵生であるが、やはり普通に食卓に載る全国に分布する淡水性のマシジミ Corbicula leana は雌雄同体で卵胎生である。しかもこのマシジミは動物界では稀な雄性発生である(他個体と遺伝子を交換せず、自身の精子の情報のみで発生・繁殖する発生様式で、クローン若しくはクローンに近い状態で発生している。但し、詳しい繁殖様式は現在も解明中ではある)。これらの斧足類の雌雄判別はやはり非常に難しく、産卵期に解剖してその成熟した雌雄の生殖腺の違いを見る以外にはないらしい。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅷ

 

綠金の羽を牝にかけて秋の雞

 

雲あそぶ後山の蘭に秋の雞

 

秋の軍雞激することなく貌翳る

 

よき娘きて軍雞流※(ながしめ)す秋日かな

 

[やぶちゃん注:「※」=「目」+「焉」。この漢字、不詳。]

 

  句選なかばにして隅々廬をたちいで、鬱積

  せる心を前庭の花卉に遊ばす、二句。

 

萩紫苑瑠璃空遠く離れけり

 

秋空や子をかずつれし鳶の笛

 

晩秋や杣のあめ牛薔薇甜ぶる

 

[やぶちゃん注:「あめ牛」飴牛で飴色の牛の謂いであろう。「甜ぶる」は「ねぶる」で舐めるの意。]

 

樅に出て深山ぐもりの月の秋

 

橋本多佳子句集「紅絲」 蘇枋の紅 Ⅰ

 蘇枋の紅

 

[やぶちゃん注:「後記」によって以下の作品群は昭和二四(一九四九)年と翌年の春の二度の上京の際の創作であることが分かる(年譜にはしかし昭和二十四年の上京記事はない)。「蘇枋」は「すはう(すおう)」。植物体としては本来はマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属スオウ Caesalpinia sappa を指す(この心材や莢からは赤色の染料ブラジリンが採取され、その色を蘇芳色と呼ぶ。ウィキの「スオウ」に拠る)が、この花は五月~六月頃に咲き、しかも赤くなく黄色い。「蘇枋」の如く「紅」色で、ここの冒頭にあるように桜咲く春に咲くにはジャケツイバラ亜科ハナズオウ Cercis chinensis である。こちらは早春に枝に花芽を多数つけ、三~四月頃に葉に先立って開花、その花は花柄がなく、枝から直接、花が咲く。花は基本的に紅色から赤紫色を呈し、長さ一センチメートルほどの蝶の形をしている。和名は「花蘇芳」で花弁の色がスオウで染めた色に似ているからである(ウィキの「ハナズオウ」に拠る)が、実はしばしば園芸家の間でも「ハナズオウ」は単に「スオウ」と呼ばれることがネットを調べると分かる。以下に出る標題句「蘇枋の紅(べに)昃(ひかげ)る齢(よはひ)同じうす」から見て、この「蘇枋」はスオウ Caesalpinia sappa ではなく、後者のジャケツイバラ亜科ハナズオウ Cercis chinensis である。因みに「蘇芳の紅」色とはこの色である(リンク先は「Color-Sample.com」)。]

 

  上京して

 

夜の雨万朶の花に滲み通る

 

足濡れてゐれば悲しき桜かな

 

過去は切れ切れ桜は房のまゝ落ちて

 

起りたる桜吹雪のとゞまらず

 

  中村汀女さんに初めてお逢ひする

 

蘇枋の紅(べに)昃る齢(よはひ)同じうす

 

[やぶちゃん注:「後記」にはこの「蘇枋の紅」句群は昭和二四(一九四九)年と翌年の春の二度の上京の際の創作であるとするのであるが、年譜には昭和二十四年の上京記事はない。これは多佳子の記憶違いではなかろうか? 年譜から推定すると、昭和二三(一九四八)年四月の『上京、目白の国子』(次女。彼女の婚約者堀内三郎氏は昭和十九年学徒動員で出兵、終戦後の内地帰還の途次に遭難している。この前年の六月に国子は小布施大三郎氏と結婚している)『宅に滞在。東京の俳人たちと会う』とあるのがそれかと思われる。「昃る」は「ひかげる」と読み、恐らくは庭に咲くハナズオウ(前注参照)の紅い花の実景に互いの「ひかげるよはひ」とを掛けたものである。私は初読時、「蘇枋」色の紅(べに)で、黒味を帯びた赤い口紅の色を指し、汀女が「蘇枋の紅」を点(さ)していたものかと思ったりしたが、それでは露骨に如何にも無礼な句となってしまうということに、無粋な男である私は愚かにもなかなか気づかなかったのであった。そもそもがこの前後の句群は花尽くしでもあり……いや、私はそういう迂闊な男だつたのです……。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに「4T」と呼ばれた中村汀女は明治三三(一九〇〇)年生まれで、当時、四十八、多佳子より一つ若い。]

 

いたどりの一節(よ)の紅に旅曇る

 

いそがざるものありや牡丹に雨かゝる

 

木蓮の一枝を折りぬあつは散るとも

 

旅の手の夏みかんむきなほ汚る

 

春空に鞠とゞまるは落つるとき

 

[やぶちゃん注:多佳子の私の偏愛句である。]

 

咽喉疼(いた)き旅寢や燕吻づくる

 

禱りちがふ三色もてすみれ一輪なす

 

[やぶちゃん注:この句、私にはなかなか難しい。以下のように、まずは詠んだ。

 春(プリマヴェーラ)の女神の花であるスミレ目スミレ科スミレ属 Viola のスミレ類は、「慈愛」のシンボルとしてのバラ及び「清純」のユリとともに「控えめさ」と「誠実」を象徴する聖母マリアの花ともされる。ここはそのキリスト教の聖母への「禱り」(いのり)を指していると読めなくはないが、どうも「ちがふ」という語彙から考えると、文字通り、違う意味であろう。そこでビオラ・トリコロール、「三色すみれ」を調べる。スミレ属サンシキスミレ Viola tricolor ウィキに「サンシキスミレ」によれば(一部の記号を改変した)、『サンシキスミレ、又はサンショクスミレ(三色菫)は、一年生もしくは短命な多年生の野草。園芸種であるパンジーの原種の一つで、それゆえ数多くある英名の一つにワイルドパンジーの別名があり、その名で呼ばれることもある。園芸種が今日のように洗練され広く植栽される以前は、パンジーと云う語は当種を指した』とあり、『ヨーロッパに広く分布する。北米にも移入されて広まり、ジョニー・ジャンプ・アップ johnny jump up の名で親しまれているが、黄花を咲かせる近縁種もこの名で呼ばれることがある。日本には移入されておらず,野外逸出もしていないが、かつて園芸種のパンジーの和名にこの名が用いられたので,年配者はパンジーをこの名で呼ぶことがある。なお現在ではパンジーと本種は別種に扱われている』とあり、「人間との関係」の項に『数ある英名の一つである heartsease の名にちなみ、長らく失恋 heart break の特効薬であるといわれ続けた歴史を有する』と出る。“ease”は「楽」「気楽」「安心」「安楽」「悩みなき安楽なる生活」をいう。また「文学での扱い」の項には『園芸種のパンジーが市場に出回る以前、またの名をパンジーとされた本種は、しばしばその花言葉(フランス語のパンセ “pensee”物思い)と関連付けられた。ゆえにウィリアム・シェイクスピアのハムレットに登場するオフィーリアが口にする台詞 “There's pansies, that's for thoughts”(これはパンジー、物思いの徴)のパンジーについて、シェイクスピアの念頭には園芸種ではなく本種があった。シェイクスピアは、戯曲夏の夜の夢の作中にて、さらに重要な役割をサンシキスミレに担わせている。妖精の王オベロンは、乙女らが“love-in-idleness”「徒なる恋」と呼ぶ「西方に咲く小さな花」を手下の妖精パックに集めるために遣わす。「西の玉座に君臨する美しき処女(おそらくはエリザベス1世のこと)」を狙い、キューピッドの弓から放たれた矢はオベロンの計略によりそらされ「それまでは乳白色だったが、矢から受けた恋の傷で今では深紫に変わってしまった花」を持つ植物に落された。「帝権に魅入られし婦人」は、「恋を知らぬまま」、決して恋に陥ることのない運命を定められる一方で,「恋煩いの花」の絞り汁は、いまやオベロンの意図のまま「眠りについた者のまぶたに塗られたら、目覚めて初めて見たそれが、男であれ女であれ、激しく溺愛する」媚薬と化す。この魔力を備えたオベロンとパックは、シェイクスピア劇にはつきものの派手さと滑稽さの演出を引き立たせ、劇中に登場する様々な人物の運命を動かす』とある。

 さて、これらからこの句の難局である「禱りちがふ」という語を見つめなおしてみると――恋に纏わる秘かな「禱り」というものは、祈るその一個の女人(と私は採る)の心中にあっても、「ちがふ」、「たがふ」、本来ならば同時にあり得ない相反するような複雑に食い違った錯綜した「禱り」として「在る」、しかもそれが一個の女人の願いなのだ――と多佳子はいいたいのではあるまいか? と感じさせるのであるが、如何? 大方の御批判を俟つものではある。]

 

花栗に寄りしばかりに香にまみる

 

[やぶちゃん注:多佳子のこの句より二年後の昭和二十七(一九五二)年鈴木しづ子に、

 

 わが十指花栗の香にまみれけり

 

がある(リンク先は私のブログでの選句)。そこでも注したが、栗の花の匂いには、男性の前立腺から分泌するスペルミンC10H26N4というポリアミンが含まれている。栗の花はしばしば精液の匂いと同じだとされる。私に高校生の時、このことをちょっとはにかんだ笑顔で教えてくれたのは――理科の先生でも、ませた友人でも、なかった――私の母であった。]

 

敷かれたるハンカチ心素直に坐す

 

驟雨の中歩幅あはされゐたりけり

 

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(20) 冬の來る頃(全) 

 冬の來る頃

 

涙して火鉢の炭をふくことも

若き我れには痛ましきかな

 

うなだれて街を歩けばおまはりも

鬚をひねりて我を見送る

 

しもやけのうすら痒きがうら悲し

母に無心の手紙かくとき

 

人混みの中を歩くも歸りきて

寢床に入るもすべて悲しき

 

何物か我まつ如く思はれて

追はるゝ如く町をさまよふ

 

かなしみて家にかへればありしごと

我を迎ふるにくき小机

 

[やぶちゃん注:「迎ふる」の「迎」の字は原本では「迥」の「冋」を「向」にしたもの。読めないので、校訂本文を採用した。]

 

妻もたぬ身には慰さむ人もなし

柱によりて忍び泣きする

 

[やぶちゃん注:「慰さむ」はママ。]

 

行きづりし中學生の四五人が

われを見返り物言ひてすぐ

 

[やぶちゃん注:「行きづり」はママ。]

 

街行けばあれは酒飮み度しがたき

のらくらものと行人の見る

 

おまはりを相手にくだを卷きて居る

醉ひどれの兵士が懷かしき哉

 

酒を呑む癖がつきてより錢もたぬ

日には臥床をひき被ぎ寢る

 

學校を休みしほどの樂しさと

またそこばくの投げやりとあり

 

何ごとか一人ごとして歩るきしを

途行く人の怪しみて見る

 

[やぶちゃん注:「歩るきしを」はママ。]

 

あることが可笑しくなりて何うしても

笑ひがやまず電車の中にて

 

思ひ出せぬ顏をやうやく思ひ出しぬ

それがつまらぬ人なりし悲しさ

我がひとみ   山之口貘

 我がひとみ

 

疑惑は去りつゝ

不幸の渦き寄るを見つゝ

我が意志よ

我が瞳よ

大いなる恐怖を抱けども

涙に浸らず

など涙――

かくも愕然たらしむ?

 

[やぶちゃん注:底本では最終行に下インデントで『一二月三十日』とある。大正一一(一九二二)年一月二十一日附『八重山新報』に後の「苦痛の樂天地」「石垣用吉氏に捧ぐ」とともに三篇掲載された。]

杉田久女句集 239  花衣 Ⅶ

 

蕗の薹ふみてゆききや善き隣

 

甦る春の地靈や蕗の薹

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では以上二句は昭和七(一九三二)年のパートに置かれている。]

 

蘆の芽のひらき初むれば初袷

 

水上へうつす歩みや濃山吹

 

[やぶちゃん注:「濃山吹」は「こやまぶき」と読む。八重山吹(バラ目バラ科バラ亜科ヤマブキ属ヤマブキ Kerria japonica 品種ヤエヤマブキ Kerria japonica f. plena )の中でも、特に花の黄色が鮮やかなものを指す。]

 

百合根分鍬切りし芽を惜しと思ふ

 

[やぶちゃん注:この句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和八(一九三三)年のパートに置かれている。]

 

筆とりて門邊の草も摘む氣なし

 

晴天に芽ぐみ來し枝をふれあへる

書室にて   山之口貘

 書室にて

 

書室の障子を開けると

隣り屋敷のセンダンの

背景の空は

白く淡黑くぼかされてゐる

温かそうに

肌に冷やかに觸れる風の

初秋の風よりも、心地よいことよ

地上のあらゆるものの上を

風は何處までも

波形に流れ行く

おゝ冬の半ばに

最早春の氣分が、

私かに侵してゐる。

 

[やぶちゃん注:「私かに」は「ひそかに」と読め、誤字ではない。大正一一(一九二二)年二月二十一日附『八重山新報』に「三路」のペン・ネームで、前の「道路の運命」「靜かな夜」とともに三篇掲載された。この詩のみクレジットがない。

「センダン」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから別名で「花おうち」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album)なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダン Santalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。]

2014/06/16

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 19 モース先生、エラコを食う! / 第十二章 北方の島 蝦夷 ~ 了

 我々の曳網は大成功であり、また我々は村を歩いて産物を行商する漁夫たちから、多くの興味ある標本を買い求めた。土地の人達は、海から出る物は何でもかでも、片端から食うらしい。私は今や函館と、パンとバタとから、百マイル以上も離れている。そして、函館で食っていた肉その他の食物が何も無いので、私はついにこの地方の日本食を採ることにし、私の胃袋を、提供される材料からして、必要な丈の栄養分を同化する栄養学研究所と考えるに至った。かかる実験を開始するに、所もあろうこの寒村とは! 以下に列記する物を正餐として口に入れるには、ある程度の勇気と、丈夫な胃袋とを必要とした――曰く、非常に貧弱な魚の羹(スープ)、それ程不味くもない豆の糊状物(ペースト)、生で膳にのせ、割合に美味な海胆(うに)の卵、護謨(ゴム)のように強靭で、疑もなく栄養分はあるのだろうが、断じて口には合わぬ holothurian 即ち海鼠(なまこ)。これはショーユという日本のソースをつけて食う。ソースはあらゆる物を、多少美味にする。

 晩飯に私は海産の蠕(ぜん)虫――我国の蚯蚓(みみず)に似た本当の蠕虫で、只すこし大きく、一端にある総(ふさ)から判断すると、どうやら Sabella の属に属しているらしい。これは生で食うのだが、味たるや、干潮の時の海藻の香と寸分違わぬ。私はこれを大きな皿に一杯食い、而もよく睡った。又私の食膳には Cynthia 属に属する、巨大な海鞘(ほや)が供され、私はそれを食った。私はちょいちょい、カリフオルニヤ州でアバロンと呼ばれる、鮑(あわび)を食う。帆立貝は非常に美味い。私はこの列べ立てに於て、私が名前を知っている食料品だけをあげた。まだ私は、知らぬ物や、何であるのか更に見当もつかぬ物まで喰っている。全体として私は、肉体と、その活動原理とを、一致させていはするものの、珈琲(コーヒー)一杯と、バタを塗ったパンの一片とが、恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である。子供達は私の周囲に集って来て、ジロジロと私を見つめるが、ちょっとでも仲よしになろうとすると、皆、恐怖のあまり、悲鳴をあげて逃げて行って了う。

[やぶちゃん注:この部分については私は既に博物学古記録翻刻訳注 ■9 “JAPAN DAY BY DAY BY EDWARD S. MORSE  CHAPTER XII YEZO, THE NORTHERN ISLAND に現われたるエラコの記載 / モース先生が小樽で大皿山盛り一杯ペロリと平らげたゴカイ(!)を同定する!で原文も掲げて詳細を極めた(つもりである)注と解説をしている。是非、お読みあれかし。

 以上を以って「日本その日その日 E.S.モース」の「第十二章 北方の島 蝦夷」が終わる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 18 小樽のラボ

 私は当地の日本人と、中央日本にいる日本人との間の、著しい相違に気がついた。ここの人々は、顔の色つやがよく、婦人は南にいる婦人にくらべて、遙に背が高い。日本の北方の国から、津軽海峡を越して来て、夏の間海岸に沿うて住み、魚類を取引して町々を売って歩く、一種奇妙な魚売女がある。彼等は背が低く、ずんぐりしていて、非常にみっともよくない。赤く爛(ただ)れた眼をした、年はすくなくとも七十と見えるが、その実五十にはなっていまいと思われる、小さな老婆が、肩に天秤棒をかけて、往来をやって来た。その両端に下げた大きな籠には、巨大な帆立貝が入っていて、彼女はこれを行商しているのであった。私は彼女を呼び入れ、貝をいくつか買った後に、彼女がやったようにして荷物を上げて見ようとしたが、一方の籠を地面から離すこと丈しか出来なかった。私の日本人の伴侶も、かわるがわる試みたが、彼等にはあまりに重すぎた。老婆は非常に面白がったらしく、我々が一方の籠を持ち上ることすら断念した時、まるでうそみたいな話だが、静かにこの重荷を持ち上げ、丁寧に「サヨナラ」というと共に、元気よく庭を出て、絶対的な速度で往来を去って行った。この小さな、萎びた婆さんは、すでにこの荷物を、一マイルか、あるいはそれ以上も運搬したにかかわらず、続けさまに商品の名を呼ぶ程、息がつづくのであった。

[やぶちゃん注:「赤く爛れた眼をした」モースの眼を惹くほどに炎症が激しいというのはトラコーマ(Trachoma 真正細菌クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属クラミジア・トラコマチス Chlamydia trachomatis による伝染性の急性又は慢性角結膜炎。)かも知れない。

「一マイル」一・六一キロメートル。]

 

 茶店に落ついた我々は、実験の設備をさがした。役人が一人、我々と共にさがしに行ってくれ、やっとのことで、海岸に近い、以前は旅籠(はたご)屋だったあばら家に、一部屋発見することが出来た。看板にした古い柱は、まだ立っている。実にきたない所で、古い乾魚が筵の包や巻物になって一杯にあり、おまけにいろいろな徴候からして、ここはまた茶店としても使用されたことが知られた。だが、短時間の間に人夫二人が、どうにかこうにか掃除をした。そこで卓一脚、椅子数脚をはこび込み、我々は曳網、壺、酒精(アルコール)その他を入れた箱二個の荷を解いた。

[やぶちゃん注:矢田部日誌の七月二十七日の条に『早朝ヨリ船改所ノ宮峯喜代太氏ニ掛合ヒ一屋ヲ借受、当港滞在中ノ試験室卜爲セリ。』とある。]

M362

図―362

 

 図362はその建物を示す。我々の部屋は戸と、それからそれを通じて、何人かが夢中になって覗いている、入口とによって指示される。彼等の舌がガチャガチャいうことによって判断すると、我々の動作の一つ一つも、我々が取り出す瓶の一つ一つも、会話の題材となるらしい。彼等は従来動物採集者の群、おまけに「外国の蛮人」が加っているのなんぞは、見たことが無いのである。

M363364

図―363[やぶちゃん注:上の図。]

図―364[やぶちゃん注:下の図。]

 

 最後に、彼等の不断の凝視がうるさくなって来た私は、図々しく彼等を写生することによって、追い払おうと努めた。然しながら、これは目的を達しなかった。でも、私は写生図を一枚得た。図363がそれである。我々の仕事部屋、図364で示してある。

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅶ

 

雨祈る火のかぐろくて盛夏かな

 

日盛りのあごをつるして貧馬かな

 

けざやかに口あく魚籃の山女魚かな

 

秋の闇したしみ狎れて來りけり

 

榛の木に子鴉むれて秋の風

 

人肌のつめたくいとし秋の幮

 

松の風古萩の花すゞろにて

 

門閉ぢて新月楡に魂まつり

 

囚獄のうす煙りして秋の天

 

山の童の霧がくれする秋の瀧

 

蟬おちて鼻つく秋の地べたかな

 

夕空の秋雲映ゆる八重葎

 

蕉影にゐて睡むき鵞の眼が顫ふ

 

  北巨摩古戰場、一句

 

秋涼し耳塚原の通り雨

 

[やぶちゃん注:「北巨摩古戰場」「耳塚原」ともに不詳。個人サイト「城と古戦場」の山梨県城」には、谷戸城(北巨摩郡大泉村谷戸。武田氏滅亡後に徳川家康と北条氏直との覇権争いに利用される)・若神子城(北巨摩郡須玉町若神子。武田信玄が佐久進軍の際に、幾度もここに宿を置いた)・獅子吼城(北巨摩郡須玉町江草。武田信虎の甲斐統一の仕上げの山城)の三つが北巨摩郡としては載る。リンク先の各解説を読むと、獅子吼城のそれが凄絶な戦場の雰囲気を伝える。「耳塚原」も固有名詞と思われるが、検索に掛からない。用年研究家の御教授を乞うものである。]

 

晝餐の果(このみ)あまずゆき秋暑かな

 

蹴鞠す空爽かに地平暮る

 

  盧後、鮠養殖池完成

 

出ついでの傘さして佇つ雨月かな

 

  身延山、山門過ぎて直ちに仰望される高磴

  數百段、磴盡くる處白雲ゆく。

 

秋蟬に鳴かれてのぼる菩提梯

 

  九月十三日、世田ケ谷の里に病める小川千

  甕氏を訪はんと經堂驛に下車すれば、人力

  車一臺あり懇ろに莊門に導く。一句

 

花卉秋暑白猫いでて甘ゆなり

 

[やぶちゃん注:「甘ゆなり」「あまゆ」はヤ行下二段の「甘える」の古語。「なり」は終止形接続しているから推定の助動詞「なり」である。この当時、既に人力車は珍しかった。]

靜かな夜   山之口貘

 靜かな夜

 

靜寂の夜だ………

何にも無い

總てが美しく

默り込んでゐる

シンとした夜に沈んでゐる

私のみだれた心も

やはりその中に默つてゐる

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・十二・二九』とある。大正一一(一九二二)年二月二十一日附『八重山新報』に「三路」のペン・ネームで、前の「道路の運命」の次の「書室にて」とともに三篇掲載された。]

萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「何處へ行く」(19)

 

前席の瓢六玉がしなり出て

また活惣を踊る夜長さ

      

[やぶちゃん注:敢えて原本のママで出すこととする(私は原本を初めて読んだ際、唯一、一読、読みも意味も分からなかった短歌だったからである)。校訂本文は、

 

前席の表六玉がしなり出て

また活惚を踊る夜長さ

 

と訂する。「瓢六玉」は間抜けな愚か者のことを指す「表六玉」「兵六玉」で「へうろくだま/ひやうろくだま(ひょうろくだま)」。因みにこの語源は亀に纏わる「賢い亀は六を隠し、愚かな亀は六を表す」という伝承に基づく。亀は甲羅から頭・尻尾・四肢の計六箇所の生体可動部を持つが、ここは亀にとって攻撃を受けた場合、生死に関わる箇所でもあり、通常の亀は危険を感じるとこれらの部分を素早く甲羅の中に隠す。ところが愚鈍な亀はこの六つの箇所を表に出したままにしているという意味に基づく(「玉」は接尾語でやや嘲りの意を含んで人をその程度の人物であると決めつける語)。「活惚」は「かつぽれ(かっぽれ)」と読む。幕末から明治にかけて流行した俗謡と踊りで、鳥羽節から願人坊主の住吉踊りに取り入れられて大道芸となり、豊年斎梅坊主らによってお座敷芸となった。名は「かっぽれ、かっぽれ、甘茶でかっぽれ」でというその囃子詞から。]

 

惡玉のたくらみごとが長かりし

場末の寄亭(よせ)のかんてらの色

              (以上二首寄亭にて)

 

[やぶちゃん注:校訂本文は短歌と後書の「寄亭」を「寄席」に訂する。]

 

長き夜の浪のみ船の楫音の

よくきこゆれば怪しみてきく

 

[やぶちゃん注:「楫音」の「楫」は原本では「揖音」。この「揖」は音「ユウ・シュウ」で、訓は「ゆずる」「へりくだる」「あつまる」、敬意を表わすために両手を胸の前に組んで囲みをつくった形にすることを意味する漢字であり、明らかな誤字と断じて訂した。校訂本文も「楫」とする。]

橋本多佳子句集「紅絲」  雉

 雉

 

絵雛かけし壁をそのまゝくらがりに

 

恋猫のかへる野の星沼の星

 

よこざまに恋奪ひ尾の長き猫

 

百姓の不機嫌にして桃咲けり

 

桃畑恋過ぎし猫あまたゐて

 

花折つて少女椿より降りしばかり

 

[やぶちゃん注:これはもう、西東三鬼の昭和一一(一九三六)年の問題作、

 

 白馬を少女瀆れて下りにけり

 

への多佳子の少し辛めの返歌である。]

 

啓蟄の土の汚れやすきを掃く

 

木瓜紅く田舎の午後のつゞくなる

 

  伊地知清重態の報来る

 

嘆かじと土掘る蜂を見てゐたり

 

[やぶちゃん注:「伊地知清」不詳。]

 

雉啼くや堪へゐし涙奔りいで

 

雉啼くや胸ふかきより息一筋

杉田久女句集 238  花衣 Ⅵ 筑前博多元寇の防壘跡



かきわくる砂のぬくみや防風摘む

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和九(一九三五)年のパートに、

 

  筑前博多元寇の防壘跡

 

の前書を持って載り、この句から「磯菜つむ行手いそがんいざ子ども」までの五句はセットで博多の元寇防塁跡での嘱目吟であることが分かる。底本年譜には防塁訪問の条々はないが、昭和九年の二月の条に『「梅探る――香橿神宮にあそびて」の句』とあり、この『香橿神宮』とは香椎(かつい)神宮のことであるから(ウィキの「香椎宮」に社伝では仲哀天皇九(二〇〇)年に熊襲征伐の途次、橿日宮(かしひのみや:古事記では「訶志比宮」)で仲哀天皇が急逝したために妻の神功皇后がその地に祠を建てて天皇の神霊を祀ったのが香椎宮の起源とされるとあり、久女は「香橿」も恐らく「かしひ(かしい)」と読んでいるであろうことが推定される)、防塁に近い。以下に見る通り、春の句であり、この二月の探梅の折りであった可能性が強いようにも思われる。

「元寇の防壘」は鎌倉時代、蒙古の襲来(元寇)に備えて築かれた、北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防衛用の石造防壁で、ウィキの「元寇防塁」によれば、本来の呼称は石築地(いしついじ)で、高さ及び幅は平均して二メートルほど、総延長は西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎まで約二十キロメートルに及ぶ、というのが定説である。内部には小石を詰めて陸側に傾斜を持たせ、海側は切り立っている。『弘安の役の際には防塁が築かれたところからはモンゴル・高麗軍は一切上陸することが出来なかった』とある。

「防風」海岸域に自生するセリ目セリ科ハマボウフウ Glehnia littoralis であろう。言わずもがな乍ら、酢味噌和えや刺身のツマとして食用になる。]

 

防人(さきもり)の妻戀ふ歌や磯菜摘む

 

[やぶちゃん注:「磯菜摘む」春の季語。「磯菜」は通常、食用になる主に岩礁海岸の沿岸性藻類、岸辺近くや打ち上げられた海藻類を指すが、私はこれは前の句と同じ、防風、ハマボウフウ Glehnia littoralis を指していると読む。冒頭に「防風摘」みを出して、ここからは砂浜を海辺に下りて海藻摘みに変更したというのも無粋で、意図的にわざわざ離れておいて防塁(後述)=「石疊(とりで)はいづこ」はというシーンの変更を行う必要性自体ないからである。そもそも「磯菜」は「山菜」の対義語であるから寧ろ、海藻類の他に海浜性食用植物を含んだ表現ととって何ら問題がない。単独でこれより後の句を読んだら、若しくは、この句なしにそれらを読んだら、恐らくは殆んどの鑑賞者が海藻を採っていると読むであろう。しかしそれは大いなる勘違いなのだと私は思うのである。大方の御批判を俟つものではある。

「防人の妻戀ふ歌」久女は鎌倉時代の戦場遺跡をさらに万葉の過去にまで遡って時代幻想している。ウィキの「防人」によれば、防人は天智天皇二(六六三)年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江(はくすきのえ)の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に、唐からの侵攻を憂慮して、九州沿岸の防衛のために配備された辺境防備兵である(もとは「岬守(みさきまもり)」と呼ばれたものに唐の制度である「防人」の漢字を当てたもの)。任期は三年で『諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された』。『当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった』。天平宝字元・天平勝宝九(七五七)年『以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の』延暦一一(七九二)年に桓武天皇が健児の制(こんでいのせい:庶民出身の軍団の徴兵制が廃された代わりに設けられた兵制度で郡司の子弟や勲位者などから選抜された。「こんに」とも読む。)を成立させて軍団や兵士が廃止されても、『国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止』は先送りしている。実際、八世紀末から十世紀初めにかけては、『しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩』(ど/おおゆみ:長射程で破壊力が強い代わりに扱いが難しかった大型の弓。)『を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した』。『院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模』は縮小され、十世紀には『実質的に消滅した』とある。「万葉集」にも、最も多く収載される巻第二十の若倭部身麻呂の四三二二番歌、

 

 我が妻はいたく戀ひらし飮む水に影さへ見えてよに忘られず

 

など、多くの防人歌が載るのは御存じの通りである。]

 

元寇の石疊(とりで)はいづこ磯菜摘む

 

寇まもる石疊(とりで)はいづこ磯菜摘む

 

磯菜つむ行手いそがんいざ子ども

 

[やぶちゃん注:「いざ子ども」坂本宮尾氏は「杉田久女」で本句について、『俳句には珍しい「いざ子ども」という用語は、実は『万葉集』などにしばしば見られる表現で、目下の者、燃焼の者たちに対して親しみをこめていうときに用いられる』と記され、以下の「万葉集」巻第六の大伴旅人の九五七番歌を引いて、本句が間違いなくこの和歌の本歌取りであるといった主旨の発言をなさっておられる。

 

   冬十一月、大宰の官人(くわんにん)

   等(ら)、香椎(かしひ)の廟(みやう)

   を拜み奉り訖(を)へて退(まか)り歸

   りし時に、馬を香椎の浦に駐(た)めて、

   各(おのもおのも)懷(おもひ)を述べ

   て作れる歌

   師大伴卿が歌一首

 いざ子ども香椎の潟(かた)に白妙(しろたへ)の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ

 

坂本氏曰く、『この句は旅人の本歌を踏まえつつ、久女の溌剌とした精神がこめられた新しい作品となって』おり、『春の渚の浪音と潮風が感じられる、勇んだ勢いのある句』で、『行く手の春の浜辺へと、さらに洋々たる文芸の未来へと誘う、久女の連衆への呼びかけである』と評されている。全く同感である。最後の『洋々たる文芸の未来へと誘う、久女の連衆への呼びかけ』という部分に首をかしげる方のために、この句について久女が昭和九年八月発行の『天の川』に以下のような自注を載せていることをお示ししておく。

 

 「いざ子供」のこと 

 七月号高崎烏城氏の御文章をもつともと存じます。あの句中にふくむ子どもは私の門下の女流、子どもの如く思ふ人達のもろともに句作精進のゆく手をいそぎ、道草をつまず、一歩でも人生の旅路をつないで進まうといふいみをのべたまでゝ自分でも大した句とは存じませぬ。が只私の目下の、門下女流、及生活の鬪にあへぎゐる子らへのははげましのいみをうたつたものです。私の長女昌子も今横浜で若いのに働いてます。次女光子十九歳之また少い学資で日々自炊しつゝ繪を一心に勉強し私は學資の爲め之また人生の鬪にあへぎつゞけてます。二人の愛する娘の事を考へ、人生のもろもろの苦も(ことばは古いが)子らによびかけ自分によびかけずにはゐられませんでした。

 

なお、最後の行には下インデントで『(七月八日)』というクレジットが附されてある。]

耳嚢 巻之八 好色可愼の事

 好色可愼の事

 

 近頃の事なりとや、町人六七人申合(まうしあひ)、伊勢參宮なしけるに、女道者(だうじや)是又六七人つれに成り、道中宿ひとつ泊(どま)りに付(つき)て歸りけるが、右の内壹人、連れの女に戲れ深くかたらひけるが、右は在方の者にて途中より立分れけるが、旅宿のかたらひに我を尋(たづね)ば、佃島邊の船頭又兵衞といへる者を尋れば住所もしれぬべしといひしを、女書(かき)とめて別れぬ。彼男は江戸へ歸りし後、日數過(すぎ)て彼(かの)女又兵衞がもとへ尋來り、かくかくの人に逢度(あひたき)よし、申(まうし)かわせし事抔咄しければ又兵衞も不審に思ひけるが、成程我等糺(ただし)見るべし、先(まづ)止り給へとて彼男の許へ行(ゆき)て、しかじかの事也とかたりければ、大に驚き、成程覺(おぼえ)なき事にもあらず、されども妻子もある我等なれば、其女來りては不相濟(あひすまず)、いかゞせんと大きに當惑なしけるが、幸ひ我が從弟(いとこ)七日以前に相果(あひはて)たれば、それがし相果たると彼女にかたり給へ、然らば寺をも尋ぬべし、彼從弟の寺をしらせ給へ、此よし賴むと申(まうす)に、又兵衞も心得て宿元へ立歸り、さてさて、おん身遙々尋來り給へど、右の男は伊勢より歸(かへり)しとは聞きしが七日以前はかなく成り給ふと、まことしやかに語りければ、其寺へまかるべきとて又兵衞案内して彼墓所に至りしかば、彼女愁嘆かぎりなく、漸(やうやく)になだめて又兵衞が許へ連れ歸り、彼是(かれこれ)といたわりなぐさめけるに、誠に不仕合(ふしあはせ)に遙々尋來りし甲斐なく死別せし事是非なけれ、翌日にもならば又仕方もあるべし、こよひは泊め給はれといゝけるに、又兵衞も其意に任せけるが、夜中いづちへ行けん行方しれず。あけてのち彼寺へ至り見れば、晝見せし墓所の木にて首縊居(くくりをり)しゆゑ、驚(おどろき)早々立歸り彼おのこの方へ至り、しかじかの事なりと語りければ大いに驚き、かゝる事顯(あらは)に申立(まうしたつ)るもよしなし、隱し給はれといへば、又兵衞もえしれぬ女を止(と)め置(おき)し事も罪なきにあらずと、口をとぢて居たりし由。其後右女の兄又兵衞の許へ尋來りしともいふと、人の語りともいふと、人の語りし。實事の事にや、僞(いつはり)にもあれ、好色など可愼(つつしむべき)事、若き人のいましめにもならんかと、聞(きく)まゝに爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。話柄の終盤部分を少し翻案した。

・「女道者」女の巡礼。

・「右の男は伊勢より歸(かへり)しとは聞きしが七日以前はかなく成り給ふと、まことしやかに語りければ」底本では右に『(尊經閣本「伊勢より歸りしが、七日以前にはか無成りし、伊勢より歸りしとは聞しが、其後尋もせず、御身の事弟彼元へ至りしが、誠に氣の毒と語りければ」)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『右の男は伊勢より歸りしとは聞きしが、其後尋(たづね)ず。いかゞ成(なり)しやと幸ひ御身の事旁々(かたがた)彼元へ至りしが、七日以前にはかなく成(なり)給ふ」と、誠(まこ)としやかに語りければ』と極めて自然。バークレー校版で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 色を好むことはこれくれぐれも慎むべき事

 

 近頃の事であるとか申す。

 町人が六、七人申し合わせて、伊勢参宮を致いた。

 途中、女の巡礼、これまた六、七人と連れと相い成り、道中の宿も一つところに泊りつつ、道連れのまま帰途についたが、かの内の町人の一人、つい、この連れの女巡礼の一人に秘かに戯れなし、女もこの男に強く惹かれ、まあ、その――人目を憚る、深く語らう――仲とは、相い成って御座ったと申す。

 かの女は江戸郊外の田舎の者なれば途中より立ち分れたが、その前夜の旅宿の秘め事の語らいに、

「……江戸においらを尋ねるんなら、佃島(つくだじま)辺の船頭の又兵衛という老爺(じじい)を捜して訊くといい。昵懇じゃから、おいらの住まいもそれで知れる……」

などとつい言わいでもいい軽口をたたいたが、後で女はそれを書き留めおいて、別れた。

 さてかの男が江戸へ帰って後、暫くたったある日のこと、かの女、その又兵衛の元へと尋ね来たって、

「……これこれ言い交したるお人をご存知と承って御座いまする……どうか……逢いとう存じますれば……」

とて、かの伊勢参宮での寝物語に交わしたことなんどを話したによって、又兵衛、

『……あいつは……しかし……妻子持ちじゃがなぁ……』

と内心、不審に思うたものの、女の、まっこと、誠実なる面持ちなればこそ、

「……なるほど……よっしゃ、儂(あっし)が今、行って訊いて進ぜようぞ。まぁ、まずはちょいと、むさ苦しいが、この儂の宅(うち)で、お待ちなせぇ。」

と女を長屋へ留め置き、かの男の許へと参って、

「おい!……かくかくしかじか……その女子(おなご)は今、宅に待たしとるがのぅ?……」

と告げたところが、男は大きに驚き、

「……な、なるほど……た、たしかに……その……お、覚えがないという……わ、わけでも、ねえ……い、いや……そ、そうは言っても……お、おいら、嬶(かかあ)も子(こお)もある身じゃで……そ、その女子(おなご)……こ、これ、訪ねて来てもらっても……こ、これ、と、とんでもないことになる……どうしよぅ!……」

と、蒼くなって困り果てておったが、

――パン!

と膝を叩いて、

「……実は幸い、儂(あっし)の従弟(いとこ)が、これ、七日前に相い果てたによって――これを……『おいらが相い果てた』と――かの女に告げて貰えねえかぃ?……あ、そうするってえと……葬った寺をも訊き返してくるだろうが……そしたら、その従弟を葬った○○寺を教えてやってくんない!……どうか、頼む! 後生じゃ! 又兵衛どん!!……」

と縋りついて懇請致いたによって、又兵衛も男が妙に気の毒になって、

「……よっしゃ! 相い分かった。」

と心得、己が長屋へ立ち帰ると、

「……さてさて、おん身、はるばる、尋ね来って下さったれど……実は……かの男――伊勢より帰ったとは耳にして御座ったものの、ここ暫く無沙汰致いて御座った――が……今、訪ねてみたところが……のぅ……もう、七日も前に……急の病いにて……儚のぅなって、御座ったと、申す…………」

と、如何にもしんみりと、実(まこと)しやかに女に語って御座った。すると、

「……そ……そのお寺へ……お参り致しとぅ……存じまする……」

と、蚊の鳴くように、消え入るように呟いたによって、又兵衛、この娘を伴のうて案内(あない)し、かの男の教えたかの寺内の、その男の従弟の新墓地へと女を連れ参った。

 墓前にあっては、かの女の愁嘆、これ、限りのぅ、崩折れて号泣致いたれば、ようやくに宥めて、また、又兵衛の長屋へと連れ帰って、かれこれと労り慰めて御座ったと申す。

 すると、女、

「……まこと……妾(われ)ら……不幸せなる身(みい)……はるばる尋ね来った……その甲斐ものぅ……既にして愛するお人には死なれ……幽冥境となしたること……これ、是非も御座いませぬ……さても……どう致いたらよいものか……いえ、また……孰れ新たに陽の昇らば……これ、また何か……よきことも……ありましょうか……されど、在所へ戻るには陽もとうに傾(かたぶ)きたれば……どうか、一つ……お手数乍ら、今宵は、土間なりとも、お泊め下さいまするよう、どうか…………」

と乞うたによって、人のよい又兵衛も断りきれず、その意に任せ、部屋の端に、衝立を挟んで寝かせてやったと申す。

 ところが、又兵衛、老いたれば小便の近きに、深夜、厠に行かんとせば、女の姿が――ない。

 何やらん、胸騒ぎの致いたによって、夜が明くるとすぐ、かの寺へと駆けつけて見たところが……

女は……

前日の昼、見せた、かの墓の、傍(かた)えにあった木(きい)に……

己が首を縊(くく)って――ダラリと――ぶらさがって……とうに……こと切れて御座った。……

 又兵衛、驚き、早々に立ち帰ると、かの男の方へととって返し、

「……お前さん!……か、かの女子(おなご)……は、墓の前で……首……縊ってもうたッ!!……」

と告げ、昨日からの様子やら懇請されたによって泊めおいたることなんども語った。

 男も驚愕致いて、

「……こ、このようなること……こ、これ、正直に申し出づることも……で、出来そうも御座らぬ!……ま、又兵衛どん!……ど、どぅか、一つ!!……何も知らぬ存ぜぬ、と……よろず……隠しおいたままに!!……後生! 後生じゃッ!!!……」

と、またしても縋りついて必死に乞うた。

 又兵衞もまた、

「……まんず……哀れに思うたによって……怪しげなる、何処(いずこ)の者とも知れぬ田舎娘を……儂(わし)もかく、勝手に泊め……目(めえ)を離した隙に……かくも首縊(くく)られたとあっては……これ……儂にも罪がないとは言えんのぅ……」

と、結局、一切を語らずにおった、とのことで御座った。

――さてもその後、かの寺方にては、縊死致いた女のあったを奉行所に届け出でたところ、持ったるものから身元が知れ、在方の兄なる者が急遽参って、遺骸を引き取って御座ったと申すが、その折りに寺の役僧が、

「……亡くなる前の日の、そうさ、昼過ぎのことで御座いました。……かの首を縊られたる墓に……かの妹ごを連れて男が一人……参って御座いましたなぁ。……あれは確か……そうさ、我ら、佃島によう、法事に参りまするが、確か……その船頭を致いておる、又兵衛とか申す老人で御座いましたなぁ。……」

と告げたによって――その亡き娘の兄が又兵衛の元へと訊ねて参ったとも――ある者は噂しておったと、これまた総て伝え聞き乍ら、とある御仁の語って御座った話。……

 

 さて。これ、事実あったことで御座ろうか?……それとも……根も葉もない偽りの作り話ででも御座ろうか?……まあ、ともかくも色好みは、これ、屹度、慎むべきものにして――特に若き人の戒めにもならんかと存じ――聞いたままに、ここに記しおくことと致す。

ブログ・アクセス590000突破記念 火野葦平 名探偵 

本日、只今ブログ・アクセス590030――6月2日の一日8839アクセスという特異点によって最短期間の14日で突破更新となった――芸がないが、何時もの通り、「河童曼荼羅」から記念テクストとする。

   名探偵   火野葦平

 

 鈍重で、暗愚ではあるが、眞摯(しんし)で、倣岸(がうがん)で、怠惰な河童の話をしよう。

 鈍重で、暗愚ではあるが、眞摯で、倣岸で、怠惰な一匹の河童が棲んでゐた。かれの棲所(すみか)は、いつも秋になると、始末に困るほど紅葉の落葉が堆積して、水面を際してしまひ、黄昏(たそがれ)どきはうつかり地面と錯覺して、その上を歩きかねないやうな、林間のせまい淵の底にあつた。このもつともらしい住居のたたずまひは、その住者にさへも若干の箔(はく)をつけるものとみえ、かれは仲間たちの間に、一種奇妙な尊敬の念をかちえてゐた。かれは獨身で、まだ若かつたにもかかはらず、どうしたわけか、仲間からはひどく年よりのやうに考へられてゐて、なにかのたびに智慧を借りに來られることがあつた。しかし、暗愚なために仲間によい智慧をさづけることのできるのは稀であつた。にもかかはらず、なんとなしに、かれが人氣を失はなかつたのは、その鹿爪らしい住居と、眞摯にして倣岸な樣子とが、仲間の眼をくらましてゐたやうに思はれる。かれは仲間に失望をあたへることが自分の無學の故と知りはしたが、怠惰であつたので、あらためて勉強しようといふやうな勇猛心などは、けつして起さなかつた。

 或るとき、かれは生命にかかはるやうな冒險をした後、仲間のあひだから消息を絶つてしまつた。春も終りにちかい頃で、林間の淵のうへには、山吹の花が黄金の小紋散らしとなり、風にしたがつてくるくると舞つてゐることが多かつた。しかし、その山吹の舞ふ水の下には、もはやかれの姿を見いだすことはできなかつた。智慧を借りにでかけた仲間たちの間から、かれの失踪の噂がしだいにひろまつた。さうして、淵の上の花が百日紅(さるすべり)に變つたころになつて、ひよつとしたら、風がはりで無愛想なかれが、誰にも告げずに、瓢然と旅にでも出たのではないかと考へてゐた仲間たちも、やうやく、かれの不在に疑問の眼をそそぎはじめた。各地にある河童たちとは常になんらかの形で連絡があり、數ヶ月にわたつて杳(よう)として消息がないといふやうなことはあり得ないのである。さうして、かれが淵の棲所からゐなくなつたばかりではなく、この世からもゐなくなつたのだといふことを、淵の上を紅葉が隱してしまふ頃になつて、仲間たらは確信するやうになつた。しかしながら、そのことは仲間たらに一抹の寂寥をあたへはしたが、ひどい悲しみにおとしいれたといふほどのことでもなかつた。かれはほとんど係累を持たなかつたし、かれの名聲といふものも根據が薄弱であつたために、かれの不思議な失踪は、悲歎よりも好奇心をひきおこすにとどまつたやうに思はれる。實際はさうではなく、かれのために感動すべき愛情をかたむけて、歎き悲しんだ者もあつたのであるが、――それは後に語ることとして、かれの失踪に對する興味の一端は、淵の上に薄氷が張る頃になると、ひとりの名探偵の活躍となつてあらはれた。

 名探偵は、最初、かれが殺害されたものであると判斷した。犯人の目標などがあつたわけではないが、探偵といふものは行方不明になつた者をまづ被害者と考へてみなければ、事件への興味が湧かず、またその不埒(ふらち)なる加害者を膺懲(ようちよう)する人道的な勇氣もおこらないからである。事件が殘忍で複雜であればあるほど、かれは滿足し、明智な頭腦は推理の糸を縱横無盡にはりめぐらして、眞實を追求する快感にひたるのである。環境の頑固一徹なる現實の上に、嚴として立つ常識への信賴が、生活のうへにつくる過誤すらも、ひとつの眞理としなければならぬやうな世界では、悲劇も喜劇も混同されることがあるといふが、失踪した一匹の風攣りな河童への追求も、まづきはめて喜劇的にはじめられた。

[やぶちゃん注:「膺懲」は打ち懲らすこと。征伐して懲らしめること。]

 失踪の直前に、かれが行つた冒險は、生命にかかはるほどの危險を孕(はら)んでゐたにもかかはらず、仲間うちから嘲笑された。かれは晩春の月明の夜、月光を登攀(とうはん)せんとこころみて、したたかに腰を打ち、甲羅の三枚を碎いたのである。海拔は一千尺をすこし越える程度であつたが、この南國の山脈には、亭々たる杉林がみごとな配列を成して果てもなくつらなつてゐた。蓊鬱(をううつ)たる杉の梢の間に、點々と星がのぞまれ、月の夜には木の間を洩れて、靑白い光線が地上にいくつもの隈をつくつた。或る霧の夜、その光線は高い杉の梢から地上まで、銀色のいくつもの條(すぢ)になつて、斜にはつきりとあらはれた。それはとらへどころのない光ではなくして、あたかも堅い木の梯子(はしご)をかけたのに似てゐた。かれがいかに暗愚であつたとはいへ、それを攀(よ)ぢ登らうと考へついたことは無謀といふほかはないが、仲間の或る者はかれは醉つてゐたのであらうといつてゐる。或ひはそれが實體のない光線であると知りつつ、あらゆる先覺者と詩人とがさうであつたやうに、創造と發見との異常な感動をもつて、嘗てなにびとも行はなかつた冒險をこころみようとしたのであつたかも知れない。いづれにしろ、ことの眞實はいまは永遠の謎として、誰も解くことはできないのである。ただ、かれがその冒險に成功することができなかつたといふ結果において、仲間から嘲笑され、且つ、その途方もない實驗によつて腰の蝶番がはづれ、大切な甲羅を三枚も割つたといふ滑稽至極さによつて、仲間から輕蔑されることになつた。それでも彼に好意を寄せる者はまだあつて、智慧を借りに淵の底にでかけたのであるが、もはやかれの姿を見ることはできなかつたのである。

[やぶちゃん注:「蓊鬱」草木が盛んに茂るさま。]

 仲間のうちから、これと覺しき者たちが名探偵の訊問(じんもん)を受けた。主張と、鼻孔の大きいので有名なこの探偵は、いつもの癖で、突出した下唇をべろべろとなめながら、細いが鋭い眼で相手をにらみすゑるやうにした。この威嚴のために、いはずともすむことをいふ氣の弱い河童もあつた。さうして、死人に口なく、且つ、ひとは死ぬればさまざまのことが明るみに出されるといふ世間の習慣どほり、一篇の傳記ができあがるほどの實におびただしい事實が語られた。探偵は滿足げに、ときにいらだたしげに、ときに卑しげな笑みをたたへて、それらの陳述をきいた。生前は一つの魅力であつた眞摯で倣岸な樣子も、考へてみれば空ゐばりにすぎなかつたといふものもあれば、かれに智慧を借りに行つたりしたのが、いかに馬鹿げたことであつたかと後悔するものもあり、かれはひとびとのいふほど暗愚ではなく、なかなかよいところもあつた、惜しい男を殺したと眼底をうるませるものもあつた。また、中には、かれの風流な棲所はもと自分の祖先の所有であつたものにちがひないのであるが、いつの日からかかれが棲んで居り、証據もないままに、抗議をすることもできずにゐたけれども、もはやかれが死した以上は自分が接收をする權利があると、口角に泡を飛ばすのもあつた。この慾張りな提言はこの記人の立場をもつとも不利にした。多くの仲間たちが檢(しら)べられたにもかかはらず、名探偵は實は内心當惑しつつあつた。失踪した河童は一種かはつた氣質の者であつたことは事實であるが、他から怨恨を買ふ男でなかつたことがしだいに明確になつて來たからである。名探偵が最初の假説に疑惑をいだきはじめたとき、この河童の申し出はもつれた推理の糸に靈感的な血路をあたへた。すなはち、この河童こそ、祖先傳來の住所を奪還するために、かれを殺害したものに相違ないと、名探偵はやや疲弊をおぼえた心にほつと安堵の息を洩らしたのであつた。他の河童はすべて歸され、その河童のみが殘された。さうして鋭い糺問(きうもん)がつづけられ、時間が經ち、被告は泣きだし、名探偵はさらに疲れた。この愚かしい河童が祖先を持ちだしたのは、日ごろから羨望に耐へなかつた淵の住居をわがものにしたいために、考へだした口實にすぎなかつたとわかつて、十八ほど毆られたうへ放逐されたが、名探偵の落膽はいひやうもなかつた。かくて、事件は迷宮に入るものと思はれたけれども、勇氣に富む名探偵の活躍は、その卓拔なる科學智識と、明暫なる頭腦との驅使によつて、一段と精彩をはなつた。かれは能ふかぎり探究の手をひろげ、足にまかせて踏査し、晝夜をも、歳月をもわかたず、巨軀は苦勞のために瘦せてみちがへるほどになり、その熱情のはげしさの故に、さらに無辜(むこ)なるものに多くの迷惑を及ぼした。

 ここに一つの不思議は、いづくをさがすとも、屍體の見あたらぬことである。河童が生を經つたときには、靑苔に似たどろどろの液體となつて溶けるのであるが、その痕跡はどこにもなかつた。嘗て、多くの河童たちが仲間われのためにたたかひ、戰死者たちの屍煙の液汁が農作物を害したために、人間の山伏の法力にかかつて、その土地の河童のことごとくが地中に封じこめられるといふ不慮の災厄にあふ事件がおこつた。それは河童たちを警(いま)しめる教訓となってゐるので、河童は死期が來ると、さういふ災ひにあはぬ工夫と場所をえらぶのが常であつたが、さういふ場所のあらゆる心あたりを探査しても、失踪した河童の行方は知られなかつた。

 名探偵のあらゆる智能の傾倒にもかかはらず、遂に一つの祕密のみは世に知られずに經つた。前に、かの河童のために心から歎き悲しんだものがないわけではなかつたと書いたが、ここにひとりの心やさしい女の河童があつて、日夜、深い悲歎に暮れてゐた。かの女はかれと契つたといふ仲でもなく、まして夫婦でも戀人でもなかつたにかかはらず、かねて、かれの孤獨な姿に心を惹かれ、その胸のなかの思ひは耐へがたいほどになつてゐた。いつか打ちあける日のあることを考へてゐたときに、思ふひとはこの世から去つてしまつた。かの女はなにかのことで、淵の棲所に智慧を借りに行つたことがあり、そののち五六囘會つて話したことがあるきりであつた。しかしながら、愛情のみが奇蹟をあらはすといふ古典的な傳承を、かの女は正確にうけついだ。名探偵があらゆる精緻な努力を傾けて、なほ未だに解明し得ざることを、かの女はその深い愛情と悲しみとによつて、直感的に理解してゐた。もとより失踪した河童は殺されたわけではなく、まつたくこの世から消えてしまつたのである。霧と月の夜、杉林のなかでかれがおこなつた冒險は、醉餘のはてでもなんでもなかつた。仲間たらから嘲笑され、輕蔑きれるにいたつたその行爲は、かれの全生命への登攀(とうはん)であり、冒險であつた。あのひとは、常人の理解することのできないものを持つてゐた、とかの女は考へる。月光を攀(よ)ぢんとしたとき、かれにはその結果も批判も念頭にはなかつた。光線をのぼるといふやうな魔術が河童などにできるわけがない。しからば、それはまさしく無謀であつたであらうか。かの女はその現場にゐたわけではかつたけれども、情熱をこめた瞳を光らし、はげしい精神の頂點にあつて一切を忘却してゐる戀びとが、地と杉の梢とをむすぶ銀の光線の中間に立つてゐる姿が、かの女の腦裡にはありありと見えた。かれはすでに半(なかば)をのぼり、いま少しといふところで、地上に轉落したのだ。はじめから光線を攀ぢることができなかつたのであれば、光線の起點たる地上からすでにのぼることができず、したがつて、地上において腰をくだき、甲羅を破るといふやうなことがおこる筈がない。かれはその意慾の強烈さをもつて、不可能を半(なかば)可能にした。光線を半のぼつた。さうして、なにかの精神の弛緩(ちくわん)のために、そこから墜落した。かれがいますこしの努力をもつて杉林の梢に到達してゐたなれば、いつたいどういふことになつたであらうか。嘲笑され輕蔑されるかはりに、仲間うちから英雄として祭りあげられ、その名聲は津々浦々に喧傳されるであらう。さうして、日ごろからかれを暗愚であるの、鈍重であるのといつて譏(そし)つてゐた連中までも、かれの膝下に伺候することを光榮であると思ふにいたるであらう。このやうな成果はしかしかの女にとつて、喜ぶべきことであるかどうかはわからなかつた。かの女は戀びとが英雄となり、遠くなることをむしろ悲しいとさへ思ふであらう。戀びとは失敗し、英雄とならなかつた。さうして、嘲笑の冷やかな眼をのがれて、跛(びつこ)をひきひき、悲しげな樣子で、淵の底へ歸つたかれを、かの女はさらに愛(いと)ほしく思つた。また、かれが自分の行爲を一切辯解しようとしなかつた忍耐を立派であると考へた。惚れてしまへば、どんなことでもよく見えるものである。かの女は胡桃(くるみ)と山蕗の實とを土産に、淵の底に見舞に行つた。かれは膝を抱いて、水のしたたる岩壁にもたれてゐたが、かの女がはいっても見むきもせず、かの女がなにをいっても不機嫌さうに生返事をするばかりであつた。かの女はいつものかれとちがつて、なんとなく細くなつてゐるやうな賴りなげの様子を見て、胸がふさがつた。かれの顏は悲しみと羞恥と、また憤りに似たいらだたしいものに滿たされてゐて、かの女の賞揚となぐさめの藁はその澁面を深めるばかりと思はれた。かの女は濡れた睫毛(まつげ)をこすりながら、ふと不思議なものに眼をとめた。かれの左胸のあたりを一匹の蜥蜴(とかげ)が通りすぎた。かの女は眼をこらした。それは胸のうへでもなく、中でもなく、背でもなかつた。うしろの巖壁のうへを走つたのが身體を透(すか)して見えたのであつた。かれが煩ささうにしてゐるので、山蕗と胡桃の實とを足もとに置き、かの女は重い心を抱いて淵を出た。かれの失踪が傳へられたとき、かの女は卒倒せんばかりであつた。硝子のやうに身體を透して見えた一匹の蜥蜴が不吉な影像となつて、腦裡にうかんだ。あのひとは消えてしまつた。この世からまつたくゐなくなつてしまつた。自分の行爲の失敗、その羞恥のために耐へきれず、この世を去つてしまつた。もうすこし強い心を持つ者ならば、さらに勇猛心をふるひおこすところであらうが、怠惰なかれはただ自己批判と自己嫌悪とに退却するばかりであつた。もうあのひとは歸つて來ない。かの女は悲歎に暮れて、淵の底へ行つた。山蕗と胡桃の實とがあのときのままに置かれ、靑苔の寄生した巖壁には、この山脈の肌の内部をながれてゐる淨(きよ)らかな淸水が、なめらかに光りながら間斷なくしたたつてゐた。この壁にあの人はもたれてゐたと、胸のつぶれるやうな切なさにうたれながら、かの女ももたれてみたが、騷がしい物音や聲がして來たので、あわてて岩かげへかくれた。名探偵が證人たちを引き具して、ものものしげに入つて來た。

 事件が迷宮にはいると、今度は探偵に對する冷笑がおこつた。嘲笑は露骨となり、ときには惡罵となつた。全力をつくしたにもかかはらず、なにごとも解決されなかつた。いまは昔の面影もなく瘦せ衰へた名探偵は、憔悴した面持をたたへて、淵のかたはらに彳(たたず)んだ。淵のうへには落葉が堆積し、さらに強い晩秋の風によつて吹きおとされる木の葉が、そのうへに積もり、また散つた。自分の頭腦と方法に自信をもつことによつて、倣岸不羈(き)であつた探偵は、いまは懷疑にとざされ、その重々しい憂愁のこころの底には、はげしい自己嫌悪がおこり、かぎりない羞恥のこころが兆(きざ)してゐた。落葉は雪のごとく、木枯(こがらし)はさらに強く、背の甲羅も剝(は)がさんばかりであつた。名探偵の羞恥の息注いつそう深くなつていつたが、いつか、その淵のほとりから、その姿が消え、落葉のはげしさのなかに、山の黄昏がおとづれてゐた。

2014/06/15

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 17 小樽にて

M358359

図―358[やぶちゃん注:上の図。]

図―359[やぶちゃん注:下の図。]

 図358は小樽湾へ入るすぐ前の岬の、簡単な写生である。これ等の崖のあるもあるのは、高さ六百乃至七百フィートで、殆ど切り立っている。そこを廻って小樽湾へ入る場所にある岬は、非常に際立っている(図359)。私は小樽滞在中に、これを研究しようと決心したが、我々が旅行の目的にあまり没頭したので、時間が無かった。沿岸全体が、大規模の隆起と、範囲の広い浸蝕との証跡を示し、地質学者には、興味深々たる研究資料を提供することであろう。私が判断し得た所によると岩は火山性であるが、而も小樽付近には鋭い北向きの沈下を持つ、明瞭な層理の徴証がある。この島の内部には、広々とした炭田が発見される。小樽の寒村は海岸に沿うて二マイルに、バラバラとひろがっている。

[やぶちゃん注:図357は「そこを廻って」という表現から、積丹半島北東から小樽にかけての海岸線、特に小樽に近い、石狩湾の南西部分の余市湾から小樽海岸(高島岬の西側)の部分かと思われる。図358は現在の祝津(しゅくつ)パノラマ展望台のある高島岬と思われる。崖の感じと小さな島がよく一致するように思われる。

「六百乃至七百フィート」一八三~二一四メートル程。

「二マイル」約三・二キロメートル。]

 

 我々は十時頃上陸した。人々が我々をジロジロ見た有様によって、外国人がまだ珍しいのだということが知られた。我々は町唯一つの茶店へ、路を聞き聞き行ったが、最初に私の目についたのは、籠に入った僅な陶器の破片で、それを私は即座に、典型的な貝墟陶器であると認めた。質ねて見ると、これは内陸の札幌から来た外国人の先生が、村の近くの貝墟で発見したもので、生徒達に、彼等が手に入れようと希望している所の、他の標本と共に持って帰る事を申渡して、ここに置いて行ったのだとのことであった。私は直ちに鍛冶屋に命じて採掘器具をつくらせ、午後、堆積地点へ行って見ると、中々範囲が広く、我々は多数の破片と若干の石器とを発見した。私は札幌の先生が、もしこれ等を研究しているのならば、今日の発掘物も進呈しようと思っている。

[やぶちゃん注:矢田部日誌明治一一(一八七八)年七月二十六日の条に(「……」は磯野先生による省略部と思われる。「[省略]」は磯野先生の割愛注)、

〇二十六日 「十二時過小樽着……札幌本庁ノ人來リテ已(スデ)ニ昨日ヨリ馬二匹用意シテ当地ニアル旨ヲ告タリ。且開拓三等属北川氏來リ訪ヘリ。小蒸気ヲ借リ受ルコトト一小屋ヲ海岸ニ借受ルコトヲ請セリ。皆諾セリ。二時頃食後浜邊ヲ經テ古土器ノ出ツル處ニ至リ、器ノ破片若干ヲ得タリ。皆大森ヨリ出ル所ノモノニ均シク、恐クハアイノウノ造リシモノナリ。右ニ付キ少シクモース氏卜論セリ。確乎タル証ナクンバ吾之ヲアイノウノ造リタルモノニ非ズト云ハザルナリ……モース氏既ニ二箇ノ古壺ヲ得タリ……此外石堅質ノ石劍、図[省略]ノ如キモノ三四箇ヲ得タリ……此他火山硝子ノ鏃(ヤジリ)アリ

とある。

「内陸の札幌から来た外国人の先生」この人物は、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の矢田部日誌の七月三十日の条の解説(一九一頁)にこの日モースは『札幌農学校のウイリアム・P・ブルックス教授の家に泊めてもらったが、このブルックスは小樽の貝塚をすでに調べており、この日』も彼の案内で発掘を行った、しかし、『土器は見付からなかった』とあるウイリアム・P・ブルックス教授なる人物と同一人かと思われる。ウィリアム・ペン・ブルックス(William Penn Brooks 一八五一年~一九三八年)はお雇い外国人としてかのウィリアム・スミス・クラークが去った後の北海道札幌農学校で教鞭をとったアメリカの農学者。ウィキウィリアム・ブルックスによると、『アメリカ、マサチューセッツ州サウス・シチュエットの農家に生まれ』、一八七一年、『マサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、在学中にクラークのもとで植物生理学の実験に参加している』。一八七五年に『同大学を卒業後も大学院で化学と植物学を専攻した』が、『日本政府より札幌農学校の農学教師および校園監督として招聘を受け』てモースより五ヶ月早い明治一〇(一八七七)年一月に『来日、クラークの同校での仕事を引き継ぐこととなった。着任後すぐに農学講義と農学実習』、明治一三(一八八〇)年からは『植物学も担当、タマネギをはじめ、ジャガイモ、トウモロコシといった西洋野菜を紹介し、その栽培法を学生や近郊農家の人々に指導した(注には『ブルックスが持ち込んだ食用植物には上記以外にも、キャベツ、トマト、ニンジン、エンダイブ、コールラビ、セイヨウタンポポなどがある』とある)。札幌農学校には一二年間勤務し、うち4年は教頭を務め、学生には「ブル先生」の愛称で親しまれた』。明治一五(一八八二)年に『一時帰国した際にエヴァ・バンクロフト・ホールと結婚、夫人を札幌へ呼び寄せ、夫妻は日本で7年間暮らした。その間に娘と息子も生まれている』。明治二〇(一八八八)年十月、『家族とともにアメリカへ帰国』翌年、『母校マサチューセッツ農科大学の農学教授に就任、同時にマサチューセッツ州農業試験場技師として勤務した。この時期にアメリカにダイズやキビを導入している』。その後、『家族とともにドイツへ留学』、『博士号を取得し』、帰国後の一九〇六年には『農業試験場の所長に就任』、一九一八年に『辞するまでこれを務め』その後も一九二一年まで同試験場顧問を務めた。一九三二年、『マサチューセッツ農科大学はブルックスに農学の名誉博士号を授与、晩年はアマーストの自宅の庭を耕して過ごした』とある。]

 

 我々が落つくか落つかないかに、役人が一人やって来て、函館から電報で、我々が小樽経由札幌へ向かうということを知らせて来たので、我々の為に札幌から馬を持って来たと告げた。上陸した時、私は小さな蒸汽艇に目をつけ、これを曳網に使用することは出来まいかと思った。矢田部と私は、この土地の最上官吏を訪問して名刺を差し出し、我々の旅行の目的を述べ、そして帝国大学のために採集しつつあるのだという事実を話した。次に、若し我々が数日間、あの汽艇を使用することが出来れば、大きに助かるということを、いともほのかにほのめかし、更に函館では同地の長官が、蒸汽艇の使用を我々に許してくれたことをつけ加えた。こう白々しく持ちかけたので、彼も断ることが出来ず、我々は汽艇を二日間使ってもよいことになった。何たる幸運! 我々は大きに意気揚々たるものであった。

[やぶちゃん注:前段注に引用した矢田部日誌も参照されたい。]

M360

図―360

 港と海岸とは、非常に絵画的である。妙な形の岩が、記念碑みたいに、水面からつっ立っている。図360は、これ等の顕著な岩のあるものの写生である。層理の線は非常にハッキリしていて、挙は過度である。かかる尖岩を残すには、余程大きな浸蝕が行われたに相違ない。私にはこれ等を研究する機会が無かったし、またこの地方を地質学者が調査したかどうかを知らぬ。蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた。

[やぶちゃん注:私は小樽に一度しか行ったことがないので、この岩を同定することが出来ない。識者の御教授を乞うものである。

「擡挙」は「たいきょ」と読み、持ち上げることを意味する。原文は“the uplift”で、尖塔性状の奇岩が頗る高い位置まで伸び上がるように残っていることを言っているものと思われる。

「蝦夷に於るこのような性質の仕事の大部分は、経済的の立場からしてなされた」原文は“Most of the work of that nature in Yezo has been done from an economic standpoint.”で、これはこうした学術的な調査は、専ら金になるかならないかという観点からしかなされなかった、という学者としての不満を含んだもののように私は読むのだが、誤読であろうか?]

M361

図―361

 図361は小樽の、石造の埠頭から見た景色である。色彩を用いたらば、面白い絵になることであろう。遠方の山、嵯峨たる岩、絵画的な舟や家、植物の豊富な色と対照、澄んだ青い水と、濃い褐色の海藻とは、芸術家の心をよろこばせるに充分であろう。

橋本多佳子句集「紅絲」  鹿

  鹿

 

二月尽林中に鹿も吾も膝折り

 

野火跡を鹿群れ移る人の如

 

野火あとに雄鹿水飲む身をうつし

 

仔鹿駆くること嬉しくて母離る

 

万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて

 

乳(ち)飲む仔鹿四肢張り尾上げ露まみれ

 

    ○

 

袋角(ふくろづの)指触れねども熱(あつ)きなり

 

[やぶちゃん注:「袋角」鹿の若角。鹿類の角は毎年抜け落ちるが、その、一般に夏に生え替わったばかりの皮を被って瘤のようになっているものをいう。当初、外側は毛の生えた皮膚に覆われていて、その内側に血管が通っていて栄養を補給し、その中心に骨質が形成される。十分に伸長すると血液が止まり、外側の皮膚は死んで乾燥し見慣れた角になる。夏の季語。]

 

袋角鬱々と枝(え)を岐ちをり

 

袋角神の憂鬱極りぬ

 

袋角見し瞳(め)瀆れてゐたりけり

 

袋角森ゆきゆきて傷つきぬ

 

   ○

 

  秋は

 

息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 

背を地にすりて妻恋ふ鹿なりけり

 

雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 

寝姿の夫(つま)恋ふ鹿か後肢抱き

 

女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは

 

にはたづみ鹿跳び遁げてまた雲充つ

 

   ○

 

一つづゝ落暉ふちどるみは冬鹿

只今ブログ・アクセス数589700ジャスト

6月2日の8839アクセスによって実は早くも次の590000アクセス突破が近づいた。これより記念テクストにとりかかることとする。

フライング公開 「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」(曾良)の句にについて

シンクロニティ「奥の細道」の旅28 松島』に加筆しているうち、テンションが揚がってきた。
これだけは先に公開したくなった。
知られた「奥の細道」の「松島」の段の最後の部分に対する私の見解である。
曾良の(句とされている)「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の注と関連する箇所のフライング公開である。

(原文。前略)


松島や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。


■やぶちゃんの呟き

(前略)

★「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」この句、何故か、曾良の「随行日記」や「俳諧書留」に載らず、二年後の「猿蓑」に出現する(他に「陸奥鵆」「続雪丸げ」)。

   *   *   *

   松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ、

 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

   *   *   *

一応、この前書が作句の下敷きをばらしてはいる。則ちこれは、鴨長明の「無明抄」の「千鳥鶴の毛衣を着ること」の、

   *   *   *

俊惠(しゆんゑ)法師が家をば歌林苑と名づけて、月ごとに會しはべりしに、祐盛法師、其會宿にて、寒夜千鳥と云ふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々珍しなどいふほどに、素覺といひし人、たびたび是を詠じて、「面白く侍り。但、寸法や合はず侍らん」と、言ひ出でたりけるに、とよみ(響)になりて笑ひののしりければ、事冷めて止みにけり。「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば甲斐なきものなり」となん、祐盛、語り侍りし。すべては此歌の難心得ず侍るなり。鳥はみな毛を衣とするものなれば、程につけて千鳥も毛皮着ずはあるべき。

   *   *   *

とある一節に基づく(本文は安東次男「古典を読む おくのほそ道」のものを参考に正字化して読み易くした。但し、これは最後は省略されている模様である)。頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈には、この祐盛法師の和歌は「猿蓑さがし」(空然著・文政一二(一八二九)年)に、

   *   *   *

 身にぞ知る眞野の入江に冬の來て千鳥もかるや鶴の毛衣

   *   *   *

とするも『何の集に出ているのか知らない』とする。

 私はこの「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」という句、実は芭蕉の作ではないかと疑っている。詠んだものの、「嶋々や千々にくだけて夏の海」よりはひねりが利いているがどうも観念的で芭蕉の気に入らず、曾良に与えたのではなかったか? わざわざ句の直後に「予は口を閉ぢて」と句を詠まなかったことを暗示させているのも如何にもなポーズではないか? なお、後の「松島の詩」の注も是非、参照されたい。

 最後に。本句にはしかし、「奥の細道」全体での構造上の妙味が別にある(それは安東次男氏も前掲書で以下に示すように指摘しておられるが、私自身、高校の古典の授業でそれに気づき、はっとし、その「対(つい)」の心憎さに思わず呻ったのを決して忘れないのである)。それは、この「松島」の段に対して後に『恨むが如く』絶妙の観音開き、対称絶景として立ち現れることになる「象潟」の段で、芭蕉が詠んだ二句目、

 

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 

が、まさにこの同行の弟子曾良の句(とされる)、

 

松島や鶴に身をかれほとゝぎす

 

と美事な鏡像を成しているからである。安東氏は「象潟」の段のこの「汐越や」の句注で、『象潟(芭蕉)の「鶴脛」は、松島(曾良)の「鶴に身をかれ(ほととぎす)」の写しだというのが何ともしゃれた、同行俳諧である。こういうところを見落とすと俳諧紀行は無意味になる』と述べておられる。……これ何だか、田舎のしょぼくれた高校生の「僕」が安東さんに褒められたようで、ちょっと嬉しいのである……。……駄目押しだ……因みにその授業を受けた富山県立伏木高等学校の学び舎が立っている丘は……その古えの名を「如意が丘」というのだ……知らない?……「義経記」をお読みなさいな……「義経記」ではね、まさにここの近くの「如意の渡し」こそが、あの「安宅」関のエピソードに設定されているんだよ……芭蕉の好きな義経のね……もう一つ、言おうか?……その高校の近くには氷見線の越中国分という駅があるんだが……芭蕉の「奥の細道」の知られた名句――「わせの香や分入右は有磯海」――のロケーションと完全に一致するのはね、ここをおいて他にはないんだよ……

   ――――――

「旧庵」深川芭蕉庵。

「素堂」芭蕉の俳友山口素堂。芭蕉より二歳年長。芭蕉と知り合う前に芭蕉所縁の北村季吟との接触があり、同流の系統で句も蕉風に近いが、終生、あくまでよき友人であった。

「松島の詩」は以下。芭蕉は特に素堂の漢詩の才を推賞したという。

 夏初松島自淸幽

 雲外杜鵑聲未同

 眺望洗心都似水

 可憐蒼翠對靑眸

  夏初(かしよ)の松島 自(おのづか)ら淸幽

  雲外の杜鵑(とけん) 聲 未だ同じからず

  眺望 心を洗ふ 都(すべ)て水に似たり

  憐れむべし 蒼翠の靑眸に對するを

因みに、この二句目はそれこそ「千鳥もかるや鶴の毛衣」を思い出す前に「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の作句の動機となっているように思われないか?(これについて言及する諸注は管見限り見当たらない) とすれば、これをつまびらいているのは曾良ではなく、芭蕉である。前の句の作句者はやはり曾良ではなく、芭蕉なのではあるまいか?

(後略)

2014/06/14

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(1) 承久の乱最終戦後処理【一】――後鳥羽院遷幸及び出家

       ○本院新院御遷幸 竝 土御門院配流

同七月六日、武藏〔の〕太郎、駿河次郎、數萬騎の勢を卒して、院の御所四辻殿へ參りて、本院を烏羽殿へ御幸なし奉らんと、奏聞しければ、一院は豫てより思召設けさせ給ひたる御事なれ共、今更差當りて、御心惑(まどは)しおはします。先(まづ)、女房達を出さるべしとて、車を輾(きし)りて遣出(やりいだ)すに、もし謀叛人もや乘りぬらんとて、武蔵守近く參りて、弓の弭(はず)にて御車の簾を挑げて見奉るこそ、理(ことわり)ながらも、情なくぞ覺えたる。一院軈(やが)て御幸なる。往昔(そのかみ)に替りて警蹕(けいひつ)もなく供奉(ぐぶ)もなし。姑射仙宮(こやせんきう)の玉の牀(ゆか)をよそになして立去り、九重の花の都は今日を限(かぎり)と思召(おぼしめ)す叡慮のほどこそ恐しけれ。東洞院を下(くだり)に、七條殿の軒のつまを心の外に御覽ぜらる、作道(つくりみち)より鳥羽殿に入らせ給へば、關東勢、雲霞の如く四方を囲みて守護し奉る。玉扆(ぎよくい)に近づく臣下は一人も見え給はず。錦帳に參る女御もなく、只御一所のみおはします。同じき八日六波羅より使を以て御出家あるべき由を申す。軈て御戒師を召されて御飾(おんかざり)を下(おろ)させ給ふ。替果(かはりは)てさせ給ひたる御姿を、信實(のぶざね)を召して似繪(にせゑ)に寫させられて、七條院へ奉らせ給ひければ、御覧じも敢へず、御心も昏(くら)まさせ給ひて、修明門院(しゆめいもんゐん)を誘ひ參せられ、一つ御車に召されて、鳥羽殿へ御幸(ごかう)なる。御車を差寄せて、かくと申し入れたまへば、院は手づから御簾を引遣らせ給ひて、龍顏(りうがん)を差出させられて、見えおはしまし、「疾(とく)はや御歸あれ」と御手にて招遣(まねきやら)せ給ふ。七條女院も修明門院も御目も昏(く)れ、御心も消えて絶入り給ふも理(ことわり)なり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【一】――後鳥羽院遷幸及び出家〉長いのでこの章も分割する。この時、後鳥羽院は未だ満三十六の若さであった。

「同七月六日」承久三(一二二一)年七月六日。

「武藏太郎」北条時氏。北条泰時長男で当時満十八歳。

「駿河次郎」三浦泰村。三浦義村次男で当時十七歳。

「弓の弭」筈(はず)。弓の両端の弦(つる)をかける部分。弓弭(ゆはず)。

「警蹕」「けいひち」とも読む。先払の声又はその役目をする者。具体的には、天皇やそれに準ずる者の公式の席での着座や起座、行幸などの際の殿舎等への出入り、食膳を供える際などに於いて周囲に注意を促し、先払をするために側近の者が発する声を指す。

「姑射仙宮」中国の伝説で神仙の住むとされた「藐姑射(はこや)」という想像上の山名。「藐姑射」とは「藐(はる)かなる姑射山」の意で北海の洋上にそびえるという。転じて上皇の御所《荘子》逍遥遊篇によれば,この山には,肌は雪のように白く,肢体は処女のようにしなやかで,五穀を食わずに風や露を糧とし,雲に乗り竜にまたがって宇宙の間を自在に飛翔し,ひとたび精神を集中すれば,あらゆるものを疫病や災禍から救いあげられる神人が住むという。日本では転じて、上皇の御所である仙洞御所の別称となった。

「よそになして」最早、縁なきものとして。

「七條殿」後鳥羽院の母で坊門信隆娘の七条院殖子(当時六十四歳)の住まい。

「作道」平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路の名に鳥羽作道があるが、この頃には荒廃して存在しなかったともされ、増淵氏は一般名詞として戦乱で荒蕪したところを『新しく開いた作り道』と訳されておられる。しかし、以下に示す「承久記」では『作道迄』とあり、これは明らかにそうした羅城門外の古道(鳥羽御所はここから南へ約三キロメートルの辺りにあった)を指しているようにしか読めない。

「玉扆」本来は玉座の背後に立てた屏風。ここでは広義の天皇の御座所・玉座のこと。

「御戒師」息子である道助入道親王が務めた。

「信實」藤原信実(安元二(一一七六)年頃~文永三(一二六六)年以降)。公家・画家・歌人。ウィキの「藤原信実によれば、藤原北家で右京大夫藤原隆信の子で父隆信と同じく絵画や和歌に秀でた。大阪水無瀬神宮に伝わる国宝「後鳥羽院像」(ウィキ後鳥羽天皇」にあ画像)は信実の作と考えられているとある(まさにこの時の「似せ絵」である)。『短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は八条家として室町時代中期頃まで続き、いわゆる似絵の家系として知られる』。勅撰歌人として「新勅撰和歌集」等の歌集に多くの歌が入集しており、延応二(一二四〇)年前後に成立した説話集「今物語」は信実の編纂になる。

「修明門院」順徳天皇の母で後鳥羽天皇の寵妃藤原重子(じゅうし/しげこ 寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)。藤原範季娘。先に足柄山麓の川底に沈められて処刑された藤原範茂は同母弟。当時三十九歳。

 

 以下、「承久記」(底本通し番号101の前半部)。「北條九代記」の作者は、ここはかなり正確に引き写している。

 

 去程ニ同七月六日、武藏太郎・駿河次郎・武藏前司、數萬騎ノ勢ヲ相異シテ、院ノ御所四辻殿へ參リテ、鳥羽殿へ可ㇾ奉ㇾ移由奏聞シケレバ、一院兼テ思召儲サセ給ヒタル御事ナレ共、指當リテハ御心惑ハセヲハシマシテ、先女房達可ㇾ被ㇾ出トテ、出車に取乘テ遣出ス。謀叛ノ者ヤ乘具タルラントテ、武藏太郎近ク參リテ、弓ノハズニテ御車ノ簾カヽゲテ見奉コソ、理ナガラ無ㇾ情ゾ覺へシカ。軈テ一院御幸ナル。射山・仙宮ノ玉ノ床ヲサガリ、九重ノ内、今日ヲ限ト思召、叡慮ノ程コソヲソロシケレ。東洞院ヲ下リニ御幸ナル。朝夕ナリシ七條殿ノ軒端モ、今ハヨソニ御覽ゼラル。作道迄、武士共、老タルハ直垂、若ハ物臭ニテ供奉ス。鳥羽殿へ入セ給へバ、武士共四方ヲカゴメテ守護シ奉ル。玉ノ砌ニ近ヅキ奉ル臣下一人モ見へ不ㇾ給。錦ノ帳ニ隔無リシ女御・更衣モマシマサズ、只御一所御座ス。御心ノ程ゾ哀ナル。

 同八日、六波羅ヨリ御出家可ㇾ有由申入ケレバ、則御戒師ヲ被ㇾ召テ、御グシヲロサセ御座ス。忽ニ花ノ御姿ノ替ラセ給ヒタルヲ、信實ヲメシテ、似セ繪ニ寫サセラレテ、七條院へ奉ラセ給ケレバ、御覽ジモ不ㇾ敢、御目モ昏サセ給御心地シテ、修明〔門〕院サソイ進ラセラレテ、一御車ニ奉リ鳥羽殿へ御幸ナル。御車ヲ指寄テ、事ノ由ヲ申サセ給ケレバ、御簾ヲ引ヤラセマシマシテ、龍顏ヲ指出サセ給テ見へヲハシマシ、「トク御返アレ」ト御手ニテ御サタ有ケレバ、兩女院、御目モ暮、絶入セ給モ理也。

●「武藏前司」足利義氏、当時満三十二歳。]

杉田久女句集 237  花衣 Ⅴ 炊き上げてうすき綠や嫁菜飯

 

炊き上げてうすき綠や嫁菜飯

 

[やぶちゃん注:「嫁菜」一応、ルビもないので「よめなめし」と読んでおくが、私は実は「うはぎめし」と読みたい。キク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena は若芽を摘んで食べるがこれはまさに万葉の昔からの習慣で、古くは「おはぎ」「うはぎ」と読んだ。「万葉集」巻第十の一八七九番歌に、

 春日野に煙立つ見ゆ少女らし春野のうはぎ採みて煮らしも

同巻第二に載る柿本人麿の二二一番歌(二二〇番の長歌の反歌)にも、

 妻もあらば摘みてたげまし佐美(さみ)の山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや

とある(「食(た)ぐ」は飲食することをいう古代の動詞)。久女は俳句の世界だけでなく、生活に於いても古えの季節を大切にする女性であったのである。]

杉田久女句集 236  花衣 Ⅳ 春蘭の咲いてゐたれば木の根攀づ


春蘭の咲いてゐたれば木の根攀づ

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅵ

 

しら雲のなごりて樺に通草垂る

 

[やぶちゃん注:「通草」老婆心乍ら、「あけび」と読む。木通の別名で生薬名(「ツウソウ」)でもある。]

 

新障子はりて挿したる柚の實かな

 

[やぶちゃん注:「挿したる」とあるから、不注意とは思われぬ。完全なるものは魔を呼ぶ故の邪気を払う(柚子の香はそうした効果を持つとされる)ための風習か。識者の御教授を乞う。]

 

秋雲を縫ふ岩燕見えそめぬ

 

[やぶちゃん注:「岩燕」スズメ目スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科デリコンDelichon 属イワツバメ Delichon urbica 。通常のツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica との違いは、イワツバメは家屋に巣を造らず、コンクリート橋やコンクリート製のビルに巣を造ること、通常のツバメは喉と額が赤く面部は茶色であるが、イワツバメは嘴も面部上面も黒い。イワツバメの尾は所謂、燕尾形ではなく、扇形を呈する。営巣する巣も特徴的で、ツバメのような皿型ではなく、上部まで閉じる形のそれで開口部も小さい。グーグル画像検索Hirundo rustica(ツバメ)及びDelichon urbica(イワツバメ)で比較されたい。]

 

盂蘭盆や槐樹の月の幽きより

 

[やぶちゃん注:「槐樹」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ Styphnolobium japonicum ウィキエンジュ」によれば、中国原産で古くから台湾・日本・韓国などで植栽されている。和名は古名「えにす」の転化したもの。『街路樹や庭木として植えられる。葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は』四~五対あって長さ三~五センチメートルの卵形をなし、『表面は緑色、裏面は緑白色で短毛がありフェルトのようになっている。開花は』七月『で、枝先の円錐花序に白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。豆果の莢は、種子と種子の間が著しくくびれる』とある。]

 

翠巒に杣家のあぐる施火の煙

 

[やぶちゃん注:「施火」は「せび」で盆の精霊送りに焚く送り火のこと。]

 

ゆきずりの燭を感ずる地蔵盆

 

  山盧盂蘭盆、一句

 

中盆や後山の雲に人行かず

 

送行の葛の花ふむ草鞋かな

 

[やぶちゃん注:「送行」は「そうあん」と読み、夏安居(げあんご)が終わって修行僧が各地に別れていくことをいう。]

 

かたつむり南風茱萸につよかりき

 

水あかり蝸牛巖を落ちにけり

橋本多佳子句集「紅絲」  寧楽

 寧楽

 

[やぶちゃん注:「寧楽」は奈良の古表記。]

 

  春日神社節分宵宮 二句

 

万燈のどの一燈より消えむとす

 

離るれば万燈の燈(ひ)となりにけり

 

野の鹿も修二会(しゆにゑ)の鐘の圏(わ)の中に

 

[やぶちゃん注:「修二会」国家安泰を祈る法会で、ここは東大寺のそれ。所謂、お水取りである。同寺の修二会の本行は現在は新暦三月一日から十四日までの二週間に亙って二月堂で行われる。]

 

修二会僧女人のわれの前通る

 

つまづきて修二会の闇を手につかむ

 

凍る火の焰を割(さ)きて僧頒つ

 

  春日野あたり

 

野火燃やす男は佳(よ)けどやすからず

 

がうがうと七星倒る野火の上

 

野火あとに水湧く火(ほ)中にても湧きし

 

  唐招提寺

 

蛇いでゝすぐに女人に会ひにけり

 

蛇を見し眼もて彌勒を拝しけり

 

吾去ればみ仏の前蛇遊ぶ

 

  唐招提寺道

 

ゆきすがる片戸の隙も麦の金

 

[やぶちゃん注:「ゆきすがる」道行くに便りとする(ところの農家のその)という謂いか。]

 

手に拾ひ金色はしる麦一と穂

 

  東大寺 法華堂 月光菩薩

 

初蝶に合掌のみてほぐるゝばかり

 

[やぶちゃん注:この「ほぐるゝばかり」は作者の心がやわらぐの謂いとしかとれないが、そうすると如何にも飛躍に欠いた説明的なつまらない句となる。寧ろ、蝶がとまって羽を畳んでまた羽ばたくというさまを「ほぐるゝばかり」と表現したとすればこれは面白いが、そう解釈するには中七の「合掌のみて」の叙述に無理がある。]

 

  興福寺

 

北庭に下りて得たりし蝸牛

 

仏母たりとも女人は悲し灌仏会

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅20 五月雨は滝降うづむみかさ哉

本日二〇一四年六月 十四日(陰暦では二〇一四年五月十七日)

   元禄二年四月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十四日

である。【その二】「曾良随行日記」によれば、この四月二十九日に芭蕉は石川の滝を見物に出かけている。以下の句はその滝見が、一度、五月雨の増水で河が増水しているから取り止めとなった際の一句であるから、二日ほど前に設定して公開することとする。これはしかし、いい加減に設定したものではない。「曾良随行日記」には二十四日の饗応を受けた午後は『雷雨。暮方止』で、二十五日は『主物忌(ものいみ)』で食事を別にしたとあり(そんな日にへらへら滝見物なんぞに行こうはずもない)、二十六日は『小雨』とあって、二十七日は『曇』で連句を催した後、『芹澤ノ滝ヘ行』くとある(この滝は角川文庫注によれば現存しないので位置は不明)。そして次の二十八日は実はこの須賀川を発つ予定であったことが『發足ノ筈(はず)定ル』も芭蕉を訪ねてきた知人がいたために『延引ス』とあるのである。結果、須賀川発は二十九日、実際の石川の滝を見物がてらとなったのである)……梅雨の降りの中、徒然なるままに何云宛書簡をものして「水鷄」の句を吟じた、その日の午後のこと、雨は上がったものの、未だ川の水かさは高く、今暫く待たれたがよろしいでしょうと言われて(実際の案内を申し出たのは主である等躬ではなく、先の饗応役をした等雲であった。以下、私の注を参照)、取り敢えず渡渉をせずに見られる「芹澤の滝」を代わりに見に行って本句をものして「見れなかった」石川の滝の形見とした(その時は形見としたつもりだったが、翌日、思いがけぬ来訪者によって旅立ちが延び、幸せにも旅立ちのその日に石川の滝を実見出来た、ということになるのであるが)……というシチュエーションは如何か? 私は結構、ありそうな話だし、気に入った設定なのである。

 

  須賀川の驛より東二里ばかりに石河の滝と

  いふ有るよし。行(ゆき)てみん事を思ひ

  催し侍れど、このごろの雨にみかさりて河

  を渡る事かなはずといひて止みければ

五月雨(さみだれ)は滝降(ふり)うづむみかさ哉

 

[やぶちゃん注:「俳諧 葱摺」(しのぶずり・等躬編・元禄二年)。「曾良俳諧書留」では、同じ前書があって、以下のように表記違いの相同句と後書がある。

 

さみだれは瀧降りうづむみかさ哉   翁

  案内せんといはれし等雲と云人のかたへ

  かきやられし。藥師也。

 

等雲は前に注したように「藥師」、医師であった。「雪まろげ」には、

 

  阿武隈川の水源にて

 

とあるのは、後年の曾良がこの句を後日に実景として見たことに合わせて作文したものであろう。

「石川の滝」須賀川の南東へ約五・九キロメートル(曾良随行日記『一里半』の実測による)の現在の須賀川市前田川にあり、現在は「乙字ケ滝(おつじがたき)」と呼ばれ、福島県須賀川市と石川郡玉川村の間を流れる阿武隈川にある滝である。ウィキ乙字ケ滝によると、落差六メートル、幅百メートルで、この『滝周辺では阿武隈川が「Z」もしくは「乙」の字に大きく屈曲して流れている。滝幅の広さから「小ナイアガラ」とも呼ばれている』とある。二十九日の「曾良随行日記」を引く。【 】は右傍注。

   *

一 廿九日 快晴。巳中尅、發足。石河瀧見ニ行。【此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡。】須か川ヨリ辰巳ノ方壹里半計有。瀧ヨリ十餘丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩(かち)ニテ行バ瀧ノ上渡レバ餘程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間も有之。瀧ハ筋かヘニ百五、六十間も可有。高サ二丈、壹丈五、六尺、所ニヨリ壹丈計ノ所も有之。

   *

「さゝ川」現在の郡山市安積町笹川(この滝からだと北北西へ直線距離で十二キロメートルの位置にある)。「十餘丁」一キロ強。「百二、三十間」約二一九~二三七メートル。「百五、六十間」二七三~二九一メートル、「高サ二丈、壹丈五、六尺、所ニヨリ壹丈」滝の落差は大きいところで六メートル、四・六~四・九メートル、場所によって三メートルとあるから、滝の落差は変わらないものの、当時の滝の幅(氾濫原)はかなり広かったことが分かる。

 この句意は、

――五月雨は何と! 壮大な瀑布をも阿武隈川に降り沈めてしまった! その水嵩(みずかさ)の恐るべきことよ!――

で、想像の諧謔を込めつつ、増水によって行けなかったことを残念に思っている当の慫慂してくれた等雲への慰藉を込めたものであることに気付かねばならぬ。曾良が「雪まろげ」で実景として採ったのは、実はいかにも無粋であったということである。]

道路の運命   山之口貘

 道路の運命

 

舊道は、時の流れに葬られ……

新道は默々として

踏みつぶされつゝ

あらゆる生物の、摩擦に

美しく光る……

舊道を側の雜草は、次第に

殖える行く

その凸凹の道を――

人類のからだは、總ての生物は

白日の強き強き光線に疲れ

乾ききつた畑に

哀れにも可弱き野菜の

生涯の如く

うなだれ、佇ずみ、欺く……

おゝ舊き道路よ

汝は衰ひ

おゝ新しき道路よ

すべては汝を喜ぶ。

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・十二・二一』とある。大正一一(一九二二)年二月二十一日附『八重山新報』に「三路」のペン・ネームで、続く「靜かな夜」「書室にて」とともに三篇掲載された。

 この詩は私には、高村光太郎(当時、満三十八歳)の私の嫌いな「道程」(プロトタイプの一〇二行の長詩は大正三(一九一四)年三月号『美の廃墟』に発表。後に同年十月刊の詩集『道程』で九行詩となった)、

 

   道程  高村光太郎

 

 僕の前に道はない

 僕の後ろに道は出來る

 ああ、自然よ

 父よ

 僕を一人立ちにさせた廣大な父よ

 僕から目を離さないで守る事をせよ

 常に父の氣魄を僕に充たせよ

 この遠い道程のため

 この遠い道程のため

 

のインスパイアというより寧ろ、萩原朔太郎(当時、満三十五歳)のネガティヴな「純情小曲集」の小出新道」初出『日本詩人』第五巻第六号・大正一四(一九二五)年六月号

 

  小出新道

 

 ここに道路の新開せるは

 直(ちよく)として市街に通ずるならん。

 われこの新道の交路に立てど

 さびしき四方よもの地平をきはめず

 暗鬱なる日かな

 天日家竝の軒に低くして

 林の雜木まばらに伐られたり。

 いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

 われの叛きて行かざる道に

 新しき樹木みな伐られたり。

 

遙かに先行するところの、詩人山之口貘のポジティヴな宣言であると感ずるものである。確かにバクさんは未来の萩原朔太郎の屍を洗骨した後、美事にポイと投げ出しているのである。バクさん、満十九歳であった。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅19 關守の宿を水鷄にとはうもの

本日二〇一四年六月 十四日(陰暦では二〇一四年五月十七日)

   元禄二年四月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十四日

である。【その一】以下の句は以前に出た白河で会う機会を失した白河藩士何云(かうん)に宛てて福島須賀川から送った芭蕉の書簡に出るもので、書簡自体は四月下旬のものと考えられている。今日に配しておく。何云は須賀川で滞在させて貰っている等躬とは昵懇の中であったらしい(だからあのトンデモ「早苗にもわが色黑き日數哉」が即座に送られてしまった)。

 

關守の宿を水鷄(くひな)にとはふもの

 

關守の宿をくゐなに問ふもの

 

[やぶちゃん注:第一句は書簡に出る句であるが、「とはふもの」は「とはうもの」が正しい歴史的仮名遣である。正しい形で再掲しておく。

 

關守の宿を水鷄(くひな)にとはふもの

 

二句目は曾良「雪まるげ」所収の句形であるが、やはりこれも歴史的仮名遣に誤りがあり、「くゐな」は「くひな」である。やはり正しい形で再掲しておく。

 

關守の宿をくひなに問ふもの

 

「とはうもの」は「問はうもの」で、「う」は平安後期に発生した推量・意志の助動詞「む」の転じた助動詞「う」(活用は(う)/〇/う/う/○/○)の連体形でこれは仮定の意を現わし、それを受ける「もの」はこの場合は順接の詠嘆の終助詞(形式名詞「もの」から派生若しくは終助詞「ものを」を略したものとも)である。逐語的には「白河の関の番人の宿所を水鶏に訪ねればよかったなあ」の意(以下、語注参照)。以下、当該書簡総てを出す(伊藤洋氏の「芭蕉DB」のものを参考にさせて頂いた)。

   *

白河の風雅聞きもらしたり。いと殘多かりければ、須か川の旅店より申つかはし侍る。

關守の宿を水鷄にとはふもの      はせを

又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申參候よし、かく申直し候。

西か東か先早苗にも風の音

何云雅丈

   *

句以外を訳しておく。

   *

白河では風雅の人である貴君とお逢いする機会を持てず、残念なことでした。そのことがたいそう心残りでしたので、須賀川の滞在先、御知己の乍単斎等躬殿の方よりお便り申し上げます、ご挨拶の一句まで。

関守の宿を水鶏にとはふもの      はせを

また、白河での小生の愚句、「色黒き」という句ですが、何とまあ、乍単斎殿が貴君へ申し遣わした文に記された由なれど、あのとんでもない句は、かく詠み直しました。御笑覧のほど。

西か東か先早苗にも風の音

何云御元へ

    *

「白河の風雅聞きもらしたり」という書き出しは既に何云からの来簡があり、そこで芭蕉に逢えなかったことを惜しむ内容が書かれていたことへの返礼とも思われる。

「雅丈」は芭蕉がしばしば用いる脇付。函丈(かんじょう)を洒落れてひねったものか。函丈は「礼記」曲礼上の「席の間丈を函(い)る」に由来し、師から一丈も離れて座る意。通常は師又は目上の人に出す書状の脇付である。彼が目上であるかどうかは不詳。藩士である彼に敬意を示したものと思われる(尤も芭蕉は年下の門人で俳諧師であった去来などにもこの脇付を用いている)。

「關守」何云を歌枕たる旧関の白河の関守に擬えた。

「水鷄」その関守の宿をクイナに尋ねればよかったというのである。これはツル目クイナ科クイナ Rallus aquaticus ではなく、古くは単に「水鷄(くひな)」と呼ばれたクイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca と思われる。このヒクイナはその鳴き声が連続して戸を叩くようにも聞こえる独特のものであることから、古くから「水鷄たたく」と言いならわされてきた雅語で、古典文学にもしばしば登場する。家の戸を叩いて訪ね歩いているように聞えることから、ここではだから――水鶏は住まい・宿について詳しかろうから――と擬人化して洒落たものである。参照したウィキの「ヒクイナ」には「古典文学とヒクイナ」の項が設けられ(以下、引用はそのままではなく正字化してある)、

 

 くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ。(「源氏物語」「明石」)

 

 たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては來む(「更級日記」)

 

 五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鷄の叩くなど、心ぼそからぬかは。(「徒然草」)

 

といった古典が示された後、芭蕉の推定元禄七(一六九四)年の大津の吟(年代には疑義もある)、

 

此宿は水鷄も知らぬ扉かな

 

が引かれて、『「扉」は「敲く」ものであることから「水鶏」の縁語になっている』と注されてある(同句は「笈日記」に「おなじ津なりける湖仙亭に行て」の前書を持つもので、湖仙は高橋瓢千のことで三井寺に近い琵琶湖畔に人を避けて隠棲していた(だから「水鷄も知らぬ」)その庵を訪ねた折りの句とする)。

 どんな声か? montyjapan 鳴き声及び Owattyan 鳴き声の動画で確認出来る(後者は最後に姿を少し見せる)。

 ヒクイナは湿原・「河」川・水田などに棲息する湿地性の水鳥で、芭蕉が歩いた一帯は豊かな緑と水に囲まれ、阿武隈川の源として那須山系が蓄えた清冽な水が豊富な土地柄であったからヒクイナ(クイナとは当時は区別されていなかったからクイナでも問題ないが、実際には古典の「水鷄(くひな)」はヒクイナを指していることが多いとウィキクイナ」の方の記載にあるのである)が実際にそこここで見られ鳴いていたに違いない。そしてこれはそもそもが白「河」の縁語としても引き出せる。

 またこのヒクイナとは「緋水鶏」で、リンク先の「形態」の項にも、『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色』なものの、『淡褐色の縞模様が入』り、『虹彩は濃赤色』で『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』、『後肢は赤橙色や赤褐色』を呈するとあって、まさに色彩としても「白」河の景に微かな紅一点を加えるイメージであることにも着目出来るように私には思われる(yyyokoa 実際ヒクイナ動画)。

 最後に。現在、ヒクイナ Porzana fusca は環境省レッドリストの準絶滅危惧種である。]

2014/06/13

橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅲ 鼓ケ浦に師誓子を訪う

  鼓ケ浦

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年一月六日の条に現在の三重県鈴鹿市寺家町鼓ヶ浦に山口誓子宅を訪問するという記事がある。但し、本句集は昭和二十六年までなので、前の句の順列からは昭和二十五年の一月以降、昭和二十六年中の訪問ということになる(年譜にはその訪問記載はない)。]

 

冬駅に名を筆とづゝ伊賀に読み

 

師の前にたかぶりゐるや冬の濤

 

ゆらゆらと月のぼるとき師と立てる

 

濤高き夜の練炭の七つの焰

 

うち伏して冬濤を聴く擁るゝ如

 

[やぶちゃん注:橋本多佳子の句に対し、しばしば、師誓子を詠むものにはあたかも恋人に接するような趣きがあるという評言を目にするが、確かにまさにこの五句など(この後の二句もすべて師を訪問した折りのものとは断言出来ないものの)、ブラインド・テイスティングしたなら、明らかにかなりどきっとする恋句連作にしか、まず見えぬ。]

 

冬鷗百姓たゝせたゝせ来る

 

寒月下海浪干潟あらはしつゝ

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅴ

 

石楠花に伏苓を掘る童子かな

 

日も月も大雪溪の眞夏空

 

山梔子に提灯燃ゆる農奴葬

 

貧農の汗玉なして夕餐攝る

 

  太田公園

 

白鳥に娘が韈(ソツク)編む涼みかな

 

[やぶちゃん注:「太田公園」これは現在の山梨県甲府市太田町にある甲府市遊亀(ゆうき)公園のことではあるまいか。参照したウィキに「遊亀公園」には『太田町公園とも呼ばれる』とあり、ネット検索をかけると、かつては太田町公園と呼ばれていたと認識している方もおられるからである。『公園敷地は時宗寺院の一蓮寺旧境内で、近世甲府城下町の町人地(新府中)の南端にあたる寺内町』で、明治七(一八七四)年に『境内敷地の一部が県へ移管されて公園となり、甲府城跡にある舞鶴城公園に対して命名され』、大正六(一九一七)年に甲府市へ移管されて大正八(一九一九)年には『公園内の南隅に附属動物園が開園し』ているとある。

「韈(ソツク)」これは足袋や靴下を指す漢語でここは無論、靴下。]

 

麺麭攝るや夏めく卓の花蔬菜

 

老鶯に雲ゆきのこる翠微かな

 

   六月二日、姻戚の幼童薔薇園の池中に墜

   つ報あり、手當急なりしも遂ひに蘇生せ

   ず。

 

薔薇うつる水底終ひの梅雨明り

 

朝雲の灼けて乳牛に桐咲けり

 

温室のメロンに灯す晴夜かな

 

紫陽花に雨きらきらと蠅とべり

 

[やぶちゃん注:「きらきら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

栗咲ける獄みちの雲梅雨入かな

 

  河口湖産屋ケ岬

 

花卯木水模糊として舟ゆかず

 

[やぶちゃん注:「産屋ケ岬」河口湖の北岸に向け、現在の河口湖大橋を渡りきった最初の交差点を右に曲がったところにある岬。富士山に向かう形で突き出た小さな岬で、富士と河口湖大橋とのコントラストは河口湖を代表するビュー・ポイントの一つとされる。「河口湖コム」の産屋ヶ崎を参照した。リンク先には地図や写真もある。]

 

牆の薔薇旅寝の幮に近かりき

 

[やぶちゃん注:「牆」は「かき」(垣)、「幮」は「かや」(蚊帳)。]

 

きぬぎぬの籬に衷甸(ばしや)まつ薄暑かな

 

[やぶちゃん注:「きぬぎぬ」の後半は底本では踊り字「〲」。「衷甸」は二頭立ての馬車。音は「チュウデン」で「甸」は乗の意。馬車とくればこれは現代の景、男が妾の宅から夏の日に朝帰りする景か。私はこの景にまさしく相応しい御屋敷が石和の妻のよく行く病院のまん前にあるのことを知っている。]

 

窓曇る卓の静物薄暑かな

 

黎明の雷鳴りしづむ五百重山

 

  九月十三日千甕訪問、一句

 

夏逝けり養痾の庭のひろやかに

 

[やぶちゃん注:「千甕」小川千甕(せんよう 明治一五(一八八二)年~昭和四六(一九七一)年)は京都出身の日本画家。本名、多三郎。仏画師北村敬重の弟子となり、浅井忠に洋画も学ぶ。大正四(一九一五)年川端竜子・小川芋銭らと珊瑚会を結成。油絵から日本画へ移行して院展に「田面の雪」「青田」などを出品、昭和七(一九三二)年には日本南画院に参加した。芭蕉・蕪村・良寛に私淑し、仏典・漢文・国文にも造詣が深く、自らも和歌・俳句・随筆を能くした。代表作「炬火乱舞」など(以上は講談社「日本人名大辞典」及び思文閣「美術人名辞典」を参照した)。]

 

厚朴蝕し苑囿の霧たちのぼる

 

[やぶちゃん注:「厚朴」は本来は「こうぼく」で生薬名で、利尿・去痰作用があるモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata またはシナホオノキ Magnolia officinalis の樹皮を指すが、ここは樹木のホオノキ Magnolia obovata そのものを指して、「厚朴蝕し」は「ほほしよくし(ほおしょくし)」で、これは後の立ち昇る霧が朴の木を蝕むように包んでゆくというイメージであろう。

「苑囿」は「ゑんいう(えんゆう)」で、「囿」は鳥獣を放し飼いにする所の意、草木を植えて鳥や獣を飼う所の意。動物園か。とすると先に出た遊亀公園附属の動物園が候補となろうか。]

ユートピア   山之口貘

 ユートピア

 

努力せよ もつともつと

亂雜な己の生活に

隙を持つときに

己の全生涯のバルチスは

こもる

偉大な 偉大な

力の牧場よ!

力と

力の利用の連絡は

愚かしきい思案に蝕む

眞赤な血潮をひきつりなく

泉■如く湧き出せ

己の眞の努力よ

もつともつと強く

己を鞭打て

己のユートピアの存在は

己の永久の樂土は

隙の無き

眞の努力にともなひえ

美しい輝きを放つ

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年一月一日附『八重山新報』に「サムロ」のペン・ネームで前の「神」とともに掲載された。「泉■如く湧き出せ」の「■」は底本では「の」に推定されてある。

「バルチス」不詳。ドイツ語の“valuta”(価値)などを想定してみたが、発音はしっくりこない。識者の御教授を乞う。

「眞の努力にともなひえ」ママ。「眞の努力にともなひ得」という謂いか。]

2014/06/12

停滞にあらず

シンクロニティ「奥の細道」の旅を出来る限り、先までやっておかないと、いつ何時、僕自分の身に何が起こるか分からん訳で、気が気でないのである。とりあえず、もう直に松島には辿り着けそうだし、仙台を発つ旧暦元禄2年5月8日(グレゴリオ暦1689年6月24日)分の早朝までは今日中に公開セットが出来そうだ。というわけで、実は連日一日中、「奥の細道」と睨めっこという訳なんである。

花魁道中

今年の梅雨はなかなか疲れる。両杖の妻は最早、傘がさせない。合羽に身を包んだ私が花魁道中よろしく傘を差し掛けるという趣向だからである。昨日は、遺産相続の相談に弁護士のいる関内でその花魁道中をやらかした。一句、出来そうな気がした。

2014/06/11

またしてもジムノペディ

今日、近所の薬屋に妻の処方を受けに行ったら、待合室に流れていたのも「ジムノペディ」だった……

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅18 世の人の見付ぬ花や軒の栗

本日二〇一四年六月 十一日(陰暦では二〇一四年五月十四日)

   元禄二年四月二十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十一日

である。須賀川での吟。

 

世の人の見付(つけ)ぬ花や軒の栗

 

   桑門可伸(かしん)は栗の木のもとに庵

   (いほり)をむすべり。傳聞(つたへき

   く)、行基菩薩の古(いにしへ)は西に

   緣(ゆかり)ある木なりと、枝にも柱に

   も用ひ給ひけるとかや。幽栖(いうせい)

   心ある分野(ありさま)にて、彌陀の誓

   ひもいとたのもし

かくれ家(が)や目だゝぬ花を軒の栗

 

   桑門可伸のぬしは栗の木の下に庵をむす

   べり。傳聞、行基菩薩の古、西に緣ある

   木成と、杖にも柱にも用させ給ふとかや。

   隱栖も心有さまに覺て、弥陀の誓もいと

   たのもし

隱家やめにたゝぬ花を軒の栗

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は「俳諧 伊達衣」(等躬編・元禄一二(一六九九)年自序)の、第三句は「曾良俳諧書留」の句形。第二句については「金蘭集」(浣花井甘井(かんかんせいかんい)編・文化三(一八〇六)年序)に、

 

   元祿二年卯月廿四日簗井彌三郎宅にて

 

と前書し、真蹟懐紙写しにも同様の前書があるとする。「曾良随行日記」には、

 

廿四日 主の田植。晝過ヨリ可伸庵ニテ會有。會席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。

 

とある。「主」は等躬。「可伸」は前書や以下の「奥の細道」本文にもある通り、遁世僧の法名。俗名を矢内(やない)弥三郎とし(角川文庫版「おくのほそ道」に拠る表記)、俳号が栗齋(りっさい)であった(諸本はそれ以上の情報を載せないが、遁世の僧なればこそ「それ」でこそ句が引き立つというものか)。ここで栗の木を前書や句に置き詠んだのはこの彼の俳号を通わせる挨拶句だからである。

 この日、可伸の庵に於いてこの句を発句として芭蕉・栗斎・等躬・曾良・等雲・深竿・素蘭による七吟歌仙が興行された(「曾良俳諧書留」に所収。即ち第三句が初案である)。可伸栗齋は脇を、

 

隱家やめにたゝぬ花を軒の栗     翁

  稀に螢のとまる露艸(つゆくさ) 栗齋

 

と付けている。

「随行日記」の「祐碩賞之」(祐碩、之を賞す)は吉田祐碩(俳号が等雲)が主設(あるじもう)け、饗応役となったという意。彼は当地の医師であった。

 以下、「奥の細道」。

   *

この宿の傍に大きな成栗の木陰をたのみて

世をいとふ僧有橡ひろふ太山もかく

やと閒に覺られてものに書付侍る

其詞

  栗といふ文字は西の木と

  書て西方淨土に便ありと

  行基菩薩の一生杖にも

  柱にも此木を用給ふとかや

 世の人の見付ぬ花や軒の栗

   *

「この宿の傍に」山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、彼は等躬の邸内にこの庵を結んでいたとある。邸内であっては遁世の雰囲気が出ない。以下、西行引き出しつつ(後注参照)、うまく作為したものである。伊藤洋氏のサイト内にある新聞コラムに、法外の句を得、しかも庵はすっかり土地の名所となって後に恐縮してしまう(というより隠棲者としては有り難迷惑でもあったであろう)僧可伸の話が載る。「伊達衣」に記したずっと後の可伸自身の弁解と、句が載り、とても面白い。そこだけ引用しておく(恣意的に正字化した)。

   *

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯實をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、一句を殘せしより、人々愛る事と成侍りぬ。

  梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗齋可伸

   *

「橡ひろふ太山もかくと」「太山」「みやま」と読み、深山と同義。伊藤洋氏はその芭蕉Q&Aで、『こういう用語の使い方は芭蕉独特のものと言っていいと思います。「太山<みやま>」は「深山<みやま>」のことですが、同時に「太山<たいざん>」にもつながり、そこから中国の「泰山」につながります。大好きな 漢詩の中国文学と、尊敬してやまない西行とを介在して芭蕉の心の中で「深山」が「泰山」・「太山」へと変質していったのでしょう』と述べておられる。安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」で、「山家集」から、

 

 山深み岩にしただる水尋(と)めむつがつ落つる橡拾ふほど

 

 世をいとふ名をだにもさは留(とど)めおきて數ならぬみの思出にせむ

 

を引いて参考歌とする。まさにこの前書からして、翌元禄三年の膳所での歳旦吟、

 

薦を着て誰人います花の春

 

に通う理想的な遁世の風狂人を、芭蕉は西行をオーバー・ラップして創り上げた可伸像に見立てているのだ、と私は思うのである。

「閒に」は「しづかに」と訓ずる。]

2014/06/10

日比谷公園にて

妻の主治医が場所を変わったので今日、新橋まで附き合った。レントゲンと点滴、8本のヒアルロン酸注射をする一時間余り、僕は独り、新橋から、行ったことのない日比谷公園まで歩き、一周してきたのだった。……正午の路上と公園は僕の知らない世界だった――僕は徐ろにサティのジムノペディを口ずさんだ――僕の視線は「鬼火」のアランだった――何だか――淋しかった……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 16 石狩湾から見た山並み

M357
図―357

 小樽に近づくにつれて、私はオカムイから小樽を越した場所に至る迄の山脈を写生した(図357)。これ等の山々が見える通りを、一枚の紙に現すためには、AとA、BとBとを接続しなければならぬ。輪郭は非常に興味があり、私が南方で見た山々の外線とは、大いに相違していた。小樽の港に近づくと共に、海岸線は段々明瞭になって来て、我々は初めて、美しい山々が如何に海岸から遠くにあり、また直接海に接する低い丘が、如何に岩が多くて垂直であるかを理解した。

[やぶちゃん注:モースの指示に従い、図を接続したものを以下に示す。

M357abc

どなたか、石狩湾から見たこれらの山塊の写真をお持ちの方、ご提供を願えると、恩幸これに過ぎたるはない。]

橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅱ 金沢へ(3)

 

まくなぎの位置さだまらず雪の上

 

[やぶちゃん注:「まくなぎ」目配せ。]

 

雪激し一つの地窪埋めむため

 

  松村泰枝さんの許にて

 

梳(くしけづ)りゐて雪嶺の照る曇る

 

 

馴るゝまで雪夜の枕うちかへし

 

雪の昼ねむし神より魔に愛され

 

  芳江ちやんすでに小学生、別れる朝バス迄

  送つて呉れる

 

雪の日の登校クレヨン画大切に

           (一九五〇、一)

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅳ

 

白薔薇に饗応の麺麭温くからぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「麺麭」は「パン」。]

 

初袷流離の膝をまじへけり

 

花卉の春しろがねの蜘蛛顫ひゐる

 

侘びすみて百花あまねく悩む春

 

喫茶房白樺植ゑて暮春かな

 

  嵐峽小督塚

 

初旅の龜山の月曇る春

 

[やぶちゃん注:「小督塚」は嵐山渡月橋の桂川左岸の少し上流にある。小督の最初の隠棲地と伝え、今は五輪塔が建つ。そこからさらに上流の左岸一帯(現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町)を「龜山」と名づく。ここは「平家物語」巻第六の小督の冒頭、源仲国が小督を捜して、遂に「龜山の傍り近く、松の一群ある方に、かすかに琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈き澄まされたる。控へてこれを聞きければ、少しも紛ふべうもなく、小督の殿の爪音なり。樂は何ぞと聞きければ、夫を想うて戀ふとよむ想夫戀と云ふ樂なりけり」とあるのを踏まえる。]

 

生まれたる蟬はなじろみ蠢きぬ

 

[やぶちゃん注:「はなじろみ」「鼻白む」で、気後れした顔つきをするの意。]

 

あたたかや荼毘堂灯る桃の晝

 

楤の芽に日照雨してやむ梢かな

 

[やぶちゃん注:「楤」は底本では九画目の右払いがなく「勿」の字形である。「楤の芽」は「たらのめ」と読む。]

 

靑蛾ゐて甘菜の花に南吹く

 

[やぶちゃん注:「甘菜」は「あまな」と読み、単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科アマナ Amana edulis のこと。参照したウィキアマナ」によれば、『春の花の中でも特に早く咲くもののひとつで』、『新春に葉を伸ばし、それから花が咲くと、葉は夏頃まで残る』。和名は『球根が甘く食用できるところから。別名ムギクワイと言い、これは球根の形をクワイになぞらえたもの。調理法もクワイと同様である』とある。]

 

翠黛に聖燭節の雨しげき

 

[やぶちゃん注:「聖燭節」イエス・キリストが聖母マリアとナザレのヨセフによって神殿に連れて来られた(本邦の御宮参りに相当)二月二日に教会で行われる祝祭で、マリアの潔めの祭り・マリアの光のミサなどとも呼ぶ。ミサの初めに蠟燭を持った行列が行われることからキャンドルマスの名でも知られる。]

 

花しどみ靄ひく土は嗜眠りせり

 

[やぶちゃん注:「花しどみ」はキク亜綱キク目キク科キク亜科コウモリソウ属モミジガサ Parasenecio delphiniifolius の開花した花及び花を開花した草体を指す。モミジガサは別名でシドケ・シトギ・モミジソウなどと称し、山地の湿気のある樹林の林床や林縁に多くは群生する。茎の高さは六〇~八〇センチメートルに達し、葉は長い葉柄をもって茎に互生して葉柄は茎を抱かない。葉は紅葉の葉のように裂け、表面は無毛で裏面には疎らに絹毛がある。花期は八~九月で茎の先に円錐花序状にやや紫色を帯びた白色の頭花をつけ、総苞は長さ八~九ミリメートルの筒状で淡緑白色、総苞片は五個。頭花は五個の小花からなっていて総て両性の筒状花である。小花の花冠は五裂し、花柱の先は二つに分かれて反り返る。春の茎の先の葉がまだ展開しないものは山菜として食用にされる(以上はウィキのモモジガサ」に拠った。花を想起出来ない方はグーグル画像検索「モモジガサの花を。]

 

墓畠蒜(にんにく)の花さきいでぬ

 

[やぶちゃん注:「墓畠」鎌倉では谷戸墓(やとばか)と呼ぶ。]

 

春暑くうす雲まとふ深山かな

 

雲しろむ針葉樹林春の蟬

 

辣韮の露彩なして夏近き

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「辣韮」は「らつきよう(らっきょう)」。]

 

ゆく春の蟹ぞろぞろと子をつれぬ

 

[やぶちゃん注:「ぞろぞろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

  茶の間、一句

 

茶※(ゆわかし)に花のうつむく薄暑かな

 

[やぶちゃん字注:「※」=(上)「保」+(下)「火」。]

 

夏風邪になやめる妓を垣閒見ぬ

 

[やぶちゃん注:「妓」は「ぎぢよ(ぎじょ)」と読んでいるか。]

 

山梔子の蛾に光陰がたゞよへる

 

大樹相夏曇りなき日を迎ふ

 

鼈(すつぽん)をくびきる夏のうす刃かな

 

雷雨やむ月に杣家のかけろ鳴く

 

[やぶちゃん注:「かけろ」は古語で、本来は「かけろと」で、コケコッコウ、と鶏が鳴くその声のオノマトペイアの副詞。ここは鶏のこと。]

 

鷺翔けて雷遠ざかる翠微かな

 

[やぶちゃん注:「翠微」は、薄緑色に見える山の様子や遠方に青く霞む山。また、山の中腹。八合目あたりのところをも指すが、ここはパースペクティヴから前者である。]

 

日輪のもと獣檻に夏來る

 

一杯の水珠なせり夏風邪

 

[やぶちゃん注:底本では「杯」は「不」の下に横に一画があるが、これは「恨む」という意で誤植と断じて「杯」とした。]

 

みづ山を背に蠑螈つる童女かな

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「蠑螈」は「ゐもり(いもり)」。]

 

草つゆや夏に遅るる山牛蒡

 

蟬鳴いて遅月光る樹海かな

 

妹を率て金剛力や富士登山

2014/06/09

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 15 小樽へⅡ

M356
図―356

 今朝目を覚ますと、日はあかるく照って、いい天気であった。遠方には五千五百フィート以上もある山が、その斜面の所々に大きな雪面をもって聳えている(図356)。この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある。我々が東京から千マイル近くにいて、カムチャッカや千島群島の方が、東京より近いのだということを考えると、興味が湧いた。北部温帯が持つ空気の新鮮さと香とがあったが、而も経度からいえば、メイン州の中部より、そう北ではないのである。揺れる船に、よしんば短い時間にしろ、乗っていた人ほど、陸地の見えることを有難がる者はない。心配はすべて消え失せ、また事実は陸地から如何に遠く離れていようとも、彼は元気になる。港へ近づくと共に、我々は大きな岬をまわり、しばらくの間、磁石によると、南へ進んだ。我々が入って行った入江の両側には、山脈があった。そこには森が深く茂り、白人は誰も足跡を印していない。これ等の山の谿谷にわけ入った者はアイヌだけ、而もアイヌすら行っていない地域が多い。森には荒々しい熊が歩き廻り、政府はそれを退治た者に、高い褒美を与える。昨年一人の日本人が熊に食われたが、私の聞いたいろいろな話によると、熊は出喰すと、危険な動物であらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「退治た」はママ。これは矢田部日誌からも二十六日午前中(同日の十二時過ぎに小樽着とある)であることが分かる。

「五千五百フィート以上もある山」「この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある」「五千五百フィート」は一六七六メートル。「三十マイル」は約四八・三キロメートル。「オカムイ」原文は“Okamui”であるが、これはモースが教えてくれた相手がアイヌ語のキムン・カムイ(kim un kamuy:山にいるカムイ(神))と一般的な「山」の呼称を言ったのを聞き違えたものかもしれない。位置と図356から推定すると、これはニセコ連峰の主峰で現在の北海道後志総合振興局及びニセコ積丹小樽海岸国定公園内にある標高一三〇八メートルのニセコアンヌプリと思われる。参照したウィキの「セコアンヌプリある道道号線より望むニセコアンヌプリの写真とモースのスケッチの稜線がよく一致するからである(道道五十八号はニセコアンヌプリの西に位置しており、日本海側を北上していたモースの航路とも位置関係に矛盾がない)。小樽からニセコアンヌプリは南西に四四・三キロメートルで「三十マイル」と大きな齟齬はない。

「千マイル」約一六〇九キロメートル。船上の位置を推定して直線距離で測ると八一五キロメートルほどであるが、これはもう「千マイル」でいいだろう。

「カムチャッカや千島群島の方が、東京より近いのだ」当該位置から単純に直線計測すると、カムチャッカ半島の尖端からは一五〇〇キロ弱はあるものの、千島列島の最南端の歯舞群島とは四七〇キロ、国後島とは四五〇キロも離れてはいない。当時の世界地図の特に北方部の不備からいえば、モースの印象は決しておかしいとはいえない。

「我々が入って行った入江」石狩湾。

「山脈」東北に増毛山地、南西は積丹半島の余別岳に始まって余市岳その背後の羊蹄山、支笏湖の恵庭岳方面に向かって高い山並みが続いている(次の段落も参照)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 14 小樽へ

 七月二十五日。我々は蝦夷の西海岸にある小樽へ向けて出発した。乗船は漕艇位の大きさの木造蒸汽船で、日本人が所有し、指図し、そして運転している。私は船中唯一の外国人であった。船員たちが何匹かの牛を積む方法と、能率的な指揮がまるで欠けているのを見た時、私は燈台のない岩だらけの海岸を、これから三百マイルも航海するということに、いささか不安を感じた。加之(のみならず)、従来この沿岸では、測量も行われず、航海用の海図も出来ていない。夜の十時出帆した時、空は暗く、如何にも悪い天気を予想させ、暗黒な津軽海峡へさしかかった時には、多少心配せざるを得なかった。衝突の危険は、もともと衝突すべき船がないのだから、全然無かったが、嵐の闇夜に舵手が行方をとりちがえるという危険はあった。函館を出ると間もなく、我々は濃霧の中に突入し、真夜中には雨を伴う早手の嵐に襲われ、我我は威風堂々それにゆらゆらと入り込んで、一同いずれも多少の船酔を感じた。船室には、長い銃架にスペンサー式の連発銃がズラリと並んだ外、小さな鋼鉄砲二門と、ゴルティング銃一挺とがあった。この海賊に対する用心は、この航海にある興奮味を加えた。夜中嵐が吹き、小さな船はひどく揺れて、厨房では皿が落ちて割れ、甲板では牛がゴロンゴロンころがった。朝飯として出された食事は日本料理で、とても恐しい代物だった。我々が函館港を出た時、横浜にいたフランスの甲鉄艦が、南方のきびしい暑熱を避けるために入港して来た。この軍艦は浮ぶ海亀に似ていた。舳は唐鋤みたいで、とにかく頑丈そうだった。港内には確かに百艘ばかりの戎克がかかっていたが、乾燥させるために、帆をひろげたものも多かった。

[やぶちゃん注:矢田部日誌によると、この小樽出帆は七月二十五日で午後『七時過玄武丸ニ乘込ム』。『小樽ニ向テ』午後『九時過ニ發セリ』とある。この船、相当な武器を装備をしているが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、船自体は軍艦ではなく、開拓使所有の運送船で、客船としても使用されたとある。一八七五年(明治八年)九月二十日に朝鮮の首府漢城の北西岸の漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突(江華島事件)を機に、明治九(一八七六)年に黒田特命全権弁理大臣並びに随員一行が不平等条約である日朝修好条規を締結するために朝鮮に向かった際、この船が使用されていることが、サイト「きままに歴史資料集」の「明治開化期の日本と朝鮮(4)で分かる。磯野氏前掲書によれば、この時の同船者はモース・矢田部・高嶺・佐々木・内山の五名であった。

「スペンサー式の連発銃」原文“Spencer repeating rifles”。アメリカ製・口径14mm・装弾数七発の管状弾倉装填式・手動操作式レバーアクションライフル(ウィキの「スペンサー銃」に拠る)。

「鋼鉄砲」原文“steel cannon”所謂、カノン砲。口径に比べて砲身が長く、長距離射撃や堅固な建造物などの破壊に適した大砲。

「ゴルティング銃」原文“a Gatling gun”。ガトリング砲(ガトリング銃)。一八六一年(本邦の文久元・万延二(一八六一)年、明治維新の七年前)にアメリカの発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された最初期の機関銃。日本に輸入されていた幕末・明治期にはガツトリング砲または奇環砲・ガツトリングゴン連発砲などと呼ばれていたと参照したウィキの「ガトリング砲にある。同ウィキには明治七(一八七四)年四月に『北海道開拓使がアメリカから2門を購入』したとあり、モースの言っているのはこの一本である可能性が高いと考えられる。

「フランスの甲鉄艦」ネット検索をかなり試みたが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 ここで一言するが、私はこの時まで、咒罵をしない水夫達や、横柄に命令をしない船の士官たちを、見たことが無い。が、この船では呪罵は更に聞えず、如何なる命令も静かな態度でなされた。このような危険な生活でさえも、この国民の態度を変えぬものらしい。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 13 函館点描 

 昨夜当町の別の区域で、ある種の祭礼が行われたので、私は群衆に混ってブラブラ出かけた。寺院へ通じる往来の両側は、四分の一マイルにわたって、二列の燈籠で照らされていた。その中の一列は、両側とも、多くは、滑稽な絵を措いた燈籠で、絵は皆違っていた。私は画家の変化性と技巧とに、感心せざるを得なかったが、而もそれ等の絵は、大急ぎでなすりつけたものであることが、明かに見られた。寺院の前は人の黒山で、廊下にある大きな箱に銅貨を投げ込み、手をたたき、熱心に祈っていた。僧侶達は、見受ける所、大法会をやり、そして天運を授与しているらしい。すくなくとも彼等は、戸の上に張りつけて悪霊の侵入をふせぐ、小さな紙片を売っていた。町の乞食――恐らく十人ぐらいいたであろう――は路の片側に一列に並び、手に持った鐘を、のろい単調な調子をとりながら、たたいていた。

[やぶちゃん注:「寺院」不詳。祭(法会)を含め、識者の御教授を乞うものである。

「四分の一マイル」四百メートル強。]

 

 それは不思議な光景であり、また私にとっては、かかる気のいい、ニコニコした人々の群の中を、「肘でかきわけ」て行くことが不思議に思えた。「肘でかきわける」というのは、日本では通じない言葉である。どんなにぎつしり立て込んでいても、周囲の人々に触れることはなく、「ゴメンナサイ」といいさえすれば、群衆は路をあける。加うるに、私は完全に家にいるような気がして、最初見た時には記録するのに多忙を極めた、多くの事物や出来ごとが、今や、更に私の注意を引かない。これによっても、日誌を書く人が、第一印象を即座に書きつけることが、如何に大切であるかがわかる。

[やぶちゃん注:やや分かり難い。前の段の賤民である乞食が列を成して参詣客に言葉をかけることなく、「肘でかきわけ」て進んで行くので、それが「不思議な光景」と言っているようであるが、上述がそこから一般論に転じて祭礼のシーンに戻っていないため、何だか半可通な印象を与えている。]

M355

図―355 

 図355は、私のいる所から筋かいの向こうに見える、古い家屋である。これは屢々見受ける所の、典型的なもので、防火建築の周囲に、家に似た建造物を建てたものである。火事が起こると、品物を片端から防火の部分にかつぎ込み、窓を泥土で目塗りする。

[やぶちゃん注:これは所謂、図355のように土蔵様の納戸が中央にデンと構えて突き出た家屋構造、古えの塗籠(ぬりごめ)のような構造のことを言っているように私は読んだ。

 以下、有意な一行空けがある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 12 モース、後生車を描く

M353
図―353

M354

図―354

 先日、新しい路を通って海岸へ行く途中、長さ三フィートばかりで、粗末な切石の礎石にのって並んでいる、石像を写生した。これ等は明瞭に仏陀であるが、それと直角に、それぞれ頭に小さな屋根を持つ四角い木柱が、一列になって並んでいた。これ等の柱には、字が書いてあった。柱には一つ残らず手で廻すことの出来る鉄の車があり、車には、それを廻すとジャラジャラ鳴る鉄の環が、いくつかついていた。これ等は「祈禱柱」と呼ばれ、鉄環の音は、神々の注意を歎願者に向けるのである。これは私の召使いの一人が話したことであるが、私は西蔵(チベット)の仏教徒たちの祈禱輪を思い出した。彼等にとっては車輪の一回転が一つの祈禱なので、その車輪を力まかせに廻すことによってウンとお願いすることが出来る。私はまだこの装置を、日本本土では見たことがない。あるにはあるだろうが――。国353は、石像と柱との写生図であり、図354は車輪と、ジャラジャラ鳴る環とを示している。

[やぶちゃん注:「三フィート」凡そ九一センチメートル。

「これ等は明瞭に仏陀である」図からは六地蔵かと思われる。

「祈禱柱」原文“praying-posts”。これは所謂、「天気輪(てんきりん)」「天気柱(てんきばしら)又は「後生車(ごしょうぐるま)」である。主に東北地方の寺院や墓場の入り口に置かれる、モースの絵のような輪のついた石製又は木製の柱である(輪は近世以降のものでは金属製のものも多い)。輪を回すことによって死者を供養したり、自身の後世(ごぜ)に於ける往生を願ったりする以外にも、種々の吉凶や天気を占ったり、またお百度参りの際の回数の確認に回されたりする。モースが述べた通り、これはチベットのマニ車をルーツとするものである。実はモースは気づいていないようだが、彼は同じものを一年前に浅草で見たばかりか、回して絵まで描いているのである。そう第八章 東京に於る生活 13 浅草界隈逍遙の、あの浅草の寺の巨大な輪堂式のマニ車である。そこではモースは『横手の小さな寺院で、我々は不思議な信仰の対象を見た。それはゴテゴテと彫刻をし、色をぬった高さ十フィートか十五フィート位の巨大な木造の品で、地上の回転軸にのっている。その横から棒が出ていて一寸力を入れてこれを押すと、全体を回転させることが出来る。この箱には、ある有名な仏教の坊さんの漢籍の書庫が納めてあり、信者達がこれを廻しに入って来る。楽にまわれば祈願は達せられ、中々まわらなければ一寸むずかしい。この祈願計にかかっては、ティンダルの議論も歯が立つまい! 図208にある通り、私もやって見た。』(「ティンダルの議論」についてはリンク先に注してあるので参照されたい)と記していて、これがマニ車をルーツとすることは分かっているようではあるが、ここではそのこと自体を忘れてしまっているようである。また、モースの最初の大旅行となった日光にも後生車はあるから目にする機会はあったと思うのだが、来日直後のテンション上がりっぱなしの中にあっては、それどころではなかったとしても納得は出来る。個人的にこの後生車というのが私は好きで好きでたまらぬ。冬の石山寺の参道のそれに私は強く心打たれた。後生車――それは確かにあの世への発車の合図――賢治の銀河鉄道の天気輪の柱――である……

「祈禱輪」原文“the prayingwheels”。マニ車。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 10 最初の探訪 / モースは土方歳三最期の地を訪ねたのではなかったか?

M352
図―352

 昨日曳網の袋が裂けたので、我々は五マイルばかり離れた漁村へ行った。長い、泥深い町をぬけて行くと、長い砂浜へ出た。ここで我々は奇妙な貝を沢山ひろった。目的の村へ来た我々は、一軒の居酒屋を発見し、ひどく腹が減っていたので、不潔なのをかまわず食事をした。ここで休んだ後、我々は丘の一方へ向かったが、たいてい膝まで水がある沼沢地みたいな所を、一マイルも一生懸命に行かねばならなかった。苦しくはあったが、背の高い草や、美しい紫の菖蒲(しょうぶ)その他の花や、若干の興味ある小さな貝や、それから面白いことに、その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである! 私はまた欧州の
Lymnaea auriculataに類似した、淡水の螺を見出した。最後に高地へ来ると、函館と湾とが、素晴しくよく見えた。帰途、我々はまた例の沼地と悪戦苦闘をやり、疲れ切って函館ヘ着いた。ここ四日間、私はズブ濡れに濡れ、或はそれに近い状態にいたが、而もこの上なしの元気である。帰る途中、我々は謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑の前を通った(図352)。簡単な濃灰色の石片の割面に、文字を刻んだものは、我国でも、墓地で見受ける或種の記念碑の代りとして、使用するとよい。

[やぶちゃん注:これは矢田部日誌により、七月二十一日(函館着後六日後で、モースは前日の二十日も大雨をものともせずドレッジを行っている)のことであるが、『朝八時ヨリ八人ニテ七重濱ニ至リ、夫(ソレ)ヨリ有川村ニ向ヒ晝食シ、此村ノ東方ノ沼ニ入リ植物ヲ多ク採集セリ』とあって、モースの記載とやや様相が異なる。矢田部の日記の方が正しいものと思われる。「七重濱」は函館湾のほぼ湾奥でモースらのラボからは約六・五キロメートルに位置する砂浜海岸。「有川村」現在の函館市の西に接する北斗市中央の有川大神宮や有川橋の名が残る一帯であろうか。函館湾の西岸で七重浜からは四キロメートルほどはある。単純に往復でも二十キロを越える距離である。

「五マイル」約八キロメートル。

「一マイル」一・六一キロメートル。孰れの概算距離も異なるが足すとだいたい合っているから不思議。

「その分布が極の周辺にある、小さな、磨かれたような陸貝を一つ発見したりして、相当愉快だった。この陸貝は、北欧州と米大陸の北部いたる所で発見されるが、ここ、蝦夷にもあったのである!」不詳。モース先生、私は陸生貝類には弱いのです。学名かせめて科名を書いておいて欲しかったです!――識者の御教授を乞うものである。

Lymnaea auriculata」原文は“Lymnæa auriculata”で種名の綴りの“-ae-”が古典ラテン語の二重母音の合字“-æ-”となっている。底本では直下に石川氏による『〔モノアラガイ科〕』という割注がある。これは恐らく腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科 Lymnaeidae

モノアラガイ属 Radix

イグチモノアラガイ Radix auricularia

若しくはその近縁種の欧米産種の旧学名であろうかと思われる。

本邦のモノアラガイは Radix auricularia japonica

である。

「謀叛を起そうとして斬首された三人の日本人の、墓の上に建てられた記念碑」これは私の全くの直感に過ぎないのだが、「三人」というのは土方歳三の「三」を誤釈したもので、これは、現在の函館市若松町にある土方歳三最期の地の石碑ではあるまいか? ここなら「帰る途中」という表現にぴったりの位置だからである。彼は過ぐる九年前の明治二年五月十一日(グレゴリオ暦一八六九年六月二十日)に亡くなっている。但し、歳さんは斬首ではなく、戦死ではある。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 9 最初のドレッジ

M350
図―350

M351
図―351

 七月十九日、金曜日。今日最初の曳網をやった。蒸汽艇は、我々を津軽海峡という名の、蝦夷を日本本土から引き離している海峡へ、連れて行く準備をしていた。蒸汽艇が実に小綺麗で清潔だったので、私は曳網をすると、泥や水で恐しくきたならしくなることを説明し、小さな舟を曳いて貰って、その中で曳網をした。図350は、古い日本の税関を、ざっと写したものである。我々はこの建物の右半分を占領しているが、窓が五つ、相接してついているので、光線は実によく入る。屋根には重々しく瓦が葺いてあり、そして私が写生した時には、鷗(かもめ)が数羽、皆同じ方向に頭を向けて、屋梁(やね)にとまっていた。図351は蒸汽艇が和船を曳船している所を示す。この和船の内へ曳網をあげ、内容を出し、その後我々は貝、ひとでその他を、バケツに入れて、汽艇へ持ち込み、其所で保存したいと思う材料を選りわける。これ以上便利で賛沢な手配で、この仕事をしたことは、いまだかつて無い。最初の時は大雨が降って来て、私はズブ濡れになった。採集した材料は、より南方の地域のものとは非常に違っていた。貝は北方の物の形に似ていたが、而もある種の、南方の形式も混入していた。美しい腕足類があったが、その一つのコマホウズキガイは、薄紅色で、生長線がぎっしりとついている。これや、その他は、研究用に生かしておこうと思う。

[やぶちゃん注:矢田部良吉の「北海道旅行日誌」によれば、函館到着の翌日である十七日の条に『午前試驗室ニ至リ』『明朝探底(ドレヂ)ノ用意ヲ爲セリ』とある(「試驗室」は先の運上所(船改所)に急造されたラボラトリーのこと)。その翌十九日の条に『朝八時頃ヨリ小汽船ニテ探底ニ出』とあって、『探底器ハ一小舟ニ載セテ汽船ト共ニ行ケリ』とある。

 

「コマホウズキガイ」原文“Terebratulina”。この“Terebratulina”は冠輪動物上門腕足門嘴殻亜門嘴殻綱(二綱分類では有関節亜綱)穿殻(テレブラツラ)目穿殻亜目カンセロチリス科 Cancellothyrididae に属する仲間でタテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica 若しくはその近縁種を指す(本属の日本産現生種は他に八種ほど確認されている)。タテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica は、殻が長細い五角形又は紡錘形で、殻色は白又は淡黄褐色を呈し(モースの「薄紅色」はこれにやや一致する)で、殻長は十七ミリメートルほど、表面に細かな放射条が多数あるが、成長線は不鮮明(モースの「生長線がぎっしりとついている」というのとは合致しない)で、殻頂孔は円形。特に背殻内にある触手冠(lophophore:ロフォフォール。動物学用語で総担(ふさかつぎ)・ 触平冠などとも訳す。触手冠動物とも称するコケムシ・シャミセンガイなど微小な概ね固着性の動物の口器周辺にある摂餌用の輪状触手のこと。腕足動物では一対の腕(arm)に多数の細い触手が生える形で形成されてあり、有関節綱の種ではこれが腕骨(brachidium)と呼ばれる極めて複雑な触手冠支持構造物を形成しており、触手冠と腕骨の形が種によって甚だしく異なり、それが同定に役立つ。)を支える腕骨が長く伸び、捻冠(リボン)状になっていることを特徴とする。本邦の各地沿岸の水深一〇~三〇〇メートルに棲息する。但し、私はモースの「薄紅色」「生長線がぎっしりとついている」という叙述は寧ろ、近縁の穿殻(テレブラツラ)目貫殻(テレブラタリア)亜目ラクエウス科ホオズキチョウチン Laqueus rubellus とよく一致するように思われる。ホオズキチョウチン Laqueus rubellus はモースが特に記すにタテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica よりも相応しく、殻は卵型で殼長は三センチメートルと倍近く、しかも殼色は黄色みを帯びた、まさに赤又は淡紅色を呈し、表面は平滑ながら成長線がはっきりと見える。殼頂孔は楕円で、日本各地の近海の四〇~五〇〇メートルに棲息し、やはり本属には他に八種が確認されている。当時の腕足綱有関節亜綱の分類がどうなっていたか分からないが、一つの可能性としてはホオズキチョウチン Laqueus rubellus やその仲間がTerebratulina 属に分類されていた可能性は十分にあるように思われる。磯野先生は「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」でやはりタテスジチョウチンガイ Terebratulina japonica に同定されておられるのだが、私としてはどうもこの時にモースが採取したのはホオズキチョウチン Laqueus rubellus ではなかったかと思うのである(以上の記載には保育社平成四(一九九二)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅰ]」の馬渡峻輔氏の「触手動物門」の記載を主に参考にさせて頂いた。最後にグーグル画像検索のTerebratulina japonicaLaqueus rubellusを示しておく。地味な前者に比して、後者のホオズキチョウチンの方が明らかにモースをして「美しい腕足類」と記させるに相応しいものであることが、また私が頑なに拘る理由もご理解頂けるものと思う)。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅17 風流の初(はじめ)やおくの田植うた

本日二〇一四年六月  九日(陰暦では二〇一四年五月十二日)

   元禄二年四月二十二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月  九日

である。この日は矢吹を立って、須賀川本町(すかがわもとまち)の相楽(さがら)伊佐衛門等躬(とうきゅう)宅に着き、この日の夜、芭蕉・等躬・曽良の三吟にてこの句を発句とする歌仙が巻かれた。

 

風流の初(はじめ)やおくの田植うた

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良書留」には歌仙が総て示されてあり、この発句の前に、

 奥州岩瀨郡之内、須か川、相樂伊左衞門ニテ

と前書する。主人への挨拶句であると同時にこの主人が奥州第一歩の初めに逢った正真正銘の風雅人であるという讃頌から、さらにはこれより分け入らんとする奥羽の持つそれ自体の風雅への讃歌でもある。私はこの鄙の農民の民俗を「風流の初め」と措定したこの句が何とも言えず好きである。

「相樂伊左衞門」等躬という人物は須賀川の駅吏だったとも言われる土地の名士で俳人。江戸の貞門の石田未得(いしだ みとく 天正一五(一五八七)年~寛文九(一六六九)年)の門で宗匠未得没後の同門の重鎮でもあったから、芭蕉から見ると、門系の異なる先輩格に当たり、年齢も五十二歳で芭蕉(四十六)より六つ年上であった。芭蕉は彼の家でこの二十二日から七泊滞在、二十九日に郡山に向かって旅立った。

 因みにこの折りの歌仙の脇は等躬が、第三は曾良が、

 

風流の初やおくの田植歌     芭蕉

 覆盆子を折て我まうけ草    等躬

水せきて晝寢の石やなをすらん  曾良

 

と付けている。

 等躬の脇は「覆盆子(いちご)を折(をつ)て我(わが)まうけ草(ぐさ)」と読み、「覆盆子」は苺・木苺のこと。「まうけ草」は恐らく造語で、「まうけ」は客を饗応するための食い物、「草」は「種」で類い、――風流一興の初めが田植え唄とならば、木苺を折り取って私の粗末な馳走の膳と致しましょう――といった感じであろう。

 曾良の第三はちょっと凝った作りで、木苺を折り取るのは一転、石を枕に、しかもそれで渓流の流れを堰きとめて、頭を涼しくして昼寝をしようとしている風流人の仕草にとりなしもの。漱石枕流をパロってもある。

 芭蕉は恐らく、この歌仙を巻いた折りの思い出が余程楽しかったのであろう、以下に見るように「奥の細道」ではわざわざこの脇と第三のことが、句を示さずに語られてある。

   *

兎角して越行まゝにあふくま川

をわたる左りに会津根高く右に

岩城相馬箕春の庄常陸下野の地をさかひて

山つらなるかけ沼と云所を行にけふは空

曇りて物ゝ影うつらす須か川の

駅に等窮(キウ)といふものをたつねて

四五日とゝめらる先白河の關いかに

こえつるやと問長途のくるしみ身‐心

つかれ且は風景に魂うはゝれ懷旧

に膓を斷て、はかはかしうおもひ

めくらさす

  風流の初やおくの田植うた

無下にこえむもさすかにと語れは

脇第三とつゝけて一卷となし

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇けふは空曇りて物ゝ影うつらす → ●今日は空曇りて物影うつらず

[やぶちゃん注:「物ゝ影うつらす」は「物の影うつらず」と読む。]

○脇第三とつゝけて一卷となしぬ → ●脇、第三とつづけて三卷となしぬ

■やぶちゃんの呟き

「会津根」会津磐梯山 。 標高一八一六・二九メートル。

「右に岩城相馬箕春の庄常陸下野の地をさかひて山つらなる」は「右に岩城(いはき)・相馬(さうま)・三春(みはる)の庄(しやう)、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地を隔(さか)ひて山連なる」の謂い。須賀川から北(奥羽の方向)に向かって見ると南から順に磐城・三春・相馬は総て身の右側に位置しており、江戸の外縁である常陸(現在の茨城県)や下野(現在の栃木県)とは峨峨たる山によって完全に隔てられてある、というのである。芭蕉の向かわんとする正面にまさにそれ以外に退路なき覚悟の「奥の細道」がただ一筋続いているのである。

「かげ沼」影沼。当時は蜃気楼(陽炎)の立つことで有名であった。一説に現在の福島県岩瀬郡鏡石町付近にあった沼とも、この一帯の地名であったともされ、正確な場所は確定されていない(鏡石町にある小さな沼で鎌倉時代の泉親衡の乱に纏わる悲劇伝承を持つ「鏡沼」がこの芭蕉の史跡「かげ沼」として一応認定されてはいる)。

「等窮」等躬。字が違うのはやはり確信犯の文学的虚構の一つか。

「四五日とゝめらる」既に示した通り、七泊八日の長逗留であったから、明白な虚偽である。奥州に分け入ったばかりである。半分に減らしたのは、創作として都合が悪いからであり、芭蕉自身の秘かな忸怩たる思いからでもあったろう。

「先(まづ)白河の關いかにこえつるや……」以下の部分はやはり全部嘘である。既に示した通り、事実は芭蕉は白河越えで「早苗にもわがいろ黑き日數哉」のトンデモ句を作っており、芭蕉はその句を実際に等躬に示し与えており、それを等躬が即座に芭蕉が逢えなかった白河藩士の何云(かうん)に手紙で送り示してしまったことをここ須賀川で滞在中に知って、慌てて、「西か東か先早苗にも風の音」と改作したものを手紙で書き送っているからである。しかもその手紙でははっきりと「又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申参候よし、かく申直し候」(下線やぶちゃん)と述べているのである(「乍單(さたん)」は等躬の別号乍單齋)。

「脇第三とつゝけて一卷となしぬ」実際には歌仙一巻しか巻いていない。「三卷」は興が尽きなかったことを示すための虚構である。かく手放しで悦ぶ描写を見ても、実際のこの夜の連句の席の愉しげな雰囲気がよく伝わってくる。]

2014/06/08

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅16 早苗にもわがいろ黑き日數哉 / 西か東か先づ早苗にも風の音

本日二〇一四年六月  八日(陰暦では二〇一四年五月十一日)

   元禄二年四月二十一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月  八日

である。この日、前夜泊まった旗宿で、なおも白河古関跡の探索に拘って旗宿の明神などを訪ね、その後に矢吹(現在の福島県西白河郡矢吹町(まち))へと向かった(因みに旗宿は後の百十一年後の寛政一二(一八〇〇)年に当時の白河藩主松平定信の文献考証によって古関跡と認証された。ウィキ白河関」によれば、一九六〇年代の旗宿での発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設が検出されたことから、昭和四一(一九六六)年に「白河関跡」として国の史跡に指定されたとある。芭蕉が探しあぐんでから実に二百七十七年後のことであった)。

 

  奥州今のしら河に出る

早苗(さなへ)にもわがいろ黑き日數哉

 

  みちのくの名所名所こゝろにおもひこめて、

  先せき屋の跡なつかしきまゝに、ふる道に

  かゝり、いまの白河もきこえぬ

早苗にも我色黑き日數哉

 

  しら河の關をこゆるとて、ふるみちをたど

  るまゝに

西か東か先(まづ)早苗にも風の音

 

[やぶちゃん注:第一句は「泊船集」(風国編・元禄十一年)、第二句は「曾良書留」に載る句形。第三句は「曾良書留」に載るもので、

 

  我色黑きと句をかく被直候。

 

と後書する句(この「我色黑きと句を」の「と」は「の」の誤記であろう)。後に白河に住んでいた俳人で、会う機会を失してしまった白河藩士何云(かうん)宛に福島須賀川から送った芭蕉の書簡に、

 

白河の風雅聞もらしたり。いと殘多かりければ、須か川の旅店より申つかはし侍る

 關守の宿を水鷄にとはふもの はせを

又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申参候よし、かく申直し候

 西か東か先早苗にも風の音

 

と記す(「關守の」の句は後に掲げる)。この「白河の風雅聞きもらしたり」とは風流人士何云を訪ねることが出来なかったことをお洒落に述べた謂い。「乍單」は乍單齋(さたんさい)で「奥の細道」で後に出る須賀川住の俳人相良等躬(さがらとうきゅう)の別号。これによって前の二句の改作であることが分かる。

 前二句は「古今著聞集」の「巻第五 和歌」の「三 能因法師の祈雨の歌と白河關の歌の事」の後半に載る後世の作話と見られる滑稽譚に基づく。以下に引用する(底本は新潮古典集成をもととしつつ、恣意的に正字化した)。

 

 能因は、いたれるすきものにてありければ、

  都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の關

とよめりけるを、都にありながらこの歌をいださむこと念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠り居て、色をくろく、日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。

 

芭蕉自身が駄句というのもさもありなん、ではある。

 しかしこの一見、別な句に見える第三句も実は能因のあの和歌を踏まえており、同じ早苗を素材としたという点では確かに改作なのである。

 植えられた早苗を見、そして耳を欹てれば、秋風ではないにしても、そのそよぐ風が西風か東風かと聴き取ることがそれなりに出来ることだ、という諧謔なのである。山本健吉氏は「芭蕉全句」で、この「西か東か」は風向きを言うと『同時に芭蕉の漂泊の思いが籠められていよう。やや大げさな表現だが「先早苗にも風の音」は心の籠った詞句で、「わがいろ黒き」に勝ること数等である』と評しておられる。しかし乍ら、この風の音はやはり軽い、軽過ぎると私は思う。されば結局、芭蕉は捨てるのであった。]

2014/06/07

大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子

 

【外】

タコブ子 貝大ニシテツリ花入ニナル海中ニテタコ其上ニノル

此物漢名不詳江橈ナルヘシト云説アリ非ナリ

〇やぶちゃんの書き下し文

【外】

たこぶね 貝、大にして、つり花入れになる。海中にて、たこ、其の上にのる。此の物、漢名、不詳。「江橈」なるべしと云ふ説あり。非なり。

[やぶちゃん注:タコの一種である頭足綱八腕形上目タコ目アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians 。別名フネダコ。ウィキの「タコブネ」によれば、『太平洋および日本海の暖海域に分布する。同様の殻を生成する近縁種としては、アオイガイやチヂミタコブネがよく知られている』。『タコブネのメスが生成する貝殻は、他の生物が住み処として再利用することがあり、また、繊細で美しいフォルムを有することから、工芸品のように扱われたり』、『アンモナイトの化石のように収集趣味の対象になっている』(私も大小三個を所持している)。『タコブネは、主として海洋の表層で生活する。メスは第一腕から分泌する物質で卵を保護するために殻をつくるのに対し、オスは殻をつくらない。生成される殻はオウムガイやアンモナイトに類似したものであるが、外套膜からではなく特殊化した腕から分泌されるものであるため、これらとは相同ではなく構造も異なる』。『食性は、タコと同様肉食性であり、稚魚や甲殻類(エビ・カニのなかま)を食べる。通常は海中を浮遊するが、取り込んだ海水を噴射することによって海中を前進することもできる』。成長した♀は七~八センチメートル前後になるが、♂はその二〇分の一ほどの大きさにしかならない。オスは八本の足のほかに交接腕(Hectocotylus:ヘクトコチルス)を有し、交接腕には精嚢が格納されていて、交尾はオスが交接腕をメスの体内に挿入した後切断されるかたちで行われ、受精はメスの体内で行われる。メスは貝殻の内側に卵を房状に産みつけ、新鮮な海水を送り込むなどしてこれを保護する、とある。この交接法はタコでは一般的なもので、ヘクトコチルスについては私の生物學講話 丘淺次郎をお読み頂ければ幸いである。

「つり花入れ」釣花瓶のこと。

「江橈」音は「ガウゼウ(ゴウジョウ)」。「栗氏千蟲譜」巻九に(リンク先は私の電子テクスト)、「指甲螺※」[やぶちゃん字注:底本では、「指」の部分の字は(つくり)が「上」+「曰」であるが、このような漢字はなく、意味の上から指の爪を指すと考え、独断で「指」とした。以下、同じ。]という項があり、そこに、

   *

栗本丹洲「漳州府志」云、『江橈、綠殼白尾、其形如舩橈。故名。「泉郡志」、以形如指甲、名指甲螺。「泉南雜志」、北方謂泥磚曰、土坯、晋江有海介屬。亦曰、土坯、綠殼白尾、其旁有毛。「臺湾府志」、海豆芽。一名塗坯。』。

   *

とある。これは叙述からも同書の図からも、触手動物門腕足綱無穴目シャミセンガイ科のミドリシャミセンガイ Lingula anatine またはその仲間であることは間違いない。益軒先生、正解!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 8 子が詠う詩歌は何?

 先晩、私以外の一行の人々が宿っている茶屋へ行ったら、隣の部屋で小さな子が、例の疳高い一本調子で、何か読んでいた。何を読んでいるのか質ねたら、矢田部教授はしばらく耳をかたむけた後、それが、「両親が死ぬと、最も甘い食物も苦くなり、美しい花は香を失う」云々という、悲しい古典であるといった。

[やぶちゃん注:この子が詠唱しているのは何だろう? 和歌か漢詩か? 明治一一(一八七八)年の北海道の茶屋の家の少年(?)が暗唱しているのだから、これはかなりメジャーなものであるはずなのだが、暗愚な私にはどうも思い浮かばない。どなたか御教授を願えれば幸いである。

 以下、有意な一行空けがある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 7 荷馬 / 魚板

M347
図―347

M348

図―348 

 道を修繕したり、盛土したりするのに使用する土は、鞍にかけた大きな藁の袋で運搬する(図317)。馬を五、六頭つなぎ合わせ、変な麦藁帽子をかぶり、前かけをかけた一人の女が、それ等の馬を導いて、町と丘とを往復する。袋の底は何等かの方法で、締めくくってある。積荷を投げ下す時には、その紐をぐいと引く、すると土がガラガラと地面へ落る。銜(くつわ)口の両側にある、大きな木片で出来た、妙な装置である。何等かの目的で、馬の外臀部にあてがってある繩には、磨傷をふせぐ為に、木の転子(ころ)がいくつかついている。木の叉(また)でつくった鉤を両側に出した鞍の一種も、見受けられる(図348)。これは薪や長い材木を運搬するのに使用される。あらゆる物を馬背で運搬する。私は人力車以外の車を見たことがない。人力車も、ここでは非常に数が少ない。東京の車夫が、うるさく客を引くことから逃れた丈でも、気がせいせいする。

M349

図―349

 砂浜には、番人が時を打ったり、巡警の時間を知らせたり、また火事の時には猛烈に叩いたりするのに使用する、面白い音響信号の仕掛があった。これは幅二フィート、高さ一フィートの四角い樫の板で出来ていて、図319の如く棒からさがり、それを叩く木の槌は、紐によってぶら下っている。これが発する音の澄んでいて響き渡ることは、驚く程であった。農夫その他も、この考を採用して利益があろう。日本人はこの種の木でつくった装置を、色々な用途に使用する。劇場では幕をあげる信号に、四角な固い木片を二つ叩き合わせ、学校では講義の終りに、小使が木片二個を叩きながら、廊下を歩き廻り、夜番も拍子木を叩き、また庭園には、時に魚の形をした木の板がかけてあるが、これは庭園中の小さな家へ、茶の湯のために行くことを知らせるべく、木の槌でたたくものである。我国で、木をこのようにして使うのは、只、木琴の如く楽器とするか、或は拍子木かカスタネットかの如く、時間計器とすることか丈である。

[やぶちゃん注:「幅二フィート、高さ一フィート」幅六〇・九六、高さ三〇・四八センチメートル。

「魚の形をした木の板」寺院、特に禅宗で用いる鳴物の一種である魚板。木製で口に珠を銜えた長い形をした魚(主に鯉)を象っており、寺院の食堂(じきどう)などに魚が泳いでいるように吊ってある。一種の割れ目太鼓で、長い柄のついた木槌で打ち鳴らす。古くは木魚と同一異名であり、木魚は魚板から変形して出来たと考えられている。魚板は昼夜不眠とされた魚に譬えて修行僧の怠惰を戒めるために作られたものであるという(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。かつて永平寺の修行僧に聴いた話では、当時ではこの魚板が磨り減って孔が開いたその日には無礼講で腹一杯食事が出来るとされているとのことであった。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅲ

鵯猛けく稚木の椿さく峯かな

 

[やぶちゃん注:読み不詳。「ひよたけく/ちぎのちんさく/たかねかな」ととりあえず読んでいる。]

 

椿咲く針葉樹林拓かれぬ

 

さゞき鳴く破風老梅の咲き滿てる

 

[やぶちゃん注:「さゞき」はスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ Troglodytes troglodytes のこと。ウィキの「ミソサザイ」に、『日本では古くから知られている鳥で、古事記・日本書紀にも登場する』。『古くは「ササキ」であったが時代が下り「サザキ」または「ササギ」「ミソササギ」等と言った。冬の季語とされている』『江戸時代の俳人小林一茶が「みそさざい ちっというても 日の暮るる」の句を詠んでいる』とある。]

 

   春還山莊

 

溪聲に山羊鳴き榛の花垂りぬ

 

[やぶちゃん注:前書は一般表現と採った。固有名詞で御存じの方は御教授願いたい。「榛」既注であるが、実はハシバミもハンノキも孰れも似たような垂下する花で同定の根拠には意外なことにならない。こうなってはお手上げ。識者の御教授を乞うものである。]

 

夏近き禁裡の雲に啼く鴉

 

種痘する肌の魔幽くかゞやけり

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する句。]

 

温泉山みち凝る雪みえて躑躅咲く

 

葉もなくて擽の老樹花滿てり

 

花冷えや孔雀の紫金夜をめげず

 

   大月、巖殿山

 

行く春の亭に子女よる嶽一つ

 

[やぶちゃん注:「巖殿山」は現在の山梨県大月市賑岡町(にぎおかまち)にある標高六三四メートルの岩殿山(いわどのやま)のことであろう。ここには甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされる岩殿山城という山城があった。戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた城で現在、山梨県指定史跡(以上はウィキ岩殿山城に拠った)。]

神   山之口貘

 神

 

心そのものは

神だ

私に信ぜられる

神は私のすべてを 支配する

心だ

善てふものは 常に

これに從ふ

私は私の心を信ずる

そこには

あらゆるものの

分別は正しい

私も人間だ!

からだの奥底に祕む

神を抱いてゐる

私は 私自身を愛し

澤山の人間との

愛を結ぶ こゝに

神の仕業から生れる

光がある

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・十二・十一』とある。大正一一(一九二二)年一月一日附『八重山新報』に「サムロ」のペン・ネームで掲載された。バクさん、満十八歳の時の詩である。]

橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅱ 金沢へ(2)

  沢木欣一を訪ふ、細見綾子さん丹波にて

  逢へず 一句

 

若さかくさず冬帽に雨の粒ふえてゆく

 

[やぶちゃん注:「沢木欣一」(大正八(一九一九)年~平成一三(二〇〇一)年)は俳人、東京藝術大学名誉教授。妻は細見綾子。富山県生まれ。東京帝国大学国文科卒業、加藤楸邨・中村草田男に師事、昭和二一(一九四六)年に俳誌『風』を創刊し、社会性俳句を主唱、昭和四一(一九六六)年、東京藝術大学教授。昭和六二(一九八七)年、俳人協会会長。平成八(一九九六)年、句集『白鳥』で蛇笏賞受賞。

 ネット上から句を引く。

 上官を殴打する夢四月馬鹿

 秋風をきくみほとけのくすりゆび

 赤富士の胸乳ゆたかに麦の秋

 当時、沢木は三十一歳。多佳子五十一歳。「若さかくさず」で自然ではある。]

北條九代記 卷第六  京方式將沒落 付 鏡月房歌 竝 雲客死刑(3) 承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わる

佐々木山城守廣綱、同彌太郎判官高重も生捕られ、舍弟信綱に預けられ六條河原にて切れたり。熊野法印も故郷より追出だされ、道にて搦(からめ)取られつゝ、首をぞ刎ねられける。坊門大納言忠信卿をば千葉介胤綱預り、關東にくだり給ふべきにて、打立たれける所に、その比西八條〔の〕禪尼と申すは、大納言の妹にて鎌倉故右大臣實朝公の後室なり、鎌倉の二位〔の〕禪尼、右京大夫義時へまうされける旨ありければ、「さらば助け奉れ」とて、遠江國舞坂より、忠信卿は都へ歸上り給ふ。籠中(ろうちう)の鳥の雲に翔り、俎上(そじやう)の魚の海に歸りけん。めでたかりける御事なり。中御門〔の〕前中納言宗行卿は、小山新左衞臨門尉倶し奉りて下りけるが、浮島ヶ原にて切(きら)れ給ふべしと聞き給ひ、いとゞ心細思しければ、木瀨河(きせがは)の宿(しゆく)の亭(てい)の柱にかくぞ付け給ひける。

  今日過ぐる身をうき島が原にてぞ露の命は捨て定めける

其日の暮方に、大澤にてぞ切り奉りける。その外の人々も、みな六波羅に渡され、關東に下り給ふ道々にて、失ひ參らせけり。其後(そのあと)の有樣、宿所々々は燒拂はれ、姫君北〔の〕方と云はれて、日比は人にも見えじと奥深く籠りて住み給ひしも、情なく寄邊(よるべ)を失ひ、山野の嵐に身を任せ、心ならぬ月を詠め、只悲(かなしみ)の涙に沈みて、世にだに栖むならば、千里の雲は隔つとも、又見る由もあるべきを、冥途如何なる境ぞや、便(たより)に通(かよ)ふ事もなく、黄泉(くわいせん)、如何なる旅なれば、歸來(かへりく)るに由ぞなき、僅(わづか)に殘るものとては、主(ぬし)を離れし面影なり。見るも中々悲(なかし)きは、書き荒(すさ)びたる筆の跡、形見となるぞ心憂き、北〔の〕方、女房達、餘(あまり)ことの堪(たへ)難さに、髮を剃(けづ)り世を逃(のが)れ、苔(こけ)の衣に身をなして、亡夫(ばうふ)の後世を弔ひ給ふ。哀なりし事共なり。

[やぶちゃん注:〈承久の乱【二十九】――天皇及び雲客諸将、配流処刑され、承久の乱終わる〉後段総論部は「承久記」の具体的な処刑の実態を微細に記す痛切な叙述を、頭と終わりにある「方丈記」風の無常観の一見如何にもな総論説教を繫ぎ合わせて全面カットしている。「北條九代記」という幕府方からの取り敢えずの視座からはだらだらとは綴れなかったし、それでも「承久記」の筆者の悲痛と同情とを僅かなりとも残したのは相応に評価してよい引用であると思う。

「熊野法印」先に注した田辺別当家の快実のこと。

「坊門大納言忠信卿」坊門忠信(承元元(一一八七)年 ~?)。当時三十四歳。ここに記されるように妹で故源実朝(先に見たように実朝暗殺の現場にもいた)の室であった信子(承久の乱の年で未だ二十八歳)の嘆願により助命され、遠江国より都へ戻って、同年七月に出家したが、その後、幕府によって越後国へ流罪となったが、まもなく赦免されて帰京、太秦辺に籠居した(寛喜二(一二三〇)年春には都へ戻って一条大宮に居住している)。没年は不明だが、暦仁元(一二三八)年までは存命が確認されている(以上はウィキの「坊門忠信」に拠った)。

「舞阪」旧静岡県浜名郡舞阪町、現在の浜松市西区舞阪町。

「中御門前中納言宗行卿」葉室(藤原)宗行(はむろむねゆき 承安四(一一七四)年~承久三年七月十四日(一二二一年八月三日))。漢詩文優れた。

「木瀨河」静岡県を流れる黄瀬川の別名。

「浮島」浮島沼。現在の静岡県沼津市と富士市に跨る湿地帯にあった湖沼群の総称。次の藍沢庄への当時の鎌倉へのルート上にある。

「今日過ぐる身をうき島が原にてぞ露の命は捨て定めける」……今日というたった一日をさえ過ぐすのにも浮島のように心が激しく揺れ動いているこの憂いに満ちた私……その私も、このまさに憂き島という響きを持った浮島の地にてこのはかない命を捨てる時がやってきたと今日確かに聴いたことだ……。

「大澤」駿河国駿河郡藍沢庄。現在の静岡県駿東郡小山町で別名、合沢ヶ原ともいい、曽我兄弟仇討で知られる頼朝の牧狩りの地として知られる。

 以下、「承久記」の記載(底本と通し番号93の末から100まで)。

 

 佐々木山城守廣綱・同彌太郎判官高重、被搦出テ、弟信網ニ被ㇾ預。後、六條河原ニテ被ㇾ切ニケリ。熊野法師田邊法印モ落行ケルヲ、被搦取テ被ㇾ切ヌ。

 

 去程ニ武藏守・駿河守ハ、院ノ御所へ參ラントテ、巳ニ打立ンズル由、一院被聞召テ、下家司御前ヲ出、「ナ參ソ、上品ニ於ハ、ケウミヤウヲ證シ可ㇾ被ㇾ下」ト被仰下ケリ。上ノ者ヲ以テ重テ此樣ヲ被ㇾ仰ケレバ、「御所ニ武士ヤアル。見テ參レ」トテ、力者ヲ一人進ラセケレバ、走歸テ、「一人モ不ㇾ候」ト申ケレバ、「サラバ」トテ不ㇾ參。公卿六人ノ交名ヲシルシ被ㇾ下。坊門大納言忠信卿・中御門中納言宗行・佐々木野前中納言有雅・按察前中納言光親・甲斐宰相中將範義・一條宰相中將信氏等也。何レモ六原へ被ㇾ渡ケレバ、坊門大納言ヲ千葉介胤網ニ被ㇾ預。中御門前中納言ハ小山新左衞門尉朝長ニ被ㇾ頭。接察前中納言ハ武田五郎信光ニ被ㇾ預。佐々木野前中納言ハ小笠〔原〕次郎長淸ニ被ㇾ預。甲斐守宰相中將ハ式部丞朝時ニ被ㇾ預。一條次郎〔宰〕相中將ハ遠山左衞門尉景村ニ預ケリ。

 此人々ノ蹟ノ嘆、譬ン方モ無ケリ。座ヲ雙べ袖ヲ連ネシ月卿雲客ニモ遠ザカリ、枕ヲカハシ會ヲ重ネシ妻妾・子弟ニモ分レツヽ、里ハアレ共人モナク、宿所々々ハ被燒拂ヌ。徒ラニ山野ノ嵐ニ身ヲ任セ、心ナラヌ月ヲナガメテ、故郷ノ空ハ遠カリ、被ㇾ切事ハ近ナレバ、只悲ノ涙ヲ流テゾ被ㇾ下ケル。

●「ケウミヤウ」交名・校名・夾名などと書き、多くの名を書きつらねた文書。連名書。ここは京方首謀者の交名で、これによって公式に後鳥羽院は乱自体が自分の与り知らぬことだと騙ったのであった。恐るべき裏切りである。

 

 其比、西八條ノ尼御前ト申ハ、坊門大納言ノ妹ト、鎌倉ノ故大臣殿ノ後室也。是ニ依テ、二位殿へモ武藏守ニモ被ㇾ申ケルハ、「尼ガ身ニテ、京・鎌倉何レヲワキテ思ニハ侍ネ共、二ニ取レバ、角テ侍モソナタノ御ハゴクミニテコソ候へ。其上、故大臣ノ御事ヲ思進ラスレバ、鎌倉ノ傾カン事ヲバ一人ノ嘆卜覺へテ、光季ガ被ㇾ討シ朝ヨリ、宇治ノ落シ夕迄、袖ノ下ニテヌカヲツキ、神佛ニ祈精申、其ニハヨリ候ハザレ共、鎌倉ノ穩シキ事ト承ハレバ、身一ノ悦ニテ侍ラフ。其ニ付テ彼大納言、一方ノ大將ナレバ、其罪難ㇾ遁覺候へ共、サセル弓矢取身ニテモ不ㇾ候。故大臣ノシヤウリヤウニ被ㇾ宥候テ、此度ノ命助ケサセ可レ給候覽」ト被ㇾ申ケレバ、二位殿憐テ、「サラバ坊門大納言ヲバ助ケ奉レ」ト云フ。御使、遠江ノ舞嵯峨ニテ參合フ。忠信卿、其ヨリ都へ歸給フ。同樣ニ被ㇾ下按察中納言、「御使ニテ歸ル浪コソ浦山敷ケレ」ト被ㇾ申ケレバ、忠信卿、「是モ夢ニテヤラン」ト計答へテ、互ニ分ㇾ給ヒケリ。

[やぶちゃん注:「シヤウリヤウ」精霊。故右大臣実朝の御魂。

「按察中納言」葉室光親(安元二(一一七六)年~承久三年七月十二日)。ウィキの「葉室光親」によれば、後鳥羽院の側近として承久の乱では北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなどしたが、実際には『倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言』するも、『後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった』封建道徳下に於ける良心的忠臣であったというのが事実であった。『光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという』(この叙述は本「承久記」流布本に基づくものかと思われる)。『戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)処刑され』た。享年四十六。『北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという』(後掲する「吾妻鏡」承久三年七月十二日の条も参照。なお、ウィキは処刑の日を七月二十三日とするがこれはおかしい)。以下に続く彼の死の場面は圧巻である。]

 

 中御門前中納言宗行ハ、小山新左衞門尉具奉リテ下ケルガ、遠江ノ菊河ニ著給フ。「麥ヲバ何卜云フゾ」ト問給へバ、「菊河」ト申。「前ニ流ルヽ、ソレカ」。「サン候」ト申ケレバ、硯乞出テ、宿ノ柱ニ書付給フ。

  昔南陽縣之菊水 汲下流延ㇾ齡

  今東海道之菊河 宿西岸失レ命

ト書テ過給へバ、行合旅人、空キ筆ノ蹟ヲ見ツヽ、涙ヲ流ヌハ無ケリ。次ノ日、浮島原ヲ通ラセ給ニ、御供ナル侍、「最後ノ御事、今日ノ夕方ナドニハ過サセ給ハジ」ト申ケレバ、打諾キ、殊ニ心細計ニテ、木瀨河ノ宿ニ御手水ノ爲ニ立寄給フ樣ニテ、角ゾ書付給ケル。

  今日過身ヲ浮島ガ原ニテゾ露ノ命ハ捨定メケル

某日ノ暮方ニ、アフ澤ニテ被ㇾ切給ヌ。

●「菊河」旧静岡県榛原郡金谷町菊川、現在は島田市菊川。大井川の東側を流れる菊川の名にも残る。

●漢詩を書き下しておく。

  昔 南陽縣の菊水 下流を汲みて齢ひを延ぶ

  今 東海道の菊川 西岸に宿りて命を失ふ

「南陽縣の菊水」河南省内郷県にある白河の支流。古名は鞠水。この川の崖上にある菊の露がこの川に滴り落ち、その水はすこぶる甘く、水辺に住む者がその水を飲めば長命すると伝えた。同じ「菊」の名を持つ場で、命を落とすという皮肉に聞こえるのであるが、後の「吾妻鏡」を見ると、彼はこの詩を書きつけるまえに法華経を読誦しているから、「西岸」には自身がこれから西方浄土へと向かうという確信が潜ませてあるようには見える。しかし、この漢詩、乱の翌年の鎌倉への旅の記録「海道記」では、

  彼の南陽縣の菊水 下流を汲んで齢ひを延ぶ

  此の東海道の菊河 西涯に宿りて命を全くせんことを

となっている。「海道記」のこの場面は宗行への切々たる哀悼の念が綴られた優れた箇所で、乱直後の記載でもあり、同「海道記」の本文中では寧ろ、この詩の方が自然でさえある。当該箇所と和歌に纏わる部分を引用しておく(底本は日本古典全書版に拠った。注も同書を参考にした)。

   *

 時に鴇馬(はうば)、蹄(ひづめ)つかれて、日烏(にちう)、翅(つばさ)さがりぬれば、草命を養はんが爲に菊川の宿にとどまりぬ。ある家の柱に、中御門中納言(宗行卿)かく書きつけられたり。

   彼の南陽縣の菊水、下流を汲んで齡を延ぶ、

   此の東海道の菊河、西涯に宿りて命を全くせんことを。

まことにあはれにこそ覺ゆれ。その身、累葉のかしこき枝に生れ、その官は黄門の高き階(はし)に昇る。雲上の月の前には、玉の冠、光を交へ、仙洞の花の下には、錦の袖、色を爭ふ。才、身に足り、榮、分に餘りて、時の花と匂ひしかば、人それをかざして、近きも從ひ遠きも靡き、かかるうき目をみんとは思ひやはよるべき。さてもあさましや承久三年六月中旬、天下、風あれて、海内、波さかへりき。鬪亂の亂將は花域(くわゐき)より飛びて合戰の戰士は夷國より戰ふ。暴雷、雲を響かして、日月、光を覆はれ、軍虜(ぐんりよ)、地を動かして、弓劔、威を振ふ。その間、萬歳の山の聲、風忘れて枝を鳴らし、一清の河の色、波あやまつて濁りを立つ。茨山汾水(しざんふんすゐ)の源流、高く流れて、遙かに西海の西に下り、卿相羽林の花の族(やから)、落ちて遠く束關の東に散りぬ。これのみにあらず、別離宮の月光、ところどころにうつりぬ。雲井を隔てて旅の空に住み、鷄籠山(けいろうざん)の竹聲、かたがたに憂へたり。風、便りを絶えて外土にさまよふ。夢かうつつか、昔も未だ聞かず。錦帳玉璫(きんちやうぎよくたう)の床は主を失ひて武客の宿となり、麗水蜀川の貢(みつぎ)は、數を盡して邊民の財(たから)となりき。夜晝に戯れて衿(えり)を重ねし鴛鴦(ゑんあう)は、千歳比翼(せんざいひよく)の契(ちぎり)、生きながら絶え、朝夕に敬ひて袖を収めし童僕も、多年知恩の志、思ひながら忘れぬ。げに會者定離(ゑしやぢやうり)の習ひ、目の前に見ゆ。刹利(せつり)も首陀(しゆだ)も變らぬ奈落の底の有樣、今は哀れにこそ覺ゆれ。今は歎くとも助くべき人もなし。涙を先だてて心よわく打出でぬ。その身に從ふ者は甲冑のつはもの、心を一騎の客にかく。その目に立つ者は劔戟の刄(つるぎ)、魂を寸神の胸に消す。せめて命の惜しさに、かく書きつけられけむこそ、するすみならぬ袖の上もあらはれぬべく覺ゆれ。

   心あらばさぞなあはれとみづくきの

        あとかきわくる宿の旅人

★「鴇馬」葦毛の馬。

★「日烏、翅さがり」日が低く落ちる。日烏は三つの足を持った鴉、三足烏(さんそくう)で、中国神話に登場する太陽に住むとされる鴉。太陽のこと。

★「草命」露の命で後掲される宗行の辞世に対応させたもの。

★「人それをかざして」人々はこの方の御威光や恩沢を受けんものと。

★「花域」都。

★「夷國」鎌倉。

★「軍虜」「虜」は下卒。軍兵。

★「茨山汾水……」ともに中国文明を支えた地や河川。ここは君子を指し、以下で乱後に後鳥羽上皇が隠岐へ配流なったことをいう。

★「別離宮」同じく後鳥羽院皇子の雅成・頼仁親王らが乱後に各所に移されたことをいう。

★「鷄籠山の竹聲……」「鷄籠山」は南朝宋の文帝に重用された学者雷次宗が建てた儒学館であるがここは次の「竹聲」の枕。「竹聲」は竹園で皇族のこと(漢の文帝の子の梁の孝王が庭園に竹を多く植えたという故事による)。多くの皇族たちが各所に移されて、そこで悲痛な日々を送ったことを指す。

★「錦帳玉璫の床」錦のとばりと玉の飾りを垂らした貴族の館。

★「麗水蜀川の貢」「麗水」は荊南地方(現在の湖北省)の金の産地。「蜀川」は揚子江上流の一部で蜀(現在の四川省の成都付近)を流れる川。この一帯は錦の産地であった。諸国から貴族へ捧げられた貢ぎ物。

★「袖を収めし」襟を正して仕えた。

★「刹利」刹帝利。王族。原義は所謂、インドのバルナ(四種姓)でバラモンに次ぐ第二位の身分とされる王族(本来は武士も含む)であるクシャトリヤのこと。

★「首陀」首陀羅。最下位の賤民。原義は所謂、バルナの第三身分である隷属民シュードラのこと。

★「心を一騎の客にかく」捕縛した宗行一人に厳重なる監視の眼を向ける。

★「魂を寸神の胸に消す」その護衛の持つ剣が時に抜かれる時の一閃には生きた心地がしなかったことをいうのであろう。次の引用の「魂は生きてよりさこそは消えにけめ」も同じである。

★「するすみならぬ袖の上もあらはれぬべく覺ゆれ」底本の玉井幸助氏の注に『「するすみ」は身に一物の貯のないことをいふ。これを墨染の袖にかけ、墨が洗はれることの意につづけたので、涙に袖をしぼるここちがしたの意』とある。

★「心あらばさぞなあはれとみづくきのあとかきわくる宿の旅人」……心あるひとならば、さぞや哀れと感じずにはおられぬ……この悲劇の雲客の漢詩の筆の跡、その数奇なる運命を訪ね偲ぶ宿の旅人は……

   *

 以上は底本の「一〇 池田より菊川」の後半部。以下は「一三 蒲原より木瀨川」の末尾。

   *

 木瀨川の宿に泊りて萱屋の下に休す。ある家の柱に、またかの納言(宗行卿の御事なり)和歌一首をよみて一筆の跡をとどめられたり。

   今日すぐる身を浮島が原に來て

        つひの道をぞきき定めつる

 これを見る人、心あればみな袖をうるほす。それ北州の千年は限を知りて壽を歎く。南州の不定は期(ご)を知らずして壽を樂しむ。まことに今日ばかりと思ひけむ心の中を推(すゐ)すべし。おほかたは昔語りにだにも哀れなる涙をのごふ。いかにいはんや我も人も見し世の夢なれば驚かすにつきて哀れにこそ覺ゆれ。さても峯の梢を拂ひし嵐の響に、思はぬ谷の下草まで吹きしぼれて、數ならぬ露の身も置き所なくなりてしより、かくさまよひて命を惜みて失せにし人の言葉を、生けるを厭ふ身は、今までありてよそに見るこそあはれなれ。さてもこの歌の心を尋ぬれば、納言、浮島が原を過ぐるとて、物を肩にかけて上る者あひたりけり。問へば按察使(あぜち)光親卿の僮僕、主君の遺骨を拾ひて都に歸ると泣く泣くいひけり。それを見るは身の上の事なれば、魂は生きてよりさこそは消えにけめ。もとより遁るまじと知りながら、おのづから虎の口より出でて龜の毛の命もや得ると、なほ待たれけん心に、命はつひにと聞き定めて、げに浮島が原より我にもあらず馬の行くにまかせてこの宿に落ちつきぬ。今日ばかりの命、枕の下のきりぎりすと共に泣きあかして、かく書きとどめて出でられけんこそ、あはれを殘すのみに非ず、亡きあとまで心も深く見ゆれ。

   さぞなげに命もをしの劔羽(つるぎは)に

        かかる別れを浮島が原

★「萱屋」は「かやや」と読む。

★「北州」玉井氏の注によれば、古代インドの神話上の仮想国で、この国に住む人は千年の寿命を持つとされる(対する生死不定我々の世界が南州)。長寿であるが故に北州の人はその千年の寿の限りあることを歎く、対する我々は老少不定なればこそ『うかうかと樂しんであるが、宗行卿は』この時、まさに確かに『最期と知って、如何に悲しく思われたであろう』、その悲しみの核心は凡夫の我々には分からぬといった意味である。

★「いかにいはんや我も人も見し世の夢なれば驚かすにつきて哀れにこそ覺ゆれ」承久の乱の一年後の嘱目なれば、強烈なリアリズムが感じられる感懐である。以下に続く、宗行のその気持ちを真には理解出来ない、しかし内心忸怩たる思いで一杯だという深い自己洞察に基づく述懐は非常に重い。

★「按察使光親卿の僮僕……」既に注でも示し、最後に掲げる「吾妻鏡」でも分かるように、葉室光親はこの前日に甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)で梟首となった。

★「龜の毛」極めて珍しいものの譬え。

★「さぞなげに命もをしの劔羽にかかる別れを浮島が原」「さぞな」は「さぞ」の感動表現。……さぞや、かくもまっこと、命を惜しく思われたことであろうよ、宗行卿は……剣の刃にかかって、かくも無惨なる別れをお遂げになられた、この憂いに満ちた浮島ヶ原にて……

 

以下、「承久記」の続きに戻る。

 

 又、接察卿ハ、武田五郎信光相具奉リテ下ケルガ、富士ノスソ、加胡坂ト云所ニヲロシ奉リ、鎌倉ヨリノ狀ニ任セテ、「最後ノ御事、只今候」ト申ケレバ、兼テヨリ思儲ラレケレ共、時ニ臨デハ流石今生ノ名殘、只今計ト思ケレバ、イカ計心細クモ被ㇾ思ケン、「出家セバヤ」トアレバ、「子細有間敷候」トテ、僧一人尋出テソリ落シ奉ル。其後時程暇乞、年比信ジ給ヘル法華經一部取出シ、一部迄ハ遲カリナントテ、一ノ卷ヲヒラキ、一見シ渡シテ後、一向稱名ニ住シ候ハヾ他念モ無ケリ。太刀取ハ武田五郎郎等ニ内藤也。居給所、山ノソワニテ片サガリナルニ、知識ノ僧ノ衣ヲ脱デ著セ奉ル。數多ノ僧共、首ノ後ロニ立ヲホヒ、座敷モカタサガリニ物打所ワロク見へケレバ、太刀取後ロニ近付テ、「角テハ御宮ヅカヒ、惡ク候ヌ」ト申ケレバ、念佛ヲ留メ見返テ、「汝思へカシ、幼少ヨリ君ニ仕へ、死罪・流罪ヲモ多奉行セシゾカシ。サレ共今カヽルベシトハ、爭デカ兼テ辨フベキ。サレバ存知ノ旨ニ任セテ申」ト有ケレバ、太刀取モ目昏テ覺ケレ共、「トコソ能候へ」ト申ケレバ、其言葉ニ隨テ、ソウガウヲモ押除、膝ヲ立直シ首ヲ延、念佛ノ聲不ㇾ怠、殊勝ニ被ㇾ切給ヒニケリ。見人感嘆カヌ者無ケリ。

●「角テハ御宮ヅカヒ、惡ク候ヌ」この状態ではうまく首を落とせないかも知れないことを、婉曲に「宮仕ひ」と称したのであろう。

 

 佐佐木野前中納言ハ、小笠原次郎具奉リテ、甲斐國板垣庄ノ内、古瀨村ト云所ニテ切ントス。中納言、「二位殿へ申旨有。其使、今日歸候ハンズ覽。暫ク待ルべウモヤ候哉覽」ト宣ケレ共、「只切レ」トテ被ㇾ切ニケリ。其後半時計有テ、「助奉レ」ト云フ左右有シカ共、力不ㇾ及。定業ト乍ㇾ云、無レ情ゾ覺へシ。

●「佐佐木野前中納言」源有雅安元源有雅(安元二(一一七六)年~承元三(一二二一)年。ウィキの「源有雅」によれば、『有雅は後鳥羽上皇の寵臣、藤原範光の娘であり、順徳天皇の乳母であった憲子を妻に迎えたことから上皇の近臣となっており、その縁から上皇側の将として宇治にて戦うが敗退。出家して恭順の意を示すが鎌倉に送られる。甲斐国の武将・小笠原長清の預かりとなり、護送の途中で甲斐国に下着。ここで有雅は長清に、少しの縁故があり、二品禅尼(北条政子)に助命を懇願するのでしばらく死刑の執行を待ってほしい、と長清に願い出るが受け入れられず』、七月二十九日『に同国稲積庄小瀬にて斬られた』。『政子はこの有雅の懇願を受け入れ、斬首後しばらくして死刑を免除するべきとのの手紙が届いたという』(最後に示す「吾妻鏡」も参照されたい)。『有雅の処刑された小瀬(現在の山梨県甲府市小瀬町)に残る富士塚は有雅の霊を祀るものだとい』、また、明治一〇(一八七七年)に『高杉太一郎らが新橋村(現静岡県御殿場市新橋)に創建した藍澤神社は、有雅と、同じく承久の乱で処刑された葉室宗行・藤原光親・藤原範茂・一条信能ら五卿を祀っている』とある。

●「小笠原次郎」小笠原長清。

 

 一條宰相中將ハ、遠山左衞門尉景村具足シ、美濃國遠山へ下リテ切奉ラントス。此宰相中將、元來、西方ニ心ヲ懸クル人ニテ御座ケレバ、都ヲ出シ日ヨリ、殊ニ念佛不ㇾ怠。付奉ル靑侍モ、猶猶稱名ヲ進奉ル。中ニモ此文ヲ誦シキカス。

  種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念

  三念五念佛來迎 乃至一念無疑心

心得タル體ニテ、三度誦シテ念佛不ㇾ怠、今ハノ時ニ臨テ、紫雲タナビキ、異香薰ジ、音樂空ニ奏スト人々モ聞ケル程ニ被ㇾ切給フ。諸人感涙難ㇾ押、有ㇾ心モ無ㇾ心モ袖ヲシボラヌハ無ケリ。

●「一條宰相中將」一条信能(建久元(一一九〇)年~承久三年七月五日(一二二一年七月二十五日))。実朝暗殺後は一時、親幕派とも見做されたが、後に後鳥羽上皇の側近に復帰し、承久の乱では首謀者の一人となった。ウィキの「一条信能」によれば、『鎌倉へと護送される途中、遠山景朝の手によって美濃国岩村において処刑された』。『現在、岐阜県恵那市岩村町には『一条信能終焉の地』の史跡があり、また同地にある岩村神社は、信能の霊を弔うために建てられた祠を発祥とすると言われている』とある。

●「種々法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來迎 乃至一念無疑心」「種々の法門、皆、解脱すれども、念佛して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を盡くし十念に至り、三念・五念まで佛來迎したまふ。乃至(ないし)の一念、無疑心なり。」は七祖善導の「法事讃」「礼讃」に基づく偈。

 

 甲斐宰相中將ヲバ式部丞朝時相具シテ下ケルニ、「五體不具ノ者ハ往生ニサハリアンナリ。自水セバヤ」ト宣ケレバ、「何レニテモ御計ヒニテ」ト申テ、足柄山越テ關ノモトノ宿ニ至ヌ。彼宿ノ後ロノ面ニ、細谷河流タリ。名ヲ晴河ト云。深淵ヲ尋ケレ共、山河ノ習淺ケレバ、居長ノ程アラバヨカリナントテ、石ヲ聚メテ堤ヲ築、流ル一水ヲセキ懸ケレバ、無ㇾ程淵ヲナス。「サテ出家セバヤ」ト宣ケレバ、「安候」トテ、宿ヨリ僧二人尋出ス。丹後坊・式部坊トゾ云ケル。丹後、髮ヲソリ、式部、戒ヲ授ク。籠ヲクミ石ヲ疊ミテ、其上ニスへ奉リ、左右ノ膝ヲアミ付テ、沈奉ラントス。觀念佛ヲ留メテ、泣々角ゾ被ㇾ詠ケル。

  思ヒキヤ苔ノ下水セキ留テ月ナラヌ身ノ宿ルべシトハ

トテ入給ヌ。夕日ニ過テ、念佛スルカト口ノハタラキテ見へシ。「ウン」ト云テ、築タル堤ヲ蹈破テ淺所ニ至給へバ、左右ノ足アミ付タル差繩キレタリ。大息ツキテ、「エシナヌゾ」ト宣へバ、又堤ヲ築直、此度ハ指繩二スヂニテ膝ヲ結付テ、又暫ク念佛シテ、七八人頭ヲ押へテ終ラセ奉ル。

 サテモ六人ノ公卿ノ跡ノ嘆共、申モ中々疎也。身ヲ萬里ノ外ニヤドシ、詞千年ノ間傳へズ共、同世ニ栖ナラバ、見ルヨシモナドカ無ラン。冥途如何ナル境ゾヤ、使モ通ズル事不ㇾ叶。黄泉如何ナル旅ナレバ、歸ル事ヲ不ㇾ得覽。ホノカニ殘ル者トテハ、主ヲ放レシ面影、見テモ彌悲キハ、スサミシ筆ノ跡計也。

●改行部はママ。章段しての番号はないので続けた。

●藤原範茂(のりもち/のりしげ 文治元(一一八五)年~承久三年六月十八日(一二二一年七月九日))。ウィキの「藤原範茂」によれば、『後鳥羽天皇の寵臣として仕え、後鳥羽天皇と姉・重子(修明門院)の子である順徳天皇の近臣でもあった』。『承久の乱では倒幕の密議に深く関与し、自ら宇治川の戦いに出陣した。上皇方が敗北したのち、六波羅に拘禁され、乱の首謀者として斬罪が定められた。都での処刑を避けるため、北条朝時に東国へ護送される道中で、足柄山の麓の早川の底に沈められて処刑された。これは、範茂が五体不具では往生に障りがあるため、自ら入水を希望したという。子の範継は北条泰時の意向により、助命されている』。『南足柄市怒田に、室町時代前期の作で範茂の墓と伝えられる宝篋印塔があり、範茂史跡公園となっている』とある「神奈川県」公式サイトの「あしがらの里観光情報」の「藤原範茂卿の墓[範茂史跡公園](南足柄市)」にはしかし、『範茂は部下と一緒に鎌倉へ送られ取調べのあと処刑されるはずでした。京都から幾日もかかって足柄峠を越え関本に着き、あと』一日で『鎌倉へ着くという日、範茂を連れて来る役目の北条朝時から鎌倉へ行けばどうせ殺される身だからここで自殺したのが武士として立派だと諭され、範茂はそばを流れる清川へ身を投げ自殺しました』(本文の「晴川」。「南足柄市」公式サイトの範茂史跡公園には、現在の南足柄市怒田(ぬだ)を流れる『今の貝沢川といわれている』とあるが、何と、こちらでは本文通りの入水の顛末が語られている。県と市のこの違い、何だか面白い)。『堂内にある兜抜毘沙門天は北方守護、北方鎮護の神様として平安時代から民衆の信仰が厚く、そのため都と東国を分ける足柄峠を越えたこの地に建立されました』。『亡骸は丁重に弔われ、近くの丘陵地に埋葬されました。そこに建てられた宝篋印塔が範茂の墓と言われています』とある。

●「思ヒキヤ苔ノ下水セキ留テ月ナラヌ身ノ宿ルべシトハ」……ああ、思いもしなかったことよ……苔の下を流るる川水を堰き止めて……水に映す月でもない我が身を宿すことになろうとは……。さて……それにしても「承久記」の伝えるこの死に様(なかなか堰き止めた水が水没するに至らずに再度無理矢理に顔を水没させてこと切れている)や辞世……これ、なかなかに悲惨悲傷と私には思われるのだが。如何?

 

 最後に「吾妻鏡」を引く。六月の後半は、論功行賞の交名や捕縛記事なので略し、本「雲客死刑」関連の承久三 (一二二一) 年七月五日の記事からとする。

 

五日丁亥。小雨降。一條宰相中將信能相具于遠山左衞門尉景朝。下著美濃國。即於當國遠山庄刎首云々。凡今度張本至卿相以上。皆於洛中可處斬罪之趣。雖有關東命。今城外儀可宜之由。武州計云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日丁亥。小雨、降る。一條宰相中將信能、遠山左衞門尉景朝に相具し、美濃國へ下著す。即ち、當國遠山庄にて首を刎(は)ぬと云々。

凡そ今度の張本、卿相以上に至りては、皆、洛中に於て斬罪に處すべきの趣き、關東の命有ると雖も、今、城外の儀、宜しかるべきの由、武州の計りと云々。

●京の人々の心理的衝撃を慮っての名将泰時の配慮であろう。

 

六日戊子。上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔實氏〕。左宰相中將〔信成〕。左衞門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閉扉。離宮芝砌。以兵爲墻。君臣共後悔斷腸者歟。

○やぶちゃんの書き下し文

六日戊子。上皇、四辻の仙洞より、鳥羽殿へ遷幸せらる。大宮中納言〔實氏。〕、左宰相中將〔信成。〕、左衞門少尉〔能茂〕以上の三人、各々騎馬にて御車の後に供奉す。洛中の蓬戸(ほうこ)、主を失ひ扉を閉ぢ、離宮の芝の砌り、兵を以つて墻(かき)と爲す。君臣共に後悔、腸を斷つ者か。

●「蓬戸」草を編んで作った戸の意で粗末で貧しい家であるが、ここは戦乱によって焼きこぼたれた庶民の家々の謂いであろう。

 

八日庚寅。持明院入道親王〔守貞〕可有御治世云々。又止攝政〔道家〕。前關白〔家實〕被蒙攝政詔云々。今日。上皇御落飾。御戒師御室。〔道助〕先之。召信實朝臣。被摸御影。七條院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。

○やぶちゃんの書き下し文

八日庚寅。持明院入道親王〔守貞。〕御治世有るべきと云々。

又、攝政〔道家。〕を止め、前關白〔家實。〕攝政の詔りを蒙むらると云々。

今日、上皇御落飾。御戒師は御室(おむろ)〔道助(だうじよ)。〕。之に先んじ、信實朝臣を召し、御影を摸(うつ)さる。

七條院警固の勇士を誘へて御幸す。御面謁有りと雖も、只、悲涙を抑へて還御と云々。

●「持明院入道親王守貞」後堀河天皇。幕府による裁定。

●「道家」九条道家。彼は討幕計画には加わっていなかったが、形の上で摂政を罷免されたものの、後に三男の頼経が鎌倉幕府第四代征夷大将軍となり、朝廷の最大権力者として君臨する。しかし後の宮騒動で頼経が執権北条時頼によって将軍職を廃されて失脚することとなる。

●「家實」近衛家実。ウィキの「近衛家実」によれば、就任後は『鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定すべく復古的・消極的な政治を敷き、訴訟では公卿の議定を復活させ、財政難には成功で対処しようとするも、綱紀は弛緩するばかりで』、安貞二(一二二八)年十二月には西園寺公経(道長岳父)と『組んだ道家の工作により、関白を辞任させられる。以後、近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化し』てしまうことになる。

●「御室〔道助。〕」道助入道親王(建久七(一一九六)年~宝治三(一二四九)年)は後鳥羽天皇の第二皇子で俗名は長仁(ながひと)。法親王。真言宗仁和寺で出家。仁和寺門跡。光台院御室と称された。藤原定家に和歌を学ぶ(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

●「七条院」上皇の母の坊門殖子(しょくし/たねこ)。当時、六十四歳。

 

九日辛夘。今日踐祚也。先帝於高陽院皇居遜位。密々行幸九條院。戌尅。新帝〔持明院二宮。春秋十歳。〕自持明院殿。被還御閑院。〔御輦車。〕其間自持明院。迄至于禁裏。軍兵警衛路次云々

○やぶちゃんの書き下し文

九日辛夘。今日踐祚(せんそ)なり。先帝、高陽院皇居に於て位を遜(ゆづ)り、密々に九條院へ行幸す。戌の尅、新帝〔持明院の二宮。春秋十歳。〕持明院殿より、御閑院〔御輦車。〕へ還御せらる。其の間、持明院より、禁裏に至る迄、軍兵、路次(ろし)を警衛すと云々。

●「先帝」仲恭天皇。当時満三歳。ウィキの「仲恭天皇」によれば、承久の乱の後、わずか七十八日間で廃され、『即位も認められていなかったため諡号・追号がつけられず、九条廃帝(くじょうはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。ちなみに、歴代の天皇の中で、在位期間が最短な天皇である』とある。この幕府による裁定は仲恭天皇が未だ『幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府を非難して仲恭復位を願う願文を納めている』とある。『まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に渡御』したが、天福二(一二三四)年に満十六歳の若さで亡くなっている。

 

十日壬辰。中御門入道前中納言宗行相伴小山新左衞門尉朝長下向。今日。宿于遠江國菊河驛。終夜不能眠。獨向閑窓。讀誦法花經。又有書付旅店之柱事。

  昔南陽縣菊水。汲下流而延齡。今東海道菊河。宿西岸而失命。

○やぶちゃんの書き下し文

十日壬辰。中御門入道前中納言宗行、小山新左衞門尉朝長に相ひ伴ひ、下向す。今日、遠江國菊河驛に宿す。終夜、眠るに能はず。獨り閑窓に向ひて、法花經を讀誦す。又、旅店の柱に書き付くる事有り。

  昔 南陽縣の菊水 下流を汲みて齡ひを延ぶ

  今 東海道の菊河 西岸に宿りて命を失ふ

 

十一日癸巳。相州以下被行勸賞。是參院中。順逆德輩所領也。今日。山城守廣綱子息小童〔號勢多伽丸〕自仁和寺。召出六波羅。是御室〔道助〕御寵童也。仍被副芝築地上座。眞昭被申武州云。於廣綱重科者。雖不能左右。此童爲門弟。久相馴之間。殊以不便。十餘才單孤無賴者。可有何惡行哉。可預置歟之由云々。其母又周章之餘。行向六波羅。武州相逢御使云。依奉優嚴命。暫所宥也。又云。顏色之花麗。與悲母愁緒。共以堪憐愍云々。仍皈參之處。勢多伽叔父佐々木四郎右衞門尉信綱依令鬱訴之。更召返。賜信綱之間梟首云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十一日癸巳。相州以下、勸賞(けんじやう)を行はる。是れ、院中に參じ、逆德に順ふ輩の所領なり。今日、山城守廣綱が子息小童〔勢多伽丸(せいたかまる)と號す。〕仁和寺より、六波羅へ召し出す。是れ、御室〔道助。〕が御寵童なり。仍つて芝築地の上座眞昭を副へらる。武州に申さえて云はく、

「廣綱に於ては重科の者、左右(さう)に能はずと雖も、此の童門、弟と爲し、久しく相ひ馴るるの間、殊に以つて不便(ふびん)。十餘才の單孤、賴みなき者、何の惡行有るべけんや。預り置くべきか。」

の由と云々。

其の母、又、周章の餘りに、六波羅へ行き向ふ。武州、御使に相ひ逢うて云はく、

「嚴命を優(いう)じ奉るに依つて、暫く宥(なだ)める所なり。」

又、云はく、

「顏色の花麗と、悲母の愁緒(しうしよ)と、共に以つて憐愍(れんびん)に堪へず。」

と云々。

仍つて皈(かへ)り參るの處、勢多伽が叔父佐々木四郎右衞門尉信綱、之を鬱訴せしむるに依つて、更に召し返して、信綱に賜ふの間、梟首すと云々。

 

十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家。法名西親。〕者。爲武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河國車返邊。依觸可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成兢々戰々思。頻奉匡君於正慮之處。諫議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諫而隨之謂歟。其諷諫申狀數十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔惱丹府云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家す。法名は西親〕は、武田五郎信光が預りと爲(し)て下向す。而るに鎌倉の使、駿河國車返(くるまがへし)の邊に相ひ逢うて、誅すべきの由、觸れるに依つて、加古坂(かこざか)に於いて梟首し訖んぬ。時に年四十六と云々。

此の卿、無雙の寵臣たり。又、家門の貫首(かんじゆ)、宏才優長なり。今度の次第、殊に兢々戰々の思ひを成す。頻に君を正慮に匡(ただ)し奉らんとする處、諫議の趣き、頗る叡慮に背くの間、進退(しんだい)惟(こ)れ谷(きは)まれりと雖も、追討の宣旨を書き下す。忠臣の法、諫めて隨ふの謂(い)ひか。其の諷諫の申狀數十通、仙洞に殘留す。後日披露するの時、武州の後悔、丹府を惱すと云々。

●「車返」車返宿。沼津宿の古形の一つ。現在の静岡県沼津市三枚橋附近で、往古は車ここより先は荷車は通れなかったことに由来するという。

 

十三日乙未。上皇自鳥羽行宮遷御隱岐國。甲冑勇士圍御輿前後。御共。女房兩三輩。内藏頭淸範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施藥院使長成入道。左衞門尉能茂入道等。追令參上云々。」今日。入道中納言宗行過駿河國浮嶋原。荷負疋夫一人。泣相逢于途中。黄門問之。按察卿僮僕也。昨日梟首之間。拾主君遺骨。皈洛之由答。浮生之悲非他上。彌消魂。不可遁死罪事者。兼以雖插存中。若出於虎口。有龜毛命乎之由。猶殆恃之處。同過人已定訖之間。只如亡。察其意。尤可憐事也。休息黄瀨河宿之程。依有筆硯之次註付傍。

 今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル

於菊河驛書佳句。留萬代之口遊。至黄瀨河詠和歌。慰一旦之愁緒云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日乙未。上皇、鳥羽行宮より隱岐國へ遷御す。甲冑の勇士、御輿の前後を圍む。御共は、女房兩三輩、内藏頭淸範入道なり。但し、彼の入道、路次より俄かに召返さるるの間、 施藥院使長成入道、左衞門尉能茂入道等、追つて參上せしむと云々。

今日、入道中納言宗行、駿河國浮嶋原を過ぎ、荷負ふ疋夫一人、泣く泣く途中に相ひ逢ふ。黄門、之を問ふに、按察卿が僮僕なり。昨日、梟首の間、主君の遺骨を拾ひ、皈洛するの由、答ふ。浮生(ふせい)の悲しみ、他の上に非ず。彌々(いよいよ)魂を消す。死罪を遁(のが)るべからざる事は、兼ねて以つて存中を插(さしはさ)むと雖も、若し、虎口を出でなば、龜毛(きもう)の命有るかの由、猶ほ殆んど恃(たの)むの處、同じき過人(とがびと)、已に定まり訖んぬるの間、只、亡(ぼう)ずるがごとし。其の意を察するに、尤も憐むべき事なり。黄瀨河の宿に休息するの程、筆・硯の次(つい)で有るに依つて、傍らに註(しる)し付く。

  今日すぐる身を浮嶋の原にてもつひの道をば聞きさだめつる

菊河の驛に於いて佳句を書きて、萬代の口遊(くちずさみ)を留め、黄瀨河に至りて、和歌を詠じ、一旦の愁緒を慰むと云々。

●「黄門」中納言の唐名で葉室宗行のこと。

●「按察卿」葉室光親。

●「つひの道」正しい歴史的仮名遣に訂して示した。

 

十四日丙申。於藍澤原。黄門宗行遂以不遁白刄之所侵云々。年四十七。至最期之刻。念誦讀經更不怠云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十四日丙申。藍澤(あゐざは)原に於いて、黄門宗行、遂に以つて白刄の侵す所を遁れずと云々。

年四十七。最期の刻に至り、念誦讀經、更に怠らずと云々。

 

十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。爲式部丞朝時之預。於足柄山之麓。沈于早河底。是五體不具者。可爲最後生障碍。可入水由依所望也。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日庚子。甲斐宰相中將範茂。式部丞朝時の預りとして、足柄山の麓に於いて、早河の底に沈む。是れ、

「五體不具は、最も後生(ごしやう)の障碍(しやうげ)たるべし。水に入るべし。」

の由、所望に依つてなり。

●「甲斐宰相中將範茂」藤原範茂。

●「爲式部丞朝時」北条朝時。

 

●以下、順徳院・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王の遷座記事が続くが、二十七日の後鳥羽院出雲大浜湊到着の記事の中にある和歌のみ読み易く書き直して示しておく。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を風よりさきにいかでとはまし

  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥嶋々(しまじま)しぼる袖のけしきを

●「たらちめの」は「垂乳女の」で「たらちねの」に同じい。前者は、

……消えてしまいそうな儚い身の母上が消え去ることなくひたすら待って下さっている――その母上を、無常の風が吹き散らしてしまう前に、なんとしもお訪ねしたいものです……

という意で悪くない(後鳥羽院は人格的に問題があるが、確かに和歌は上手いと和歌嫌いの私でも思う。私は実際に隠岐に行ってみて、歌人としての彼には個人的に好意を抱くようになったのである)。後者は「嶋々」を「泣く泣く」ともする。

……知っているのだろうか――この私が深い悲しみに沈んでいるこの船路の果てに辿り着いた、この淋しい浦の無心の小鳥たちよ――散れる遠き島々で泣く泣く袖を絞っては眺める、この淋しい景色を……

●続いて源有雅の誅殺の記事で七月小は終わる。

 

廿九日壬子。入道二位兵衞督。〔有雅。去月出家。年四十六。〕爲小笠原次郎長淸之預。下著甲斐國。而依有聊因緣。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長淸不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書狀到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

○やぶちゃんの書き下し文

廿九日壬子。入道二位兵衞督〔有雅。去ぬる月、出家す。年四十六。〕小笠原次郎長淸が預りとして、甲斐國に下著す。而るに聊さか因緣有るに依つて、露命を救けらるべきの由、二品禪尼に申すの間、暫く死罪を抑へ、彼の左右(さう)を相待つべきの由、懇望せしむと雖も、長淸、許容に及ばず、當國稻積庄小瀨村に於いて誅せしめ畢んぬ。須臾(しゆゆ)にして刑罰を宥(なだ)むべきの旨、二品の書狀到來すと云々。

楚忽(そこつ)の體爲(ていたらく)、定めて亡魂の恨み有る者か。

●「壬子」干支誤り。辛亥。

●ここまで来ると印象はもう余談の体(てい)となるが、八月の一日と二日を引いて終わりとする。

 

一日壬子。坊門大納言〔忠信。〕自遠江國舞澤皈京。是依爲今度合戰大將軍。千葉介胤綱預之下向。而妹西八條禪尼者。右府將軍後室也。就彼舊好申二品禪尼之間。所宥也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日壬子。坊門大納言〔忠信。〕、遠江國舞澤より皈京す。是れ、今度の合戰の大將軍たるに依つて、千葉介胤綱、之を預り、下向す。而るに妹西八條禪尼は、右府將軍が後室なり。彼の舊好に就き、二品禪尼、申すの間、宥むる所也と云々。

●「右府將軍」源実朝。

 

二日癸丑。大監物光行者。淸久五郎行盛相具之下向。今日巳剋。着金洗澤。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴關東數箇所恩澤。參院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在關東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重屬申伊豫中將。羽林傳達之。仍不可誅之旨。與書狀。親行帶之馳向金洗澤。救父命訖。自淸久之手。召渡小山左衞門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀與平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許。〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。」及黄昏。陸奥六郎有時以下上洛人々多以下著云々。

○やぶちゃんの書き下し文

二日癸丑。大監物光行は、淸久五郎行盛、之を相具し、下向す。今日、巳の剋、金洗澤(かねあらひざは)に着く。先づ以つて子息太郎、案内を右京兆に通ず。早く其の所に於いて、誅戮すべきの旨、其の命有り。是れ、關東の數箇所を恩澤に浴し乍ら、院中に參り、東士の交名を注進し、宣旨の副文を書く。罪科、他に異なるの故なり。時に光行が嫡男源民部大夫親行、本より關東に在りて功を積む。此の事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由、泣く泣く愁へ申すと雖も、許容無し。重ねて伊豫中將に屬し申す。羽林、之を傳達す。仍つて誅すべからずの旨、書狀を與ふ。親行、之を帶して金洗澤へ馳せ向ひ、父の命を救い訖んぬ。淸久が手より、小山左衞門尉方へ召し渡す。光行、往年の慈父〔豊前守光秀平家に與し、右幕下、之れを咎む。光行、下向して愁訴せしめ、仍つて免許す。〕の恩德を報ずるに依つて、今日孝子の扶持に逢ふなり。黄昏に及び、陸奥六郎有時以下、上洛の人々、多く以つて下著すと云々。

●「大監物光行」源光行(長寛元(一一六三)年~寛元二(一二四四)年)。既注。没年を見て分かる通り、彼は正しく助命された。

●「金洗澤」七里ヶ浜の行合川の西。鎌倉の直近。なればこそ救い得た。

●「右京兆」北条義時。

●「親行」源実朝・藤原頼経・宗尊親王の三代に仕えて歴代の和歌奉行となった父譲りの学者肌であった。

●「伊豫中將」「羽林」後の伊賀氏の変で失脚、配流変死する公卿一条実雅。一条能保の子で、当時は藤原頼経の補佐役として鎌倉にあった。「羽林」は彼の職名近衛中将の唐名。

●「小山左衞門尉」小山朝政。

●最後の最後の従軍兵の帰鎌はまさに承久の乱のエンディング・シーンに相応しい。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅15 白河の関

本日二〇一四年六月 七日(陰暦では二〇一四年五月十日)

   元禄二年四月二十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 七日

である。【その二】先に述べた通り、遊行柳を「立ち去」った後、芭蕉は午後一杯をかけて関の明神を通って白坂から一つのランドマークである白河関所跡(三世紀半ばには廃絶していたと推定されている)に向かった(この日は旗宿に泊まっているが(午後八時頃着)、この旗宿自体が関跡と伝えられてもいた。実にこの日は踏破距離が三日目の間々田から鹿沼の距離と同じ約四十一キロメートルに及んだ特異日であった)。芭蕉はこの記念すべき奥州の入り口で何故か、句をものしていない。以下、「奥の細道」の白河の段を引く。

   *

心もとなき日數重るまゝに白河の

關にかゝりて旅心定りぬ

いかてみやこへと便もとめしも

斷りなり中にも此關は三關の

一にして風※の人こゝろをとゝむ

秋風を耳に殘しもみちを俤

にして靑葉の梢猶あはれ也

卯の花の白妙に茨の花の咲そひて

雪にもこゆるこゝちそする

古人冠をたゝし衣裝を改

し事なと淸輔の筆にもとゝめ

置れしとそ

              曽良

 卯の花をかさしに關の晴着(キ)哉

   *

[やぶちゃん注:

■字注

「※」=「馬」+(「燥」-「火」)。

■やぶちゃんの呟き

 この白河関跡への奇妙な行程については、前の遊行柳の段の私の注を参照されたい。

「心もとなき日數重(かさぬ)るまゝに白河の關にかゝりて旅心定りぬ」「日數」を詠み込んだ白河関の古歌には、

 都いでし日數は冬になりにけりしぐれてさむき白河の關(藤原秀茂「続古今和歌集」九〇三)

 白河の關までゆかぬ東路も日數へぬれば秋かぜぞ吹く(津守国助「続拾遺和歌集」六七三)

 かぎりあればけふ白河の關こえて行けば行かるる日數をぞしる(源兼氏「続後拾遺和歌集」五九七)

がある(和歌の表記は安東次男「古典を読む おくのほそ道」の注を参考にした)。

「いかでみやこへと便りもとめし」は、

 たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の關は越えぬと(平兼盛 「拾遺和歌集」三三九)

を指す。

「三關」ここ磐城(いわき)の白河(現在の福島県白河市旗宿一帯に比定)、常陸(ひたち)の勿来(なこそ)(所在地不詳で実在を疑う向きもある。概ね現在の福島県いわき市に比定し、吉田松陰は「東北遊日記抄」で現在のいわき市勿来町関田字関山付近を比定しているが、ウィキ「勿来関」によれば、実はここに「勿来」の地名が古来からあったわけではないと否定的である)、羽前(うぜん)の鼠(ねず)が関(現在の山形県鶴岡市大字鼠ヶ関)の奥羽三関。

「風※」「※」=「馬」+(「燥」-「火」)であるが不詳。「風騷」の誤字か。「風騷」は「風」が「詩経」の「国風」を、「騒」が「楚辞」の「離騒」を指し、ともに詩文の模範とされたことから詩歌をつくること及び自然や詩歌に親しむ風流の謂いとなった。

「秋風を耳に殘し」「後拾遺和歌集」の能因法師の五一七番歌、

    陸奥國(みちのくに)にまかり下りけ

    るに、白河の關にてよみ侍りける

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關

を踏まえる。能因の初めての陸奥行脚の作とするが、下向の事実を疑い、また虚構とする古注も多い。

「もみぢを俤にして靑葉の梢猶あはれ也」「千載和歌集」の源頼政の三六五番歌、

    嘉應二年法住寺殿の殿上歌合に、關路

    落葉といへる心をよみ侍りける

 都にはまだ靑葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の關

を踏まえる。「嘉應二年」は西暦一一七〇年。「靑葉の梢」は容易に本作で先行する日光の段の「あらたふと靑葉若葉の日の光」を想起させる。安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」の注で、日光の句が『四月一日(五月十九日)相当、この段の「青葉の梢猶あはれ」が四月二十一日(六月八日)相当。ひとしお秋風の興ある関を、夏に越すなら、頼政の歌を杖にたのもうという思付がうまい』と述べておられる。言い得て妙とはこのことをいう。こういう注こそが価値ある達意の注である。

「卯の花の白妙に」は、「千載和歌集」の藤原季通の一四二番歌、

    白河院鳥羽殿におはしましける時、を

    のこども歌合し侍りけるに、卯花をよ

    める

 みてすぐる人しなければ卯のはなのさけるかきねや白河の關

や、「夫木和歌抄」の定家の二〇四四番歌、

 夕づく夜入りぬる影もとまりけり卯の花咲ける白河の關

などを踏まえるものと思われる。

「茨の花の咲きそひて」安東次男氏によれば、「茨」を読み合わせた作例は見当たらないとあり、そこが芭蕉の眼目であった。新潮古典集成の「芭蕉文集」で校注者富山奏氏はこの超弩級の歌枕である白河の関越えに際し、芭蕉の『叙述には古歌が氾濫』、まさに『古来の風雅に』芭蕉は『陶酔しているが、そうした中で「いばらの花」は「青葉のこずゑ」と共に非和歌的眼前の実景で、伝統的風雅に根ざしつつ斬新な詩境開拓へと意欲する彼の姿勢が見られる』と述べておられる。

「雪にもこゆるこゝちぞする」安東氏は、「夫木和歌抄」の久我通光の五九八番歌、

 白河の關の秋とは聞きしかど初雪分くる山のべの道

及び、「続後拾遺和歌集」の大江貞重の四九二番歌、

 別れにし都の秋の日數さへつもれは雪の白河の關

を挙げつつ、『「(雪にも)こゆる」は、越えてゆきと解するのが尋常だろうが』[やぶちゃん補注:雪の中を越えてゆくのより、「靑葉の梢」「卯の花の白妙に茨の花の咲そひ」た中を越えてゆく方が。]、『勝るという情の含みがあるようだ』と述べておられ、まことに共感するものである。

「古人冠をたゞし衣裝を改し事など、淸輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)は、平安末の公家・歌人で平安時代の歌学の大成者として知られる。ここは彼の代表的な歌学書である「袋草紙」の上巻に載る以下の記事を指す(底本は岩波新古典文学大系版を用いたが、恣意的に正字化し一部の記号を変更した)。

 

 竹田大夫國行と云ふ者、陸奧に下向の時、白河の關過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白河の關』とよまれたる所をば、いかでかけなりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。

 

●「竹田大夫國行」藤原国行(生没年未詳)。従五位下。諸陵頭(陵墓管理の諸陵寮に長官)。「後拾遺和歌集」以下に六首入集されている。この話は「俊頼髄脳」にも載る。「愚秘抄」(伝定家撰とする歌学書)ではそれより前の受領歌人橘為仲とする。

●「みづびんかく」「水鬢搔く」で、急場の身だしなみのために鬢の毛を水で撫でつけて整えることを指す。

●「古曾部入道」能因法師。高槻の古曽部(現在の大阪府高槻市古曽部町)に住居を構えて、かく称した。

●「けなり」「褻形」である。普段着。「晴れ」と「褻(け)」の「け」である。

 

「卯の花」バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ Deutzia crenata 。和名は「空木」で茎が中空であることに由来する。「卯の花」の名は空木の花の意又は卯月(旧暦四月)に咲く花の意ともされる。個人サイト「木々@岸和田」の「ウツギ」に、出雲大社で火を熾す際に用いる「火燧杵(ひきりきね)」には、一部にこのウツギが用いられており、『邪気を払う力があるとされる』とあり、さらに『水田に水を入れる際に卯の花を飾るということもあったようである』ともある。後者はまさにこの田植えの時期にぴったり符合する。曾良は神道家でこうした伝承に詳しかったと思われ、また、もしかするとそうした習俗がこの地方には当時しっかりと残っていて、芭蕉や曾良はそれを嘱目したのかも知れない――と考えると、実に「奥の細道」の旅が初夏の爽やかさを伝えているように私には思われるのである。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅14 遊行柳 田一枚植ゑて立ち去る柳かな

本日二〇一四年六月 七日(陰暦では二〇一四年五月十日)

   元禄二年四月二十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 七日

である。【その一】この日の朝は霧雨が降っていたが、午前八時頃には晴れ、八時半には二泊した那須湯本を出立、蘆野(現在の栃木県那須町芦野)の西行所縁で、また謡曲ともなった「遊行柳」に、私の推定では恐らく昼過ぎには辿りついたものと思われる。

 

田一枚植(うゑ)て立(たち)去る柳かな

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。但し、この句は「曾良随行日記」や「俳諧書留」などにも載らず、安東次男によれば、芭蕉『生前の集にも見当たらない。後年の作かも知れぬ』(「古典を読む おくのほそ道」)とする。但し、角川文庫版頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈によれば、支考の『俳諧古今抄』(享保一五(一七三〇)年跋)にこの句についての詳しい記載があるとし、

   《引用開始》

なお、支考の『古今抄』によれば、芭蕉の当時の吟は、中七が「植ゑて立ちよる」であったという。それは奥の須賀川の人から、当時支考への文通中に伝えたところだというから、あるいは実際初案の形であったのかも知れぬ。そうして支考はかえってこの「立ちよる」の方をよしとし、諸注にもこれに対する論があるが、『説叢大全』に、「立ちよる」は最初の念、「立ち去る」は後の姿であって、その最初の念は本文に譲って「立ちよりはべりつれ」といったから、句は「立ち去る」とすべきだと説いているのは、再案に至るまでの過程をまことに巧みに説明したものということができよう。

   《引用終了》

と解説する。これから考えればやはり、今日にシンクロするアップ・トゥ・デイトな嘱目吟としてまず問題ない。取り敢えず、ここで初案形とされるものも、ここに掲げておくこととはする。

 

田一枚植て立寄る柳かな

 

しかし言っておくと、私には引用の素丸の「蕉翁発句説叢大全」(安永二(一七七三)年跋)も言っているように、とても「奥の細道」の前書(後掲)と合わせることが出来ず(直前とのダブりが如何にもである)、だいたいからしてこれでは句柄としても、安っぽく、何か妙に下卑て婀娜な掛け軸みたようで、全くの駄句にしか見えない。

 

 さて、この句はまず、西行がここで詠んだと伝承される「新古今和歌集」の二六三番歌、

 

 道のべに淸水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ

 

をまず受けて、あまりの心地良さにすっかり長居して憩うたうちに、すでに早や、早乙女は田一枚を植え終えてしまった――さあ、私も――慕う西行法師のように「立ちどま」ってしまった「ここ」から「立ち去る」ことと致そう――と転じているのである。

 古来、この句では、「植ゑ」る主語と「立ち去る」主語の問題が喧しい。先に掲げた頴原・尾形の評釈では、

   《引用開始》

 句は本文に述べている通り、西行の歌に名高い柳を訪ねての吟である。「今日この柳のかげにこそ立ちよりはべりつれ」といった文句には、日ごろの本懐をとげた嬉(うれ)しさが溢(あふ)れている。さて句意は、『句解』に「しばしとてこそやすらひつれ、はや田一枚植ゑけるよと、おどろき立ち去りたる旅情なり」といっているので尽きており、諸注も多くこれに従っている。ただ「植ゑて立ち去る」とつづいた二つの動詞において、おのおのその主語を異にするのは、いかに文法上の破格を許し得べき特殊の詩形にせよ、はなはだ無理な措辞といわねばならぬ。だから『師走囊』に「この句、早乙女(さをとめ)を誉(ほ)めたる句なり。たをやかなる柳腰の女どもが田一枚を植ゑて各たちさりしなり」と解しているのも、語法上からいえばまことにもっともである。しかしそれでは肝心の柳が、まったく比喩にすぎないものとなってしまう。また、その柳の下から早乙女たちが立ち去ると解しても、芭蕉が日ごろの本懐をとげた嬉しさや、柳に対する愛着の情などは生じてこない。本文のつづきから解すれば、どうしても『句解』の説の外に出ることはできない。こう解して初めて芭蕉が柳の木の下を立ち去りかね、最初はしばしと思って立ち寄ったのに、早くも田一枚を植え終わったことに驚き、見返りがちにそこを去って行く情が生ずるのである。しかし何といっても、この句における措辞の不備は、重大な欠点といわざるを得ぬ。従って句として成功の作ということはできないであろう。

   《引用終了》

と述べているのだが、果たしてそうだろうか?(『句解』は大島蓼太撰「芭蕉句解」(宝暦九(1759)年刊。『師走囊』は正月堂撰「俳諧師走囊」(しわすぶくろ:明和元(一七六四)年跋)の俳諧注釈書)。

 そもそも修辞法とは文芸の創作の中で生じたものである。例えば知られた「徒然草」で兼好が「かげろふの夕べを待ち、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし」と綴った時、対偶中止法などという呼称は当然なく、このような手法(連用形で中止することで後の同形態の構文の否定形が前の同形態部にも同義の意味を及ぼす)が一般に認知されていた(若しくはされつつあった)という「だけ」のことだ。この文は音韻上でも「かげろふの夕べを待たず、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし」とするのに比較して格段に優れて、しかも文法的に全く以って正しい、と言い得るかといえば文法嫌いの私などは明らかに留保したくなるのである。退屈な国文法を学んで、そこで認知されているから正しいなどという本末転倒の理解は私には意味を持たない。しかし私は、あの「あだし野の露」のその部分は「重大な欠点といわざるを得」ず、「従って句として成功の作ということはできない」、などとは口が裂けても言わない。そういう謂い方をする輩は、やはり芸術の創造者ではないと私は思う。国文学者というのは所詮、創作者ではなく、必ず鼻持ちならない錆びたインクの臭いをどこかでさせているものだ。芭蕉のそれは物理的達意を目的とした文字列ではない。一個の発句という創作である。私は「奥の細道」の名吟を挙げよと言われれば、恐らく十句の内にはこれを入れる。本句は「奥の細道」の中にあって実に成功している句であると私は信じて疑わない。

 ではどこがそんなに素晴らしいのか。

 私はまず、凡そ若き早乙女が苗を植える鮮やかな映像を配さずには、この句を映像化し得ないということから始めたい(但し、それが「柳腰」だなどとは思ったことは金輪際ない。そういう解自体、噴飯物の存在すべきでない誤「解」である)。それは映像のリアリズムというよりも、この後に続く須賀川の段の、

 風流の初やおくの田植うた

と、信夫の里の段の、

 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

の二句から、自然、フィード・バックされるものだからである。そうしてしかもその早乙女は、私にとってはまさに田植えに際して田の神を祭ったところの古代の巫女としての早乙女を面影としていると言ってよい。その早乙女こそが柳の精なる一老人をここに現出させるのである。

 「田一枚植ゑて」は寧ろ、植える動作の描出ではなく、その「田一枚」を「植ゑ」るための有意な時間の経過を示すためのものである。即ち、「柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と感じた、ほっと一息ついた西行としての何か不思議に長閑で夢幻的な時間経過のそれである。

 さて、その西行の和歌を素材として室町時代に観世信光が謡曲「遊行柳」を創作し、これによってこの柳は広く世に知られることとなり、歌枕の地ともなった。そうしてこの句の眼目はまさに、その能「遊行柳」にこそあるのであって、私のこの句の心象風景の中に浮かぶ、西行も、隠された農家の若き早乙女も、そして芭蕉も、これ皆、真の私の「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」というイマージュ・ポエトの映像の主役では――ないのである。

 謡曲「遊行柳」は以下のように始まる(例によって新潮古典集成を参考に自由に正字化、加工した)。

 

ワキ・ワキツレ〽歸るさ知らぬ旅衣 歸るさ知らぬ旅衣 法(のり)に心や急ぐらん

ワキ「これは諸國遊行の聖にて候 われ一遍上人の教へを受け 遊行の利益を六十餘州に弘め 六十万人決定往生の御札(みふだ)を 普く衆生にあたへ候 このほどは上總の國に候ひしが これより奥へと志し候」

ワキ・ワキツレ〽秋津州の 國々めぐる法の道 國々めぐる法の道 迷はぬ月も光添ふ 心の奥を白河の 關路と聞けば秋風も 立つ夕霧のいづくにか 今宵は宿をかりごろも 日も夕暮になりにけり 日も夕暮になりにけり

ワキ「急ぎ候ふ程に 音にきゝし白河の關をも過ぎぬ またこれに數多の道の見えて候 廣き方へゆかばやと思ひ候」

 

 このワキとワキツレはまさに芭蕉と曾良に他ならない。「奥の細道」の旅は芭蕉にとって『歸るさ知らぬ旅』であり、風狂『諸國遊行』の旅であり、そうしてまさにこれより今日、『白河の』関所を越えて、『心の奥をしら』ざる「奥の細道」の未知なる結界(又は魔界)の奥へと深く入いり行こうとしているのである。

 ここに前シテの翁が登場する。

 

シテ「のうのう遊行上人の御供の人に申すべき事の候」

ワキ「遊行の聖とは札の御所望にて候ふか 老足なりともいま少し急ぎたまへ」

シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし まづ先年遊行の御下向の時も 古道(ふるみち)とて昔の街道を御通り候ひしなり されば昔の道を教へ申さんとて はるばるこれまで參りたり」

ワキ「不思議やさては先の遊行も 此道ならぬ古道を 通りし事の有りしよのう」

シテ「昔はこの道なくして あれに見えたる一叢(ひとむら)の 森のこなたの川岸を 御通りありし街道なり その上朽木(くちき)の柳とて名木あり。かかる尊(たっと)き上人の。御法の聲は草木までも。成佛の緣ある結緣たり」

地〽こなたへいらせたまへとて 老いたる馬にはあらねども 道しるべ申すなり いそがせたまへ旅人

 

 私はこの劇中のシテの台詞である「老いたる馬にはあらねども 道しるべ申すなり いそがせたまへ旅人」の主客を転倒させたインスパイアこそが実は、先の殺生石の手前で詠んだ「野を横に馬牽きむけよほととぎす」だったのではあるまいか? そこで既に柳の精霊は、野夫に変じて芭蕉を遙かにここへと誘ったのである。

 

地〽げにさぞな處から げにさぞな處から 人跡絶えて荒れはつる 葎蓬生刈萱(むぐらよもぎうかるかや)も 亂れあひたる淺茅生(あさじう)や 袖に朽ちにし秋の霜 露分け衣來て見れば 昔を殘す古塚に 朽木の柳枝寂びて 影踏む道は末もなく 風のみ渡る氣色かな風のみ渡るけしきかな

シテ「これこそ昔の街道にて候へ 又これなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候 よくよく御覧候へ」

 

とあって、以下、翁が簡単な西行の事蹟を述べて詠歌が以下のように詠唱されつつ、聖の数珠を受けて翁は柳に寄るように見せて消え失せる。

 

地〽道のべに 淸水流るる柳蔭 淸水流るる柳蔭 しばしとてこそ立ち止まり すずみとる言の葉の 末の世々までも 殘る老木はなつかしや かくて老人上人の 御十念(おんじうねん)を給はり 御前を立つと見えつるが 朽木の柳の古塚に寄るかと見えて失せにけり 寄るかと見えて失せにけり

 

 ここで中入。この間にアイの土地の男が登場、西行の事蹟と柳の精の謂われを仔細に語る(そこでは正しく西行の和歌が出るが、この長々しい台詞は屋上屋でしかも夢幻能の真相をここで完全にバラしてしまうという構成が実は私には今一つ気に入らない)。

 夜になって一行が念仏を手向けていると、烏帽子狩衣を着した後シテ老柳の精が登場する。

 

ワキ「不思議やさては朽木の柳の われに詞をかはしけるよと」

ワキ・ワキツレ「おもひのたまの數かずに 念(おも)ひの珠(たま)の數かずに 御法をなして稱名(しょおみょお)の聲打ち添ふる初夜の鐘 月も曇らぬ夜もすがら 露をかたしく袂かな 露をかたしく袂かな」

 

 私は、芭蕉はこの聖らの、称名を唱え、念誦の数を数えるさまを、早乙女が田植え唄を歌い、数えながら田を植え終わるシークエンスにダブらせたのではないかと感じている。

 老柳の精は念仏の功徳によって救われることとなったことを謝し、「すなはち彼岸に到らんこと 一葉(いちよお)の舟の力ならずや」、その舟は「柳」の一葉の上の蜘蛛が糸を引いて川を渉るさまに始まったと柳の故事を起こし、玄宗皇帝の宮廷の名木であった柳、本邦の清水寺の楊柳観音、宮中の蹴鞠の場庭の式の木としての柳、「源氏物語」の柏木の恋もその蹴鞠がきっかけであったと、如何にも永く生きてきてしまった柳尽し木尽しの懐古をする(この故実の畳み掛けと連想による台詞が私は好きである)。

 

……シテ「柳櫻をこきまぜて」

地「錦をかざる諸人の やかなるや小簾(こす)の隙(ひま) 洩りくる風の匂より 手飼の虎の引綱も ながき思にならの葉の 其柏木の及びなき 戀路もよしなしや これは老いたる柳色(やなぎいろ)の 狩衣も風折(かざおり)も 風に漂ふ足もとの 弱きもよしや老木の柳 氣力なうして弱々と 立ち舞ふも夢人(ゆめびと)を 現(うつつ)と見るぞはかなき

 

 「風折」は風折烏帽子。立(たて)烏帽子の頂きが風に吹き折られたような形の烏帽子。狩衣着用の際に左折りにして被った(右折りは上皇の式とする)。以下、序ノ舞へと向かう。聖らへの報恩を込めて旧懐の舞いを老精はゆったりと舞い始める。

 

シテ〽報謝の舞も これまでなりと 名殘の涙の

地〽玉にも貫(ぬ)ける 春の柳の

シテ〽いとま申さんと いふつけの鳥も鳴き

地〽別れの曲(きょく)には

シテ〽柳條を綰(わがん)ぬ

地〽手折(たお)るは靑柳の

シテ〽姿もたをやかに

地〽結ぶは老(おいき)木の

シテ〽枝も少なく

地〽今年ばかりの 風や厭はんと 漂ふ足もとも よろよろ弱々と 倒れ伏し柳 假寢の床の 草の枕の 一夜(ひとよ)の契りも 他生の緣ある 上人の御法 西吹く秋の 風うち払ひ 露も木の葉も 散りぢりに 露も木の葉も 散りぢりになり果てて 殘る朽木と なりにけり

 

 即ち、この句で「立ち去る」のは、現実の「前ジテ芭蕉演じる翁」なのではなく、実は自らが前段から自己劇化してきたところの、複式夢幻能のアーキタイプに基づく、かの早乙女にシンボライズされた巫女が呼び出した「遊行柳」の枯木の柳の精霊たる、「芭蕉自身の扮する後シテ」なのである。そうして彼こそが今、「ここ」――この夢幻世界、否、儚き宿りに過ぎぬこの世――をまさに「立ち去る」のだと――私は信じて疑わないのである。

 しかもここにはもう一つの仕掛けがある。それは『別れの曲には柳條を綰(わがん)ぬ』である。「綰ぬ」とは古来、中国に於いて人と別れるに際し、柳の枝を折って環としたものを作って、それを旅立つ人の袂に入れて見送る(再び還れの意を込める)ことをいう。私は健康的な鄙の若き早乙女の植える手振りに、芭蕉はその「柳條を綰(わがん)ぬ」様を擬えたのではあるまいかと踏んでいる。「遊行柳」の精は最後に柳に絡めて恋の思い出をとうとうと謠うのである。かの精を送るのはどうしても若き女でなくてはならない(それはまさに能には詳しくない私でも「恋重荷」や「綾鼓」に通ずるものとして認識されてある)。さればこそ私にはここにうら若き早乙女の姿が絶対に必要なのである。――凡そこれは私の妄想の類い――とどこか自己卑下する気持ちもあったのであるが、実は今回、安東次男の「古典を読む おくのほそ道」(岩波書店一九九六年刊)をつまびらいたところ、『芭蕉は、河辺で青柳の枝の輪をつくるかわりに、湧清水のちいさな田に苗を植える手ぶりを取出している。植えたばかりの早緑の小山田こそ、朽木柳に贈る別れのしるしにふさわしいと見ているのだ。こういうしゃれたイメージの踏替(ふみかえ)は、日ごろ、漢詩文や謡曲の一つも俳諧に奪ってみたい、と狙っていなければ生まれるものではない』と述べておられるのに出喰わし、驚きとともに快哉を叫んだことを附記しておきたい。それが正しいかどうかよりも孤高の鬼才安東次男の感覚と、かくも繋がり得たことは(但し、安東は田なんかすでに植え終わっていてもいい、実際に植えるのは早乙女とは限らない、あたかも婆あかむくつけき野夫でも何でもいいんだと言いそうな、例のけんもほろろな謂いをしている部分には実は失望したのだが)どこか非常に嬉しくはあるのである。

 もう一つ、私が気になっていることが「遊行柳」にはある。

 前半、シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし まづ先年遊行の御下向の時も 古道(ふるみち)とて昔の街道を御通り候ひしなり されば昔の道を教へ申さんとて はるばるこれまで參りたり」ワキ「不思議やさては先の遊行も 此道ならぬ古道を 通りし事の有りしよのう」シテ「昔はこの道なくして あれに見えたる一叢(ひとむら)の 森のこなたの川岸を 御通りありし街道なり」とあり、またその後も、「影踏む道は末もなく」(地)とあってすぐ、シテ「これこそ昔の街道にて候へ 又これなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候 よくよく御覧候へ」ともあることである(下線やぶちゃん)。――ここでは執拗に人の行かなくなった「古道」がクロース・アップされる。

 実はこの遊行柳を「立ち去」った後、芭蕉は関の明神を通って白坂から「奥の細道」のランドマークたる白河の新関及び旧関跡を通って、その日は旗宿に泊まっている(実にこの日は踏破距離が三日目の間々田から鹿沼の距離と同じ約四十一キロメートルに及んだ特異日であった)のだが、そのルートは如何にも迂遠なコースを辿っていることが分かる。それは白河の新関から旧関を求めた歩いた結果の、一見、労多くして益なき旅だったようにも見受けられるのであるが(山本「奥の細道事典」ではこのルートに「半端なコース選び」という標題を掲げられるなど、この日の白河の関跡訪問は芭蕉痛恨の失策であったという判断を下されている)、実は私は芭蕉は意識的に、最早定かでなくなった古道をわざと迷い歩いたのではなかったか、と思っているのである。そしてそれはまさにこの「遊行柳」の執拗(しゅうね)き古道を経ることによってのみ「奥の細道」には分け入ることが可能であるという心的気分を求めたからだと思うのである。――これは無論、全くプラグマティクではない馬鹿げた行動ではある。しかし私は、芭蕉なら敢えてそれをする――旅の初めに黒羽に於いて、のんべんだらりと過ごしてしまった自身に対する強い自責の念からも、そうしたに違いない――と感ずるのである。

 長くなった。最後に「奥の細道」の遊行柳の段を示す。

   *

又淸水流るゝの柳は芦野の

里にありて田の畔に殘る此所の郡守故

戸部某の此柳みせはやななと折々に

の給ひきこえ給ふをいつくのほとにやとお

もひしを今日この柳のかけに

こそ立寄侍つれ

  田一枚植て立去柳かな

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇故戸部某の     → ●戸部某(こほうなにがし)の

○此柳みせはやななと → ●「この柳見せばや」など

■やぶちゃんの呟き

・「郡守故戸部某」下野国蘆野藩(三千石)第十九代藩主で旗本の蘆野民部資俊(寛永一四(一六三七)年~元禄五(一六九二)年六月二十六日)。創作としての人物の隴化が行われている。「郡守」は実際の藩主(領主)を漢代の官名に、また「戸部」は民政・財政を司った唐代の官名に擬してある。問題は初稿に近いと考えられている上記自筆本には「故」とあることに着目せねばならぬ。再掲示するが、芭蕉がこの遊行柳を訪れたのは元禄二年四月二十日(グレゴリオ暦一六八九年六月七日)であった。従ってこの時、この蘆野資俊はまだ存命だった。ところが上に見る通り、「奥の細道」自筆本では「此所の郡守故戸部某」と書いているのである。これによって芭蕉が現在我々が知る「奥の細道」の原形を執筆したのは早くとも、実際の旅(元禄二年九月六日の大垣で終わり)から三年後の元禄五年六月二十七日よりも後であったということが分かるのである。因みに現在、この「奥の細道」自筆本は元禄六~七年成立と推定されている。]

2014/06/06

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅱ

 

厩の神泉の神に寒明けぬ

 

寒明けし船渠(ドツク)の光り眼を囚ふ

 

冱返る夜を遊楽の頸飾

 

   大菩薩嶺、一句

 

野兎ねらう燒け木の鷹に雪解かな

 

[やぶちゃん注:「ねらう」はママ。]

 

春殿の風の凶鴉に日の光り

 

囀りに愛餐の卓はや灯る

 

春鹿を射て舁きいでし甌窶かな

 

   注。甌窶は山の高処にして傾斜せる地を云ふ。

 

[やぶちゃん注:「甌窶」は「おうる」と読ませているらしい。諸注は高台の狭い土地とする。「甌」は原義が小さな平たい鉢、「窶」は小さな塚や岡を指す。通常は「おうろう」であるが、小丘の謂いの場合、「ル」という音を持っている。]

 

草萌や寺院(エケレシヤ)の吊る鸚鵡籠

 

山桐の大蘖に宿雪盡く

 

[やぶちゃん注:「大蘖」は「おほひこばえ(おおひこばえ)」と読んでいよう。「宿雪」は「しゆくせつ」としか読めない。残雪のこと。]

 

山禽に※の蘖日は滿てり

 

[やぶちゃん注:「※」=「山」+(「棧」-「木」)。この字は音「サン・ザン」で険しい山の形容である。「ざん」と音読みしているか。]

飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅰ

 昭和十一年(百七十八句)

 

雲しきて山廬の注連井年迎ふ

 

[やぶちゃん注:「注連井」新年の注連飾りを廻した井戸のことであろう。]

 

花温室の年立つ雨もふりやみぬ

 

初富士や投錨す湾風吹かず

 

繭玉に燈明の炎を感じけり

 

靑猫をめでて聖書を讀み初む

 

讀初や錦古れども湖月抄

 

巫女のみごもりてより春の闇

 

[やぶちゃん注:「巫女」は「かんなぎ」。]

 

闇ふかきみなとの春の淸教徒

 

帆をたえて港路の雨温くき春

 

奉教の献花たづさへ温くき春

杉田久女句集 235  花衣 Ⅲ 身の上の相似て親し櫻貝

 

身の上の相似て親し櫻貝

 

[やぶちゃん注:この句には酷似した句として、角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」の昭和八(一九三三)年のパートに載る(実は私は同句集の編年には既に何箇所かで疑問を感じているのであるが、坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、草稿は昭和九年と記されているとある。そうでないと確かに「おかしい」のである)、

 

 由比ケ濱

身の上の相似てうれし櫻貝

 

がある。ところが何と、この「杉田久女句集」の本句集のずっと後半には突如、

 

 由比ケ濱

身の上の相似でうれし櫻貝

 

という驚くべき、酷似し乍ら、逆ベクトルの否定形句形でそのまま出現するのである。お分かりの向きもあろうが、これは前書「由比ケ濱」に解く鍵があり、それを坂本氏は久女の草稿を精査する中で美事に解明されている。これについては軽々に注する訳にはいかない。というより、この句は普通に彼女の句集を読んでさらりと読み流ししてしまう句であろう。それが再度、否定形で出ることの驚愕の部分で初めてこの句の持つ意味が自ずと問題になってくる。それはまた「身の上の相似でうれし櫻貝」の句が出現するまさその「場所」でじっくりと考えてみたいのである。] 

秋の學び屋   山之口貘

 秋の學び屋

 

その日その日に

堅かれ……

意志よ

嚴肅に

若き強き

若人の心は

藝術家、實業家―――

それ等の新芽は

緊張の中に崩え………

おゝ靜かに

若き人等の

限りなき力に

柔順な微風も慕ふ

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月一日附『八重山新報』に「佐武路」のペン・ネームで掲載された。底本は十行目を、

 

緊張の中に萌え………

 

とし、解題に、『掲載紙本文では「緊張の中に崩え」である。しかし文脈上「崩」を誤植とみなし、』『「萌」に修正した』旨の記載がある。この判断は恐らく正しいと思われるが、「崩え」は「くえ」と普通に読め、それは堅い蕾が綻び崩れて開く意味として採れないことはない。無論、詩全体の自然な内在律から言えば「萌え」であった方がすんなりは読める。草稿がない以上、ここは私はママとすることにした。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅13 殺生石 石の香や夏草赤く露あつし

本日二〇一四年六月 六日(陰暦では二〇一四年五月九日)

   元禄二年四月十九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 六日

である。

【その二】同日、温泉(ゆぜん)大明神に参詣した後の午後、同明神下の岡の中腹にある殺生石を見ている。

 

  殺生石

石の香(か)や夏草赤く露あつし

 

[やぶちゃん注:「曾良随行日記」四月十九日の条の最後に載り、直後に『正一位ノ神位被加ノ事、貞享四年黑羽ノ舘主信濃守増榮被寄進之由。祭禮、九月廿九日。』と記されてある。貞享四年は西暦一六八七年でこの二年前であるから、社殿は新装の美しいものであったと考えられる。

 以下、「奥の細道」の殺生石の段。句は採られてない。

   *

殺生石は温泉の出る山陰に

あり石の毒氣いまた

ほろひす蜂蝶のたくひ眞砂

の色の見えぬほとかさなり死す

   *

■やぶちゃんの呟き

 言わずもがな乍ら、「蜂蝶のたぐひ、眞砂の色の見えぬほど、かさなり死す」というのは実景ではない。

 

シテ「のうのあれなるおん僧 その石のほとりへな立ち寄らせ給ひそ」

ワキ「そもこの右のほとりへ寄るまじき謂はれの候ふか」

シテ「それは那須野の殺生石とて 人間(にんげん)は申すに及ばず 鳥類畜類までも觸はるに命なし。かく恐ろしき殺生石とも 知ろしめされでお僧たちは 求め給へる命かな」

 

「蜂蝶のたぐひ、眞砂の色の見えぬほど、かさなり死す」こそが芭蕉の真の句心であったのだ――まさしくこの時、芭蕉は自身を謡曲の「殺生石」の舞台の中に置いていた――そしてその能舞台はフェイド・アウトからフェイド・インしてそのまま次の段の演目「遊行柳」へと転じてゆくのである。――]

橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅱ 金沢へ

  金沢へ

   講演旅行に出られる西東三鬼、右城暮石

   氏に蹤き、私も金沢の細見綾子さん、旧

   友松村泰枝さんに逢ひたく旅に出る

冬の旅喫泉あふれゐるを飲む

 

[やぶちゃん注:この旅は年譜の昭和二五(一九五〇)年一月二十七日の条に『三鬼、暮石と同行にて奈良を発ち、金沢に沢木欣一、松村泰枝を訪ねる』とあるもの(最後の「雪の日の」の句の後に『(一九五〇、一)』のクレジットあり)。当時、多佳子五十一歳。「後記」には昭和二十四年とするが、多佳子の記憶違いであろう。

「西東三鬼」多佳子と三鬼とは昭和二一(一九四六)年に初めて出逢っている(リンク先は私の全句集。三鬼は多佳子より一つ年下)。

「右城暮石」(うしろ ぼせき 明治三二(一八九九)年~平成八(一九九五)年)は高知生まれ。本名は斎(いつき)、俳号の暮石は出身地の小字の名。大正七(一九一八)年、大阪電燈に入社。大正九(一九二〇)年に大阪朝日新聞社の俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌『倦鳥(けんちょう)』に入会、『風』『青垣』同人から『天狼』同人。昭和二八(一九五二)年『筐(かたみ)』を創刊、主宰(後に改題して『運河』)。昭和四六(一九七一)年に第五回蛇笏賞を受賞している(以上はウィキの「右城暮石に拠る)。ネット上で管見して惹かれた句を示す(現代俳句協会の「現代俳句データベース」に拠ったが、恣意的に正字化した)。

 一身に虻引受けて樹下の牛

 冬濱に生死不明の電線垂る

 裸に取り卷かれ溺死者運ばるる

昭和二十一年の年譜に三鬼・平畑静塔・多佳子らがこの秋に始めた『奈良俳句会』の参加メンバーの中に後の参加として暮石の名が初めて登場し、以下の年譜でも多佳子の没するまで親しくした俳人であることが分かる。多佳子とは同い年。

「細見綾子」(明治四〇(一九〇七)年~平成一〇(一九九七)年)は兵庫県市)生まれ。昭和四(一九二九)年に作句を始め、松瀬青々の俳誌『倦鳥』に入会、後、『風』創刊に同人として加わり、昭和二二(一九四七)年には同主宰の沢木欣一と結婚している。昭和五四(一九七九)年に句集「曼陀羅」で蛇笏賞を受賞している。ネット上で管見して惹かれた句を示す(活動期からやや考えたが恣意的に正字化した。引用元の現代俳句協会の「現代俳句データベース」内のデータにずっと後の方でも正字を使った句があるからである)。

 チユーリツプ喜びだけを持つてゐる

 亡母戀ひし電柱に寄せよごれし雪

 働きて歸る枯野の爪の艶

「松村泰枝」この叙述からは女流俳人と思われるが、不詳。

「喫泉」は「きつせん(きっせん)」で、水飲み場の立位で啜るタイプの水道栓を言うものと思われる。ずっと後の西東三鬼の句集「變身」の昭和二十九(一九五四)年に(リンク先は私のブログ版の三鬼句集の当該部)、

 春の驛喫泉の穗のいとけなし

とある。]

 

 

雪マント被(かづ)けばすぐにうつむく姿勢

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅12 那須温泉 湯をむすぶちかひもおなじ岩淸水 / むすぶより早齒にひゞく泉かな

本日二〇一四年六月 六日(陰暦では二〇一四年五月九日)

   元禄二年四月十九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 六日

である。

【その一】この前日、芭蕉と曾良は高久から那須湯本へ到着していた。この十九日の午前十一時半頃から正午にかけて、湯本の岡の上にある温泉(ゆぜん)大明神に登り、参詣している。

 

  那須温泉

湯をむすぶちかひもおなじ岩淸水

 

  温泉(ゆぜん)大明神ノ相殿(さうでん)

  ニ八幡宮ヲ移シ奉(たてまつり)テ、兩神

  一方(ひとかた)ニ拜(をがま)レサセ玉

  フヲ

湯をむすぶ誓(ちかひ)も同じ石(いは)淸水

 

むすぶより早(はや)齒にひゞく泉かな

 

[やぶちゃん注:第一句は「陸奥鵆」(むつちどり・桃隣編・万延元(一八六〇)年跋)の、第二句は「曾良随行日記」所収の句形。但し、前書の「兩神」は「雨神」とあるのを誤字として訂した(前書と句意は、この温泉大明神には京の石清水八幡宮が合祀されており、ここ一つを参拝することで二神を拝ませて下さる、という謂いであることに拠る)。第三句は「都曲」(みやこぶり・言水編・元禄三(一六九〇)年)所収の句であるが、これより以前の句ともされ、那須での作かどうかも不明である。「むすぶ」「泉」で、一応ここに配したが(参考底本としている岩波版中村俊定校注「芭蕉俳句集」でも前の二句に続いて配されてある)、この泉は温泉ではなく、「齒にひゞく」ほど清冽にして冷たいというのだから、前の二句とは全くシチュエーションが異なる別な句であるが、「曾良随行日記」のこの句の前に、那須温泉の温泉六ヶ所の湧出箇所とその温度についての叙述がある。当日の叙述の初めから以下に示しておく(頴原・尾形訳注角川文庫版「おくのほそ道」所収のものを底本としたが、恣意的に正字化した)。

 

一 一九日 快晴。予、鉢ニ出ル。朝飯後、圖書家來角左衞門ヲ黑羽ヘ戻ス。午ノ上尅、温泉ヘ參詣。神主越中出合、寶物ヲ拜。與一扇ノ的躬殘ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ繪也。正一位ノ宣旨・緣起等拜ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衞門案内。以上湯數六ケ所。上ハ出ル事不定。次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、湯也ノ由、所ノ云也。

 

 「鉢」は托鉢。「午ノ上尅」は午前十一時半頃。「與一」那須与一。屋島合戦の折りの扇の的の一件の際、成就を祈願したのが本明神であった。「躬殘」は「射殘」の誤記。「御橋」温泉大明神に向かう間にある神橋。「所ノ云也」は「所ノ者云也」の脱字か(以上は一部を底本の注に拠った)。

 前の二句は「岩淸水」「石淸水」に一般名詞石清水八幡宮を掛け、「湯をむすぶ」(湯や清水を両手ですくう・掬(きく)する)と、「ちかひ」「誓」を結ぶ(願を掛ける)の意を掛ける。「湯」「むすぶ」「淸水」は縁語で、しかも「むすぶ」という語は謡曲「殺生石」(前記事参照)の冒頭で「冬夏(とおげ)をも結ばばやと思ひ候」「浮世の旅に迷ひ行く 心の奥を白河(しらかは)の 結び籠めたる下野や」を念頭においているに違いなく、特に後者は「白河」「下野」(の川水を掬ぶ/下野国那須野の原に露が結び籠める)でこの「奥の細道」のシークエンスのジョイントにもなる。但し、祝祭句とはいえ、修辞技巧や故実が見えてくると底なし沼のような感じを与える句で却って息苦しい結果となっているようにも見える。寧ろ、作句データ不詳の第三句目のリアリズムの諧謔の方が詠む者の心に爽やかに沁みてくる感じがする。]

2014/06/05

ブログ580000アクセス突破記念 橋本多佳子句集 藪野直史選 六十一句

ブログの580000アクセス突破記念として「橋本多佳子句集 藪野直史選 六十一句」を公開した。IEの縦書はIEの最新版が縦書への今まで対応とは異なるシステムを導入したことから今回は作成しないこととする。その内にPDFファイルによる試行を試みようとは思っているが、縦書表示への興味よりも新しいテクストの公開の方が僕の中で遙かに先行しているために何時になるかは分からない。悪しからず。【2014年7月5日追記】矢張り縦書のないのは淋しい。追加した。

気づいたら一日に8000ページも閲覧されとっくにブログ・アクセス580000突破

実はさっき久し振りにアクセス解析を開いて見て吃驚仰天した。

一体、どこのどなたが来られたものか、6月2日一日のページ・ビューが、

8839

になってる! ビジターは263人と普段通りだから、誰か一人が膨大な記事を読んで呉れたものらしい。

お蔭で、この日に

580000アクセスがとっくに突破されてしまっていて、現在のアクセス数はもう

586745

という訳――では――580000アクセス突破記念テクストを……取り敢えずどれにしようか……困った……

杉田久女句集 234  花衣 Ⅱ 次女光子卒業 女子美合格

  光子縣立小倉高女卒業 三句

 

靴買うて卒業の子の靴磨く

 

卒業やちび靴はくも今日限り

 

靑き踏む靴新らしき處女ごころ

 

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年三月十五日の次女光子卒業式の時の作。久女、四十三歳。次女光子は大正五(一九一六)年生まれであるから、当時十七歳(高等女学校は五年制)。同日の久女の日記に『光子卒業式。快晴也。/光子も二百三人中の優等生の一人にてうれしかりき』(「/」は改行を示す。底本全集の第二巻所収の抄録日記を底本としつつ、恣意的に正字化した)。]

 

  光子女子美術卒業 一句

 

卒業の子に電報すよきあした

 

[やぶちゃん注:「女子美術」東京の私立女子美術専門学校(昭和四(一九二九)年に専門学校に昇格。現在の女子美術大学)当時は本郷菊坂に校舎があった。次女光子の女子美合格は先に引用した「日記抄2」の上京までの一連の記載を読むに、昭和八(一九三三)年年初の非常に速い段階で決まっていたように読める(もしかするとその前年末の可能性もありそうな記載である)。]

2014/06/03

言っとくが

俺は「なんとなく」なんか生きてない!

橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅰ 九州路

 冬の旅

 

  九州路

 

   わが農園、国家に買上げとなる、九州へ

   赴くこと度々

 

冬霧ゆる船笛やわが在るところ

 

冬の航はじまる汽笛あふれしめ

 

海渡る黒き肩かけしかとする

 

大綿は手に捕りやすしとれば死す

 

[やぶちゃん注:「大綿」は「おほわた(おおわた)」で、綿虫の俗称。綿虫は半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科 Aphididae に属する綿油虫類の総称で、白い綿のような分泌物を体に附着させた状態で弱々しく飛ぶ。体長は二ミリメートル程で大種でも四ミリメートル程度。 北国ではこの虫が飛ぶと雪が近いとし、また舞う様が雪のようでもあることから雪虫の俗称を持つ(この北方系種は Prociphilus 属トドノネオオワタムシ Prociphilus oriens )。]

 

真青な河渡り終へ又枯野

 

河豚を剝ぐ男や道にうづくまる

 

河豚の血のしばし流水にまじらざる

 

河豚の皿燈下に何も殘らざる

 

ジヤズに歩の合ひゐて寒き水たまり

 

河豚の臓(わた)喰べたる犬が海を見る

 

林檎買ふ旅の足もと燈に照らされ

 

星空へ店より林檎あふれをり

          (一九四七、一)

 

[やぶちゃん注:底本年譜の昭和二一(一九四六)年の条の最後に、『十万坪の大分農場は農地買い上げとなる。坪八十銭』とある。単純計算で計八万円、物価指数から現在の価値で約三百二十八万円相当にしかならない。しかも以前に注したように、この大分農場は亡き夫豊次郎と多佳子が結婚した大正六(一九一七)年にその結婚記念として開拓経営を始めた農場であって、豊次郎の青年時代からの夢を実現化したものでもあったから、多佳子にとっては亡き夫との思い出の地でもあったのである。「後記」からこの「九州路」の旅は昭和二二(一九四七)年であることが分かる。

歎き――宮古鳥の詩を讀んで   山之口貘

 歎き――宮古鳥の詩を讀んで

 

いやな生命――

痛切の賜は

情無の恨――

懷しき他所の詩よ

惱みつゝ小さき詩人は枯れて行

「風薰る初夏に性は蘇らん」と

小さき身よ………おゝ

痛くも歎きの只中を孤獨に

風薰る初夏よ

風薰る初夏よ

性の消失――

性の墓地――

默せる柔順よ

永遠に初夏に埋れて

淸花香の芳しきにほひに

陰鬱な墓地のわきに幾度か煙る

おゝ若き詩情の生存は悲しく

日沒の如く

哀へつゝもこの生命

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月十一日附『八重山新報』に「佐武路」のペン・ネームで掲載された。底本新全集本文は最後の行の、

 

哀へつゝもこの生命

 

の「哀」を「衰」の誤植とみなして、

 

衰へつゝもこの生命

 

とする。「枯れて行」はママ。

「宮古鳥の詩」不詳。底本解題にも記さない。「宮古鳥」が人名(詩人のペン・ネーム)や一篇の具体的な詩の題名としての固有名詞なのか、それとも「宮古鳥」という鳥の呼称(具体的な鳥類の通称)なのか全く不明。かく漢字で書く「みやこどり」という鳥はいない。ネットにはこの文字列自体が出現しない。なお、初見の際には私は「宮古島の詩」と誤読して読んでいた。詩の内容からは詩人のペン・ネームの可能性が強いようには思われる。識者の御教授を乞うものである。

「淸花香」ネット検索をかけると台湾産の高級烏龍茶にこの名称があるが、これか?]

僕は

あぁ! 世界は少し大き過ぎやしないか?――目に見える星と星が――実は致命的に遠過ぎる――なんて……大人になっても僕はね、知りたくなかったよ……

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅11 那須野原 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

本日二〇一四年六月 三日(陰暦では二〇一四年五月六日)

   元禄二年四月十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 三日

である。この日、芭蕉と曾良は十三泊に及んだ黒羽余瀬を出て、野間まで馬で送られ、現在の栃木県那須郡那須町大字高久へと向かい、浄法寺図書桃雪高勝の紹介によって黒羽領三十六ヶ村の大名主高久覚左衛門宅に二泊している。

 

野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす

 

  みちのく一見の桑門同行二人、那須の篠

  原をたづねて、猶殺生石みむと急ぎ侍る

  程に、あめ降出(ふりいで)ければ、

  先(まづ)此(この)ところにとゝまり

  候

落くるやたかくの宿(しゆく)の郭公(ほととぎす)

 

  下野國高久角右衞門が宅にて

落て來る高久の里のほとゝぎす

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」、第二句目は真蹟詠草より(高久家に現存するらしい)、第三句は「石見かんこどり塚」(百草園編・安永元年)。「角右衞門」はママ。

 第一句。時鳥の声のSEが素早く落ちくるのに合わせ、カメラは垂直に急速にティルト・ダウン、同時に馬上の武将(次の段の殺生石へと九尾狐を退治に向かう武士(もののふ)然とした諧謔をも添えているように私には思われる)に自らを擬えた芭蕉の心内の、馬の口取り足軽に喩えた野夫(やぶ)への引き向けの命令によって、今度はカメラは水平に右へ急速にパンするという軍記物の浄瑠璃仕立てとなっている(と私は思う)。

 山本健吉氏は「芭蕉全発句」でこの句について、

   《引用開始》

 この句は古くから「いくさ仕立て」の句だという評があるが、この句の響きをよく汲み取っている。芭蕉は黒羽に滞在中、郊外に昔の犬追物の跡をしのび、実朝の歌で名高い那須の篠原を分け入って、玉藻の前の古墳を訪ねたり、八幡宮に詣でて、那須の与一の扇の的の昔語りを思い出したりした。那須野で、昔の鎌倉武士たちのイメージで頭を一杯にしたことがこの句の勢いに乗りうつったかのようだ。この時芭蕉は那須野の矢叫(やさけ)びの声を心の耳で聞いているのだ。たわむれに馬上の大将を気取ったような身ぶりがこの句にある。

   《引用終了》

という、実に私にはすこぶる附きで腑に落ちる鑑賞をなさっておられる。

 第二・三句目は「高く」に主人の名「高久」を詠み込んだ、一見、如何にもな挨拶吟のように見えるが、私は寧ろ、この前書と発句こそが実は次の訪問地殺生石を踏まえた、芭蕉自身の旅の劇化のバラシであるように思われる。謡曲「殺生石」の冒頭は、

 

ワキ〽心を誘ふ雲水(くもみず)の 心を誘ふ雲水の 浮世の旅に出で(いじょ)うよ

ワキ〽これは玄翁(げんのお)と云へる道人(どおにん)なり われ知識の床(ゆか)を立ち去らず 一大事を歎き一見所(いっけんしょ)を開き 終に拂子(ほっす)を打ち振つて世上に眼(まなこ)をさらす この程は奥州(おおしう)に候ひしが 都に上(のぼ)り冬夏(とおげ)をも結ばばやと思ひ候

ワキ〽雲水の 身はいづくとも定めなき 身はいづくとも定めなき 浮世の旅に迷ひ行く 心の奥を白河(しらかは)の 結び籠めたる下野や 那須野の原に着きにけり 那須野の原に着きにけり

ワキ「いかに沙彌(しゃみ)はくたびれてあるか」

アイ「さん候(ぞおろお)」

ワキ「あれに由ありげなる大石の候」

アイ「あれあれあれ」

ワキ「汝はなにごとを申すぞ これは物に狂ひ候ふか」

アイ「あれなる大石の上を飛びかけり候鳥 石の邊(ほとり)へ落ちて申し候」

ワキ「なにとあれなる石の邊へ諸鳥が落つると申すか」

アイ「さん候(ぞおろお)」

ワキ「まことに不思議なることにて候 立ち越え見うずるにて候」

 

と始まるからである(新潮古典集成「謡曲 中」を参考にしながら、漢字を正字化、音声部分は平仮名で示した)。

 以下、「奥の細道」。

   *

これより殺生石に行舘代より馬にて

送らる此口付のおのこ短尺得させ

よと乞やさしき事を望侍るもの

かなと

  野をよこに馬挽むけよ郭公

   *

■やぶちゃんの呟き

 まさに毒気の漂う魔界殺生石へ向かわんとする武者振りの諧謔である。]

2014/06/02

では

一つ マリア樣にお祈りを、あげることと、しようか……

ランボーの如……

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅹ 昭和十年 了

 

寒鶯の八つ手の花にしばしゐぬ

 

[やぶちゃん注:「寒鶯」は「かんあう(かんおう)」と読み、冬に平地で見られるウグイスのこと。]

 

茶の咲いて十字架祭もほど過ぎぬ

 

花廛(はなや)なる茶の散り花も見られけり

橋本多佳子句集「紅絲」 凧

 凧

 

歌かるたよみつぎてゆく読み減らしゆく

 

敵のかるた一つの歌がわが眼牽(ひ)く

 

羽子の音(ね)つよし丈のさわげる風の中

 

安定なき凧にてのぼる意の旺ん

 

鳴らず鳴らさず箏の冷えゆくとゞまりなし

 

いまありし日を風花の中に探す

 

五位鷺(ごい)飛びて寒の茜をそれてをり

 

水車の音絶えてはならず霧濃き中

 

聖夜讃歌吾が息をもて吾瀆る

 

燭の火と炉火が燻る聖歌隊黙し

 

層見せて聖夜の菓子を切り頒(わか)つ

杉田久女句集 233  花衣 Ⅰ

  花衣(昭和四年より昭和十年まで)

 

逆潮をのりきる船や瀨戸の春

 

[やぶちゃん注:この句は、富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、昭和九(一九三四)年五月発行の『ホトトギス』の、三度目になる雑詠巻頭五句の内の一句である。]

 

教へ子に有無を言はせず家の春

 

春寒の銀屛ひきよせ語りけり

 

舟に乘りて眺むる橋も春めけり

 

春淺く火酒したたらす紅茶かな

 

梨畠の朧をくねる徑かな

 

くぐり見る松が根高し春の雪

 

[やぶちゃん注:この句も、坂本宮尾「杉田久女」によれば、昭和九(一九三四)年五月発行の『ホトトギス』の、三度目になる雑詠巻頭五句の内の一句である。この句について坂本氏は「企救の高浜」と題して詳細な評釈をなさっている。部分引用ではその評釈の素晴らしさを損なうので例外的に冒頭の句を除く全文を引用させて戴く。

   《引用開始》

 「松が根」とは松の根のことで、この句は根上りの松を詠んだもの。大和の山辺の道、兼六園など、日本の各地に昔から有名な根上りの松がある。松は常緑であることから、古代より神霊の宿る木として扱われ、永遠性の象徴とされてきた。『万葉集』にも松を詠んだ歌が数多く収められている。

 万葉の人びとは松の木だけではなく、崖などにしがみつくように生えた松の根にも目をとめた。盛りあがって入り組みながら地を這っている根を見て、先がどこまで伸びているのかわからないその強靭さに感嘆し、松の根もまた、心や命の永遠性を表すものとして尊んだ。根が深く長く伸びているように、いつまでも深く思う心持ちの象徴になったのだという。

 久女の草稿には、この句と(冬浜の煤枯れ松を惜しみけり)の間に、「この万葉の根上り松は次第に煤煙と漁夫らのあらすところにあり。今上陛下のよき御屏風の小倉赤坂の名所万葉にうたはれし企救の高浜も次第に枯れ今数本あるのみ。おしむべし」(77頁)と詞書がある。[やぶちゃん注:「おしむべし」の「お」の右にママ注記。]

 万葉の企救の高浜の根上りの松の歌とは、

  豊国(とよくに)の企救(きく)の高浜(たかはま)高々(たかたか)に君待つ夜(よ)らはさ夜更(よふ)けにけり(12-三二二〇)

 (豊国の企敦の高浜の高々に、まだかまだかと君を待つ夜はもうふけてしまったことだ)

 「豊国の企政の高浜」までは、「高々」を起こすための序詞である。

 『万葉集』にはこの浜を詠んだ歌がほかに三首ある。これらの歌の「企救の高浜」、「企救の長浜」、「企救の浜」は、呼び方は違うが同じ場所で、現在の小倉北区赤坂から戸畑区の洞海湾口までの響灘に面した国道一九九号線沿いの海岸を指すもので、小倉に残る高浜町、長浜町という町名はその名残りとされている。

 鷗外は長浜について『小倉日記』に、「聞く今宵長浜に盆踊ありて夜を徹すと。小倉男女の高く笑ひ高く歌ひて門を過ぐるもの暁に至るまで絶えず」と記している。翌年には、鷗外も踊りを見に行き、〈満潮に踊の足をあらひけり〉と詠んだ。

 久女の句は、高く盛りあがった松の根を仰ぎ見ると、春の雪が残っていた、あるいは春の雪が舞っ

てきたという句意であろう。「春の雪」という季語の感じがよく出ている。松の緑と春の淡雪という色彩の取り合わせから古典的な実の世界が展開し、そこに永遠性とはかなさの対比が浮かびあがる。この句の表現上の手柄は「松が根」という措辞である。松の根を「松が根」と詠むことで、万葉の時代からこの語がまとう情趣が、句に高い格調を与えている。『万葉集』にも詠まれた松を眺めたときに湧いた感動を伝える清々しい写生句で、「松が根高し」と荘重に泳いあげ、「春の雪」と名詞で結んだ句の姿は端正で、調べも重厚である。

   《引用終了》

 宮尾氏の当該書での評釈は孰れも他の追従を許さぬ鋭いものである。是非、一読をお薦めする。]

 

岩壁を離れし巨船春の雪

 

ぬかづいてねぎごと長し花の雨

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年四十四の時の作。]

 

野々宮(ののみや)を詣でしまひや花の雨

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年三十八の時の作。前掲の坂本氏の著作によれば「野々宮」は京都市右京区嵯峨野宮町にある野宮(ののみや)神社である。「野宮じゅうたん苔」の庭園で知られる京の私の好きな神社の一つである。]

 

ぬかづきしわれに春光盡天地

 

春光に躍り出し芽の一列に

 

莊守も芝生の春を惜みけり

 

春惜む布團の上の寢起かな

 

佇めば春の潮鳴る舳先かな

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年四十五の時の作。]

 

春潮に流るる藻あり矢の如く

 

[やぶちゃん注:本句群「花衣」は「昭和四年より昭和十年まで」とあるのであるが、この句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では大正一一(一九二二)年のパートに載る。坂本氏の「杉田久女」でも、この句は同年三月に虚子を迎えて門司で開かれた句会の一句(句会の席題が「春潮」)とするから、この配置は不審である。私には虚子に対する久女のある屈折した意識がこれをここに配させたように思われる。]

 

いつとなく解けし纜(ともづな)春の潮

 

春の山暮れて温泉の灯またたけり

 

春の襟染めて着初めしこの袷

 

灌沐の淨法身を拜しける

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年四十二の時の句。「灌沐」は「くわんもく(かんもく」で、陰暦四月八日の釈迦の生誕日に花御堂(はなみどう)に安置した釈迦像に香湯(甘茶)を注ぎかけて洗い清めることをいう。春の季語。但し、team-kuma 氏のブログ記事小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑14によれば、長女石昌子は「かんよく」と読んでいる旨の記載がある。「淨法身」は「じようはうしん(じょうほうしん)」で、禅宗や浄土宗などで灌仏会で香湯を灌ぐ際に唱える灌沐偈(かんもくげ)(「仏説浴像経」の一句を基にした偈)に、

 我今灌沐釋迦佛(がこんかんもくしゃかぶ:我れ今、釋迦佛を灌沐す)

 淨智功德莊嚴聚(じょうちくどくしょうごんじゅう:淨智をもつて莊嚴せる功德聚にて)

 五濁衆生令離苦(ごじょくしゅじょうりょうりく:五濁の衆生をして苦を離れしめ)

 願証如來淨法身(がんしょうにょらいじょうほっしん:(願はくは如來の淨法身を証せん)

とある。最後の句は――この灌仏の功徳によって願わくはこの現世の衆生が煩悩の垢を離れてともに悟りを開いて如来と同じ清らかな法身(永遠不滅の仏法の真理そのもの。理法としての仏。法性身(ほっしょうしん))を体現しますように――の意である。]

 

ぬかづけばわれも善女や佛生會

 

[やぶちゃん注:次の句とともに昭和七(一九三二)年四十二の時の作。坂本氏は「杉田久女」でこの句と先に出た二年後の「ぬかづきしわれに春光盡天地」の「ぬかづけば」と「ぬかづきし」の呼吸の違いに着目し、さらに「灌沐の」及び次の「無憂華」の句をも含めて久女の内的葛藤を鋭く抉り出している(同書一〇〇~一〇一頁)。是非読まれたい。]

 

無憂華の木蔭はいづこ佛生會

 

葺きまつる芽杉かんばし花御堂

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年の作。]

 

波痕のかわくに間あり大干潟

國吉眞善君に返詩を捧ぐ   山之口貘

 國吉眞善君に返詩を捧ぐ

 

氣取らずに! 氣取らずに!

汝自身は汝の

のどもとより湧き出づる

淸らか■詩に化せ

自重せよ緊張せよ、力強くあれ

可愛友よ。

堅き堅き汝の決心のどん底に

我が心の幾分かは採用されしを――

おゝおれは無限の蒼天に合掌す

金城滿池!!

かくにそあらめ我身よ

おれを突き飛ばさんとする曲者

これは強し強し、けれど

倒るまじ我身の堅さは

汝と共に競ふべし

再び目覺むる我!! 嗚呼――

新しき友の心ぞたのもしかれ。

されど友よ

行く可き詩の道はたゞひとつ

突破せばや詩に化すべき境涯に、

いざ登らば友よ

よりよき我等の光明は

愛撫また抱擁の中に

やゝ長き間疲れ來る――――

汝と我の努力は

美はしき輝きもで流込まん

 

[やぶちゃん注:底本では末尾に下インデントで『一九二一・七・一七』とある。大正一〇(一九二一)年八月一日附『八重山新報』に「佐武路」のペン・ネームで掲載された。題名の「國吉眞善」の「國吉」は姓であることによるものであろう、底本でもそのまま旧字体であるが「眞善」は定本では「真善」である。「淸らか■詩に化せ」の底本編者が判読に迷った箇所「■」は底本では「な」と推測されてある。「可愛友よ。」はママ。「堅き堅き」の後半は底本では踊り字「〱」。「かくにそあらめ」はママ。「金城滿池!!」はママ。これは後注するが「金城湯池!!」のバクさんの誤りと思われる。「強し強し」は(先の「堅き堅き」に対して踊り字ではないという意で)ママ。

「國吉眞善」国立国会図書館サーチで「群集の処女 国吉真善第一詩集」(詩集社(東京)昭和四(一九二九)年)というデータが見つかるが生没年その他は不詳。底本解題にも注記はない。底本年譜の昭和八(一九三三)年の条に『六月、国吉真善経営の泡盛屋で「琉球料理を味わう会」が催され、その席上、金子光晴、森三千代を知る』と出るのと同一人物か(森三千代は詩人・作家で金子光晴の妻)。また、個人ブログ「結~つなぐ、ひらく、つむぐ~」の山之口獏詩碑「座布団」を眺めながらくつろぐ…与儀公園に『国吉真哲(くによししんてつ)等とともに『琉球詩壇連盟』の結成に参加し、この頃から『山之口貘』のペンネームを使用した』とあるが(この事蹟は底本年譜に不載)、一字違いが気になる詩人である(「ゲリラ 国吉真哲歌集」をやはり国立国会図書館サーチで確認出来る。生年は明治三三(一九〇〇)年(バクさんは一九〇三年生)で没年は記されていない。また、ウィキ沖縄県立首里高等学校の「著名な卒業生」に大正九(一九二〇)年卒として国吉真哲の名があり、ジャーナリストと記されてある)。

「金城滿池」は「金城湯池」であろう。金城湯池は「きんじやうたうち(きんじょうとうち)と読み、「金城」が銅で築いた堅固な城、「湯池」は湧き立つ熱湯を湛えた堀で、攻め込みにくい堅固な備えを指し、非常に守りの堅いたとえ。「漢書」の「蒯通(かいとう)伝」に基づく。単純にバクさんの誤記か若しくは誤って記憶していたのかも知れない。確かに「湯池」というのはすぐ冷えちゃいそうだし、「滿池」、深くて水が満ち満ちた堀の方が効果的かもね。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅10 黒羽 鶴鳴や其聲に芭蕉やれぬべし   芭蕉

本日二〇一四年六月 二日(陰暦では二〇一四年五月五日)

   元禄二年四月十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 二日

である。この日、芭蕉は余瀬の鹿子畑翠桃豊明宅から彼の兄浄法寺図書桃雪高勝の屋敷を訪問、最後の黒羽の一夜をここで過ごした(曾良は持病のため同道していない)。翌日、翠桃宅へ戻り、昼頃、高久へ向けて旅立った。十三泊十四日という異例の黒羽逗留の最後の泊りが今日であった。

 

  はせをに鶴繪がけるに

鶴鳴(なく)や其(その)聲に芭蕉やれぬべし

 

  鶴の繪贊

鶴鳴や其聲芭蕉やれぬべし

 

[やぶちゃん注:第一句は「曾良書留」。頭書に『贊』とある。第二句は「奥細道拾遺」(莎青編・延享元(一七四四)年)の句形。但し、この第二句目は曾良の「雪まろげ」では、「靏の贊」として曾良の作として載る。

 山本健吉氏は「芭蕉全発句」で、浄法寺図書桃雪高勝の屋敷秋鴉亭で桃雪の描いた鶴の絵に芭蕉が讃した句と推測、『秋鴉の風雅を鶴に見立て、その清澄さに芭蕉自身の及びがたいという謙遜の気持を述べたものであろう。この「芭蕉」には芭蕉自身を寓していると見るべきだろう。だが』、『表現不足で真意をはかりがたい句である』と述べておられる。長逗留の別れに臨んでの形見とした贈答句ではあろうが、どうも見え透いた象徴言辞で寧ろ、厭味な感じもする。それはまたもしかすると芭蕉独特の隠された棘を含んだ、意識した確信犯ででもあったのかも知れない。ともかくも芭蕉は明らかに「奥の細道」の入り口で如何にもな足止めを食らった。それを芭蕉はそうした隠れた焦燥感を明らかに「奥の細道」やこれらの句群に忍び込ませているように私には思われるのである。]

2014/06/01

飯田蛇笏 靈芝 昭和十年(九十九句) Ⅸ

 

巫女の劍佩きたる雪月夜

 

溪巖に吹きたまりたるあられかな

 

爐をひらく火の冷え冷えと燃えにけり

 

[やぶちゃん注:「冷え冷え」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

狩くらの雲にあらはれ寒の鳶

 

[やぶちゃん注:「狩くら」は「狩倉」「狩座」「狩競」で狩猟をする場所・狩り場、また単に狩猟、特に鹿狩りを指す古語であるが、ここは前者。]

 

涙ぐむしなあえかなる雪眼かな

 

爐邊に把る巫女の鈴鳴りにけり

 

貧農に小ばなしはずむ圍爐裡かな

 

新月を搖る波に泣く牡蠣割女

 

大つぶの寒卵おく繿縷の上

 

[やぶちゃん注:「繿縷」は襤褸に同じい。]

 

窻の蔦枯れ枯れに陽も皺みけり



[やぶちゃん注:「枯れ枯れ」の後半は底本では踊り字「〲」。]

杉田久女句集 232

 

  京都白川莊 一句

 

鶯や螺鈿古りたる小衝立

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年の句。「京都白川莊」不詳。]

 

  琵琶湖 二句

 

舳先細くそりて湖舟や春の雪

 

水鳥に滋賀の小波よせがたし

 

[やぶちゃん注:以下、「時雨雲」までの十句は総て昭和四(一〇二九)年三十九歳の時の作。]

 

  若王子 一句

 

緣起圖繪よむ一行に梅さかり

 

[やぶちゃん注:昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では前書を、

 

  若王寺 一句

 

とする。これは前後の京都関連から見ると、京都府京都市左京区若王子町の熊野若王子神社か。但し、同神社に「緣起圖繪」を確認出来ない。また桜の名所ではあるが、梅はネットでは掛からない。]

 

春雪に四五寸靑し木賊の芽

 

  洛北詩仙堂 一句

 

きこえ來る添水の音もゆるやかに

 

[やぶちゃん注:「詩仙堂」正式には凹凸窠 (おうとつか)。京都市左京区一乗寺門口町にある江戸初期の徳川家家臣石川丈山(天正一一(一五八三)年~文一二(一六七二)年)が隠居のため造営した山荘跡で、現在は曹洞宗丈山寺。名前は中国の詩家三六人の肖像を掲げた「詩仙の間」に由来し、詩仙は日本の三十六歌仙に倣って林羅山の意見を求めながら、漢晋唐宋の各時代から選ばれた。肖像は狩野探幽によって描かれ、四方の壁に掲げられてある。「凹凸窠」とは凸凹(でこぼこ)の土地に建てられた住居の意味で、建物や庭園は山の斜面に沿って作られてある。丈山は詩仙の間を含め建物や庭の十個の要素を凹凸窠十境という名数に見立てた。寛永一八(一六四一)年、丈山五十九の時に造営され、九十歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。小有洞という門を潜って竹林の中の道を行くと石段の上に老梅関という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は三階建ての嘯月楼となっており、その右手 (西側) には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の詩仙の間、他にも読書の間など多くの部屋がある(嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築で、他は後世の改築)。庭園造りの名手でもあった丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春の皐と秋の紅葉で知られ、縁の前に植えられた大きく枝を広げた白い山茶花も見所の一つである。一般に猪威しとして知られる添水 (そうず) と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントとなっていて、丈山も好んだという(ここまでウィキ詩仙堂に拠ったが、京に暗い私が実はとても好きな名所である)。]

 

  京都にて 三句

 

芹すゝぐ一枚岩のありにけり

 

梅林のそゞろ歩きや筧鳴る

 

探梅に走せ參じたる旅衣

 

  粟生光明寺歸途

 

時雨雲はるかの比叡にかゝりけり

 

[やぶちゃん注:「光明寺」京都府長岡京市粟生(あお)西条ノ内にある西山浄土宗総本山報国山光明寺。法然が初めて念仏の教えを説いた地で、紅葉の名所としても広く知られる。参照したウィキ光明寺長岡京市によれば、『法然を慕い帰依した、弟子の蓮生(熊谷直実)が』、建久九(一一九八)年に『当地に、念仏三昧堂を建立したのが始まりである。のちにここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。法然の石棺から、まばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえたという』。建永二(一二〇七)年に『熊谷で予告往生を遂げた蓮生の遺骨は遺言により』ここの『念仏三昧院に安置された』とある。因みに熊谷直実は私が殊の外好きな鎌倉武士である。]

 

  法然院

 

山かげの紅葉たく火にあたりけり

 

[やぶちゃん注:「法然院」京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町にある寺院(現在は浄土宗系単立宗教法人で正式には善気山法然院萬無教寺と号するが、院号の法然院の方で知られる)。ウィキ法然院」によれば、『寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという』。『寺は鄙びた趣きを』持ち、『茅葺で数奇屋造りの山門』の内には『内藤湖南、河上肇、谷崎潤一郎、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が』多いとある。]

 

  豐後洋上にて 二句

 

春潮に群れ飛ぶ鷗縦横に

 

春雷や俄に變る洋の色

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年四月三日に出席した道後公会堂の第一回関西俳句大会の際の句であろう。「豐後洋上」とは福岡から豊後水道を渡ったその時の船旅の途次を指すものと思われる。]

 

  昭和四年 松山にて 二句

 

師に侍して吉書の墨をすりにけり

 

春雨や木くらげ生きてくゞり門

 

[やぶちゃん注:底本年譜の当該年に松山行の記載はない。]

橋本多佳子句集「紅絲」 炉火

 

 炉火

 

風邪髪の櫛をきらへり人嫌ふ

 

風邪髪に冷き櫛をあてにけり

 

つひに来ず炉火より熱(あつ)き釘ひらふ

 

泣きしあとわが白息の豊かなる

 

[やぶちゃん注:「白息」は「しらいき」と訓じているか。]

 

心見せまじくもの云へば息白し

 

渦巻く炉火ともすれば意志さらはるゝ

 

許したししづかに靜かに白息吐(は)く

 

いぶり炭悲しくてつい焰立つ

 

激しき心すでに去りたる炉火の前

 

死ぬ日いつか在りいま牡丹雪降る

 

忘られし冬帽きのふもけふも黒し

 

鶏しめる男に雪が殺到す

 

鶏の臓剝してぬくし雪ふりをり

 

[やぶちゃん注:上五は「けいのわた」と読んでいよう。後に「河豚の臓(わた)」とルビが出る。]

 

鶏の血の垂りて器に凍むたゞこれのみ

 

咳が出て咳が出て羽毛毟りゐる

 

毟りたる一羽(は)の羽毛寒月下

 

寒月に焚火ひとひらづゝのぼる

「鼻のある結論  山之口貘」注を新全集対比検証により全面改稿

「鼻のある結論  山之口貘」を、思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」との対比検証により、注を全面改稿した。
いろんなことが疑問に思われると同時に、また、そこからまた新たにいろんなことを考えることになり、これを注するのが、また実に面白い!―― 

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