隱岐の法皇第一の御子は、土御門院と申し奉る。去ぬる承元三年三月に、御心ならず御位を下(おろ)し奉りしかば、御恨(おんうらみ)深く、法皇には御不孝の如くにて、今度の御謀叛にも與(くみ)し給はず。關東にも兎角の沙汰には及ぼすして、都の内におはしましける所に、仰出されけるやう、一院配所にましまし、我が身都に安堵し給はば不孝の罪深かるべし。同じ遠國にこそ栖み給はめとて、九條の襌定殿下(ぜんぢやうてんが)右大將公經卿(きんつねのきやう)に仰せられしかば、この由關東へ仰遣(おほせつかは)さる。右京〔の〕大夫義時以下の人々、憐み奉りて、この上は力及ずとて、同十月十日、土佐國へと定められ、鷹司萬里小路(たかつかさまでのこうぢ)の御所より出し奉る。御供には少將定平、侍従貞元、女房三人、御道中も哀なる御事、多かりけり。須磨や明石の夜の浪、千鳥の聲も遠近(をちこち)なり。高砂、尾上(をのへ)の曉(あかつき)の夢、男鹿(をしか)の音(ね)にや醒(さま)すらん。比は神無月(かみなづき)十日の事なれば、野邊(のべ)の草叢霜枯れて、山路の梢も疎(まばら)なり。御衣(ぎよい)の袂に秋を殘して、露の滋(しげ)さぞ勝りける。讃岐の八島を御覽ずれば、安德天皇の御事を思召出され、松山を見やらせ給ふにも崇德院の御有樣思ひ續け給ふ。何事を見聞給ふにつけても今は只御身一つにつまされて、思沈(おもひしづ)み給ひけり。土佐國に著き給へども、御住居、餘(あまり)に少(ちひさ)き御事なれば、阿波國へ遷(うつ)らせ給ふ。阿波と土佐との中山にて、俄に大雪降り出て、路(みち)、雪に埋(うづも)れ、駕輿丁(かよちやう)も行きなづみければ、御輿(みこし)を搔据(かきす)ゑ奉り、如何なるべきとも覺えざりしかば、院、御涙に咽(むせ)ばせ給ひて、
浮世にはか〻れとてこそ生れけめ理(ことわり)知らぬ我が涙かな
邊(あたり)松の枯枝、切下(きりおろ)し、御燒火(おんたきび)を奉り、供奉の人々も、是(これ)にあたりて、衞士(ゑじ)の焚く火にあらねども、折から哀(あはれ)に悲しくて、皆、涙をぞ流しける。夜も漸(やうやう)明方になりければ、雪も晴れて、空、爽(さはやか)に四方(よも)の梢も白妙なり。御迎ひの人、參り加(くはゝ)り、道、踏分けさせて、阿波國へならせ給ふとて、
浦々に寄する白浪言問はん隱岐の事こそ聞かまほしけれ
今年、如何なる年なれば、三院、二宮(じきう)、遠島に遷され、公卿、官軍、刑戮(けいりく)に逢ひぬらん。不思議なりける運命かなと、高きも賤きも時節の變をぞ歌ひける。時房、泰時、朝時、義村、信光、長淸等は、一天の君を擒(とりこ)にし、九重の都を劈(つんざ)きて、猛威を振ひて鎌倉にぞ歸りける。
[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【四】――土御門院、土佐次いで阿波へ遷幸す〉
「承元三年三月」後掲するように底本とした「承久記」自身の誤り。承元四年十一月が正しい。後鳥羽天皇の第一皇子であった土御門天皇(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)の在位は建久九(一一九八)年二月から承元四(一二一〇)年十一月二十五日までであった。即位後も事実上、後鳥羽上皇による院政が敷かれていた。しかし穏和な性格が幕府との関係上心許ないと判断した後鳥羽上皇は彼に退位を迫り、この日、異母弟である順徳天皇に譲位、同年十二月五日に上皇となった(以上はウィキの「土御門天皇」に拠る)。
「九條の襌定殿下」九条道家。
「十月十日」「吾妻鏡」に拠れば閏十月十日である(後掲)。
「鷹司萬里小路」「萬里小路」は現在の京都府京都市下京区万里小路町(まりこうじちょう)に相当するが、「鷹司」を冠している理由が分からない。現在の京都市上京区鷹司町(たかつかさちょう)は「萬里小路」とは遙か離れている(因みに藤原北家で五摂家の一つとして近衛家より分立(近衛家実四男兼平を祖とする)した「孝司」家があるが、これは兼平の居処が同町にあったことに由来する。また、名家の家格を有する藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流支流(吉田資経四男資通を祖とする)の「萬里小路」家(までのこうじけ)もあるがこれも資通の居処が同町にあったことに由来する。但し、両家ともに鎌倉中期に始まるのでこの記載とは直接の関係はない)。以下に見るように元にした「承久記」にもそうあるが、京に暗い私には不審である。当時の「萬里小路」に接して「鷹司」の地名があったものか? 識者の御教授を乞うものである。
「高砂、尾上の曉の夢」「百人一首」で知られる大江匡房(まさふさ)の第七十三番歌や藤原興風の第三十四番歌に基づく。「高砂」は一般名詞では「高く積もった砂」の意で「高山」、「尾上」は「峰(を)の上(うへ)」で「山峰」であり、前者の和歌「高砂の尾(を)の上(へ)の桜咲きにけり外山(とやま)の霞たたずもあらなむ」では一般名詞乍ら、後者の「誰(たれ)をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」では具体な播磨国加古郡高砂(現在の兵庫県高砂市南部)の浜辺、その西に隣接する尾上神社(兵庫県加古川市尾上町長田字尾上林)にある松の名所「尾上の松」として歌枕となった(そこから「高砂の」は「まつ」「尾上」にかかる枕詞ともなった)。位置的には土佐遷幸の途中に当たるのでここは固有名詞と採ってよい。
「松山を見やらせ給ふにも崇德院の御有樣思ひ續け給ふ」保元の乱に敗れた崇徳天皇は讃岐国(現在の香川県坂出市)に配流されたが、最初に着いた湊が「松山の津」(現在の坂出市松山地区)であった。増淵勝一氏の訳はここを崇徳院ではなく『弟の順徳院』と訳しておられるが、不審である。
「土佐」現在の高知県西部にある幡多郡。ここまでの遷幸から都に近い阿波への遷幸(幕府の配慮に拠る)やその行在所については様々な伝承があり、ここに示されたような孝心の貴種の数奇な流離一色というわけではないように見受けられる。次の次の注のリンク先に詳しい。必見。
「阿波」現在の徳島県阿波市に御所跡があるが諸説ある。やはり次の注のリンク先に詳しい。
「阿波と土佐との中山」この「中山」は一般名詞の「国境の山中」の意であろう。T. HONJO氏のブログ「サイエンスにゆかりのある歴史散歩」の「土御門上皇(第83代天皇、歌人)の流刑(土佐、阿波)にまつわる歴史伝承、承久の乱、遠流、百種和歌、とは」によれば、このルートも確定しておらず、『伝承地の分布から、阿波の山城谷村(山城町、三好郡)を経て吉野川沿いを通ったとする説(南海道、四国山脈を横断、阿波西部の山越え後、阿波の行在所へ)、南方海岸沿いの陸路を北上してきた説(南海道、室戸の手前の奈半利から野根山を越え、土佐、阿波の海浜を経て、阿波の行在所へ)など』があるとある。
「駕輿丁」「輿舁(こしかき)」とも。奈良時代以降、朝廷に属して主として天皇や上皇などの行幸・御幸の際にその輿(こし)を担(かつ)いだり、輿の前後につけた綱を手にとったりして行歩した下級職員の呼称。
「御輿を搔据ゑ奉り」この「奉る」は、高貴な人が車・船・馬・輿などに「乗る」場合の尊敬語の敷衍的用法と思われる。御輿を路の傍らにお降(お)ろしになられ。
「浮世にはか〻れとてこそ生れけめ理知らぬ我が涙かな」――私はもともと「この世にはあってはかくあれ(この様な運命を身に引き受けよ)」と定められて生まれて来たのであろう……それが仏の説く真実(まこと)である……だからそれを当然のこととして受け止めて嘆くには及ばぬはずであるのに……その理りを弁えることもなく……徒らに流れ出ずる愚かなる我が涙であることよ――。
「衞士の焚く火」百人一首の大中臣能宣の第四十九番歌、
御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)の焚く火の夜は燃え晝は消えつつものをこそ思へ
を受けたもの。切々たる恋情の昼夜の憂いを、荒涼凄愴たる折衷の悲慟に転じた。しかいし、やや演出が過ぎる気が私にはする。
以下、「承久記」であるが、筆者は敗将佐々木広綱(七月二日に梟首)の四男勢多伽(せいたか)丸が広綱の弟で幕府軍の将佐々木信綱によって斬首される一部始終及びやはり敗軍の将三浦胤義(先に示した通り、七月六日太秦にて自害)の東国に残していた幼い子供達五人の凄惨な処刑場面を総てカットして、「承久記」(下)の末尾の土御門院の事蹟をここに採用している。以下、筆者が省略した部分を含め、底本通し番号104から最後の108まで総てを示す。これによって「〇北面西面の始 付 一院御謀叛の根元 竝 平九郎仙洞に參る」以降の注で、前半の一部(底本通し番号の1~10パート)を除く「承久記」の電子化をしたことになる。近い将来、省略部も含めて、一括通読版を作製する予定である。
カミツカタノ御事ハサテ置ヌ、下ザマニモ哀ナル事多カリケリ。佐々木山城守廣綱ガ子ニ勢多伽丸トテ、御室ノ御所ニ御最愛ノ兒有。「廣綱罪重シテ被ㇾ切ヌ。其子勢多伽サテシモウシ。定テアラケナキ武士共參テ責進ラセ候ハンズラン。サナラヌ先ニ、出サセマシマシ候ハンハ、穩便ノ樣ニ候ナン」ト人々口口ニ申ケレバ、御室、「我モサ思召」トテ、芝築地上座信俊ヲ御使ニテ、鳴瀧ナル勢多伽ガ母ヲ召テ被ㇾ仰ケルハ、「勢多伽丸七歳ヨリ召仕テ、已ニ七八歳ガ程不便ニ思召共、父廣綱ガ罪深シテ被ㇾ切ヌ。其子ニテ可ㇾ遁共不ㇾ覺。武士共參テ申サヌ先ニ被ㇾ出バヤト思召ハ如何ニ」ト被ㇾ仰ケレバ、母承リモ不ㇾ敢、袖ヲ顏ニ推當テ、涙ヲ流シ、「兎ニモ角ニモ御計ヒニコソ」ト泣居タリ。勢多伽、今年ハ十四歳、眉目心樣世ニ超タレバ、御所中ニモ雙ビ無ケリ。見人袖ヲシボリツヽ、カヤクキ著タル淺黄ノ直垂ニ、「最後ノ時ハ是ヲ著替ヨ」トテ、朽葉ノ綾ノ直垂ヲ給フ。勢多伽、切ラレン事ト聞バ、サコソ心細モ思ヒケメ、涙ノ進ケルヲモ、サル者ノ子ナレバニヤ、サリゲナクモテナシケルゾ哀ナル。日來馴遊ケル兒達、出合テ名殘ヲ惜ミ送ラントス。此程祕藏セシ手本、モテ遊ビナドクバリ與へテ、「各、思出シ給ン時ハ、念佛申訪給へ」ト云テ出ツヽ、御所中ノ上下、是ヲ見ニ目モ昏心迷ヒ、袖ヲシボラヌハ無ケリ。
●「カヤクキ」不詳。識者の御教授を乞う。
大藏卿法印覺寛ヲ召テ被ㇾ仰ケルハ、「六波羅へ行テ云ン樣ハ、「山城守廣綱ガ子、七歳ヨリ被二召置一テ、不便ニ思召セ共、父罪深シテ被ㇾ切ヌレバ、其子難ㇾ遁ケレ共、是ガイトケナキニハ何事ヲカ仕リ可ㇾ出ナレバ、法師ニナシテ親ノ後世ヲモ弔ハセント思召セ共、定テ申ンズラント覺ル間、先出シ被ㇾ遣也。餘ニ不便ナレバ、我ニ預ナンヤ。大事有バカケヨ」ト云テ見ヨ」ト被ㇾ仰テ、又勢多伽ニ仰ケルハ、「汝、不便サ限無ケレ共、力不ㇾ及。ウラメシク思ナヨ。ナラビノ岡ヲバ死出ノ山ト思ヒ、鴨河ヲ三途ノ河ト可ㇾ思」ト被二仰含一我御身ヲアソバサルヽト覺シクテ、
埋木ノ朽ハツべキハ留リテ若木ノ花ノテルゾ悲シキ
サテ大藏卿法印・勢多伽、一車ニ乘具シテヤク出セバ、母跡ニカチハダシニテ歩、泣トモナク倒ル共ナタ慕行ツヽ、法印、「車ノシリニ乘給へ」ト云へ共不ㇾ乘、六波羅へ行著テ、勢多伽ヲ先ニ立テ侍へ入、「御室ヨリノ御使候」トイハスレバ、武藏守出合タリ。法印、令旨ノ趣ヲ申開セケレバ、ツクヅクト打守リテ、「誠ニ能兒ニテ候ケリ。君ノ不便ニ思召ル、モ御理ニ候。左候ハヾ、暫預進ラセ候ハン。此由ヲ被ㇾ申候へ」ト被ㇾ申ケレバ、勢多伽ガ母、庭ニ臥マロビテ泣悲ケルガ、此御返事ヲ聞、起揚リ、武藏守ヲヲガミ、「七代迄、冥加ヲハシマシ候へ」トテ、車ニノセテ返ル程ニ、叔父ノ佐々木四郎左衞門尉信網參リタリ。「廣綱ト兄弟ナガラ中惡ク候シ事、年比被二知召一テ候。勢多伽童ダニ被二助置一候ハヾ、信綱モトヾリ切テ、如何ニモ罷成候ハン」ト申ケレバ、是ハ奉公他ニ異ナル者也、彼ハ敵ナレバ力不ㇾ及トテ、樋口富小路ヨリ召返テ、信綱ニ被ㇾ預。軈テ郎等金田七郎請取テ、六條河原ニテ切ントス。勢多伽、御所ヨリ給ヒツル朽葉ノ直垂著替テ、車ヨリ下、敷皮ニ移リ、西ニ向テ手ヲ合セ、念佛百反計申、父ノ爲ニ囘向シ、我後生ヲ祈念シツヽ、首ヲノベテ被ㇾ打ケリ。母、空キカラダニ抱付、絶入絶入呼キ叫有樣、目モアテラレズ。上下涙ヲ流サヌハ無ケリ。御室ハ、「空キカラヲ成共、今一度見セヨ」ト被ㇾ仰ケル間、車ニカキ入テ歸リ參ル。是ヲ御覽ゼラレケル御心ノ中、譬ン方モ無ケリ。
其外、東國ニモ哀レナル事多キ中ニ、平九郎判官胤義ガ子共五人アリ。十一・九・七・五・三也。ウバノ尼ノ養ヒテ、三浦ノ屋部ト云所ニゾ有ケル。胤義其罪重シトテ、彼ノ子共、皆可ㇾ被ㇾ切ニ定メラル。叔父駿河守義村、是ヲ奉テ、郎等小河十郎ニ申ケルハ、「屋部へ參テ申サンズル樣ハ、「力不ㇾ及、胤義御敵ニ成候シ間、其子孫一人モ助カリガタク候。其ニ物共、出サセ可ㇾ申」トテ遣ス。十郎、屋部ニ向フテ此由申ケレバ、十一ニナル孫一人ヲバ留メテ、九・七・五・三ニナル子共ヲ出シケリ。小河十郎、「如何ニ、ヲトナシタヲハシマス豐王殿ヲバ出シ給ハヌ哉覽」ト申ケレバ、尼上、「餘ニムザンナレバ、助ケント思フゾ。其代リニハ尼ガ首ヲトレ」ト宣ケレバ、ゲニハ奉公ノ駿河守ニモ母也、御敵胤義ニモ母也、ニクウモイト惜モ有間、力不ㇾ及、四人計ヲ輿ニノセテ返リニケリ。鎌倉中へハ不ㇾ可ㇾ入トテ、手越ノ河端ニヲロシ置誰バ、九・七・五ハ乳母乳母ニ取付テ、切ントスルト心得テ泣悲ム。三子ハ何心モナク、乳母ノ乳房ニ取付、手ズサミシテゾ居タリケル。何レモ目モアテラレヌ有樣也。日已ニ暮行バ、サテアルべキ事ナラネバ、腰ノ刀ヲ拔テ搔切々々四ノ首ヲ取テ參リヌ。四人ノ乳母共、空キカラヲカヽへテ、聲々ニ呼キ叫有樣、譬テ云ン方モナシ。ムクロ共輿ニノセ、屋部へ歸リテ孝養シケリ。祖母ノ尼、此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ、各云シ言ノ葉ノ末モワスラレズ、今ハトテ出シ面影モ身ニ添心地シテ、絶入給ゾ理ナル。
●最後の「此年月ヲフシタテナレナジミヌル事ナレバ」の部分、意味が取れない、識者のご教授を乞うものである。
以下が本文が採用した土御門院の事蹟となり、これを以って「承久記」は終わっている。
抑、隱岐ノ法皇第一御子、中ノ院共申、又ハ土御門院共申ケル。承元三年三月、御心ナラズ御位ヲスベラセ給シカバ、御恨探クシテヲハシマシケル。サレバ御不孝ノ如ニテ、關東ヨリモ兎角ノ沙汰ニモ不ㇾ及、都ニヲハシケル。被ㇾ仰ケルハ、「承元ノ古へ、其恨深トイへ共、人界ニ生ヲ受ル事、是父母ノ思也。然ルニ一院配所ニマシマシナガラ、我身都ニ安堵シテ居事、彌不孝ノ罪深カルべシ。同遠國ニコソ栖メ」ト九條禪定殿下幷ニ右大將公經ニ被ㇾ仰ケレバ、此旨ヲ關東へ被二仰遣一。左京權大夫義時以下ノ人々、憐ミ奉リテ、此上ハ力不ㇾ及トテ、同十月十日土佐ノ國ト被ㇾ定テ、鷹司萬里小路ノ御所ヨリ御出立アリ。外戚土御門大納言定通卿參リテ、泣泣出シ奉ツル。御供ニハ少將定平・侍從貞元、女房三人、醫師一人參リツヽ、御道スガラモ哀ナル御事共多カリケリ。
須磨・明石ノ夜ノ波ノ音、高沙・尾上ノ曉ノ鹿ノ聲、神無月十日餘ノ事ナレバ、木々ノ梢、野邊ノ叢、霜枯行氣色ナルニ、御袖ノ上ニハ秋ヲ殘シテ露探シ。讃岐ノ八島ヲ御覽ズレバ、安德天皇ノ御事ヲ思召被ㇾ出、松山ヲ御覽ジテハ、崇德院御事押計ラセ給テ、何事ニツケテモ、今ハ御身一ノ御事ニ思召沈マセ給ゾ哀ナル。角テ土佐國ニ付セ給ニ、御栖居チイサキ由申セバ、阿波國へ移ラセ給程ニ、阿波ト土佐ト兩國ノ中山ニテ、俄ニ大雪降ツヽ前後ノ路モ分ガタク、御輿カキモ歩カネ、上下ノ輩行ヤラザリケレバ、御輿カキスヘテ、如何ナルべシ共不ㇾ覺。院、御涙ニムセバセマシマシテ、
浮世ニハカヽレトテコソ生レケメ理リシラヌ我涙カナ
被二召仕一ケル番匠一人有。眉目カタチヨカリケレバ、侍次郎ト名付ラレタリ。「御供仕ラン」ト頻ニ望申ケルヲ、「田舍ニテ造作ヲモセバコソ番匠ハイラメ、只罷留レ」ト仰ケレ共、アナガチニ進ミテ參リケルガ、具足モチテ木ニノボリテ、枯タル枝共切ヲロシ、御輿ノ前二取積テ燒。供奉武士共ノ前ニモ燒ケレバ、下﨟皆安堵ス。君モ少シ御心ノビサセ御座テ、「番匠只今大切ナリ」トゾ被ㇾ仰ケル。フル雪モ物ナラズシテ、夜モ明ニケレバ、御送ノ人モ參重リ、御迎ノ輩モ加リケレバ、道蹈分サセテ阿波國へ成セ給トテ、
浦浦ニヨスル白浪事問ハンヲキノコトコソ聞マホシケレ
承久三年六月中ノ十日、如何ナル月日ナレバ、三院・二宮遠島へ趣セマシマシ、公卿・官軍、死罪・流刑ニ逢ヌラン。本朝如何ナル所ナレバ、恩ヲ知臣モナク、恥ヲ思フ兵モ無ルラン。日本國ノ帝位ハ、伊勢天照太神・八幡大菩薩ノ御計ヒト申ナガラ、賢王、逆臣ヲ用ヒテモ難ㇾ保、賢臣、惡王ニ仕へテモ治シガタシ。一人怒時ハ、罪ナキ者ヲモ罰シ給フ、一人喜時ハ、忠ナキ者ヲモ賞シ給ニヤ。サレバ、天是ニクミシ不ㇾ給。四海ニ宣旨ヲ被ㇾ下、諸國へ敕使ヲ遣ハセ共、隨奉ル者モナシ。カヽリシカバ、時房・泰時・義村・信光・長淸以下、數萬ノ軍兵、三ノ道ヨリ責上リケレバ、靡カヌ草木モ無リケリ。
承久記下終
「吾妻鏡」の承久三 (一二二一) 年閏十月十日の条を最後に掲げておく。
十日庚寅。土御門院遷幸土佐國。〔後阿波國。〕土御門大納言〔定通卿。〕寄御車。君臣互咽悲涙。女房四人。幷少將雅具。侍從俊平等候御共。此君。大化滂流萬邦。慈惠充滿八埏御之間。不申行。遂日緒之處。縡起於叡慮。忽幸于南海云々。天照大神者。豊秋津洲本主。 皇帝祖宗也。而至于八十五代之今。何故改百皇鎭護之誓。 三帝。兩親王。令懷配流之耻辱御哉。尤可恠之。凡去二月以來。 皇帝。幷攝政以下。多天下可改之趣蒙夢想告御。新院御夢。或夜。有船中御遊之處覆其船。或夜。又老翁一人參上一院。叡慮者一六由告申。又七月十三日。可定天下事者。吉水僧正坊夢。年來熏修壇上有馬。件馬俄以奔出者。依之。僧正於向後者。不可奉仕 仙洞御祈禱之旨。潛插意端云々。是等何非宗廟社稷之所示哉。然而君臣共不驚之御。爲長卿獨不醉之間。恐怖云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十日庚寅。土御門院土佐國〔後に阿波國。〕へ遷幸す。土御門大納言〔定通卿。〕御車を寄せ、君臣互ひに悲涙に咽(むせ)ぶ。女房四人幷びに少將雅具・侍從俊平等、御共に候ず。此の君、大化、萬邦に滂流(はうりう)し、慈惠、八埏(じゑはちえん)に充滿し御ふの間、申し行はずして日緒(につしよ)を遂ぐるの處、縡(こと)、叡慮より起こり、忽ち南海に幸すと云々。
天照大神は、豊秋津洲(とよあきつしま)の本主(ほんしゆ)、皇帝の祖宗なり。而るに八十五代の今に至り、何故に百皇鎭護の誓ひを改め、三帝・兩親王に配流の耻辱を懷かしめ御ふや。尤も之を恠(あや)しむべし。凡そ去ぬる二月以來、皇帝幷びに攝政以下、天下を改むべしの趣き、夢想の告げを蒙り御ふは多し。新院の御夢に、或る夜、船中に御遊有るの處、其の船、覆る。或る夜は又、老翁一人、一院に參上し、叡慮は一六の由、告げ申す。又、七月十三日、天下の事を定むべしてへれば、吉水(よしみづ)僧正坊の夢に、年來(としごろ)、熏修(くんじゆ)の壇上に馬有り。件の馬、俄かに以つて奔り出づてへれば、之れに依つて、僧正、向後に於ては、仙洞の御祈禱を奉仕すべからざるの旨、潛かに意端に插(さしはさ)むと云々。
是等、何れも宗廟社稷(そうべうしやしよく)の示す所に非ずや。然而れども、君臣、共に之を驚き御はず。爲長卿獨り、醉はざるの間、恐怖すと云々。
●「土御門大納言〔定通卿。〕」土御門定通。土御門天皇は彼の甥に当たる。親幕派であったが、承久の乱では後鳥羽院政の関係者として連座し失脚した。彼の異父姉であった源在子が土御門天皇の生母である。
●「大化、萬邦に滂流して」「大化滂流」は孔安国「古文孝経序」の一節にある「上に明王あれば、則ち大化滂流して六合に充塞す。若し其無ければ、則ち斯の道滅息せん」辺りが元であろう。則ち、「上に聖王が現れて人として最も大切な「孝」の正しい在り方を示されたことによってその広大な徳は自然、あらゆる人民をも感化し、世の隅々に至るまで「孝」の道が満ち満ちた。もしもそのような聖王がいなかったら、即ち、かくも大切な「孝」の道は滅び絶えていたに違いない」という一節である。ここで已にしてこの土御門院の配流が彼自身の孝心によるものであることが示されているのである。
●「慈惠、八埏に充滿し」慈しみの心で以って他に恵み施す広大な心で、「八埏」は国の八方の果て。全土に孝道の手本を遍く自ら示して満たしたということであろう。則ち、ここは続く「叡慮より起こり」を前倒しで説明する形で土御門院の孝心を讃えた表現なのだと私は読む。大方の御批判を俟つ。
●「申し行はずして日緒を遂ぐる」「日緒」は相応の日にちで、政道について一切の発言や行動をとることなく日を暮して居れたうちに、の意。
●「八十五代」土御門天皇は第八十三代で次が異母弟順徳天皇、その次が第八十五代仲恭天皇となるのであるが、彼は即位も認められていなかったために諡号や追号がつけられず、九条廃帝として明治三(一八七〇)年に天皇として認められるまでは数に入っていない。承久の乱直後の七月九日に後堀河天皇が正式に践祚した(次章参照)。但し、この本文の「八十五代」は明らかに、そこで国と民を守ることを忘れて承久の乱を引き起こしてしまったところの御代ということで、やはりこの九条廃帝仲恭天皇の御代を指している。
●「一六」は骰子。ここは一六勝負で博奕。転じて運任せの冒険的な行為。
●「七月十三日、天下の事を定むべし」この日はまさに後鳥羽上皇が隠岐遷幸の当日である。
●「吉水僧正坊」天台座主慈円。西園寺公経とともに承久の乱では一貫して後鳥羽上皇に反対の立場をとった。
●「熏修の壇上」護摩を修する神聖なる壇。
●「宗廟社稷の示す所」「宗廟」祖先のみたまや、祖先の位牌を置く所で、狭義には皇室の祖先を祭るみたまや、伊勢神宮などを指す。「社稷」は元来は中国に於ける国家祭祀の中枢を担う「社」(土地神を祀る祭壇)と「稷」(穀物神を祀る祭壇)の総称。ここでは広く神仏を指し、それらから凶兆として示された、神仏に見放されたという謂いで用いている。
●「爲長卿」菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年)は公卿で九条家に仕えた儒学者。元久元(一二〇四)年に文章博士となったその年に土御門天皇の侍読となり以後五代に亙る天皇の侍読を勤めた。建暦元(一二一一)年には従三位に叙されて公卿に列した(菅原氏が公卿となったのはかの菅原道真以来のことであった)。備後権守・大蔵卿を経て承久三(一二二一)年には正三位・式部大輔となる。この頃、北条政子の求めに応じて「貞観政要」を和訳して献じている。後鳥羽・順徳院に近侍したにも拘わらず、彼が承久の乱後に咎めを受けなかったのは、為長が家司として務めていた九条家(特に九条道家)が親幕派で彼も一貫して同様の立場をとっていたため、承久の乱後に政権を握った九条道家の政治顧問として朝廷の中枢に留まることが出来たことによる。官は参議、位は正二位にまで昇って「国之元老」として重んじられた(以上は主に「朝日日本歴史人名事典」に拠った)。]