フライング公開 「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」(曾良)の句にについて
『シンクロニティ「奥の細道」の旅28 松島』に加筆しているうち、テンションが揚がってきた。
これだけは先に公開したくなった。
知られた「奥の細道」の「松島」の段の最後の部分に対する私の見解である。
曾良の(句とされている)「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の注と関連する箇所のフライング公開である。
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(原文。前略)
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
■やぶちゃんの呟き
(前略)
★「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」この句、何故か、曾良の「随行日記」や「俳諧書留」に載らず、二年後の「猿蓑」に出現する(他に「陸奥鵆」「続雪丸げ」)。
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松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛衣とよめりければ、
松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
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一応、この前書が作句の下敷きをばらしてはいる。則ちこれは、鴨長明の「無明抄」の「千鳥鶴の毛衣を着ること」の、
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俊惠(しゆんゑ)法師が家をば歌林苑と名づけて、月ごとに會しはべりしに、祐盛法師、其會宿にて、寒夜千鳥と云ふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々珍しなどいふほどに、素覺といひし人、たびたび是を詠じて、「面白く侍り。但、寸法や合はず侍らん」と、言ひ出でたりけるに、とよみ(響)になりて笑ひののしりければ、事冷めて止みにけり。「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば甲斐なきものなり」となん、祐盛、語り侍りし。すべては此歌の難心得ず侍るなり。鳥はみな毛を衣とするものなれば、程につけて千鳥も毛皮着ずはあるべき。
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とある一節に基づく(本文は安東次男「古典を読む おくのほそ道」のものを参考に正字化して読み易くした。但し、これは最後は省略されている模様である)。頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈には、この祐盛法師の和歌は「猿蓑さがし」(空然著・文政一二(一八二九)年)に、
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身にぞ知る眞野の入江に冬の來て千鳥もかるや鶴の毛衣
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とするも『何の集に出ているのか知らない』とする。
私はこの「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」という句、実は芭蕉の作ではないかと疑っている。詠んだものの、「嶋々や千々にくだけて夏の海」よりはひねりが利いているがどうも観念的で芭蕉の気に入らず、曾良に与えたのではなかったか? わざわざ句の直後に「予は口を閉ぢて」と句を詠まなかったことを暗示させているのも如何にもなポーズではないか? なお、後の「松島の詩」の注も是非、参照されたい。
最後に。本句にはしかし、「奥の細道」全体での構造上の妙味が別にある(それは安東次男氏も前掲書で以下に示すように指摘しておられるが、私自身、高校の古典の授業でそれに気づき、はっとし、その「対(つい)」の心憎さに思わず呻ったのを決して忘れないのである)。それは、この「松島」の段に対して後に『恨むが如く』絶妙の観音開き、対称絶景として立ち現れることになる「象潟」の段で、芭蕉が詠んだ二句目、
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
が、まさにこの同行の弟子曾良の句(とされる)、
松島や鶴に身をかれほとゝぎす
と美事な鏡像を成しているからである。安東氏は「象潟」の段のこの「汐越や」の句注で、『象潟(芭蕉)の「鶴脛」は、松島(曾良)の「鶴に身をかれ(ほととぎす)」の写しだというのが何ともしゃれた、同行俳諧である。こういうところを見落とすと俳諧紀行は無意味になる』と述べておられる。……これ何だか、田舎のしょぼくれた高校生の「僕」が安東さんに褒められたようで、ちょっと嬉しいのである……。……駄目押しだ……因みにその授業を受けた富山県立伏木高等学校の学び舎が立っている丘は……その古えの名を「如意が丘」というのだ……知らない?……「義経記」をお読みなさいな……「義経記」ではね、まさにここの近くの「如意の渡し」こそが、あの「安宅」関のエピソードに設定されているんだよ……芭蕉の好きな義経のね……もう一つ、言おうか?……その高校の近くには氷見線の越中国分という駅があるんだが……芭蕉の「奥の細道」の知られた名句――「わせの香や分入右は有磯海」――のロケーションと完全に一致するのはね、ここをおいて他にはないんだよ……
――――――
「旧庵」深川芭蕉庵。
「素堂」芭蕉の俳友山口素堂。芭蕉より二歳年長。芭蕉と知り合う前に芭蕉所縁の北村季吟との接触があり、同流の系統で句も蕉風に近いが、終生、あくまでよき友人であった。
「松島の詩」は以下。芭蕉は特に素堂の漢詩の才を推賞したという。
夏初松島自淸幽
雲外杜鵑聲未同
眺望洗心都似水
可憐蒼翠對靑眸
夏初(かしよ)の松島 自(おのづか)ら淸幽
雲外の杜鵑(とけん) 聲 未だ同じからず
眺望 心を洗ふ 都(すべ)て水に似たり
憐れむべし 蒼翠の靑眸に對するを
因みに、この二句目はそれこそ「千鳥もかるや鶴の毛衣」を思い出す前に「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の作句の動機となっているように思われないか?(これについて言及する諸注は管見限り見当たらない) とすれば、これをつまびらいているのは曾良ではなく、芭蕉である。前の句の作句者はやはり曾良ではなく、芭蕉なのではあるまいか?
(後略)
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