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2014/06/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅22 笈も太刀も五月にかざれ紙幟

本日二〇一四年六月 十八日(陰暦では二〇一四年五月二十一日)

   元禄二年五月  二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 十八日

である。【その二】この日の午前中に信夫文知摺の石を見た後、午後は芭蕉の愛する義経所縁の瑠璃光山医王寺を訪ね、そこで一句をものした。「奥の細道」では日を「五月朔日也」と虚構している。虚構の意図に就いては後に注する。

 

笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)

 

弁慶が笈をもかざれ紙幟

 

[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は曾良本「奥の細道」の句形でこれが初案と思われる。

 この「かざれ」という命令形には、実は一見、過去の伝承を無条件に受け入れているかに見える芭蕉の古跡故実遺蹟に対する、ある種の強いリアリスティックな反発感が読み取れるように思われる。「曾良随行日記」を見ると以下のようにあるからである。やや長いが、彼等の実行程を知るためにも引く。

   *

一 二日 快晴。福嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、カメアヒイガラベ村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七八丁、山ノ方ヘ行テ谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ觀音堂有。杉檜六七本有。虎が淸水ト云小ク淺キ水有。福嶋ヨリ東ノ方也。其邊ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀨ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ四五丁ニテ瀨ノウヱ也。山口村ヨリ瀨ノ上ヘ貳里程也。

一 瀨ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、貳本づゝ同ジ樣ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ經ナド有由。系圖モ有由。福嶋ヨリ貳里。こほりヨリモ貳里。瀨ノウヱヨリ一リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。福嶋ヨリ貳里。こほりヨリモ貳里。瀨ノウヱヨリ一リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。晝ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿。湯ニ入。

   *

ここで実は芭蕉は「寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ經ナド有由。系圖モ有由」、則ち、「由」であって、芭蕉は義経の笈と「称する」ものも、弁慶の書写したと「称する」経も系図と「称する」ものも見ていないのである。これは勿論、後の金色堂と同様に寺僧や堂守がおらず、物理的に見られなかったのかも知れない。見たいと言ったにも拘わらず見られなかったのかも知れない(後述)。少なくとも「見なかったという事実」は「随行日記」の発見を待たずして、否、少なくとも「奥の細道」を初めて私が読んだ時に私はそう感じた。

 則ち、私は以下のように初読時に感じたのである。

 彼はそう「称せられた」物どもが芭蕉には、ある種下らぬ贋物として認識されていたからではないのか、と。「爰に義經の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす」というそっけない言いはまさにそれを証左するものではあるまいか?

 義経の北方逃避行伝説は実際にはずっと後世になって作られたものだが、そこでは平泉以北、北海道に至る点々としたルートが辿れ、そこここに史実上はあり得べからざる義経や弁慶の置いて行ったと「称する」「笈」なんぞがあることを私は知っている。ともかくも、芭蕉はこの当時、既に生じていたであろう判官贔屓、義経生存説の噂話に対しては、一線を画していたと考えるものである。そもそも本当に悲劇の貴種を愛する者は、その人物が実は死なずにどこかでこれこれこうした、こうしようとした、が、残念なことに失敗した、なんどという最下劣な、貴種流離の疵にしかならぬ江戸浄瑠璃の世界のようなトンデモ伝説としての流言飛語には、実は極めて冷淡であったはずだと思うからである(但し、私は個人的には実は私は義経の大陸逃避行説を可能性としてはあり得たと考えている。但し、ジンギスカン=義経説という近代のファナティックな軍人によるでっち上げのそれとは全く別なものとしてである)。されば、芭蕉がこの句で「かざれ」と強い口調で言い放つ意図が見えてくる気がする。そもそも秘かに北へ逃避行する義経主従の誰彼が「太刀」を何らかの礼として気軽に置いて行ったのでは悲劇の武士の面目はそれこそ丸潰れであるし、そんな太刀などあろうはずもないのだ。だからこそ芭蕉はありがちな「笈」の後に、仰天の「太刀」を配したのだ(「奥の細道」の前文では確信犯で)。

――私が愛する義経主従の、その怪しげな笈だろうが、最も噴飯物に価する太刀だろうが、何もかも――ええぃ! 皆、什物なんぞとして祭り上げるのはやめにして、いっそ、頑是ない今の子らの節句の飾り物にするがいい! それだったら、きっと義経・弁慶主従のまことの供養に、そして貧しい子らの育ちを願うに相応しいものとなろうぞ!――

禅僧の如く一喝している、というのが私の読みなのである。

 なお、山本胥氏は「奥の細道事典」で、私とは全く異なった解釈をなさっておられる。即ち、「不入」を「入らず」ではなく、「入れず」と読み、結構、苦労して探し当てた医王寺では実際には、寺僧が芭蕉が見たかった義経弁慶所縁のそれらの拝観を断ったのだとされ、「奥の細道」の本文がその行間で訴えている真相は『「寺に入て茶を乞へば、(すげなく門前ばらいをくう。)爰に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物とす(るが、それを見せてくれない。)」だから、すぐあとにつけた「笈も太刀も」の句は、五月だから、鯉のぼりのように自慢たらしく誰にでも見せるようにすればよいのに、と非難をこめてよんだとも受けとれる』(ルビは省略した)とし、実は芭蕉はこの医王寺で受けた仕儀を恨んでここを綴ったのだとされる。だから、その不快感が尾を引いて、続く飯坂温泉の段にある、『遙なる行末をかゝえて、斯る病覺束なしといへど、羇旅邊土の行脚、捨身無常の觀念、道路にしなん』というブルージーな感懐を援用、遂にこうした旅程の不備(それは多分に先達者たる曾良の責任ということになろう)と医王寺の仕打ちに対してキレた芭蕉が『一歩も動きたくなくな』って、『道路に寝ころび、手足をばたばたさせてダダをこねる幼児に返』ったような憤りこそがこの前後の字背に潜むのだとされる。非常に面白い(特に芭蕉が一歩も動きたくなくなったというところは確かにリアルではある)。面白いが、であれば、実は笈も弁慶の遺墨も見れなかったことをこそ書かねばなるまい。それでなくては読者へそうしたプラグマティックな怒りは伝わらない。山本氏の読解は近代になって「曾良随行日記」が見つかって「不入」を見てしまった我々だからこそ辿りつける『真相』『真意』であって、「奥の細道」を精読しても出てくる解ではないと私は思うのである(言っておくが、私の解釈は「不入」を示してはいるが、句の解釈上は、それを必要条件とするものではない)。

 因みに「紙幟」とは、山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、『寛永ごろから民間で武者絵や鍾馗(しょうき)などを紙に刷ったのぼり』(当然これはそれほど高価なものとは思われないし、所詮、彩色したややきらびやかな上製品としても、所詮、雨が降ればだらだらばらばらになるところの紙絵に過ぎぬ)『で、端午の節句に立てる。折しも五月であるから、義経主従の笈も太刀も節句の飾り物とせよ、と言った』のだとされ、『そこらには紙のぼりや鯉のぼりなどが五月の空にひるがえる景色が目についたのである』と評しておられる。私に言わせれば、この寺に什物としてあるそれらは所詮、そうした勇ましい武者絵の、しかしたかが「紙幟」の類いと全く同じだ! だったらいっそのこと、一緒にこの五月の節句にこそ「かざれ」! それこそ真実だ! と珍しく、芭蕉は実は句の背後で珍しく憤っているのではないか、と読むのである。なお、安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」のこの「紙幟」の注にさりげなく、貝原益軒の「日本歳時記」を引いているが、そこには五月『朔日より五日まで、兒童の弄事とす』とあるとして、わざわざ「朔日より」に傍点を打っておられる。安東さんらしい。これこそ――「まさにその通りにせよ! だから私は嘘をついて「五月朔日」とわざわざしたのだ!」――という芭蕉の心の叫びが、怒りが聴こえると私は思うのである。安東さん、やっぱ、大好きだわ!

大方の御批判を俟つものではある。

 以下、「奥の細道」(漢字の踊り字「〱」は「々」に代え、平仮名の「〱」は正字化した)。

   *

月の輪のわたしを越て瀨の上と云宿に

佐藤庄司か旧跡はひたりの山際一

里半計に有飯塚の里鯖野と聞

て尋々行に丸山と云に尋あたる

是庄司か旧館也麓に大手の跡な

と人の教をしゆるにまかせて泪を落

かたはらの古寺に一家の石碑を殘

中にも二人の嫁かしるし先あはれなり

をんななれ共かひかひ敷名の世に聞へ

つるもの哉と袂をぬらしぬ堕涙

の石碑も遠きにあらす寺に入て

ちやを乞へは爰に義經の太刀弁慶か

笈をとゝめて什物とす

  弁慶か笈をもかされ帋幟

五月朔日の事也其夜飯塚にとまる

出湯あれは湯に入て宿をかるに

土坐に筵を敷てあやしき貧家也

ともし火もなけれはゆるりの火かけに

寐所をまうけてふす夜に入て雷

鳴雨しきりに降てふしたる上に

雨もり蚤蚊にせゝられて眠らす

持病さへおこりて消入許になん短

夜の空もやうやう明れは又旅立ぬ猶

夜の名殘心すゝます馬かりて桑折

の驛に出はるかなる行末をかゝえ

てかゝる病覺束なしといへと羈旅

邊土の行脚捨身無常

の觀念道路にしなんこれ

天の命なりと氣力聊とり直し

道縦横に踏て伊達の大木戸を

こす[やぶちゃん注:以下、改行字空けなしで次の武隈の段に続く。]

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇弁慶か笈をもかされ帋幟 → ●笈も太刀も五月にかざれ帋幟

〇出湯あれは湯に入て   → ●温泉(いでゆ)あれば湯に入て

[やぶちゃん注:表記通り、読みは同じであるが、一応、示しておいた。]

〇ゆるりの火かけ     → ●ゐろりの火かげ

[やぶちゃん注:「ゆるり」は「いろり」に同じい。]

〇ふしたる上に雨もり   → ●臥せる上より漏り

〇桑折の驛に出ス     → ●桑折の驛に出づる

[やぶちゃん注:「出ス」は「出づ」の誤記であろう。流布本は連体中止法。]

■やぶちゃんの呟き

 私のこれは「注」ではなく、「呟き」である。しかも私のプロジェクトはあくまで句をシンクロニティで味わうことが主眼で、高校の古典の授業の再現をしようというのではない。だから特に興味のない地誌及び故実語注を語る気はさらさらない。ここではそれを特に我儘に出そうと思う。意味の分からぬ向きには有象無象の注釈書やネット上の「おくのほそ道」の美事な紙幟の如きサイトがまさに氾濫して翻っている。そちらをどうぞご覧あれかし。

「佐藤庄司」佐藤元治(基治)(生没年不詳)。鎌倉初期の陸奥の豪族で、後に出る「二人の嫁」の「二人」、義経の忠臣佐藤継信及び忠信兄弟(後述)の父。信夫及び伊達郡の管理者として信夫庄庄司或いは湯庄司と号した。妻は藤原秀衡の娘(ウィキの「佐藤基治」では秀衡の父『基衡の弟清綱(亘理権十郎)の娘で秀衡のいとこに当たる乙和子姫』とする)であったともされ、文治五(一一八九)年の奥州合戦の際、信夫庄に於いて頼朝率いる鎌倉軍に抵抗して捕らえられたが、後に赦免されて本領安堵されたとも伝えられると「朝日日本歴史人物事典」にはある。ウィキの「佐藤基治」では奥州藤原氏との関係について、さらに突っ込んで書かれていて、『乙和子姫には、継信・忠信・藤の江・浪の江などの子があったが、その藤の江を秀衡の三男忠衡に娶わせ岳父として同盟関係を築いた』とし、『歴史学者の角田文衛によると、当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったかとする説を唱えている。飯坂の佐藤氏系図のひとつに基治女・浪の戸(源義経側室)とある』と記す。また奥州合戦での事蹟についても、文治五(一一八九)年八月、『源頼朝が奥州討伐のため奥大道(奥州街道)を北上してきた際、一族の伊賀良目七郎らと石那坂(現在の福島市平石)に陣を』張って防戦、「吾妻鏡」文治五年八月八日条によると、『この合戦で基治は鎌倉方の常陸入道念西子息である伊佐為宗らと戦って敗れ、晒し首にされたとある』一方で(私の電子テクスト「北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート3〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉」の注に全文引用があるの参照されたい)、同じ「吾妻鏡」同年十月二日条『によると、赦免されて本領に戻った』とある(「吾妻鏡」の同条には『二日、戊子(つちのえね)、囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別當等、厚免を蒙りて各々本所へ歸ると云々』とある)。『福島県白河市表郷中野庄司戻には、基治に由来する「庄司戻しの桜」がある。伝承によると、義経に従い鎌倉に赴く二人の子どもを見送り、別れる際に「二人の子どもがその忠節を全うするなら根付け。そうでなければ枯れよ」といって地面に杖を挿したが、立派に成長し見事な桜が咲いたという(現在は案内板のみ残る)』。『石那坂で戦死したとする資料が多いが、『信達一統誌』では生け捕りの後赦免され、後「大鳥城」で卒去したとあり、『大木戸合戦記』にも捕虜となり、宇都宮の本陣に送られたとある』と記す(最後の注を参照されたい)。

「一家」「いつけ」と読む。佐藤一族。

「二人の嫁がしるし」佐藤継信・忠信の妻の墓碑(現存しない)。伝承や古浄瑠璃「八島」などでは、二人は夫たちが義経に忠義を尽くして死んだと知った際(兄継信は義経郎党として平家追討軍に加わったが屋島の戦いで討死にしたというのが事実。「平家物語」では平教経が義経に放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされるが、射手である教経自身が実際には一ノ谷の合戦で討死している。弟忠信は都を落ちる義経に同行するも宇治の辺りで義経と別れて都に潜伏、文治二(一一八六)年九月に人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人糟屋有季に居所を密告されて潜伏していた中御門東洞院で襲撃され、奮戦の末、自害して果てた。以上はそれぞれウィキの佐藤及び佐藤忠信に拠った)、彼女ら自らが鎧甲を着して、恰も両兄弟が生きて凱旋したかのような形(なり)に身を包んで、兄弟の病床にあった老父母を慰めたとすることを踏まえ、「をんななれ共かひかひ敷名の世に聞へつるもの哉と袂をぬらしぬ」と感慨したのである。この芭蕉のテンションの高まり方は特異点と言える。

「堕涙の石碑」「堕涙」は「だるゐ(だるい)」で、見れば涙を流ずにはおれない石碑の謂い。「晋書」の「羊祐伝」に載る故事。晋の襄陽の名将であった大守羊祜(ようこ)の没後、その遺徳を慕った民が生前に彼がその景観を愛した峴山(けんざん)に建てたという羊公碑。その銘文を読めば誰もが清廉な羊祜を惜しんで泣いたという、孟浩然や李白も詠んだ名跡である。

「義經の太刀弁慶が笈」前に記した通り、虚構。実際には義経の笈と弁慶書写の経。

「持病」芭蕉は慢性的な胃腸疾患と胆石、痔疾などを持病としていたといわれている。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻で既に注したが、彼の死因は潰瘍性大腸炎が疑われ、この痔というのも実はそれであったのかも知れない。

「五月朔日の事也」前に述べた通り、虚構。事実は五月二日。

「道縱横に踏で伊達の大木戸を越す」この「伊達の大木戸」、現在の福島県国見町にあった伊達藩領内に入るための関所は、古の義経に忠義を尽くした佐藤兄弟の父佐藤庄司が奮戦の末に敗退し、頼朝軍の捕虜となった古戦場であった(前注参照)。まさにこの最後の「道縱横に踏(ふん)で伊達の大木戸を越す」という大袈裟な表現は、かつての老兵佐藤基治が最後の死を賭して大童となって奮闘した、その荒武者振りの様を芭蕉自らに擬えたものとして理解出来るのである。実はそうした役作りのためにも、この直前の異様にブルージーな荒涼たるプレ画面が必要だったのではないか? この延々続く異様な「五月朔日」の光景は、まさにそうした演出なのだと私は思うのである(実際、「曾良随行日記」にも持病の悪化は記されておらず、この後の旅程を見ても芭蕉の歩みには結滞が全く見られない)。なお、この「縱横に踏で」については、山本胥氏の「奥の細道事典」に昭和二二(一九四七)年に志田延義氏が『俳句研究』に発表した「六方(法)説」を紹介されている。これには個人的には非常に興味をそそられはした。則ち、寛文年間(一六六一~一六七三年)には歌舞伎に取り入れられていた、当時の町奴(まちやっこ)風の例の大袈裟な手振り足振りのあれである。確かに現在の歌舞伎では「勧進帳」の弁慶の飛び六方、「義経千本桜」「鳥居前の段」の佐藤忠信(実は源九郎狐)の狐六方と義経・弁慶絡みで強烈な親和性が窺われるものではある。何より私自身が個人的に、文楽の「勧進帳」や、何より、黒沢明の映画作品の中で最も好きな「虎の尾を踏む男達」の愛するエノケンの六方のパロディを即、想起してしまってジーンとくるからではある。しかし、どうも違う。元禄の芭蕉が、たかだか二十年ばかり前にアクロバティックな歌舞伎に取り入れられたばかりの、事大主義的なヤンヤ喝采型のオーバー・アクトに好感を持っていたようには、私は実は思えないからである。志田氏のそれは心情的にはどこかシンパシーを感ずるものの、私には最終的に、現代の我々の眼前に堆積した文芸作品の一部の、心霊写真のようなシミュラクラに過ぎないものにしか思われないのである。]

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