飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅳ
白薔薇に饗応の麺麭温くからぬ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「麺麭」は「パン」。]
初袷流離の膝をまじへけり
花卉の春しろがねの蜘蛛顫ひゐる
侘びすみて百花あまねく悩む春
喫茶房白樺植ゑて暮春かな
嵐峽小督塚
初旅の龜山の月曇る春
[やぶちゃん注:「小督塚」は嵐山渡月橋の桂川左岸の少し上流にある。小督の最初の隠棲地と伝え、今は五輪塔が建つ。そこからさらに上流の左岸一帯(現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町)を「龜山」と名づく。ここは「平家物語」巻第六の小督の冒頭、源仲国が小督を捜して、遂に「龜山の傍り近く、松の一群ある方に、かすかに琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈き澄まされたる。控へてこれを聞きければ、少しも紛ふべうもなく、小督の殿の爪音なり。樂は何ぞと聞きければ、夫を想うて戀ふとよむ想夫戀と云ふ樂なりけり」とあるのを踏まえる。]
生まれたる蟬はなじろみ蠢きぬ
[やぶちゃん注:「はなじろみ」「鼻白む」で、気後れした顔つきをするの意。]
あたたかや荼毘堂灯る桃の晝
楤の芽に日照雨してやむ梢かな
[やぶちゃん注:「楤」は底本では九画目の右払いがなく「勿」の字形である。「楤の芽」は「たらのめ」と読む。]
靑蛾ゐて甘菜の花に南吹く
[やぶちゃん注:「甘菜」は「あまな」と読み、単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科アマナ
Amana edulis のこと。参照したウィキの「アマナ」によれば、『春の花の中でも特に早く咲くもののひとつで』、『新春に葉を伸ばし、それから花が咲くと、葉は夏頃まで残る』。和名は『球根が甘く食用できるところから。別名ムギクワイと言い、これは球根の形をクワイになぞらえたもの。調理法もクワイと同様である』とある。]
翠黛に聖燭節の雨しげき
[やぶちゃん注:「聖燭節」イエス・キリストが聖母マリアとナザレのヨセフによって神殿に連れて来られた(本邦の御宮参りに相当)二月二日に教会で行われる祝祭で、マリアの潔めの祭り・マリアの光のミサなどとも呼ぶ。ミサの初めに蠟燭を持った行列が行われることからキャンドルマスの名でも知られる。]
花しどみ靄ひく土は嗜眠りせり
[やぶちゃん注:「花しどみ」はキク亜綱キク目キク科キク亜科コウモリソウ属モミジガサ
Parasenecio
delphiniifolius の開花した花及び花を開花した草体を指す。モミジガサは別名でシドケ・シトギ・モミジソウなどと称し、山地の湿気のある樹林の林床や林縁に多くは群生する。茎の高さは六〇~八〇センチメートルに達し、葉は長い葉柄をもって茎に互生して葉柄は茎を抱かない。葉は紅葉の葉のように裂け、表面は無毛で裏面には疎らに絹毛がある。花期は八~九月で茎の先に円錐花序状にやや紫色を帯びた白色の頭花をつけ、総苞は長さ八~九ミリメートルの筒状で淡緑白色、総苞片は五個。頭花は五個の小花からなっていて総て両性の筒状花である。小花の花冠は五裂し、花柱の先は二つに分かれて反り返る。春の茎の先の葉がまだ展開しないものは山菜として食用にされる(以上はウィキの「モモジガサ」に拠った。花を想起出来ない方はグーグル画像検索「モモジガサの花」を。]
墓畠蒜(にんにく)の花さきいでぬ
[やぶちゃん注:「墓畠」鎌倉では谷戸墓(やとばか)と呼ぶ。]
春暑くうす雲まとふ深山かな
雲しろむ針葉樹林春の蟬
辣韮の露彩なして夏近き
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「辣韮」は「らつきよう(らっきょう)」。]
ゆく春の蟹ぞろぞろと子をつれぬ
[やぶちゃん注:「ぞろぞろ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
茶の間、一句
茶※(ゆわかし)に花のうつむく薄暑かな
[やぶちゃん字注:「※」=(上)「保」+(下)「火」。]
夏風邪になやめる妓を垣閒見ぬ
[やぶちゃん注:「妓」は「ぎぢよ(ぎじょ)」と読んでいるか。]
山梔子の蛾に光陰がたゞよへる
大樹相夏曇りなき日を迎ふ
鼈(すつぽん)をくびきる夏のうす刃かな
雷雨やむ月に杣家のかけろ鳴く
[やぶちゃん注:「かけろ」は古語で、本来は「かけろと」で、コケコッコウ、と鶏が鳴くその声のオノマトペイアの副詞。ここは鶏のこと。]
鷺翔けて雷遠ざかる翠微かな
[やぶちゃん注:「翠微」は、薄緑色に見える山の様子や遠方に青く霞む山。また、山の中腹。八合目あたりのところをも指すが、ここはパースペクティヴから前者である。]
日輪のもと獣檻に夏來る
一杯の水珠なせり夏風邪
[やぶちゃん注:底本では「杯」は「不」の下に横に一画があるが、これは「恨む」という意で誤植と断じて「杯」とした。]
みづ山を背に蠑螈つる童女かな
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「蠑螈」は「ゐもり(いもり)」。]
草つゆや夏に遅るる山牛蒡
蟬鳴いて遅月光る樹海かな
妹を率て金剛力や富士登山
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