今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅16 早苗にもわがいろ黑き日數哉 / 西か東か先づ早苗にも風の音
本日二〇一四年六月 八日(陰暦では二〇一四年五月十一日)
元禄二年四月二十一日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 八日
である。この日、前夜泊まった旗宿で、なおも白河古関跡の探索に拘って旗宿の明神などを訪ね、その後に矢吹(現在の福島県西白河郡矢吹町(まち))へと向かった(因みに旗宿は後の百十一年後の寛政一二(一八〇〇)年に当時の白河藩主松平定信の文献考証によって古関跡と認証された。ウィキの「白河の関」によれば、一九六〇年代の旗宿での発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設が検出されたことから、昭和四一(一九六六)年に「白河関跡」として国の史跡に指定されたとある。芭蕉が探しあぐんでから実に二百七十七年後のことであった)。
奥州今のしら河に出る
早苗(さなへ)にもわがいろ黑き日數哉
みちのくの名所名所こゝろにおもひこめて、
先せき屋の跡なつかしきまゝに、ふる道に
かゝり、いまの白河もきこえぬ
早苗にも我色黑き日數哉
しら河の關をこゆるとて、ふるみちをたど
るまゝに
西か東か先(まづ)早苗にも風の音
[やぶちゃん注:第一句は「泊船集」(風国編・元禄十一年)、第二句は「曾良書留」に載る句形。第三句は「曾良書留」に載るもので、
我色黑きと句をかく被直候。
と後書する句(この「我色黑きと句を」の「と」は「の」の誤記であろう)。後に白河に住んでいた俳人で、会う機会を失してしまった白河藩士何云(かうん)宛に福島須賀川から送った芭蕉の書簡に、
白河の風雅聞もらしたり。いと殘多かりければ、須か川の旅店より申つかはし侍る
關守の宿を水鷄にとはふもの はせを
又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申参候よし、かく申直し候
西か東か先早苗にも風の音
と記す(「關守の」の句は後に掲げる)。この「白河の風雅聞きもらしたり」とは風流人士何云を訪ねることが出来なかったことをお洒落に述べた謂い。「乍單」は乍單齋(さたんさい)で「奥の細道」で後に出る須賀川住の俳人相良等躬(さがらとうきゅう)の別号。これによって前の二句の改作であることが分かる。
前二句は「古今著聞集」の「巻第五 和歌」の「三 能因法師の祈雨の歌と白河關の歌の事」の後半に載る後世の作話と見られる滑稽譚に基づく。以下に引用する(底本は新潮古典集成をもととしつつ、恣意的に正字化した)。
能因は、いたれるすきものにてありければ、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の關
とよめりけるを、都にありながらこの歌をいださむこと念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠り居て、色をくろく、日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。
芭蕉自身が駄句というのもさもありなん、ではある。
しかしこの一見、別な句に見える第三句も実は能因のあの和歌を踏まえており、同じ早苗を素材としたという点では確かに改作なのである。
植えられた早苗を見、そして耳を欹てれば、秋風ではないにしても、そのそよぐ風が西風か東風かと聴き取ることがそれなりに出来ることだ、という諧謔なのである。山本健吉氏は「芭蕉全句」で、この「西か東か」は風向きを言うと『同時に芭蕉の漂泊の思いが籠められていよう。やや大げさな表現だが「先早苗にも風の音」は心の籠った詞句で、「わがいろ黒き」に勝ること数等である』と評しておられる。しかし乍ら、この風の音はやはり軽い、軽過ぎると私は思う。されば結局、芭蕉は捨てるのであった。]
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