今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅23 櫻より松は二木を三月越シ
本日二〇一四年六月 二十日(陰暦では二〇一四年五月二十三日)
元禄二年五月 四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 二十日
である。【その一】前日の三日は飯坂から白石へ向かいそこで宿泊、この四日の午前八時頃に出た芭蕉は、まず阿武隈川の河口北岸に位置する岩沼の、竹駒明神の別当寺裏にある竹垣をした、陸奥の数多い歌枕の中でも藤原実方・橘季通・西行・能因など詠歌の多さでは屈指の名松「武隈の松」を見ている。「奥の細道」では笠島の段と恣意的に入れ替えられているが、ここでは実際の時系列に従って示す。岩沼宿は古くは「武隈(たけくま)」と呼ばれ、奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場として栄え、多賀城へ下向する官人のための旅館(武隈館)が置かれて、承和九(八四二)年には伏見稲荷を勧請したこの竹駒神社が創建されるなど古くから重要な宿駅であった(ここは主にウィキの「岩沼市」に拠った)。
武隈(たけくま)の松みせ申せ遲櫻(お
そざくら)と、擧白(きよはく)と云も
のゝ餞別したりければ
櫻より松は二木(ふたき)を三月越(みつきご)シ
むさし野は櫻のうちにうかれ出(いで)
て、武隈はあやめふく比(ころ)になり
ぬ。かの松みせ申せ遲櫻と云けむ擧白何
がしの名殘も思ひ出て、なつかしきまゝ
に
散うせぬ松や二木を三月ごし
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目はまさに挙白編「四季千句」(元禄二年奥書)の句形で初案。
「擧白」蕉門門人草壁挙白。奥州出身(恐らくはこの武隈の近辺か)であったらしい。「武隈の松みせ申せ遲櫻」は江戸出立の際の芭蕉への彼の餞別句で、かの芭蕉旅立ちの頃、まだ残っていた遅咲きの桜があった。それを……師が奥州へお入りになる頃にはそれすらも散っていましょうほどに――せめても古歌に知られ、私にとっても懐かしい二木の銘木武隈の松なりとも、天然の自然よ、師へと美事に、それをお見せ申せ……という謂いであろう。挙白の肉声が伝わる。
「二木」土の際から二つに分かれていることをいう。以下の「奥の細道」で芭蕉の言うように、後に何度も植え替えられたものであるが、現存するそれも二股に分かれてある。これは、「後拾遺和歌集」の橘季通の一〇四一番歌、
則光朝臣のもとに陸奥に下りて武隈の松
をよみ侍りけり
武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ
を踏まえつつ、「櫻より」の上五は江戸出立から今までの「三月」(千住を発った三月二十七日からだと三十六日であるが、「草の戸も住替る代ぞひなの家」の桃の節句からだと、六十日、正しく「三月」になるのである)の「みつき」に「見」を掛けて、さらに季通の古歌の「見き」へと通わせ、中七は同じく季通の歌をそのままに裁ち入れながら「松」には三月も「待つ」に掛けて、しなやかな武隈の松を実見し得た悦びを、挙白の餞別への三月振りの返礼の挨拶としたものである。諸本は初案(「散りうせぬ松」で松落葉を利かせて夏の句)や決定稿(芭蕉がいう名所の雑の句)の季を云々するが、問題にならぬ。芭蕉自らが述懐するように、一句の中にあって季の詞ならぬものはない、というのが私の支持するところである。諸家は多く、この句を評価しないようであるが(句自体は確かに技巧を凝らしながらも面白い句ではない)、私はこの「武隈の松」の段全体が「奥の細道」の旅に於ける芭蕉の大切な通過点としてあったのだ感じている。だからこそ、道順を時系列で前の笠島と入れ替えて示したのだと私には思われるのである。武隈の松という大切な陸奥の祝祭的「細道」に出逢うためにはどうしても、難渋し、歌枕を諦め、「ぬかり道」を抜けてくる必要があったのだ。
*
[やぶちゃん注:この前に「笠島の段」が入る。【その二】で煩を厭わず、「笠島」から「武隈の松」までの全文を示すこととする。]
武隈の松にこそ目覺る心地はすれ
根は土際より二木にわかれてむかしの
姿うしなはすとしらる先能因法師おもひ
出往昔むつのかみにて下りし人此
木を伐て名取川の橋杭にせられたる
事なとあれはにや松は此たひ跡もなしとは
よみたり代々あるはきりあるひは植次
なとせしと聞に今將千歳の
かたちとゝのほひてめてたき松のけしきに
なん侍し
たけくまの松みせ申せ遲櫻
と擧白と云ものゝ餞別したり
けれは
櫻より松は二木を三月越シ
*
■やぶちゃんの呟き
「武隈の松にこそ目覺る心地はすれ」角川文庫版「おくのほそ道」は「徒然草」の十五段、
いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。
を引くが、ここはまさにそのような古典籍による飾りなどではなく、まさに奥の細道の入口の三里塚の如く、新鮮な自然実景への感動としての芭蕉のメルクマールとしてのランドスケープとして感じられたのだと私は信じて疑わない。
「往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人此木を伐て名取川の橋杭にせられたる」昔、陸奥守となって赴任した藤原孝義なる者がこの松を切って橋に使用したことが顕昭「袖中抄」や藤原清輔「奥義抄」に載るが、名取川のそれとしたという記事は見当たらない、と安東次男氏の注にある。
「松はこのたび跡もなし」前の伝承を受け、「後拾遺和歌集」の能因法師の一〇四二番歌、
みちの國にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし千歳を經てやわれは來つらむ
を踏まえた謂い。]
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