今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅29 雲巌寺
本日二〇一四年六月二十五日(陰暦では二〇一四年五月二十八日)
元禄二年五月 九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月二十五日
である。【その二】【その一】で述べた通り、「奥の細道」では五月「十一日、瑞巌寺に詣づ」とあるのであるが、実際には芭蕉はこの九日の松島着後すぐに瑞巌寺の総てを拝観し終えてしまっている。以下、「瑞巌寺の段」を示す。
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十一日瑞岩寺に詣當寺三十二世の
昔眞壁の平四郎出家して入唐
歸朝の後開山す其後に雲居禪師
の德化に仍て七堂甍改りて
金壁莊嚴光を輝シ佛土
成就の大伽藍とはなれりける
彼見佛聖の寺はいつくにやとしたはる
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荘厳なる七堂伽藍総てを見学したにしては如何にも記載があっさりし過ぎている。事大主義的権威的なそれらに芭蕉は日光東照宮の時と同じ、ある種の違和感や反発を覚えたのではなかったか?(山本胥氏も「奥の細道事典」で同様の見解を示しておられる(同書二一七頁) 私はかつて三度、松島に行ったことがあるが、その三度目に禅宗高僧(見る僧の殆どが相応に年配であった)の全国大会みたようなものがこの雲巌寺で開かれたのに遭遇、その日泊まったホテル(一応、松島一番の高級ホテルと称されるもの)でバー・ラウンジに行ったところが、黄色や臙脂の色鮮やかな法衣をまとった坊主どもが三々五々、誰もミニ・スカートのコンパニオン・ガールを侍らせて、頭と顔を脂で照らつかせながら、ブランデーなんぞを傾け、葉巻なんぞまで吸っているのに出くわしてしまったのである。その数たるや、半端でない。既に酔っていた私は怒り心頭に発して、部屋へ戻って飲み直したという厭な経験がある。だから何となく、この芭蕉の不快が分かるような気がするのである。
「十一日、瑞岩寺に詣ず」既に述べた通り、虚構。諸家、その虚構の理由を述べるが、孰れも今一つ私には腑に落ちぬ。……やはり、芭蕉は怪しいよ。……
「瑞岩寺」瑞巌寺。臨済宗妙心寺派松島(しょうとう)青龍山瑞巌円福禅寺。天長五(八二八)年に慈覚大師を開基として天台宗延福寺として創建され、鎌倉時代に臨済宗建長寺派円福寺となり、さらに天正六(一五七三)
年頃に臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変わり、特に伊達正宗によって伊達家菩提寺として庇護を受けた(以上はウィキの「瑞巌寺」に拠った)。
「真壁の平四郎」鎌倉時代、禅に傾倒した執権北条時頼が武力で本寺の天台派僧徒を追放、法身性西(ほっしんしょうさい/せいさい)を住職に据えたが、その禅宗としての雲巌寺の開山の、常陸の国真壁郡猫島村の生まれと伝えられる彼の俗名である。彼の波瀾万丈の生涯については個人サイト「松島塾」の「法身(ほっしん)伝」が詳しい。瑞巌寺の公式サイトには天台宗延福寺は鎌倉時代中期、開創以来二十八代約四百年の歴史を以って滅したとし、法身禅師が開山とされて天台宗延福寺に遷じた寺は円福寺と命名されたが、その正確な開創年は分かっていないとある(この二十八代で天台宗が終わったというのと「當寺三十二世の昔」という数字の有意な四代分は時頼・法身による強制改宗という衝撃的事実とは何だか齟齬する感じがする)。ウィキには天台宗徒追放の理由の一説として、時頼は『酒肉をとり色に惑う天台僧の退廃を目にして、法身と語らってから、兵を差し向けた』と記す……が……はてさてあの日、私がホテルで見たのは正しく『酒肉をとり色に惑う』クソ禅『僧の退廃』そのものであったと断言して、よい……
「入唐」「につたう(にっとう)」。
「徳化」「とくげ」。
「七堂」七堂伽藍。禅宗では仏殿・法堂・僧堂・庫裏・三門・東司・浴室。
「金壁莊嚴」「こんぺきしやうごん」。
「佛土成就の大伽藍」西方浄土にある理想の仏国土をこの世に顕現させた大寺院の意。
「見佛聖」平安末期、雄島に庵住した見仏上人のこと(「見仏聖の寺」というのはその雄島にあった彼の庵と伝えられた見仏堂(妙覚庵)のこと。当時は既に跡となっていた)。伯耆国の人で長治元 (一一〇四) 年に松島雄島に渡って島内に籠ること十二年、法華経六万部を読誦したという。「奥の細道菅菰抄」の契史の書き入れに、『西行上人、能登の切浦にてこの聖にあひし後、この聖を慕ひて松島まで來られしことなどあれば、「かの」とは申されたり』但し、これは「撰集抄」巻三の第一「松嶋上人事」に載る怪しい話(見仏上人は超自然の法力を体得していて能登と松島を瞬時にテレポーテションしたとある)に基づくものではある。]
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