耳嚢 巻之八 租墳を披得し事
租墳を披得し事
大御番の健士(こんし)山田喜八郎は衞肅(もりよし)が歌の友にて、予が許へも來りしが、かの先租は大猷院樣御代被召出(めしいだされ)しか、又は別家なりしか、古へは谷中感應寺の旦家にてありし。彼(かの)寺不受不施宗門の事にて廢寺となり、今天台宗なり。其頃山田氏も外ヘ菩提所をかへけるが、先祖の法名等もしれず年月の忌日も不詳ゆゑ、當喜八郎色々せんさくなしけれどしれず。さるにても其法名忌日も不知(しれざる)は本意なしと、兩度感應寺に至り、其譯斷りて古墳有(あり)し所を搜しけるが、大小の古墳夥敷(おびただしく)苔にうもれて不知(しらざれ)ば、詮方なく立(たち)歸らんとして、さるにても我(わが)孝道の不屆(ふとどき)にや、兩日まで墓所をあまねくさがしけるに其志をとげず、最早此上はせん方なしと、丹誠觀念して立出んと見返りし向ふに、山といふ文字の石牌あり。心ゆかしにと立寄りて苔を落(おと)し見れば、山田某と覺えし先祖の名あり。夫(それ)より雀躍して洗(あらひ)みがきて其法名実名もしるれば、念頃に追善供養して、系譜御糺(ただし)の節も書出(かきいだ)しける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。古人の墳墓を見出し苔生すを洗い出だすというシチュエーションは七つ前の「奇成癖有人の事」と有意に連関する。
・「租墳を披得し事」右に『(尊經閣本「搜」)』と傍注。「祖墳を搜(さがし)得し事」で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版もそうなっている。それで訳した。
・「健士」はもとは平安時代に陸奥国の辺境を警備した兵士で、租税を免ぜられて食料を支給された。この当時は思うに大御番(大番。将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職)若しくはそれらの職に従事する武士ををかく呼んだものか。
・「山田喜八郎」底本の鈴木氏注に、『安通。安永五』(一七七六)『年(二十五歳)家督、三百五十石。寛政三』(一七九一)『年大番となる。根岸衛粛』(もりよし:杢之丞衛粛。鎮衛の子。)『よりは年長である』(山田安通の生年は宝暦二(一七五二)年になるから根岸より十五歳年下である。しかしこれは『衛粛よりは年長である』どころではないというのが私の印象ではある。)。『山田家は長右衛門直弘のとき家光に召出されて三百五十石を領した。その子右馬助は谷中感応寺に葬』られ、『孫直保は牛込感通寺に葬』られたとあった後は、『以後の歴代には寺名を記していない。文中、「山田某」とあるのは家譜にも直弘の子を某とし、諱名を記していない』とあるから、どうも幕府から激しい弾圧を受けた日蓮宗のファンダメンタリズムであった不受不施派から実はこの山田家は離脱していなかったのではないかという疑いを私は推測するものである。ともかくもこの『安通の努力で漸くこれだけを探り出したのであろう』というのが、鈴木氏の言いたいことであろうと私は読む。もし、間違いがあれば御指摘を乞うものである。
・「大猷院」第三代将軍徳川家光。
・「感應寺」現在の東京都豊島区目白の鼠山にあった日蓮宗の寺院。通称、鼠山感応寺で正式名称は長曜山感応寺。ウィキの「感応寺(豊島区)」によれば、天保四(一八三三)年の宗門改により天台宗へ改宗した長耀山感応寺を中山法華経寺の知泉院の日啓とその娘の専行院らが林肥後守・美濃部筑前守・中野播磨守らを動かして再び日蓮宗に改宗する再興運動を起こしたが、輪王寺宮・舜仁法親王の働きにより日蓮宗への改宗は中止となって長耀山感応寺から護国山天王寺(現在の東京都台東区谷中に現存)へ改称した。ウィキの「天王寺」によると、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。不受不施派は江戸幕府により弾圧を受け』、日蓮宗十五世日遼の元禄一一(一六九八)年に強制的に改宗され、日蓮宗十四世日饒及び同十五世日遼はともに『八丈島に遠島となる。廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王が寺の存続を望み』、慶運大僧正を天台宗第一世『として迎え、毘沙門天像を本尊とした。慶運大僧正は、後に善光寺を中興する。当寺の改宗をもって、祖師像は瑞輪寺に引取られていった』とある。
・「心ゆかしに」原義は心惹かれる様子を言う。岩波版長谷川氏注に、『念のために。少しの疑念もなく調べおおせたと思えるように』と注がある。
■やぶちゃん現代語訳
先祖の墳墓を辛くも捜し出だしたる事
大御番の健士(こんし)山田喜八郎は、私の嗣子(しし)である衞肅(もりよし)の和歌の友にして、私の元へもよく訪ねて来る御仁である。
彼の先租は――大猷院家光公の御代に召し出だされたか、又は、別に相応の家格を持ったる別家であったかは定かではないが――ともかくも古えは谷中の感応寺の檀家であった。
ところがこの寺は件(くだん)の不受不施宗門の咎めによって廃寺となり、今は天台宗の天王寺となって御座る。
今は、この山田氏も他ヘ菩提所を変えて御座ったものの、先祖の法名等も分からず、逝去その他の詳しい過去帳の年月の忌日も、これ、不詳で御座ったゆえ、当喜八郎も、いろいろと詮索致いてみはしたものの、一向に御先祖の詳しい事蹟は、これ、知れなんだと申す。
それにしても、先祖の法名や忌日も不明と申すは、これ、あまりに孝を失して本意なきことと、何度も元の感応寺――現在の天王寺――を訪れては、そうした過去の事実を隠さず語って、寺の許可をも得て、古き先祖の墳墓のあった場所を捜して御座ったものの、大小の古墳、これ夥しく苔に埋もれ、全く、先祖の墳墓の在り処(か)はこれ、分からざれば、詮方なく立ち帰らんとしたと申す。
そうして、
『……それにしても……これは……我らが孝の道の至らぬからであろうか……何日もかけて墓所をあまねく捜したるに……我らがこの志しを遂げることが出来ぬとは……これ……最早……今日限り……この上は……いかように致さんとも……詮方なきものと……申すべきか……』
と、遂に心底、観念致いて、最早、寺を立ち出でんとした……
――その時
――ふっと見返った
――その向うに
――「山」
という文字(もんじ)の石牌が
――見えた……
「……こ、こ……これは!」
――と、その墓石に走り寄り
――苔を素手で搔き落として見た
――ところが
――「山田某」
――と読める!
――これ
――まさしく先祖の名で御座った。……
……それより歓喜雀躍致いて、その古墳を洗い磨いてみたところが、その法名も実名も確かに、先祖のものと正しく合(お)うたによって、懇ろに追善供養致いて、新たに墳墓をも建て、系譜の御糺しの一節も墓に彫りあげた、ということで御座った。
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