今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑
本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)
元禄二年五月 八日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月二十四日
である。【その二】岩切で「奥の細道」に踏み入って、「十符の菅」を見物した後、芭蕉は塩釜へと向かうが、その途中、市川村の多賀城跡(現在の宮城県多賀城市市川字城前周辺)で「壺(つぼ)の碑(いしぶみ)」と当時されていた碑を、芭蕉も無論、そのものと信じて親しく実見、以下の通り、非常に深く感動したのであった。しかし実はこれは「壺の碑」ではなかった(後注参照)。「奥の細道」の「壺の碑」の段を示す。発句はない。
*
壷碑 市川村多賀城ニ有
つほの石ふみは高さ六尺餘橫三尺計歟苔を
穿て文字幽也四維国界之數里を印ス此城
神亀元年按察使鎭守苻將軍大野
朝臣東人之所里也天平宝字六年
參議東海東山節度使同將軍惠
美朝臣※修造而十二月一日と有
[やぶちゃん注:「※」=「獦」-「葛」+「萬」。]
聖武皇帝の御時に当れりむかし
よりよみ置る歌枕多く語傳ふ
といへとも山崩川流て道あらたま
り石は埋て土にかくれ木は
老て若木にかはれは時移り
代變して其跡たしかならぬ
事のみを爰至りてうたかひなき
千歳の記念今眼前に古人の心
を閲す行脚の一德存命の悅
羇旅の勞をわすれて泪も落る
はかり也
*
■やぶちゃんの呟き
「壷碑」これは征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。ウィキの「つぼのいしぶみ」によれば、十二世紀末に編纂された「袖中抄」十九巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村將軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とあるもので、後に歌枕として西行・藤原清輔・源頼朝ら多くの和歌に詠まれ文章にも綴られたが、永く当該比定の決定的な碑は見つかっていなかったそれらの後世の和歌では孰れも『「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということを』この歌枕の特異的属性として使用している。実は現在も比定不能である。詳しくは当該ウィキを参照されたいが、この多賀城碑壺碑説(これは三千風や嘉右衛門ら民間の風流人士による歌枕比定の地方文芸活動とは別に、公的にも伊達藩自体が藩内に古えの歌枕を強引に比定しようとする謂わば文芸的ナショナリズムのようなものが当時存在したことがリンク先や諸本に見える)の他に、青森県東北町の坪(つぼ)村の千曳(ちびき)神社に、ある石碑を千人で曳いて社の地下に埋めたとする伝承があり、昭和二四(一九四九)年になって千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間にある谷底に落下していた巨石を発掘したところが「日本中央」という文字の彫られた碑が発見され、これが壺の碑であるとする説がある(但し、この地までは田村麻呂が到達していないことと、発見時の保全が杜撰であったために真贋の鑑定は不能となった)。
ところが、伊達綱村の代に、ここ多賀城跡より一つの碑が発掘され、それが当時、その「壺の碑」であると比定され、芭蕉もこれを真の「壺の碑」として対面したのであった。事実は養老八・神亀元(七二四)年の多賀城創建と天平宝字六(七六二)年の多賀城改築を伝える記念碑であったことが現在、明確となっている。ウィキの「多賀城碑」によれば、『石材は花崗砂岩(アルコース)』(現地の南東百メートルに露出する中生代三畳紀の利府層』が非常によく似た岩石を含む)、碑本体の高さは約一・八六メートル、幅約一メートル、厚さ約五〇センチメートルで、『その一面を平らにして字を彫っている。その額部には「西」の字があり、その下の長方形』の線刻の内側に十一行百四十字『の碑文が刻まれている。碑に記された建立年月日は』天平宝字六年十二月一日で多賀城の修築記念に建立されたと考えられている。『内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年』(七二四年)『に設置され、恵美朝狩(朝獦)』(後注)『によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる』。『現在は多賀城跡内の覆堂の中に立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間』(一六五八~一六七二年)『の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった』。以前は偽作説もあったが、現在では真作と考えられており、また日本『書道史の上から、那須国造碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされ』ている。以下、芭蕉も懸命に判読しようとした同ウィキに載る碑文テクストを示しておく(「神」を正字化した)。
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
「高さ六尺餘横三尺計歟」「六尺」は約一・八二メートル、「三尺」は九一センチメートルであるから現在の実測にほぼ一致する。
「四維国界」「しゆいこくかい」で四方の国境。
「神亀元年按察使鎭守苻將軍大野朝臣東人之所里也」「神亀元年」は聖武天皇即位の年で西暦七二四年。この年の四月に蝦夷の反乱が勃発、当時、安房・上総・下総三国の按察使で式部卿であった藤原宇合(うまかい:右大臣藤原不比等三男。)が持節大将軍に任命されて出兵しているが、実はこの前後に「鎭守苻將軍大野朝臣東人」則ち、大野東人(おおののあずまびと ?~天平一四(七四二)年)が蝦夷の鎮定とその経営に尽力した。彼は先立つ養老四(七二〇)年に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍多治比縣守により鎮圧)後、まもなく蝦夷開拓の本拠としてまさにこの多賀柵(たがのさく)を築いたのであった。天平元(七二九)年には陸奥鎮守将軍に任ぜられていた彼が鎮兵の行賞を奏上しており、その後も蝦夷の開拓を進めて、天平五(七三三)年にはそれまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移設するなどしている(ここはウィキの「大野東人」による。不審なことに「奥の細道」の注釈本はこうした彼の事蹟を詳述しておらず――ものによっては完全にスルーしていてこれを先に示した藤原宇合に誤読するような悪注もある――私は今回の注で初めて彼の具体な事蹟を知った)。「所里也」芭蕉の誤判読。「所置也」(置く所なり)で最初期の防衛線としての山塞としての多賀柵(多賀城(たがのき))を築いたことを指す。
「天平宝字六年」西暦七六二年。
「參議東海東山節度使同將軍惠美朝臣※」「※」は示した通り(「獦」-「葛」+「萬」)であるが、これも芭蕉の誤判読で「獦」である。これは奈良時代の公卿藤原朝狩(あさかり ?~天平宝字八(七六四)年)のことで名は「朝獵」「朝狩」とも書き「恵美朝獦」とも称した。藤原仲麻呂(太保(右大臣)恵美押勝)四男で従四位下・参議。天平宝字三年に正五位下となって陸奥鎮守将軍に任ぜられて蝦夷鎮撫に下向した。以下、ウィキの「藤原朝狩」によると、天平宝字四(七六〇)年に父仲麻呂が太師(太政大臣)に任ぜられると、朝狩も先の陸奥国に於ける蝦夷の鎮撫と皇民化、無血による雄勝城(おかちのき:朝狩が前年に雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)に造った城柵。現在は比定不能。)完成の功により、従四位下に叙されて同年中には仁部卿及び東海道節度使にも任ぜられた。天平宝字六(七六二)年に仲麻呂が正一位に昇叙されると、朝狩は兄の真先・訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子四人が同時に公卿に列するという異例の事態となり、まさに位人臣を極め栄耀栄華を誇った仲麻呂一族であったが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになって仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところが上皇が激怒して天皇から政権を奪い、道鏡派(孝謙上皇派)と仲麻呂派(淳仁天皇派)の対立抗争が勃発する。天平宝字八(七六四)年九月に仲麻呂は反乱を計画するも密告により発覚、孝謙上皇派に先手を打たれたため、仲麻呂一族は平城京を脱出、朝狩もこれに従った。仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国国衙に入って再起を図ろうとしたが、官軍に先回りされてこれを阻まれ、仲麻呂八男の辛加知(しかち)が国司を務めていた越前国を目指したが、官軍が越前国衙へ先回りして未だ事変勃発を知らなかった辛加知を斬殺した上、国境の関を封鎖、仲麻呂一族は近江国高島郡に退いて抵抗するが、結局、一族悉く滅亡したとある。
「聖武皇帝の御時に当れり」誤り。聖武天皇の在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年八月)で、天平宝字六(七六二)年は淳仁天皇(淡路廃帝(あわじはいたい))の第五年である。
「木は老ひて若木にかはれば」先の段の武隈の松、次の末の松山などを念頭におく表現。
「代變じて」「よへんじて」と読む。
「記念」「かたみ」と読む。
「行脚の一德、存命の悦び」この行脚の旅の果報として、また、こうして命あること、それゆえにこの古えの歌枕の碑に逢えたことの悦び。
芭蕉は碑文の内容からも、それが確かな「壺の碑」であるという確信は必ずしもなかったもののようにも思われる。しかし芭蕉にとっては「壺の碑」の真贋などは、実はどうでもいいことであったに違いない。まさに白河関越え以降、初めて確かな「物」としての奥州の古蹟を目の当たりにしたことが芭蕉を「奥の細道」に入った実感として深く心に落ちたのであった。頴原・尾形訳注角川文庫版本文評釈にも、『壺の碑のくだりを特に標題を付して、『古文真宝後集』の「碑類」に擬した独立の一章に仕立てあげたのは、それが遠い古代の姿をそのままに現前していることに対する感動の強烈さによるもので』、「壺の碑」としての真贋など『は当時の芭蕉の関知するところではなかった』とし、
《引用開始》
すべて陸奥の歌枕が、未知の辺境、古代的なるもの、異国的なるものへのあこがれの上に成り立っている中でも、壺の碑は文化果つる所として最も強く中世の歌人たちの辺境への思慕を駆り立てた詩材であったが、芭蕉にはこの遣物がただに古代の姿をそのままに存しているだけでなく、碑面の文字を通して古代国家のさいはての地を踏まえ四維の国境を望んだ「古人の心」をさながらに語りかけていると思われたのである。碑面の文字を写し取ることは、したがって、この一章の中では特に重要な意味をになっている。古代の遺石に刻まれた古代の文字に接しての感慨を述べている点で、これは韓退之(かんたいし)の「石鼓歌」、蘇東坡の「後石鼓歌」と一脈通ずるところがあるが、ただ違うのは、それらが古代の文字を解し得ぬ嘆きを述べているのに対して、これは「千歳のかたみ」として「古人の心」に触れ得た「喜び」を語っている点である。天地の流転の相の中に、永劫不変の「千歳のかたみ」「古人の心」を感得した芭蕉のこの歴史的感動は、やがて不易流行論の提唱へと展開してゆくことになる。
《引用終了》
と評してある。私はこれに激しく共感する。まさに芭蕉がこの碑に激しく共感したように、である。]
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