日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 15 小樽へⅡ
今朝目を覚ますと、日はあかるく照って、いい天気であった。遠方には五千五百フィート以上もある山が、その斜面の所々に大きな雪面をもって聳えている(図356)。この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある。我々が東京から千マイル近くにいて、カムチャッカや千島群島の方が、東京より近いのだということを考えると、興味が湧いた。北部温帯が持つ空気の新鮮さと香とがあったが、而も経度からいえば、メイン州の中部より、そう北ではないのである。揺れる船に、よしんば短い時間にしろ、乗っていた人ほど、陸地の見えることを有難がる者はない。心配はすべて消え失せ、また事実は陸地から如何に遠く離れていようとも、彼は元気になる。港へ近づくと共に、我々は大きな岬をまわり、しばらくの間、磁石によると、南へ進んだ。我々が入って行った入江の両側には、山脈があった。そこには森が深く茂り、白人は誰も足跡を印していない。これ等の山の谿谷にわけ入った者はアイヌだけ、而もアイヌすら行っていない地域が多い。森には荒々しい熊が歩き廻り、政府はそれを退治た者に、高い褒美を与える。昨年一人の日本人が熊に食われたが、私の聞いたいろいろな話によると、熊は出喰すと、危険な動物であらねばならぬ。
[やぶちゃん注:「退治た」はママ。これは矢田部日誌からも二十六日午前中(同日の十二時過ぎに小樽着とある)であることが分かる。
「五千五百フィート以上もある山」「この山はオカムイと呼ばれ、小樽の南三十マイルの所にある」「五千五百フィート」は一六七六メートル。「三十マイル」は約四八・三キロメートル。「オカムイ」原文は“Okamui”であるが、これはモースが教えてくれた相手がアイヌ語のキムン・カムイ(kim
un kamuy:山にいるカムイ(神))と一般的な「山」の呼称を言ったのを聞き違えたものかもしれない。位置と図356から推定すると、これはニセコ連峰の主峰で現在の北海道後志総合振興局及びニセコ積丹小樽海岸国定公園内にある標高一三〇八メートルのニセコアンヌプリと思われる。参照したウィキの「ニセコアンヌプリ」にある「道道58号線より望むニセコアンヌプリ」の写真とモースのスケッチの稜線がよく一致するからである(道道五十八号はニセコアンヌプリの西に位置しており、日本海側を北上していたモースの航路とも位置関係に矛盾がない)。小樽からニセコアンヌプリは南西に四四・三キロメートルで「三十マイル」と大きな齟齬はない。
「千マイル」約一六〇九キロメートル。船上の位置を推定して直線距離で測ると八一五キロメートルほどであるが、これはもう「千マイル」でいいだろう。
「カムチャッカや千島群島の方が、東京より近いのだ」当該位置から単純に直線計測すると、カムチャッカ半島の尖端からは一五〇〇キロ弱はあるものの、千島列島の最南端の歯舞群島とは四七〇キロ、国後島とは四五〇キロも離れてはいない。当時の世界地図の特に北方部の不備からいえば、モースの印象は決しておかしいとはいえない。
「我々が入って行った入江」石狩湾。
「山脈」東北に増毛山地、南西は積丹半島の余別岳に始まって余市岳その背後の羊蹄山、支笏湖の恵庭岳方面に向かって高い山並みが続いている(次の段落も参照)。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 14 小樽へ | トップページ | 飯田蛇笏 靈芝 昭和十一年(百七十八句) Ⅳ »