今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅17 風流の初(はじめ)やおくの田植うた
本日二〇一四年六月 九日(陰暦では二〇一四年五月十二日)
元禄二年四月二十二日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 九日
である。この日は矢吹を立って、須賀川本町(すかがわもとまち)の相楽(さがら)伊佐衛門等躬(とうきゅう)宅に着き、この日の夜、芭蕉・等躬・曽良の三吟にてこの句を発句とする歌仙が巻かれた。
風流の初(はじめ)やおくの田植うた
[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良書留」には歌仙が総て示されてあり、この発句の前に、
奥州岩瀨郡之内、須か川、相樂伊左衞門ニテ
と前書する。主人への挨拶句であると同時にこの主人が奥州第一歩の初めに逢った正真正銘の風雅人であるという讃頌から、さらにはこれより分け入らんとする奥羽の持つそれ自体の風雅への讃歌でもある。私はこの鄙の農民の民俗を「風流の初め」と措定したこの句が何とも言えず好きである。
「相樂伊左衞門」等躬という人物は須賀川の駅吏だったとも言われる土地の名士で俳人。江戸の貞門の石田未得(いしだ みとく 天正一五(一五八七)年~寛文九(一六六九)年)の門で宗匠未得没後の同門の重鎮でもあったから、芭蕉から見ると、門系の異なる先輩格に当たり、年齢も五十二歳で芭蕉(四十六)より六つ年上であった。芭蕉は彼の家でこの二十二日から七泊滞在、二十九日に郡山に向かって旅立った。
因みにこの折りの歌仙の脇は等躬が、第三は曾良が、
風流の初やおくの田植歌 芭蕉
覆盆子を折て我まうけ草 等躬
水せきて晝寢の石やなをすらん 曾良
と付けている。
等躬の脇は「覆盆子(いちご)を折(をつ)て我(わが)まうけ草(ぐさ)」と読み、「覆盆子」は苺・木苺のこと。「まうけ草」は恐らく造語で、「まうけ」は客を饗応するための食い物、「草」は「種」で類い、――風流一興の初めが田植え唄とならば、木苺を折り取って私の粗末な馳走の膳と致しましょう――といった感じであろう。
曾良の第三はちょっと凝った作りで、木苺を折り取るのは一転、石を枕に、しかもそれで渓流の流れを堰きとめて、頭を涼しくして昼寝をしようとしている風流人の仕草にとりなしもの。漱石枕流をパロってもある。
芭蕉は恐らく、この歌仙を巻いた折りの思い出が余程楽しかったのであろう、以下に見るように「奥の細道」ではわざわざこの脇と第三のことが、句を示さずに語られてある。
*
兎角して越行まゝにあふくま川
をわたる左りに会津根高く右に
岩城相馬箕春の庄常陸下野の地をさかひて
山つらなるかけ沼と云所を行にけふは空
曇りて物ゝ影うつらす須か川の
駅に等窮(キウ)といふものをたつねて
四五日とゝめらる先白河の關いかに
こえつるやと問長途のくるしみ身‐心
つかれ且は風景に魂うはゝれ懷旧
に膓を斷て、はかはかしうおもひ
めくらさす
風流の初やおくの田植うた
無下にこえむもさすかにと語れは
脇第三とつゝけて一卷となし
ぬ
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇けふは空曇りて物ゝ影うつらす → ●今日は空曇りて物影うつらず
[やぶちゃん注:「物ゝ影うつらす」は「物の影うつらず」と読む。]
○脇第三とつゝけて一卷となしぬ → ●脇、第三とつづけて三卷となしぬ
■やぶちゃんの呟き
「会津根」会津磐梯山
。 標高一八一六・二九メートル。
「右に岩城相馬箕春の庄常陸下野の地をさかひて山つらなる」は「右に岩城(いはき)・相馬(さうま)・三春(みはる)の庄(しやう)、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地を隔(さか)ひて山連なる」の謂い。須賀川から北(奥羽の方向)に向かって見ると南から順に磐城・三春・相馬は総て身の右側に位置しており、江戸の外縁である常陸(現在の茨城県)や下野(現在の栃木県)とは峨峨たる山によって完全に隔てられてある、というのである。芭蕉の向かわんとする正面にまさにそれ以外に退路なき覚悟の「奥の細道」がただ一筋続いているのである。
「かげ沼」影沼。当時は蜃気楼(陽炎)の立つことで有名であった。一説に現在の福島県岩瀬郡鏡石町付近にあった沼とも、この一帯の地名であったともされ、正確な場所は確定されていない(鏡石町にある小さな沼で鎌倉時代の泉親衡の乱に纏わる悲劇伝承を持つ「鏡沼」がこの芭蕉の史跡「かげ沼」として一応認定されてはいる)。
「等窮」等躬。字が違うのはやはり確信犯の文学的虚構の一つか。
「四五日とゝめらる」既に示した通り、七泊八日の長逗留であったから、明白な虚偽である。奥州に分け入ったばかりである。半分に減らしたのは、創作として都合が悪いからであり、芭蕉自身の秘かな忸怩たる思いからでもあったろう。
「先(まづ)白河の關いかにこえつるや……」以下の部分はやはり全部嘘である。既に示した通り、事実は芭蕉は白河越えで「早苗にもわがいろ黑き日數哉」のトンデモ句を作っており、芭蕉はその句を実際に等躬に示し与えており、それを等躬が即座に芭蕉が逢えなかった白河藩士の何云(かうん)に手紙で送り示してしまったことをここ須賀川で滞在中に知って、慌てて、「西か東か先早苗にも風の音」と改作したものを手紙で書き送っているからである。しかもその手紙でははっきりと「又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申参候よし、かく申直し候」(下線やぶちゃん)と述べているのである(「乍單(さたん)」は等躬の別号乍單齋)。
「脇第三とつゝけて一卷となしぬ」実際には歌仙一巻しか巻いていない。「三卷」は興が尽きなかったことを示すための虚構である。かく手放しで悦ぶ描写を見ても、実際のこの夜の連句の席の愉しげな雰囲気がよく伝わってくる。]
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