今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅18 世の人の見付ぬ花や軒の栗
本日二〇一四年六月 十一日(陰暦では二〇一四年五月十四日)
元禄二年四月二十四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 十一日
である。須賀川での吟。
世の人の見付(つけ)ぬ花や軒の栗
桑門可伸(かしん)は栗の木のもとに庵
(いほり)をむすべり。傳聞(つたへき
く)、行基菩薩の古(いにしへ)は西に
緣(ゆかり)ある木なりと、枝にも柱に
も用ひ給ひけるとかや。幽栖(いうせい)
心ある分野(ありさま)にて、彌陀の誓
ひもいとたのもし
かくれ家(が)や目だゝぬ花を軒の栗
桑門可伸のぬしは栗の木の下に庵をむす
べり。傳聞、行基菩薩の古、西に緣ある
木成と、杖にも柱にも用させ給ふとかや。
隱栖も心有さまに覺て、弥陀の誓もいと
たのもし
隱家やめにたゝぬ花を軒の栗
[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句は「俳諧 伊達衣」(等躬編・元禄一二(一六九九)年自序)の、第三句は「曾良俳諧書留」の句形。第二句については「金蘭集」(浣花井甘井(かんかんせいかんい)編・文化三(一八〇六)年序)に、
元祿二年卯月廿四日簗井彌三郎宅にて
と前書し、真蹟懐紙写しにも同様の前書があるとする。「曾良随行日記」には、
廿四日 主の田植。晝過ヨリ可伸庵ニテ會有。會席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。
とある。「主」は等躬。「可伸」は前書や以下の「奥の細道」本文にもある通り、遁世僧の法名。俗名を矢内(やない)弥三郎とし(角川文庫版「おくのほそ道」に拠る表記)、俳号が栗齋(りっさい)であった(諸本はそれ以上の情報を載せないが、遁世の僧なればこそ「それ」でこそ句が引き立つというものか)。ここで栗の木を前書や句に置き詠んだのはこの彼の俳号を通わせる挨拶句だからである。
この日、可伸の庵に於いてこの句を発句として芭蕉・栗斎・等躬・曾良・等雲・深竿・素蘭による七吟歌仙が興行された(「曾良俳諧書留」に所収。即ち第三句が初案である)。可伸栗齋は脇を、
隱家やめにたゝぬ花を軒の栗 翁
稀に螢のとまる露艸(つゆくさ) 栗齋
と付けている。
「随行日記」の「祐碩賞之」(祐碩、之を賞す)は吉田祐碩(俳号が等雲)が主設(あるじもう)け、饗応役となったという意。彼は当地の医師であった。
以下、「奥の細道」。
*
この宿の傍に大きな成栗の木陰をたのみて
世をいとふ僧有橡ひろふ太山もかく
やと閒に覺られてものに書付侍る
其詞
栗といふ文字は西の木と
書て西方淨土に便ありと
行基菩薩の一生杖にも
柱にも此木を用給ふとかや
世の人の見付ぬ花や軒の栗
*
「この宿の傍に」山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、彼は等躬の邸内にこの庵を結んでいたとある。邸内であっては遁世の雰囲気が出ない。以下、西行引き出しつつ(後注参照)、うまく作為したものである。伊藤洋氏のサイト内にある同氏の新聞コラムに、法外の句を得、しかも庵はすっかり土地の名所となって後に恐縮してしまう(というより隠棲者としては有り難迷惑でもあったであろう)僧可伸の話が載る。「伊達衣」に記したずっと後の可伸自身の弁解と、句が載り、とても面白い。そこだけ引用しておく(恣意的に正字化した)。
*
予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯實をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、一句を殘せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
梅が香に今朝はかすらん軒の栗 須賀川栗齋可伸
*
山深み岩にしただる水尋(と)めむつがつ落つる橡拾ふほど
世をいとふ名をだにもさは留(とど)めおきて數ならぬみの思出にせむ
を引いて参考歌とする。まさにこの前書からして、翌元禄三年の膳所での歳旦吟、
薦を着て誰人います花の春
に通う理想的な遁世の風狂人を、芭蕉は西行をオーバー・ラップして創り上げた可伸像に見立てているのだ、と私は思うのである。
「閒に」は「しづかに」と訓ずる。]