松を剪定するということは哲学以外の何ものでもないという語(こと)
義父の四十九日で名古屋に行き、昨日今日で義父が丹精込めた庭をとりあえず本来あったのに近い姿に復元出来た。しかし松の剪定だけは、恐ろしく哲学的だということが分かった。近くでこれでいいと思っても、囲碁のように(私は実は囲碁も将棋も暗いのであるが)ちょっと離れるとその剪定の最下劣さに驚く。だからと言って、さらに手を加えようとすると丸裸になってしまうのだ。松葉一本一本の四方への張り出しが、恰も多変数関数のように「凸である」ことをどう「全体で捉えるか」ということのように感じられた(無論、私の尊敬する数学の先輩から聴いたことの、半可通の譬えに過ぎないのだが)。ああ、義父に生前、教えて貰えばよかった、と切に感じたのであった――
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