耳嚢 巻之八 好色可愼の事
好色可愼の事
近頃の事なりとや、町人六七人申合(まうしあひ)、伊勢參宮なしけるに、女道者(だうじや)是又六七人つれに成り、道中宿ひとつ泊(どま)りに付(つき)て歸りけるが、右の内壹人、連れの女に戲れ深くかたらひけるが、右は在方の者にて途中より立分れけるが、旅宿のかたらひに我を尋(たづね)ば、佃島邊の船頭又兵衞といへる者を尋れば住所もしれぬべしといひしを、女書(かき)とめて別れぬ。彼男は江戸へ歸りし後、日數過(すぎ)て彼(かの)女又兵衞がもとへ尋來り、かくかくの人に逢度(あひたき)よし、申(まうし)かわせし事抔咄しければ又兵衞も不審に思ひけるが、成程我等糺(ただし)見るべし、先(まづ)止り給へとて彼男の許へ行(ゆき)て、しかじかの事也とかたりければ、大に驚き、成程覺(おぼえ)なき事にもあらず、されども妻子もある我等なれば、其女來りては不相濟(あひすまず)、いかゞせんと大きに當惑なしけるが、幸ひ我が從弟(いとこ)七日以前に相果(あひはて)たれば、それがし相果たると彼女にかたり給へ、然らば寺をも尋ぬべし、彼從弟の寺をしらせ給へ、此よし賴むと申(まうす)に、又兵衞も心得て宿元へ立歸り、さてさて、おん身遙々尋來り給へど、右の男は伊勢より歸(かへり)しとは聞きしが七日以前はかなく成り給ふと、まことしやかに語りければ、其寺へまかるべきとて又兵衞案内して彼墓所に至りしかば、彼女愁嘆かぎりなく、漸(やうやく)になだめて又兵衞が許へ連れ歸り、彼是(かれこれ)といたわりなぐさめけるに、誠に不仕合(ふしあはせ)に遙々尋來りし甲斐なく死別せし事是非なけれ、翌日にもならば又仕方もあるべし、こよひは泊め給はれといゝけるに、又兵衞も其意に任せけるが、夜中いづちへ行けん行方しれず。あけてのち彼寺へ至り見れば、晝見せし墓所の木にて首縊居(くくりをり)しゆゑ、驚(おどろき)早々立歸り彼おのこの方へ至り、しかじかの事なりと語りければ大いに驚き、かゝる事顯(あらは)に申立(まうしたつ)るもよしなし、隱し給はれといへば、又兵衞もえしれぬ女を止(と)め置(おき)し事も罪なきにあらずと、口をとぢて居たりし由。其後右女の兄又兵衞の許へ尋來りしともいふと、人の語りともいふと、人の語りし。實事の事にや、僞(いつはり)にもあれ、好色など可愼(つつしむべき)事、若き人のいましめにもならんかと、聞(きく)まゝに爰にしるしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。話柄の終盤部分を少し翻案した。
・「女道者」女の巡礼。
・「右の男は伊勢より歸(かへり)しとは聞きしが七日以前はかなく成り給ふと、まことしやかに語りければ」底本では右に『(尊經閣本「伊勢より歸りしが、七日以前にはか無成りし、伊勢より歸りしとは聞しが、其後尋もせず、御身の事弟彼元へ至りしが、誠に氣の毒と語りければ」)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『右の男は伊勢より歸りしとは聞きしが、其後尋(たづね)ず。いかゞ成(なり)しやと幸ひ御身の事旁々(かたがた)彼元へ至りしが、七日以前にはかなく成(なり)給ふ」と、誠(まこ)としやかに語りければ』と極めて自然。バークレー校版で訳した。
■やぶちゃん現代語訳
色を好むことはこれくれぐれも慎むべき事
近頃の事であるとか申す。
町人が六、七人申し合わせて、伊勢参宮を致いた。
途中、女の巡礼、これまた六、七人と連れと相い成り、道中の宿も一つところに泊りつつ、道連れのまま帰途についたが、かの内の町人の一人、つい、この連れの女巡礼の一人に秘かに戯れなし、女もこの男に強く惹かれ、まあ、その――人目を憚る、深く語らう――仲とは、相い成って御座ったと申す。
かの女は江戸郊外の田舎の者なれば途中より立ち分れたが、その前夜の旅宿の秘め事の語らいに、
「……江戸においらを尋ねるんなら、佃島(つくだじま)辺の船頭の又兵衛という老爺(じじい)を捜して訊くといい。昵懇じゃから、おいらの住まいもそれで知れる……」
などとつい言わいでもいい軽口をたたいたが、後で女はそれを書き留めおいて、別れた。
さてかの男が江戸へ帰って後、暫くたったある日のこと、かの女、その又兵衛の元へと尋ね来たって、
「……これこれ言い交したるお人をご存知と承って御座いまする……どうか……逢いとう存じますれば……」
とて、かの伊勢参宮での寝物語に交わしたことなんどを話したによって、又兵衛、
『……あいつは……しかし……妻子持ちじゃがなぁ……』
と内心、不審に思うたものの、女の、まっこと、誠実なる面持ちなればこそ、
「……なるほど……よっしゃ、儂(あっし)が今、行って訊いて進ぜようぞ。まぁ、まずはちょいと、むさ苦しいが、この儂の宅(うち)で、お待ちなせぇ。」
と女を長屋へ留め置き、かの男の許へと参って、
「おい!……かくかくしかじか……その女子(おなご)は今、宅に待たしとるがのぅ?……」
と告げたところが、男は大きに驚き、
「……な、なるほど……た、たしかに……その……お、覚えがないという……わ、わけでも、ねえ……い、いや……そ、そうは言っても……お、おいら、嬶(かかあ)も子(こお)もある身じゃで……そ、その女子(おなご)……こ、これ、訪ねて来てもらっても……こ、これ、と、とんでもないことになる……どうしよぅ!……」
と、蒼くなって困り果てておったが、
――パン!
と膝を叩いて、
「……実は幸い、儂(あっし)の従弟(いとこ)が、これ、七日前に相い果てたによって――これを……『おいらが相い果てた』と――かの女に告げて貰えねえかぃ?……あ、そうするってえと……葬った寺をも訊き返してくるだろうが……そしたら、その従弟を葬った○○寺を教えてやってくんない!……どうか、頼む! 後生じゃ! 又兵衛どん!!……」
と縋りついて懇請致いたによって、又兵衛も男が妙に気の毒になって、
「……よっしゃ! 相い分かった。」
と心得、己が長屋へ立ち帰ると、
「……さてさて、おん身、はるばる、尋ね来って下さったれど……実は……かの男――伊勢より帰ったとは耳にして御座ったものの、ここ暫く無沙汰致いて御座った――が……今、訪ねてみたところが……のぅ……もう、七日も前に……急の病いにて……儚のぅなって、御座ったと、申す…………」
と、如何にもしんみりと、実(まこと)しやかに女に語って御座った。すると、
「……そ……そのお寺へ……お参り致しとぅ……存じまする……」
と、蚊の鳴くように、消え入るように呟いたによって、又兵衛、この娘を伴のうて案内(あない)し、かの男の教えたかの寺内の、その男の従弟の新墓地へと女を連れ参った。
墓前にあっては、かの女の愁嘆、これ、限りのぅ、崩折れて号泣致いたれば、ようやくに宥めて、また、又兵衛の長屋へと連れ帰って、かれこれと労り慰めて御座ったと申す。
すると、女、
「……まこと……妾(われ)ら……不幸せなる身(みい)……はるばる尋ね来った……その甲斐ものぅ……既にして愛するお人には死なれ……幽冥境となしたること……これ、是非も御座いませぬ……さても……どう致いたらよいものか……いえ、また……孰れ新たに陽の昇らば……これ、また何か……よきことも……ありましょうか……されど、在所へ戻るには陽もとうに傾(かたぶ)きたれば……どうか、一つ……お手数乍ら、今宵は、土間なりとも、お泊め下さいまするよう、どうか…………」
と乞うたによって、人のよい又兵衛も断りきれず、その意に任せ、部屋の端に、衝立を挟んで寝かせてやったと申す。
ところが、又兵衛、老いたれば小便の近きに、深夜、厠に行かんとせば、女の姿が――ない。
何やらん、胸騒ぎの致いたによって、夜が明くるとすぐ、かの寺へと駆けつけて見たところが……
女は……
前日の昼、見せた、かの墓の、傍(かた)えにあった木(きい)に……
己が首を縊(くく)って――ダラリと――ぶらさがって……とうに……こと切れて御座った。……
又兵衛、驚き、早々に立ち帰ると、かの男の方へととって返し、
「……お前さん!……か、かの女子(おなご)……は、墓の前で……首……縊ってもうたッ!!……」
と告げ、昨日からの様子やら懇請されたによって泊めおいたることなんども語った。
男も驚愕致いて、
「……こ、このようなること……こ、これ、正直に申し出づることも……で、出来そうも御座らぬ!……ま、又兵衛どん!……ど、どぅか、一つ!!……何も知らぬ存ぜぬ、と……よろず……隠しおいたままに!!……後生! 後生じゃッ!!!……」
と、またしても縋りついて必死に乞うた。
又兵衞もまた、
「……まんず……哀れに思うたによって……怪しげなる、何処(いずこ)の者とも知れぬ田舎娘を……儂(わし)もかく、勝手に泊め……目(めえ)を離した隙に……かくも首縊(くく)られたとあっては……これ……儂にも罪がないとは言えんのぅ……」
と、結局、一切を語らずにおった、とのことで御座った。
――さてもその後、かの寺方にては、縊死致いた女のあったを奉行所に届け出でたところ、持ったるものから身元が知れ、在方の兄なる者が急遽参って、遺骸を引き取って御座ったと申すが、その折りに寺の役僧が、
「……亡くなる前の日の、そうさ、昼過ぎのことで御座いました。……かの首を縊られたる墓に……かの妹ごを連れて男が一人……参って御座いましたなぁ。……あれは確か……そうさ、我ら、佃島によう、法事に参りまするが、確か……その船頭を致いておる、又兵衛とか申す老人で御座いましたなぁ。……」
と告げたによって――その亡き娘の兄が又兵衛の元へと訊ねて参ったとも――ある者は噂しておったと、これまた総て伝え聞き乍ら、とある御仁の語って御座った話。……
さて。これ、事実あったことで御座ろうか?……それとも……根も葉もない偽りの作り話ででも御座ろうか?……まあ、ともかくも色好みは、これ、屹度、慎むべきものにして――特に若き人の戒めにもならんかと存じ――聞いたままに、ここに記しおくことと致す。
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