今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂
本日二〇一四年六月二十九日(陰暦では二〇一四年六月三日)
元禄二年五月 十三日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月二十九日
である。【その一】この日、芭蕉は平泉に到達、かのハレーションのような夢幻の名吟二句をものした。まずは「夏草や」の句。
奥州高館(たかだち)にて
夏草や兵共(つはものども)がゆめの跡
奥州高館にて
なつ草や兵どもの夢の跡
[やぶちゃん注:第一句は「猿蓑」の前書で「奥の細道」の、第二句は「泊船集」の句形。
以下「奥の細道」。
*
三代の榮耀一睡の中にして大門の跡は
一里こなたに有秀衡か跡は田野
になりて金鷄山のみ形を殘す
先高館にのほれは北上川南部より
流るゝ大河也衣川は和泉か城を
めくりて高館の下にて大河に落入
康衡等か旧跡は衣か關を隔て
南部口を指かためゑそをふせくと
見えたり扨も義臣すくつて此城に
籠り功名一時の草村となる
國破れて山河あり城春にして
靑々たりと笠打敷て時のう
つるまてなみたを落し侍りぬ
夏艸や兵共か夢の跡
卯花に兼房みゆる白毛かな 曾良
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇康衡 → ●泰衡
[やぶちゃん注:誤字。]
●城春にして靑々たり → ●城春にして草靑みたり
ここでは一つだけ注して、後は【その二】に譲りたい。
「兼房」十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)。「義経記」にのみ登場する架空の義経の家臣。ウィキの「十郎権頭兼房」によれば、『源義経の北の方(正室)である久我大臣の姫の守り役で、元は久我大臣に仕えた』六十三『歳の武士。義経の都落ちに北の方と共に付き従う。平泉高舘での義経最期の場面では、北の方とその子である』五歳の若君と亀鶴御前及び生後七日であった『姫君を自害させ、義経の自害を見届けて高舘に火をかける。巻八「兼房が最期の事」では敵将長崎太郎を切り倒し、その弟次郎を小脇に抱えて炎に飛び込み壮絶な最期を遂げ』る老義臣として描かれている。彼だけでなく『義経の北の方とされる久我大臣の姫、その子亀鶴御前と生後間もない姫君』というのも『いずれも架空の人物であり、歴史上では義経とともに死んだ正室は河越重頼の娘の郷御前で、子は』四歳の女児のみであったとされるとある。]
*
【その二】金色堂の句。
五月雨(さみだれ)を降(ふり)のこしてや光堂
五月雨や年々(としどし)降(ふり)て五百たび
五月雨や年々降(ふる)も五百たび
[やぶちゃん注:第一句は「奥の細道」の、第二句と第三句は曾良本「奥の細道」の推敲過程の句形の再現。実際には第二句が最初に書かれてあって、「降て」が「降も」と改められた上、さらに第一句の句形に直されている。従って推敲過程順に並べ直して読み易く書き換えると、
五月雨や年々降りて五百たび
↓
五月雨や年々降るも五百たび
↓
五月雨を降りのこしてや光堂
となる。
以下「奥の細道」。
*
兼て耳驚したる二堂開帳す經堂は
三將の像を殘し光堂は三代の棺を
納メ三尊の佛を安直す七宝散うせて
玉の扉風にやふれ金の柱霜雪に朽て
既頽廢空虛の叢となるへきを
四面新に囲て甍を覆て風雨を凌
と
暫時千歳の記念をはなれり
五月雨や年々降りて五百たひ
螢火の晝は消つゝ柱かな
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇安直す → ●安置す
[やぶちゃん注:誤字。]
●記念をはなれり → ●記念をはなれり
[やぶちゃん注:「を」の右にミセ消チで「と」と記す。]
■やぶちゃんの呟き
最初に。最後の「螢火の晝は消つゝ柱かな」の句は恐らく皆さんは見慣れぬ句であろう。別に【その三】として公開する。
この日の「曾良随行日記」は以下の通り。
十三日 天氣明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊澤八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ關・中尊寺・(別當案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不ㇾ行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。經堂ハ別當留守にて不開。金雞山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅歸ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。
最早よく知られることだが、これを以って諸家は実際には見ていなかった「經堂は三將の像を殘し」の虚構の「三將の像」を致命的誤りとして論う。具体的には――「三將」は清衡・基衡・泰衡であるが、同経堂にある三体の像は獅子に乗る文殊菩薩と獅子を曳く優塡(うでん)王に善財童子であるという「事実」をである――しかし乍ら言い添えておくと実際にはそこには後(あと)まだ二体、仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)と婆藪(ばそう)仙人が安置されてあって全五体で文殊五尊像を成すのである。
この議論はしかし、今の私にはすこぶる退屈な話としてしか聴こえぬのである――いや、かくいう私も高校教師時代、確かに鬼の首を捕ったようにこの「虚構」を解説していたのだが、今、そうした自分を実におぞましく思っているのである。
そんなことは、この平泉の名シーンを味わうのには、全く以って不要なことだからである。況や、雨が降っていたか晴れていたかなんぞは全く問題の外である。私は高校時代にこの段を読んで以来、快晴の(前句はそこに草いきれの光景が附加される)景以外を平泉の段に想起したことは一度もない。どう転んでも、この「五月雨の句」に五月雨が降っていなければならないという必要条件はないし、そもそもが「三將」と言わずに、ここに正直に「うどん」だか「ぜんざい」だかというくだくだしい事実情報の添え物を店開きする必要も、これ、さらさらないからである(但し、正直言っておくと私はこの平泉の文殊の五尊像が個人的には頗る好きではある)。
よろしいか?
ここは――『芭蕉の「奥の細道」という系の中の一つの極北の金字塔としての特異点たる平泉』――なのである。
そこは――『虚も実も総てが呑み込まれた芭蕉の創造した厳粛荘厳なる心象風景』――なのである。
この「平泉の段」こそは実に――『「奥の細道」の最も優れたモンタージュが施された芭蕉遺愛のプライベート・フィルム』だったのである。]
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