今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅14 遊行柳 田一枚植ゑて立ち去る柳かな
本日二〇一四年六月 七日(陰暦では二〇一四年五月十日)
元禄二年四月二十日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 七日
である。【その一】この日の朝は霧雨が降っていたが、午前八時頃には晴れ、八時半には二泊した那須湯本を出立、蘆野(現在の栃木県那須町芦野)の西行所縁で、また謡曲ともなった「遊行柳」に、私の推定では恐らく昼過ぎには辿りついたものと思われる。
田一枚植(うゑ)て立(たち)去る柳かな
[やぶちゃん注:「奥の細道」。但し、この句は「曾良随行日記」や「俳諧書留」などにも載らず、安東次男によれば、芭蕉『生前の集にも見当たらない。後年の作かも知れぬ』(「古典を読む おくのほそ道」)とする。但し、角川文庫版頴原・尾形訳注「おくのほそ道」の発句評釈によれば、支考の『俳諧古今抄』(享保一五(一七三〇)年跋)にこの句についての詳しい記載があるとし、
《引用開始》
なお、支考の『古今抄』によれば、芭蕉の当時の吟は、中七が「植ゑて立ちよる」であったという。それは奥の須賀川の人から、当時支考への文通中に伝えたところだというから、あるいは実際初案の形であったのかも知れぬ。そうして支考はかえってこの「立ちよる」の方をよしとし、諸注にもこれに対する論があるが、『説叢大全』に、「立ちよる」は最初の念、「立ち去る」は後の姿であって、その最初の念は本文に譲って「立ちよりはべりつれ」といったから、句は「立ち去る」とすべきだと説いているのは、再案に至るまでの過程をまことに巧みに説明したものということができよう。
《引用終了》
と解説する。これから考えればやはり、今日にシンクロするアップ・トゥ・デイトな嘱目吟としてまず問題ない。取り敢えず、ここで初案形とされるものも、ここに掲げておくこととはする。
田一枚植て立寄る柳かな
しかし言っておくと、私には引用の素丸の「蕉翁発句説叢大全」(安永二(一七七三)年跋)も言っているように、とても「奥の細道」の前書(後掲)と合わせることが出来ず(直前とのダブりが如何にもである)、だいたいからしてこれでは句柄としても、安っぽく、何か妙に下卑て婀娜な掛け軸みたようで、全くの駄句にしか見えない。
さて、この句はまず、西行がここで詠んだと伝承される「新古今和歌集」の二六三番歌、
道のべに淸水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ
をまず受けて、あまりの心地良さにすっかり長居して憩うたうちに、すでに早や、早乙女は田一枚を植え終えてしまった――さあ、私も――慕う西行法師のように「立ちどま」ってしまった「ここ」から「立ち去る」ことと致そう――と転じているのである。
古来、この句では、「植ゑ」る主語と「立ち去る」主語の問題が喧しい。先に掲げた頴原・尾形の評釈では、
《引用開始》
句は本文に述べている通り、西行の歌に名高い柳を訪ねての吟である。「今日この柳のかげにこそ立ちよりはべりつれ」といった文句には、日ごろの本懐をとげた嬉(うれ)しさが溢(あふ)れている。さて句意は、『句解』に「しばしとてこそやすらひつれ、はや田一枚植ゑけるよと、おどろき立ち去りたる旅情なり」といっているので尽きており、諸注も多くこれに従っている。ただ「植ゑて立ち去る」とつづいた二つの動詞において、おのおのその主語を異にするのは、いかに文法上の破格を許し得べき特殊の詩形にせよ、はなはだ無理な措辞といわねばならぬ。だから『師走囊』に「この句、早乙女(さをとめ)を誉(ほ)めたる句なり。たをやかなる柳腰の女どもが田一枚を植ゑて各たちさりしなり」と解しているのも、語法上からいえばまことにもっともである。しかしそれでは肝心の柳が、まったく比喩にすぎないものとなってしまう。また、その柳の下から早乙女たちが立ち去ると解しても、芭蕉が日ごろの本懐をとげた嬉しさや、柳に対する愛着の情などは生じてこない。本文のつづきから解すれば、どうしても『句解』の説の外に出ることはできない。こう解して初めて芭蕉が柳の木の下を立ち去りかね、最初はしばしと思って立ち寄ったのに、早くも田一枚を植え終わったことに驚き、見返りがちにそこを去って行く情が生ずるのである。しかし何といっても、この句における措辞の不備は、重大な欠点といわざるを得ぬ。従って句として成功の作ということはできないであろう。
《引用終了》
と述べているのだが、果たしてそうだろうか?(『句解』は大島蓼太撰「芭蕉句解」(宝暦九(1759)年刊。『師走囊』は正月堂撰「俳諧師走囊」(しわすぶくろ:明和元(一七六四)年跋)の俳諧注釈書)。
そもそも修辞法とは文芸の創作の中で生じたものである。例えば知られた「徒然草」で兼好が「かげろふの夕べを待ち、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし」と綴った時、対偶中止法などという呼称は当然なく、このような手法(連用形で中止することで後の同形態の構文の否定形が前の同形態部にも同義の意味を及ぼす)が一般に認知されていた(若しくはされつつあった)という「だけ」のことだ。この文は音韻上でも「かげろふの夕べを待たず、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし」とするのに比較して格段に優れて、しかも文法的に全く以って正しい、と言い得るかといえば文法嫌いの私などは明らかに留保したくなるのである。退屈な国文法を学んで、そこで認知されているから正しいなどという本末転倒の理解は私には意味を持たない。しかし私は、あの「あだし野の露」のその部分は「重大な欠点といわざるを得」ず、「従って句として成功の作ということはできない」、などとは口が裂けても言わない。そういう謂い方をする輩は、やはり芸術の創造者ではないと私は思う。国文学者というのは所詮、創作者ではなく、必ず鼻持ちならない錆びたインクの臭いをどこかでさせているものだ。芭蕉のそれは物理的達意を目的とした文字列ではない。一個の発句という創作である。私は「奥の細道」の名吟を挙げよと言われれば、恐らく十句の内にはこれを入れる。本句は「奥の細道」の中にあって実に成功している句であると私は信じて疑わない。
ではどこがそんなに素晴らしいのか。
私はまず、凡そ若き早乙女が苗を植える鮮やかな映像を配さずには、この句を映像化し得ないということから始めたい(但し、それが「柳腰」だなどとは思ったことは金輪際ない。そういう解自体、噴飯物の存在すべきでない誤「解」である)。それは映像のリアリズムというよりも、この後に続く須賀川の段の、
風流の初やおくの田植うた
と、信夫の里の段の、
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
の二句から、自然、フィード・バックされるものだからである。そうしてしかもその早乙女は、私にとってはまさに田植えに際して田の神を祭ったところの古代の巫女としての早乙女を面影としていると言ってよい。その早乙女こそが柳の精なる一老人をここに現出させるのである。
「田一枚植ゑて」は寧ろ、植える動作の描出ではなく、その「田一枚」を「植ゑ」るための有意な時間の経過を示すためのものである。即ち、「柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と感じた、ほっと一息ついた西行としての何か不思議に長閑で夢幻的な時間経過のそれである。
さて、その西行の和歌を素材として室町時代に観世信光が謡曲「遊行柳」を創作し、これによってこの柳は広く世に知られることとなり、歌枕の地ともなった。そうしてこの句の眼目はまさに、その能「遊行柳」にこそあるのであって、私のこの句の心象風景の中に浮かぶ、西行も、隠された農家の若き早乙女も、そして芭蕉も、これ皆、真の私の「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」というイマージュ・ポエトの映像の主役では――ないのである。
謡曲「遊行柳」は以下のように始まる(例によって新潮古典集成を参考に自由に正字化、加工した)。
ワキ・ワキツレ〽歸るさ知らぬ旅衣 歸るさ知らぬ旅衣 法(のり)に心や急ぐらん
ワキ「これは諸國遊行の聖にて候 われ一遍上人の教へを受け 遊行の利益を六十餘州に弘め 六十万人決定往生の御札(みふだ)を 普く衆生にあたへ候 このほどは上總の國に候ひしが これより奥へと志し候」
ワキ・ワキツレ〽秋津州の 國々めぐる法の道 國々めぐる法の道 迷はぬ月も光添ふ 心の奥を白河の 關路と聞けば秋風も 立つ夕霧のいづくにか 今宵は宿をかりごろも 日も夕暮になりにけり 日も夕暮になりにけり
ワキ「急ぎ候ふ程に 音にきゝし白河の關をも過ぎぬ またこれに數多の道の見えて候 廣き方へゆかばやと思ひ候」
このワキとワキツレはまさに芭蕉と曾良に他ならない。「奥の細道」の旅は芭蕉にとって『歸るさ知らぬ旅』であり、風狂『諸國遊行』の旅であり、そうしてまさにこれより今日、『白河の』関所を越えて、『心の奥をしら』ざる「奥の細道」の未知なる結界(又は魔界)の奥へと深く入いり行こうとしているのである。
ここに前シテの翁が登場する。
シテ「のうのう遊行上人の御供の人に申すべき事の候」
ワキ「遊行の聖とは札の御所望にて候ふか 老足なりともいま少し急ぎたまへ」
シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし まづ先年遊行の御下向の時も 古道(ふるみち)とて昔の街道を御通り候ひしなり されば昔の道を教へ申さんとて はるばるこれまで參りたり」
ワキ「不思議やさては先の遊行も 此道ならぬ古道を 通りし事の有りしよのう」
シテ「昔はこの道なくして あれに見えたる一叢(ひとむら)の 森のこなたの川岸を 御通りありし街道なり その上朽木(くちき)の柳とて名木あり。かかる尊(たっと)き上人の。御法の聲は草木までも。成佛の緣ある結緣たり」
地〽こなたへいらせたまへとて 老いたる馬にはあらねども 道しるべ申すなり いそがせたまへ旅人
私はこの劇中のシテの台詞である「老いたる馬にはあらねども 道しるべ申すなり いそがせたまへ旅人」の主客を転倒させたインスパイアこそが実は、先の殺生石の手前で詠んだ「野を横に馬牽きむけよほととぎす」だったのではあるまいか? そこで既に柳の精霊は、野夫に変じて芭蕉を遙かにここへと誘ったのである。
地〽げにさぞな處から げにさぞな處から 人跡絶えて荒れはつる 葎蓬生刈萱(むぐらよもぎうかるかや)も 亂れあひたる淺茅生(あさじう)や 袖に朽ちにし秋の霜 露分け衣來て見れば 昔を殘す古塚に 朽木の柳枝寂びて 影踏む道は末もなく 風のみ渡る氣色かな風のみ渡るけしきかな
シテ「これこそ昔の街道にて候へ 又これなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候 よくよく御覧候へ」
とあって、以下、翁が簡単な西行の事蹟を述べて詠歌が以下のように詠唱されつつ、聖の数珠を受けて翁は柳に寄るように見せて消え失せる。
地〽道のべに 淸水流るる柳蔭 淸水流るる柳蔭 しばしとてこそ立ち止まり すずみとる言の葉の 末の世々までも 殘る老木はなつかしや かくて老人上人の 御十念(おんじうねん)を給はり 御前を立つと見えつるが 朽木の柳の古塚に寄るかと見えて失せにけり 寄るかと見えて失せにけり
ここで中入。この間にアイの土地の男が登場、西行の事蹟と柳の精の謂われを仔細に語る(そこでは正しく西行の和歌が出るが、この長々しい台詞は屋上屋でしかも夢幻能の真相をここで完全にバラしてしまうという構成が実は私には今一つ気に入らない)。
夜になって一行が念仏を手向けていると、烏帽子狩衣を着した後シテ老柳の精が登場する。
ワキ「不思議やさては朽木の柳の われに詞をかはしけるよと」
ワキ・ワキツレ「おもひのたまの數かずに 念(おも)ひの珠(たま)の數かずに 御法をなして稱名(しょおみょお)の聲打ち添ふる初夜の鐘 月も曇らぬ夜もすがら 露をかたしく袂かな 露をかたしく袂かな」
私は、芭蕉はこの聖らの、称名を唱え、念誦の数を数えるさまを、早乙女が田植え唄を歌い、数えながら田を植え終わるシークエンスにダブらせたのではないかと感じている。
老柳の精は念仏の功徳によって救われることとなったことを謝し、「すなはち彼岸に到らんこと 一葉(いちよお)の舟の力ならずや」、その舟は「柳」の一葉の上の蜘蛛が糸を引いて川を渉るさまに始まったと柳の故事を起こし、玄宗皇帝の宮廷の名木であった柳、本邦の清水寺の楊柳観音、宮中の蹴鞠の場庭の式の木としての柳、「源氏物語」の柏木の恋もその蹴鞠がきっかけであったと、如何にも永く生きてきてしまった柳尽し木尽しの懐古をする(この故実の畳み掛けと連想による台詞が私は好きである)。
……シテ「柳櫻をこきまぜて」
地「錦をかざる諸人の やかなるや小簾(こす)の隙(ひま) 洩りくる風の匂より 手飼の虎の引綱も ながき思にならの葉の 其柏木の及びなき 戀路もよしなしや これは老いたる柳色(やなぎいろ)の 狩衣も風折(かざおり)も 風に漂ふ足もとの 弱きもよしや老木の柳 氣力なうして弱々と 立ち舞ふも夢人(ゆめびと)を 現(うつつ)と見るぞはかなき
「風折」は風折烏帽子。立(たて)烏帽子の頂きが風に吹き折られたような形の烏帽子。狩衣着用の際に左折りにして被った(右折りは上皇の式とする)。以下、序ノ舞へと向かう。聖らへの報恩を込めて旧懐の舞いを老精はゆったりと舞い始める。
シテ〽報謝の舞も これまでなりと 名殘の涙の
地〽玉にも貫(ぬ)ける 春の柳の
シテ〽いとま申さんと いふつけの鳥も鳴き
地〽別れの曲(きょく)には
シテ〽柳條を綰(わがん)ぬ
地〽手折(たお)るは靑柳の
シテ〽姿もたをやかに
地〽結ぶは老(おいき)木の
シテ〽枝も少なく
地〽今年ばかりの 風や厭はんと 漂ふ足もとも よろよろ弱々と 倒れ伏し柳 假寢の床の 草の枕の 一夜(ひとよ)の契りも 他生の緣ある 上人の御法 西吹く秋の 風うち払ひ 露も木の葉も 散りぢりに 露も木の葉も 散りぢりになり果てて 殘る朽木と なりにけり
即ち、この句で「立ち去る」のは、現実の「前ジテ芭蕉演じる翁」なのではなく、実は自らが前段から自己劇化してきたところの、複式夢幻能のアーキタイプに基づく、かの早乙女にシンボライズされた巫女が呼び出した「遊行柳」の枯木の柳の精霊たる、「芭蕉自身の扮する後シテ」なのである。そうして彼こそが今、「ここ」――この夢幻世界、否、儚き宿りに過ぎぬこの世――をまさに「立ち去る」のだと――私は信じて疑わないのである。
しかもここにはもう一つの仕掛けがある。それは『別れの曲には柳條を綰(わがん)ぬ』である。「綰ぬ」とは古来、中国に於いて人と別れるに際し、柳の枝を折って環としたものを作って、それを旅立つ人の袂に入れて見送る(再び還れの意を込める)ことをいう。私は健康的な鄙の若き早乙女の植える手振りに、芭蕉はその「柳條を綰(わがん)ぬ」様を擬えたのではあるまいかと踏んでいる。「遊行柳」の精は最後に柳に絡めて恋の思い出をとうとうと謠うのである。かの精を送るのはどうしても若き女でなくてはならない(それはまさに能には詳しくない私でも「恋重荷」や「綾鼓」に通ずるものとして認識されてある)。さればこそ私にはここにうら若き早乙女の姿が絶対に必要なのである。――凡そこれは私の妄想の類い――とどこか自己卑下する気持ちもあったのであるが、実は今回、安東次男の「古典を読む おくのほそ道」(岩波書店一九九六年刊)をつまびらいたところ、『芭蕉は、河辺で青柳の枝の輪をつくるかわりに、湧清水のちいさな田に苗を植える手ぶりを取出している。植えたばかりの早緑の小山田こそ、朽木柳に贈る別れのしるしにふさわしいと見ているのだ。こういうしゃれたイメージの踏替(ふみかえ)は、日ごろ、漢詩文や謡曲の一つも俳諧に奪ってみたい、と狙っていなければ生まれるものではない』と述べておられるのに出喰わし、驚きとともに快哉を叫んだことを附記しておきたい。それが正しいかどうかよりも孤高の鬼才安東次男の感覚と、かくも繋がり得たことは(但し、安東は田なんかすでに植え終わっていてもいい、実際に植えるのは早乙女とは限らない、あたかも婆あかむくつけき野夫でも何でもいいんだと言いそうな、例のけんもほろろな謂いをしている部分には実は失望したのだが)どこか非常に嬉しくはあるのである。
もう一つ、私が気になっていることが「遊行柳」にはある。
前半、シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし まづ先年遊行の御下向の時も 古道(ふるみち)とて昔の街道を御通り候ひしなり されば昔の道を教へ申さんとて はるばるこれまで參りたり」ワキ「不思議やさては先の遊行も 此道ならぬ古道を 通りし事の有りしよのう」シテ「昔はこの道なくして あれに見えたる一叢(ひとむら)の 森のこなたの川岸を 御通りありし街道なり」とあり、またその後も、「影踏む道は末もなく」(地)とあってすぐ、シテ「これこそ昔の街道にて候へ 又これなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候 よくよく御覧候へ」ともあることである(下線やぶちゃん)。――ここでは執拗に人の行かなくなった「古道」がクロース・アップされる。
実はこの遊行柳を「立ち去」った後、芭蕉は関の明神を通って白坂から「奥の細道」のランドマークたる白河の新関及び旧関跡を通って、その日は旗宿に泊まっている(実にこの日は踏破距離が三日目の間々田から鹿沼の距離と同じ約四十一キロメートルに及んだ特異日であった)のだが、そのルートは如何にも迂遠なコースを辿っていることが分かる。それは白河の新関から旧関を求めた歩いた結果の、一見、労多くして益なき旅だったようにも見受けられるのであるが(山本「奥の細道事典」ではこのルートに「半端なコース選び」という標題を掲げられるなど、この日の白河の関跡訪問は芭蕉痛恨の失策であったという判断を下されている)、実は私は芭蕉は意識的に、最早定かでなくなった古道をわざと迷い歩いたのではなかったか、と思っているのである。そしてそれはまさにこの「遊行柳」の執拗(しゅうね)き古道を経ることによってのみ「奥の細道」には分け入ることが可能であるという心的気分を求めたからだと思うのである。――これは無論、全くプラグマティクではない馬鹿げた行動ではある。しかし私は、芭蕉なら敢えてそれをする――旅の初めに黒羽に於いて、のんべんだらりと過ごしてしまった自身に対する強い自責の念からも、そうしたに違いない――と感ずるのである。
長くなった。最後に「奥の細道」の遊行柳の段を示す。
*
又淸水流るゝの柳は芦野の
里にありて田の畔に殘る此所の郡守故
戸部某の此柳みせはやななと折々に
の給ひきこえ給ふをいつくのほとにやとお
もひしを今日この柳のかけに
こそ立寄侍つれ
田一枚植て立去ル柳かな
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇故戸部某の → ●戸部某(こほうなにがし)の
○此柳みせはやななと → ●「この柳見せばや」など
■やぶちゃんの呟き
・「郡守故戸部某」下野国蘆野藩(三千石)第十九代藩主で旗本の蘆野民部資俊(寛永一四(一六三七)年~元禄五(一六九二)年六月二十六日)。創作としての人物の隴化が行われている。「郡守」は実際の藩主(領主)を漢代の官名に、また「戸部」は民政・財政を司った唐代の官名に擬してある。問題は初稿に近いと考えられている上記自筆本には「故」とあることに着目せねばならぬ。再掲示するが、芭蕉がこの遊行柳を訪れたのは元禄二年四月二十日(グレゴリオ暦一六八九年六月七日)であった。従ってこの時、この蘆野資俊はまだ存命だった。ところが上に見る通り、「奥の細道」自筆本では「此所の郡守故戸部某」と書いているのである。これによって芭蕉が現在我々が知る「奥の細道」の原形を執筆したのは早くとも、実際の旅(元禄二年九月六日の大垣で終わり)から三年後の元禄五年六月二十七日よりも後であったということが分かるのである。因みに現在、この「奥の細道」自筆本は元禄六~七年成立と推定されている。]
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