今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅13 殺生石 石の香や夏草赤く露あつし
本日二〇一四年六月 六日(陰暦では二〇一四年五月九日)
元禄二年四月十九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 六日
である。
【その二】同日、温泉(ゆぜん)大明神に参詣した後の午後、同明神下の岡の中腹にある殺生石を見ている。
殺生石
石の香(か)や夏草赤く露あつし
[やぶちゃん注:「曾良随行日記」四月十九日の条の最後に載り、直後に『正一位ノ神位被加ノ事、貞享四年黑羽ノ舘主信濃守増榮被寄進之由。祭禮、九月廿九日。』と記されてある。貞享四年は西暦一六八七年でこの二年前であるから、社殿は新装の美しいものであったと考えられる。
以下、「奥の細道」の殺生石の段。句は採られてない。
*
殺生石は温泉の出る山陰に
あり石の毒氣いまた
ほろひす蜂蝶のたくひ眞砂
の色の見えぬほとかさなり死す
*
■やぶちゃんの呟き
言わずもがな乍ら、「蜂蝶のたぐひ、眞砂の色の見えぬほど、かさなり死す」というのは実景ではない。
シテ「のうのあれなるおん僧 その石のほとりへな立ち寄らせ給ひそ」
ワキ「そもこの右のほとりへ寄るまじき謂はれの候ふか」
シテ「それは那須野の殺生石とて 人間(にんげん)は申すに及ばず 鳥類畜類までも觸はるに命なし。かく恐ろしき殺生石とも 知ろしめされでお僧たちは 求め給へる命かな」
「蜂蝶のたぐひ、眞砂の色の見えぬほど、かさなり死す」こそが芭蕉の真の句心であったのだ――まさしくこの時、芭蕉は自身を謡曲の「殺生石」の舞台の中に置いていた――そしてその能舞台はフェイド・アウトからフェイド・インしてそのまま次の段の演目「遊行柳」へと転じてゆくのである。――]