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2014/06/07

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅15 白河の関

本日二〇一四年六月 七日(陰暦では二〇一四年五月十日)

   元禄二年四月二十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年六月 七日

である。【その二】先に述べた通り、遊行柳を「立ち去」った後、芭蕉は午後一杯をかけて関の明神を通って白坂から一つのランドマークである白河関所跡(三世紀半ばには廃絶していたと推定されている)に向かった(この日は旗宿に泊まっているが(午後八時頃着)、この旗宿自体が関跡と伝えられてもいた。実にこの日は踏破距離が三日目の間々田から鹿沼の距離と同じ約四十一キロメートルに及んだ特異日であった)。芭蕉はこの記念すべき奥州の入り口で何故か、句をものしていない。以下、「奥の細道」の白河の段を引く。

   *

心もとなき日數重るまゝに白河の

關にかゝりて旅心定りぬ

いかてみやこへと便もとめしも

斷りなり中にも此關は三關の

一にして風※の人こゝろをとゝむ

秋風を耳に殘しもみちを俤

にして靑葉の梢猶あはれ也

卯の花の白妙に茨の花の咲そひて

雪にもこゆるこゝちそする

古人冠をたゝし衣裝を改

し事なと淸輔の筆にもとゝめ

置れしとそ

              曽良

 卯の花をかさしに關の晴着(キ)哉

   *

[やぶちゃん注:

■字注

「※」=「馬」+(「燥」-「火」)。

■やぶちゃんの呟き

 この白河関跡への奇妙な行程については、前の遊行柳の段の私の注を参照されたい。

「心もとなき日數重(かさぬ)るまゝに白河の關にかゝりて旅心定りぬ」「日數」を詠み込んだ白河関の古歌には、

 都いでし日數は冬になりにけりしぐれてさむき白河の關(藤原秀茂「続古今和歌集」九〇三)

 白河の關までゆかぬ東路も日數へぬれば秋かぜぞ吹く(津守国助「続拾遺和歌集」六七三)

 かぎりあればけふ白河の關こえて行けば行かるる日數をぞしる(源兼氏「続後拾遺和歌集」五九七)

がある(和歌の表記は安東次男「古典を読む おくのほそ道」の注を参考にした)。

「いかでみやこへと便りもとめし」は、

 たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の關は越えぬと(平兼盛 「拾遺和歌集」三三九)

を指す。

「三關」ここ磐城(いわき)の白河(現在の福島県白河市旗宿一帯に比定)、常陸(ひたち)の勿来(なこそ)(所在地不詳で実在を疑う向きもある。概ね現在の福島県いわき市に比定し、吉田松陰は「東北遊日記抄」で現在のいわき市勿来町関田字関山付近を比定しているが、ウィキ「勿来関」によれば、実はここに「勿来」の地名が古来からあったわけではないと否定的である)、羽前(うぜん)の鼠(ねず)が関(現在の山形県鶴岡市大字鼠ヶ関)の奥羽三関。

「風※」「※」=「馬」+(「燥」-「火」)であるが不詳。「風騷」の誤字か。「風騷」は「風」が「詩経」の「国風」を、「騒」が「楚辞」の「離騒」を指し、ともに詩文の模範とされたことから詩歌をつくること及び自然や詩歌に親しむ風流の謂いとなった。

「秋風を耳に殘し」「後拾遺和歌集」の能因法師の五一七番歌、

    陸奥國(みちのくに)にまかり下りけ

    るに、白河の關にてよみ侍りける

 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關

を踏まえる。能因の初めての陸奥行脚の作とするが、下向の事実を疑い、また虚構とする古注も多い。

「もみぢを俤にして靑葉の梢猶あはれ也」「千載和歌集」の源頼政の三六五番歌、

    嘉應二年法住寺殿の殿上歌合に、關路

    落葉といへる心をよみ侍りける

 都にはまだ靑葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の關

を踏まえる。「嘉應二年」は西暦一一七〇年。「靑葉の梢」は容易に本作で先行する日光の段の「あらたふと靑葉若葉の日の光」を想起させる。安東次男氏は「古典を読む おくのほそ道」の注で、日光の句が『四月一日(五月十九日)相当、この段の「青葉の梢猶あはれ」が四月二十一日(六月八日)相当。ひとしお秋風の興ある関を、夏に越すなら、頼政の歌を杖にたのもうという思付がうまい』と述べておられる。言い得て妙とはこのことをいう。こういう注こそが価値ある達意の注である。

「卯の花の白妙に」は、「千載和歌集」の藤原季通の一四二番歌、

    白河院鳥羽殿におはしましける時、を

    のこども歌合し侍りけるに、卯花をよ

    める

 みてすぐる人しなければ卯のはなのさけるかきねや白河の關

や、「夫木和歌抄」の定家の二〇四四番歌、

 夕づく夜入りぬる影もとまりけり卯の花咲ける白河の關

などを踏まえるものと思われる。

「茨の花の咲きそひて」安東次男氏によれば、「茨」を読み合わせた作例は見当たらないとあり、そこが芭蕉の眼目であった。新潮古典集成の「芭蕉文集」で校注者富山奏氏はこの超弩級の歌枕である白河の関越えに際し、芭蕉の『叙述には古歌が氾濫』、まさに『古来の風雅に』芭蕉は『陶酔しているが、そうした中で「いばらの花」は「青葉のこずゑ」と共に非和歌的眼前の実景で、伝統的風雅に根ざしつつ斬新な詩境開拓へと意欲する彼の姿勢が見られる』と述べておられる。

「雪にもこゆるこゝちぞする」安東氏は、「夫木和歌抄」の久我通光の五九八番歌、

 白河の關の秋とは聞きしかど初雪分くる山のべの道

及び、「続後拾遺和歌集」の大江貞重の四九二番歌、

 別れにし都の秋の日數さへつもれは雪の白河の關

を挙げつつ、『「(雪にも)こゆる」は、越えてゆきと解するのが尋常だろうが』[やぶちゃん補注:雪の中を越えてゆくのより、「靑葉の梢」「卯の花の白妙に茨の花の咲そひ」た中を越えてゆく方が。]、『勝るという情の含みがあるようだ』と述べておられ、まことに共感するものである。

「古人冠をたゞし衣裝を改し事など、淸輔の筆にもとゞめ置れしとぞ」藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)は、平安末の公家・歌人で平安時代の歌学の大成者として知られる。ここは彼の代表的な歌学書である「袋草紙」の上巻に載る以下の記事を指す(底本は岩波新古典文学大系版を用いたが、恣意的に正字化し一部の記号を変更した)。

 

 竹田大夫國行と云ふ者、陸奧に下向の時、白河の關過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白河の關』とよまれたる所をば、いかでかけなりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。

 

●「竹田大夫國行」藤原国行(生没年未詳)。従五位下。諸陵頭(陵墓管理の諸陵寮に長官)。「後拾遺和歌集」以下に六首入集されている。この話は「俊頼髄脳」にも載る。「愚秘抄」(伝定家撰とする歌学書)ではそれより前の受領歌人橘為仲とする。

●「みづびんかく」「水鬢搔く」で、急場の身だしなみのために鬢の毛を水で撫でつけて整えることを指す。

●「古曾部入道」能因法師。高槻の古曽部(現在の大阪府高槻市古曽部町)に住居を構えて、かく称した。

●「けなり」「褻形」である。普段着。「晴れ」と「褻(け)」の「け」である。

 

「卯の花」バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ Deutzia crenata 。和名は「空木」で茎が中空であることに由来する。「卯の花」の名は空木の花の意又は卯月(旧暦四月)に咲く花の意ともされる。個人サイト「木々@岸和田」の「ウツギ」に、出雲大社で火を熾す際に用いる「火燧杵(ひきりきね)」には、一部にこのウツギが用いられており、『邪気を払う力があるとされる』とあり、さらに『水田に水を入れる際に卯の花を飾るということもあったようである』ともある。後者はまさにこの田植えの時期にぴったり符合する。曾良は神道家でこうした伝承に詳しかったと思われ、また、もしかするとそうした習俗がこの地方には当時しっかりと残っていて、芭蕉や曾良はそれを嘱目したのかも知れない――と考えると、実に「奥の細道」の旅が初夏の爽やかさを伝えているように私には思われるのである。]

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