北條九代記 卷第六 本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(4) 承久の乱最終戦後処理【四】――後鳥羽院妃にして順徳院生母修明門院重子の愁嘆、後鳥羽院と生母七条院殖子の和歌贈答
取分(とりわけ)、修明門院の御歎(おんなげき)、世には例(たぐひ)もおはしまさじと見奉るも餘あり。一院は隠岐國、新院は佐渡島、西の空、北の雲、何(いづれ)に付けても苦しきや、傾(かたぶ)く月を御覽すれば、隱岐の方(かた)、御言傳(おんことづて)せまほしく、初雁が音(ね)を聞召せば、佐渡の有樣問はまほし。澤邊(さはべ)の螢の集(すだ)くにも、御物思(おもひ)と共にこがれ、遠山の霞の棚引くも、晴れぬ歎を知らすらん。東一條の先帝おはしませば、佐渡院(さどゐん)の御形見とは思召せども、いとゞ御慰(おんなぐさみ)はなかりけり。七條の女院は、老いたる御身にいつとも期(ご)せぬ都歸(みやこがへ)り、今日や明日やと思召す。御歎の色、日に從ひて增(まさ)らせ給ひ、思召し沈ませ給ふ由聞召して、隱岐の御所より、
たらちめの絶やらで待つ露の身を風より先にいかで問はまし
七條院御返(おんかへし)。
なかなかに荻吹く風の絶ねかしおとづれ來れば露ぞこぼる〻
[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【四】――後鳥羽院妃にして順徳院生母修明門院重子の愁嘆、後鳥羽院と生母七条院殖子の和歌贈答〉
「東一條の先帝」既注の順徳天皇第一皇子(母は九條良経の娘東一条院藤原立子)の九条廃帝仲恭天皇。
「絶やらで」底本頭書に『增鏡にはきえやらで』とある。
「なかなかに荻吹く風の絶ねかしおとづれ來れば露ぞこぼる〻」「荻」は花の「荻」と「隠岐」を掛ける。――いっそ心尽くしの風の便りなど……遣り送りなさいまするな……あなたのことを思い焦れて、今にも萩におく露のように、命の絶えてしまいそうな、この私の元に、隠岐の優しい風の便りが訪れると、それだけで露の儚い涙がこぼれてしまいますから――「露」は言わずもがな乍ら、涙に加えて、老いた自身の身の今にも儚くなりそうな命をも同時に象徴している。
以下、「承久記」(通し番号103の残り)。
中ニモ修明〔門〕院ノ御嘆、類少ナキ御事也。ゲニモ一院ハ隱岐へウツサセ給ヌ。又、新院、佐渡へ被ㇾ流サセ給フ。月日ノ西へ傾バ、隱岐ノ御所へ御事傳セマホシク思召、ハツ雁ガ昔ノヲトヅレハ、佐渡ノ御所ノ御事共トハマホシク、人家ヲ照ス螢ハ御思ト共ニ焦レ、遠山ニ滿タル霧ハ御嘆ト共ニ晴ヤラズ。東一條院、先帝マシマセバ佐渡ノ院ノ御形見トハ思召セ共、御慰ハ無リケリ。七條ノ女院、老タル御身ニハイツ共期セヌ都返リ、今日ヤ明日ヤト思召、御嘆ノ色、日ニ隨ヒテ増ラセ給ヒツヽ、思召沈マセ給由聞召及ビテ、隱岐ノ御所ヨリ、
タラチメノクエヤラデ待露ノ身ヲ風ヨリ先ニ爭デトハマシ
七條院御返事、
中々ニ萩吹風ノ絶ネカシ音信クレバ露ゾコボルヽ]
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