北條九代記 卷第六 本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(3) 承久の乱最終戦後処理【三】――順徳院佐渡遷幸、後鳥羽院皇子雅成親王は但馬へ、同頼仁親王は備前国児島へ配流さる
同二十二日、新院は佐渡國へ移されさせ給ふ。御供には冷泉中將爲家朝臣、花山〔の〕院少將、甲斐(かひの)兵衞佐教經、上北面藤左衞門〔の〕大夫安元、女房右衞門佐局(のすけのつぼね)以下三人ぞ參り給ふ。かくは定聞(さだめきこ)えしかども、爲家朝臣は、ひとまどの御送(みおくり)をも申されず、花山院少將は勞(いたはり)とて道より歸上(かへりのぼ)られ、右兵衞佐教經は道にて身罷りぬ。新院、いとゞ御心細く御送の者共迄も御名殘惜ませ給ひて、今日計(ばかり)明日計と留めさせ給ふぞ哀なる。長歌遊(あそば)して九條殿へ參らさせ給ふ返歌(かへしうた)に、
長(ながら)へて譬へば末に歸るとも憂(うき)はこの世の都なりけり
九條殿も御歌の返(かへし)とてなが歌遊して返歌ありける。
厭ふとも長へて經る世中の憂にはいかで春を待べき
同二十四日、一院の御子、六條〔の〕宮雅成親王は但馬國、次の日、冷泉宮賴仁親王は備前の兒島(こじま)へ移されさせ給ふ。衣々(きぬぎぬ)の御別取々の御歎申すも中々愚なり。
[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【三】――順徳院佐渡遷幸、後鳥羽院皇子雅成親王は但馬へ、同頼仁親王は備前国児島へ配流さる〉九条道家の返歌は歯が浮くように私には感じられて仕方がない。というよりこれは自分も御意に等しゅう御座いますなんどと言いながら、望みのない願いなど裁ち切るが宜しゅう御座いましょう、と傷を抉っているようにさえ思われる。
「冷泉中將爲家朝臣」藤原定家の子であった(冷泉)為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)。
「花山院少將」一条能氏(生没年未詳)。花山院侍従。一条少将。弟能継とともに鎌倉幕府と繋がりが深く、源実朝が暗殺された建保七(一二一九)年正月の右大臣拝賀式にも出席している。承久の乱では叔父の信能・尊長らは上皇方の首謀者となっている。能氏は「尊卑分脈」に承久の乱で梟首されたとあり、上皇方であったともされるが、「吾妻鏡」には順徳院の佐渡配流に同行し、病いのために途中で京に戻ったという記録が見られる。「承久記」慈光本では弟の能継が乱後に斬首されたとあって能氏との混同が見られる、とウィキの「一条能氏」にある。増淵氏の現代語訳では『義氏』と割注する。
「ひとまど」一応の。それなりの。藤原(冷泉)為家は本書が元にした「承久記」の記事(後掲)などによれば、順徳天皇の佐渡配流の供奉者として召されたものの応じなかったとある。晩年は阿仏尼との間に冷泉為相を儲けている。
「六條宮雅成親王」(正治二(一二〇〇)年~建長七(一二五五)年)は後鳥羽院皇子。ウィキの「雅成親王」によると、この後、『父である後鳥羽上皇の死後に幕府から赦免が出されたらしく、寛元2年(1244年)に生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていることが記録されている。その後同4年(1246年)に修明門院の最大の支援者であった当時の朝廷の実力者・九条道家が息子である将軍九条頼経と結んで、執権北条時頼とその後押しを受けた後嵯峨天皇を退けて雅成親王を次期天皇に擁立しようとしているとする風説が流される。時頼はその動きに先んじて九条親子を失脚させるとともに雅成親王を但馬高屋に送り返した。親王はそのままその地で病死して葬られた』とある。
「但馬國」但馬国城崎(きのさき)郡高屋(現在の兵庫県豊岡市)。
「冷泉宮賴仁親王」(建仁元(一二〇一)年~文永元(一二六四)年)は後鳥羽院皇子。ウィキの「頼仁親王」によれば、『実朝横死後は一時後継の征夷大将軍候補に擬せられていた』ものの、承久の乱によってかく配流となり、『同地において薨去したとされ』る。
「備前の兒島」備前国豊岡庄児島(現在の岡山県倉敷市児島)。
以下、「承久記」(底本通し番号102及び103冒頭部)。
同廿二日、新院、佐渡國へ被ㇾ移サセ給。御供ニハ、冷泉中將爲家朝臣・花山院少將・甲斐兵衞佐教經、上北面ニハ藤左衞門大夫安元、女房右衞門佐局以下三人參給フ。角ハ聞へシカドモ、爲家ノ朝臣、一マドノ御送ヲモ不ㇾ被ㇾ申、都ニ留リ給。花山院少將ハ、路ヨリ勞ハル事有トテ歸リ被ㇾ上ケレバ、イトヾ御心細ゾ思召ケル。越後國寺泊ニ著セ給テ、御船ニ被ㇾ召ケルニ、右兵衞佐則經、ヤマヒ大事ニヲハシケレバ、御船ニモ不ㇾ入シテ留メラレケルガ、軈テ彼コニテ失給ニケリ。新院、佐渡へ渡ラセ給。都ヨリ御送ノ者共、御輿カキ迄モ御名殘惜マセ給テ、「今日計、明日計」ト留メサセ給。ナガ歌遊バシテ、九條殿へ進ラサセ給フ。奧ニ又、
存へテクトヘバ末ニ歸ル共憂ハ此世ノ都ナタケリ
九條殿、ナガ歌ノ御返事有。是モ又、奧ニ、
イトフ共存へテフル世ノ中ノ憂ニハ爭デ春ヲ待べキ
同廿四日、六條宮但馬國、同廿五日、冷泉宮備前兒島へ被レ移給フ。カヽル御跡ノ御嘆共、申モナヲザリ也。
「吾妻鏡」も一応示す。承久三(一二二一)年七月。
廿日壬寅。陰。新院遷御佐渡國。花山院少將能氏朝臣。左兵衞佐範經。上北面左衞門大夫康光等供奉。女房二人同參。國母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄錄。羽林依病自路次皈京。武衞又受重病。留越後國寺泊浦。凡兩院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚爲之如何。
○やぶちゃんの書き下し文
廿日壬寅。陰り。新院、佐渡國に遷御。花山院少將能氏朝臣、左兵衞佐範經、上北面左衞門大夫康光等、供奉す。女房二人同じく參る。國母修明門院・中宮一品宮・前帝以下、別離の御悲歎、甄錄(けんろく)に遑(いとま)あらず。
羽林、病に依つて路次(ろし)より皈京す。武衞、又、重病を受け、越後國寺泊浦に留まる。凡そ兩院の諸臣、存没の別れ、彼是(かれこれ)共に傷嗟(しやうさ)せずといふこと莫し。哀慟甚だし、之れを如何ん爲(せ)ん。
●「中宮一品宮」順徳帝の中宮九条立子(建久三(一一九二)年~宝治元(一二四八)年)。当時二十九歳。
●「甄錄」はっきりと述べること。
●「傷嗟」傷み歎くこと。
廿四日丁未。六條宮遷坐但馬國給。法橋昌明可奉守護之由。相州。武州加下知云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿四日丁未。六條宮、但馬國へ遷坐し給ふ。法橋昌明、守護し奉るべきの由、相州、武州下知を加ふと云々。
廿五日戊申。冷泉宮令遷于備前國豐岡庄兒嶋。佐々木太郎信實法師受武州命。令子息等奉守護之云々。」阿波宰相中將。〔信成。〕右大辨光俊朝臣等赴配所云々。
○やぶちゃんの書き下し文
廿五日戊申。 冷泉宮、備前國豐岡庄兒嶋に遷らしむ。佐々木太郎信實法師、武州の命を受け、子息等をして之を守護し奉ると云々。
阿波宰相中將〔信成〕、右大辨光俊朝臣等、配所へ赴くと云々。]
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