橋本多佳子句集「紅絲」 冬の旅 Ⅰ 九州路
冬の旅
九州路
わが農園、国家に買上げとなる、九州へ
赴くこと度々
冬霧ゆる船笛やわが在るところ
冬の航はじまる汽笛あふれしめ
海渡る黒き肩かけしかとする
大綿は手に捕りやすしとれば死す
[やぶちゃん注:「大綿」は「おほわた(おおわた)」で、綿虫の俗称。綿虫は半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科 Aphididae に属する綿油虫類の総称で、白い綿のような分泌物を体に附着させた状態で弱々しく飛ぶ。体長は二ミリメートル程で大種でも四ミリメートル程度。 北国ではこの虫が飛ぶと雪が近いとし、また舞う様が雪のようでもあることから雪虫の俗称を持つ(この北方系種は
Prociphilus 属トドノネオオワタムシ Prociphilus oriens )。]
真青な河渡り終へ又枯野
河豚を剝ぐ男や道にうづくまる
河豚の血のしばし流水にまじらざる
河豚の皿燈下に何も殘らざる
ジヤズに歩の合ひゐて寒き水たまり
河豚の臓(わた)喰べたる犬が海を見る
林檎買ふ旅の足もと燈に照らされ
星空へ店より林檎あふれをり
(一九四七、一)
[やぶちゃん注:底本年譜の昭和二一(一九四六)年の条の最後に、『十万坪の大分農場は農地買い上げとなる。坪八十銭』とある。単純計算で計八万円、物価指数から現在の価値で約三百二十八万円相当にしかならない。しかも以前に注したように、この大分農場は亡き夫豊次郎と多佳子が結婚した大正六(一九一七)年にその結婚記念として開拓経営を始めた農場であって、豊次郎の青年時代からの夢を実現化したものでもあったから、多佳子にとっては亡き夫との思い出の地でもあったのである。「後記」からこの「九州路」の旅は昭和二二(一九四七)年であることが分かる。]