今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅11 那須野原 野を横に馬牽むけよほとゝぎす
本日二〇一四年六月 三日(陰暦では二〇一四年五月六日)
元禄二年四月十六日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 三日
である。この日、芭蕉と曾良は十三泊に及んだ黒羽余瀬を出て、野間まで馬で送られ、現在の栃木県那須郡那須町大字高久へと向かい、浄法寺図書桃雪高勝の紹介によって黒羽領三十六ヶ村の大名主高久覚左衛門宅に二泊している。
野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす
みちのく一見の桑門同行二人、那須の篠
原をたづねて、猶殺生石みむと急ぎ侍る
程に、あめ降出(ふりいで)ければ、
先(まづ)此(この)ところにとゝまり
候
落くるやたかくの宿(しゆく)の郭公(ほととぎす)
下野國高久角右衞門が宅にて
落て來る高久の里のほとゝぎす
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」、第二句目は真蹟詠草より(高久家に現存するらしい)、第三句は「石見かんこどり塚」(百草園編・安永元年)。「角右衞門」はママ。
第一句。時鳥の声のSEが素早く落ちくるのに合わせ、カメラは垂直に急速にティルト・ダウン、同時に馬上の武将(次の段の殺生石へと九尾狐を退治に向かう武士(もののふ)然とした諧謔をも添えているように私には思われる)に自らを擬えた芭蕉の心内の、馬の口取り足軽に喩えた野夫(やぶ)への引き向けの命令によって、今度はカメラは水平に右へ急速にパンするという軍記物の浄瑠璃仕立てとなっている(と私は思う)。
山本健吉氏は「芭蕉全発句」でこの句について、
《引用開始》
この句は古くから「いくさ仕立て」の句だという評があるが、この句の響きをよく汲み取っている。芭蕉は黒羽に滞在中、郊外に昔の犬追物の跡をしのび、実朝の歌で名高い那須の篠原を分け入って、玉藻の前の古墳を訪ねたり、八幡宮に詣でて、那須の与一の扇の的の昔語りを思い出したりした。那須野で、昔の鎌倉武士たちのイメージで頭を一杯にしたことがこの句の勢いに乗りうつったかのようだ。この時芭蕉は那須野の矢叫(やさけ)びの声を心の耳で聞いているのだ。たわむれに馬上の大将を気取ったような身ぶりがこの句にある。
《引用終了》
という、実に私にはすこぶる附きで腑に落ちる鑑賞をなさっておられる。
第二・三句目は「高く」に主人の名「高久」を詠み込んだ、一見、如何にもな挨拶吟のように見えるが、私は寧ろ、この前書と発句こそが実は次の訪問地殺生石を踏まえた、芭蕉自身の旅の劇化のバラシであるように思われる。謡曲「殺生石」の冒頭は、
ワキ〽心を誘ふ雲水(くもみず)の 心を誘ふ雲水の 浮世の旅に出で(いじょ)うよ
ワキ〽これは玄翁(げんのお)と云へる道人(どおにん)なり われ知識の床(ゆか)を立ち去らず 一大事を歎き一見所(いっけんしょ)を開き 終に拂子(ほっす)を打ち振つて世上に眼(まなこ)をさらす この程は奥州(おおしう)に候ひしが 都に上(のぼ)り冬夏(とおげ)をも結ばばやと思ひ候
ワキ〽雲水の 身はいづくとも定めなき 身はいづくとも定めなき 浮世の旅に迷ひ行く 心の奥を白河(しらかは)の 結び籠めたる下野や 那須野の原に着きにけり 那須野の原に着きにけり
ワキ「いかに沙彌(しゃみ)はくたびれてあるか」
アイ「さん候(ぞおろお)」
ワキ「あれに由ありげなる大石の候」
アイ「あれあれあれ」
ワキ「汝はなにごとを申すぞ これは物に狂ひ候ふか」
アイ「あれなる大石の上を飛びかけり候鳥 石の邊(ほとり)へ落ちて申し候」
ワキ「なにとあれなる石の邊へ諸鳥が落つると申すか」
アイ「さん候(ぞおろお)」
ワキ「まことに不思議なることにて候 立ち越え見うずるにて候」
と始まるからである(新潮古典集成「謡曲 中」を参考にしながら、漢字を正字化、音声部分は平仮名で示した)。
以下、「奥の細道」。
*
これより殺生石に行舘代より馬にて
送らる此口付のおのこ短尺得させ
よと乞やさしき事を望侍るもの
かなと
野をよこに馬挽むけよ郭公
*
■やぶちゃんの呟き
まさに毒気の漂う魔界殺生石へ向かわんとする武者振りの諧謔である。]