今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅25 あやめ草足にむすばん草鞋の緒
本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)
元禄二年五月 八日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月二十四日
である。【その一】先に述べた通り、芭蕉は五月四日に白石を午前七時半頃に発って、最長不倒距離である五十キロを踏破して、午後六時半頃、仙台に到着している。ところが、紹介状によって予定していた宿所を頼みとしていた仙台藩士には断られ、ここにいると思っていた旧知の俳人大淀三千風もとうにこの地を出ていたなどして、仙台での滞在には予想外の困難が待っていた。そうしたプラグマティクな理由もあるか、現存する発句はこの八日(実際の句作は餞別を貰った前夜であろうが、そうするのは却って無粋というものである)までない。それでも画工の嘉右衛門というよき友人にも出逢え、仙台の名所歌枕など、いろいろなところを案内して呉れた。この句は仙台を発つその時の餞別句である。
仙臺に入(いり)て、あやめふく日也。旅
宿に趣(おもむ)き、畫工嘉右衞門(かゑ
もん)と云(いふ)もの、紺の染緒(そめ
を)付(つけ)たる草鞋(わらぢ)二足
餞(はなむけ)す。さればこそ風流のしれ
もの、爰にいたりて其實をあらはす
あやめ草足にむすばん草鞋の緒
あやめ草紐にむすばん草鞋の緒
[やぶちゃん注:第一句は「鳥之道集」(とりのみちしゅう・玄梅編・元禄十年序)の前書で句形は「奥の細道」と同じ、第二句は「泊船集」の句形。
「曾良随行日記」はこの間の事情を以下のように記す。
五日 橋本善衞門殿ヘ之狀、翁持參。山口與次衞門丈ニ而宿ヘ斷有。須か川吾妻五良七ヨリ之狀、私持參、大町貳丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衞方ヘ屆
。甚兵衞留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不ㇾ知。其後、北野や加衞門(國分町ヨリ立町へ入、左ノ角ノ家ノ内)ニ逢、委知ル。
六日 天氣能。龜ガ岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ歸ル。
七日 快晴。加衞門(北野加之)同道ニ而權現宮ヲ拜。玉田・横野ヲ見、つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。藥師堂、古ヘ國分尼寺之蹟也。歸リ曇。夜ニ入、加衞門・甚兵ヘ入來
。册尺幷横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衞門持參。翌朝、のり壹包持參。夜ニ降。
八日 朝之内小雨す。巳の尅より晴る。仙臺を立。十符菅・壷碑を見る。未の尅、塩竈に着、湯漬など喰。末の松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等を見廻り歸。出初に鹽竃のかまを見る。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衞門狀添。錢湯有に入。
とある。小雨が上がって晴れた清々しい気の中、嘉右衛門の餞別である、足が摺れぬようにと紺の染緒のついた草鞋を履いた芭蕉と曾良、芭蕉は――このあなたの心の籠った染緒に、私は未だに差し置かれてある邪気を払う軒菖蒲を引き抜き、あなたの心配りに敬意を表して、これからの旅の安全のためにそれを一緒にこの緒にひき結んで、旅立ちまする――というのである。
*
名取川をわたつて仙台に入あやめふ
く日也旅宿をもとめて四五日逗留す
爰に畫工加右衞門と云ものあり聊心
ある者と聞て知る人になるこの
もの年比さたかならぬ名ところを考置
侍れはとて一日案内す宮城野の
萩茂りあひて秋のけしきおもひ
やらる玉田よこ野つゝしかおかはあせひ
咲比也日かけもゝらぬ松の林に
入て爰を木の下と云とそむかしも
かく露ふかけれはこそみさふらひみ
かさとはよみたれ藥師堂天神の
御社なとおかみて其日はくれぬ
猶松嶋塩かまの所々畫にかきて
送る且紺の染緒つけたる草鞋
二足はなむけすされはこそ
風流のしれもの爰に至りて
其實を顯す
あやめ草足に結ん草鞋の緒
彼畫圖にまかせてたとり行はおくの細道
の山際に十符の菅有今も年々十符の
菅菰を調て国守に獻すと云り
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇秋のけしきおもひやらる → ●秋の氣色思ひやらるる。
[やぶちゃん注:流布本は連体中止法。]
■やぶちゃんの呟き
「あやめふく日」菖蒲葺く日で五月五日端午の節句。実際の仙台滞在二日目がこの日であった。飯塚の「五月朔日」から「岩沼に宿る」で、ど素人でも本文の虚構がバレるように出来ている。芭蕉は虚構を隠そうとしていないことがこれで判明する。一部の芭蕉密偵説が「奥の細道」の虚構を隠密行動の隠蔽のためとする説には私は全く従えない。が、この伊達藩内での芭蕉の動静や「曾良随行日記」に見えるところの、偶然の一致とは思われぬ、立て続けのトラブルというのは、やはり気になる。藩士橋本善衞門が宿所を断りながら、その代替の宿舎をさえ紹介していないのには、藩内の芭蕉個人に対する警戒心が作用しているようにさえ思われ、この後の松島を発った五月十日の「日記」の、喉の渇きに水を求めんとした二人に対し、『家毎に湯乞共不ㇾ與』という村人の反応はとりもなおさず、伊達藩が公に触れた、部外者との接触を禁じたものであったに違いないと読むからである。因みに実は私は芭蕉の密偵説を多少信じている部分がある。それはやはり、芭蕉が本書の冒頭で「まづ心にかか」ったと述懐したところの松島で、何故、名吟を作り得なかったのかというありがちな素朴な疑問と、こうした奇妙な不都合の山積から弾き出されてくる奇妙な暗合なのである。実際、この後も「奥の細道」には発句が平泉まで全く登場せず、現存する全句集でも後掲する松島での句とされるピンとこない凡庸な「島々や千々にくだけて夏の海」一句が残るのみである。彼は実は何かに忙しくて、松島で名吟を作り得なかったのではなく、そうした心のゆとりをさえ持てない状態にあったのではなかったか? という推理である。これは必ずしも私のトンデモ説でも何でもないようで、例えば金谷信之氏の「情報千一夜物語」の「奥の細道はスパイ行(情報収集)」には『最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである』とあるのにはちょっとほっとした(芭蕉の前半生には不明の部分が多いが、近年の研究によって水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に相応な事務職として関与していたことが分かっている)。
「畫工加右衞門」芭蕉が仙台で訪ねようとした(というより、宿泊のための有力第二候補としていた)大淀三千風の高弟で俳諧書林を営んでいた北野屋嘉右衛門。俳号は和風軒加之(かし)。先の「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」をも参照されたい。
「年比さだかならぬ名どころを考へ置き侍ればとて」永年私は、場所の定かならざる歌枕につき、いろいろと調べては考証なんどをして御座いますればとて、の意。
「宮城野」仙台市東方の郊外一帯。著名な歌枕。
「玉田・よこ野」古い歌枕で摂津や河内説もあるが、この前に大淀三千風やこの嘉右衛門らによって仙台の歌枕と比定されていたやはり仙台市東方の郊外の地。
「つゝじがおかはあせひ咲比也」榴(つつじ)ヶ岡。現在の仙台市若林区木(き)の下で、これは前の二つの歌枕とセットで源俊頼の「散木奇歌集」の第一五六番歌、
取りつなげ玉田横野の放れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり
を踏まえる(あせみ:あせび。馬酔木。)。この馬酔木の花は無論、歌からの引用であって、とあるその頃が美しいであろうという謂いである。
『昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ』は「古今和歌集」巻第二十「大歌所御歌」の「東歌」、一〇九一番歌、
みさぶらひみかさと申せ宮城野の木(こ)の下露(したつゆ)は雨にまされり
を踏まえたもの。――古えもかくも露が深かったからこそ古歌に於いて「御侍(貴人の御家来衆)よ、ご主人に『御笠を召し下さいませ』と申し上げなさいませ、この宮城野の木(こ)の下に落ちて参ります露は雨にもまさっておりまするから。」とは詠んでおるのである、という意である。
「藥師堂」木の下にある陸奥国分寺跡。伊達正宗により再興されたもの。
「天神の御社」榴ヶ岡にある天神社。四代伊達綱村が建立したもの。
「風流のしれもの」風流の痴れ者。芭蕉と心を一にする風狂人という絶賛この上なき褒賞の言辞である。
「おくの細道」固有名詞。本書と同名にも拘わらず諸注、菅、否、すげない。僅かに新潮古典集成の「芭蕉文集」で富山奏氏が、『仙台市より多賀城市への同注の岩切(いわきり)附近。三千風ら』『によって名所と定められたが、芭蕉がこれを紀行の題名としたのは、辺土の旅に新しい風雨がを想像する意欲を込めたものである』と記すのみ。私はこの見解に強く賛同する。本書「奥の細道」はここに、芭蕉の意識の中で当時のモダンな新歌枕を謀らんとする目論見として起動していると私は思うのである。
「十符(とふ)の菅(すげ)有り。今も年々十符の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守に獻ず」頴原・尾形校注角川文庫版注に、『編み目十筋をもって幅広く編んだ菰の料としての菅。古歌に陸奥の名産とされ、当時、岩切付近で栽培されていた』もので、『伊達綱村の郷土の名産保護奨励策による』とある。]