今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅27
本日二〇一四年六月二十四日(陰暦では二〇一四年五月二十七日)
元禄二年五月 八日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月二十四日
である。【その三】「壺の碑」を見た後、先に示したように芭蕉はこの日の午後二時頃に塩釜に到着、その後に「古今和歌集」「源氏物語」などで知られた歌枕「末の松山」を見ている(「曾良随行日記」八日の条『未の尅、塩竈に着、湯漬など喰。末の松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等を見廻り歸。出初に鹽竃のかまを見る。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衞門狀添。錢湯有に入。』)。「奥の細道」の「末の松山」の段を示す。発句はない。
*
それより野田の玉川沖の石を
尋ぬ末の松山は寺を造りて
末-松-山と云松のあひあひ皆墓原
にてはねをかはし枝をつらぬる
契りの末も終はかくのこときと
かなしさも増りて鹽かまの浦に
入逢のかねを聞五月雨の空聊
はれて夕月夜かすかに籬か嶋も
程近しあまの小舟こきつれて
肴わかつこゑこゑに
綱手かなしもよみけむ歌のこゝろも
しられていとゝあはれ也其夜目盲法
師の琵琶をならして奥上るりと云もの
をかたる平家にもあらす舞にもあらすひ
なひたる調子打上て枕ちかうかしましけれと
さすかに邊國の遺風忘れさるもの
から殊勝に覺らる
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇綱手かなしもよみけむ歌のこゝろもしられて → ●「つなでかなしも」とよみけん心もしられて
〇邊國の遺風 → ●邊土の遺風
■やぶちゃんの呟き
全体を支配する感傷の実景とその実感が実に素晴らしい。……これは歌枕をパッチ・ワークしたみたような「作り物」なんかでは、決して、ない――
「野田の玉川沖の石」孰れも歌枕。「野田の玉川」は六玉川の一つで、多賀城跡の東方凡そ一キロメートル、塩釜との境付近にある、現在の塩竈市大日向から多賀城市内を通って砂押川に注ぐ小さな流れをそれと今に伝え、「沖の石」は末の松山から南へ伸びる道を下った直近、旧八幡村の農家の裏にあった奇石が連なる池を指すとする。「千載和歌集」「恋二」の二条院讃岐の第七六〇番歌、
我戀はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし
で知られる(彼女は後にこの和歌によって「沖の石の讃岐」と呼ばれたとされる)が、実際にはこの和歌が元となって歌枕として設定された逆歌枕であったものらしく、事実、この二つの歌枕は孰れも伊達綱村の代に設定された新歌枕であった。
「末の松山は寺を造りて末-松-山と云」「末-松-山」は「まつしようざん」と音読みする。現在の多賀城市八幡の北にある末松山宝国寺(伊達正宗の代に再興。現在は臨済宗妙心寺派)。仙台藩重臣天童氏の菩提寺。本堂の奥に老松が聳える小丘の辺りが歌枕「末の松山」と言われ、これは既に鎌倉時代には比定されていたことが古記録から分かる。ここには当時、連理の枝を模した相生の松など青松数十株があり、本の松山・中の松山・末の松山と三つの松山があったともされ、ここからは海も望見された。
「はねをかはし枝をつらぬる契り」「翼を交はし、枝を連ぬる契り」ご存知、不変の恋の誓約の象徴で比翼連理の契り。
「入逢のかね」来世までもという祈誓も所詮空しい墓原の散骨相から、諸行無常の響きをもって、次のシーンの「平家にもあら」ざる「奥浄瑠璃」へと響き合うようになっている。
「籬が嶋」歌枕。塩釜沖の小島。
「こぎつれて肴わかつ」漕ぎ連ねて岸へ戻り来ては、威勢よく、漁(すなど)った魚を分け合う。……美事なリアリズムではないか!――
「綱手かなしもよみけむ歌のこゝろもしられていとゝあはれ也」源実朝の「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」を指す。これは前の「あまの小舟こきつれて肴わかつこゑこゑ」を受けて「世の中は常にもがもな」「のこゝろもしられ」るように、大観的な無常感を、刹那の常民の生き生きとした景とオーバー・ラップさせて、心憎い。
「奥上るり」奥浄瑠璃。御国浄瑠璃ともいい、仙台地方を中心に語られた古浄瑠璃風の芸能。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「末の松山」の注によれば、当時は義経奥州下りの段などが演じられたという。……私にはこの盲目の琵琶法師のその節が、はっきりと聴こえる――
「舞」幸若舞。室町時代に流行した簡単な舞を伴う語り物。南北朝時代の武将桃井直常の孫の幸若丸直詮(なおあき)を始祖とすると伝える。多く軍記物を題材とした。
「ものから」接続助詞(形式名詞「もの」+格助詞「から」)。古文の試験でよく出るいやらしいものは逆接の確定条件であるが、ここは素直に「ものだから」で理由・原因を表す。……ああ、実に確かに私は永い間、如何にもいやらしい試験問題を作り続けたものだったとつくづく思う……試験など、糞喰らえ、だ!――]