杉田久女句集 238 花衣 Ⅵ 筑前博多元寇の防壘跡
かきわくる砂のぬくみや防風摘む
[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和九(一九三五)年のパートに、
筑前博多元寇の防壘跡
の前書を持って載り、この句から「磯菜つむ行手いそがんいざ子ども」までの五句はセットで博多の元寇防塁跡での嘱目吟であることが分かる。底本年譜には防塁訪問の条々はないが、昭和九年の二月の条に『「梅探る――香橿神宮にあそびて」の句』とあり、この『香橿神宮』とは香椎(かつい)神宮のことであるから(ウィキの「香椎宮」に社伝では仲哀天皇九(二〇〇)年に熊襲征伐の途次、橿日宮(かしひのみや:古事記では「訶志比宮」)で仲哀天皇が急逝したために妻の神功皇后がその地に祠を建てて天皇の神霊を祀ったのが香椎宮の起源とされるとあり、久女は「香橿」も恐らく「かしひ(かしい)」と読んでいるであろうことが推定される)、防塁に近い。以下に見る通り、春の句であり、この二月の探梅の折りであった可能性が強いようにも思われる。
「元寇の防壘」は鎌倉時代、蒙古の襲来(元寇)に備えて築かれた、北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防衛用の石造防壁で、ウィキの「元寇防塁」によれば、本来の呼称は石築地(いしついじ)で、高さ及び幅は平均して二メートルほど、総延長は西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎まで約二十キロメートルに及ぶ、というのが定説である。内部には小石を詰めて陸側に傾斜を持たせ、海側は切り立っている。『弘安の役の際には防塁が築かれたところからはモンゴル・高麗軍は一切上陸することが出来なかった』とある。
「防風」海岸域に自生するセリ目セリ科ハマボウフウ
Glehnia littoralis であろう。言わずもがな乍ら、酢味噌和えや刺身のツマとして食用になる。]
防人(さきもり)の妻戀ふ歌や磯菜摘む
[やぶちゃん注:「磯菜摘む」春の季語。「磯菜」は通常、食用になる主に岩礁海岸の沿岸性藻類、岸辺近くや打ち上げられた海藻類を指すが、私はこれは前の句と同じ、防風、ハマボウフウ
Glehnia littoralis を指していると読む。冒頭に「防風摘」みを出して、ここからは砂浜を海辺に下りて海藻摘みに変更したというのも無粋で、意図的にわざわざ離れておいて防塁(後述)=「石疊(とりで)はいづこ」はというシーンの変更を行う必要性自体ないからである。そもそも「磯菜」は「山菜」の対義語であるから寧ろ、海藻類の他に海浜性食用植物を含んだ表現ととって何ら問題がない。単独でこれより後の句を読んだら、若しくは、この句なしにそれらを読んだら、恐らくは殆んどの鑑賞者が海藻を採っていると読むであろう。しかしそれは大いなる勘違いなのだと私は思うのである。大方の御批判を俟つものではある。
「防人の妻戀ふ歌」久女は鎌倉時代の戦場遺跡をさらに万葉の過去にまで遡って時代幻想している。ウィキの「防人」によれば、防人は天智天皇二(六六三)年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江(はくすきのえ)の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に、唐からの侵攻を憂慮して、九州沿岸の防衛のために配備された辺境防備兵である(もとは「岬守(みさきまもり)」と呼ばれたものに唐の制度である「防人」の漢字を当てたもの)。任期は三年で『諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された』。『当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった』。天平宝字元・天平勝宝九(七五七)年『以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の』延暦一一(七九二)年に桓武天皇が健児の制(こんでいのせい:庶民出身の軍団の徴兵制が廃された代わりに設けられた兵制度で郡司の子弟や勲位者などから選抜された。「こんに」とも読む。)を成立させて軍団や兵士が廃止されても、『国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止』は先送りしている。実際、八世紀末から十世紀初めにかけては、『しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩』(ど/おおゆみ:長射程で破壊力が強い代わりに扱いが難しかった大型の弓。)『を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した』。『院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模』は縮小され、十世紀には『実質的に消滅した』とある。「万葉集」にも、最も多く収載される巻第二十の若倭部身麻呂の四三二二番歌、
我が妻はいたく戀ひらし飮む水に影さへ見えてよに忘られず
など、多くの防人歌が載るのは御存じの通りである。]
元寇の石疊(とりで)はいづこ磯菜摘む
寇まもる石疊(とりで)はいづこ磯菜摘む
磯菜つむ行手いそがんいざ子ども
[やぶちゃん注:「いざ子ども」坂本宮尾氏は「杉田久女」で本句について、『俳句には珍しい「いざ子ども」という用語は、実は『万葉集』などにしばしば見られる表現で、目下の者、燃焼の者たちに対して親しみをこめていうときに用いられる』と記され、以下の「万葉集」巻第六の大伴旅人の九五七番歌を引いて、本句が間違いなくこの和歌の本歌取りであるといった主旨の発言をなさっておられる。
冬十一月、大宰の官人(くわんにん)
等(ら)、香椎(かしひ)の廟(みやう)
を拜み奉り訖(を)へて退(まか)り歸
りし時に、馬を香椎の浦に駐(た)めて、
各(おのもおのも)懷(おもひ)を述べ
て作れる歌
師大伴卿が歌一首
いざ子ども香椎の潟(かた)に白妙(しろたへ)の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
坂本氏曰く、『この句は旅人の本歌を踏まえつつ、久女の溌剌とした精神がこめられた新しい作品となって』おり、『春の渚の浪音と潮風が感じられる、勇んだ勢いのある句』で、『行く手の春の浜辺へと、さらに洋々たる文芸の未来へと誘う、久女の連衆への呼びかけである』と評されている。全く同感である。最後の『洋々たる文芸の未来へと誘う、久女の連衆への呼びかけ』という部分に首をかしげる方のために、この句について久女が昭和九年八月発行の『天の川』に以下のような自注を載せていることをお示ししておく。
「いざ子供」のこと
七月号高崎烏城氏の御文章をもつともと存じます。あの句中にふくむ子どもは私の門下の女流、子どもの如く思ふ人達のもろともに句作精進のゆく手をいそぎ、道草をつまず、一歩でも人生の旅路をつないで進まうといふいみをのべたまでゝ自分でも大した句とは存じませぬ。が只私の目下の、門下女流、及生活の鬪にあへぎゐる子らへのははげましのいみをうたつたものです。私の長女昌子も今横浜で若いのに働いてます。次女光子十九歳之また少い学資で日々自炊しつゝ繪を一心に勉強し私は學資の爲め之また人生の鬪にあへぎつゞけてます。二人の愛する娘の事を考へ、人生のもろもろの苦も(ことばは古いが)子らによびかけ自分によびかけずにはゐられませんでした。
なお、最後の行には下インデントで『(七月八日)』というクレジットが附されてある。]