日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 14 小樽へ
七月二十五日。我々は蝦夷の西海岸にある小樽へ向けて出発した。乗船は漕艇位の大きさの木造蒸汽船で、日本人が所有し、指図し、そして運転している。私は船中唯一の外国人であった。船員たちが何匹かの牛を積む方法と、能率的な指揮がまるで欠けているのを見た時、私は燈台のない岩だらけの海岸を、これから三百マイルも航海するということに、いささか不安を感じた。加之(のみならず)、従来この沿岸では、測量も行われず、航海用の海図も出来ていない。夜の十時出帆した時、空は暗く、如何にも悪い天気を予想させ、暗黒な津軽海峡へさしかかった時には、多少心配せざるを得なかった。衝突の危険は、もともと衝突すべき船がないのだから、全然無かったが、嵐の闇夜に舵手が行方をとりちがえるという危険はあった。函館を出ると間もなく、我々は濃霧の中に突入し、真夜中には雨を伴う早手の嵐に襲われ、我我は威風堂々それにゆらゆらと入り込んで、一同いずれも多少の船酔を感じた。船室には、長い銃架にスペンサー式の連発銃がズラリと並んだ外、小さな鋼鉄砲二門と、ゴルティング銃一挺とがあった。この海賊に対する用心は、この航海にある興奮味を加えた。夜中嵐が吹き、小さな船はひどく揺れて、厨房では皿が落ちて割れ、甲板では牛がゴロンゴロンころがった。朝飯として出された食事は日本料理で、とても恐しい代物だった。我々が函館港を出た時、横浜にいたフランスの甲鉄艦が、南方のきびしい暑熱を避けるために入港して来た。この軍艦は浮ぶ海亀に似ていた。舳は唐鋤みたいで、とにかく頑丈そうだった。港内には確かに百艘ばかりの戎克がかかっていたが、乾燥させるために、帆をひろげたものも多かった。
[やぶちゃん注:矢田部日誌によると、この小樽出帆は七月二十五日で午後『七時過玄武丸ニ乘込ム』。『小樽ニ向テ』午後『九時過ニ發セリ』とある。この船、相当な武器を装備をしているが、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、船自体は軍艦ではなく、開拓使所有の運送船で、客船としても使用されたとある。一八七五年(明治八年)九月二十日に朝鮮の首府漢城の北西岸の漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突(江華島事件)を機に、明治九(一八七六)年に黒田特命全権弁理大臣並びに随員一行が不平等条約である日朝修好条規を締結するために朝鮮に向かった際、この船が使用されていることが、サイト「きままに歴史資料集」の「明治開化期の日本と朝鮮(4)」で分かる。磯野氏前掲書によれば、この時の同船者はモース・矢田部・高嶺・佐々木・内山の五名であった。
「スペンサー式の連発銃」原文“Spencer repeating rifles”。アメリカ製・口径14mm・装弾数七発の管状弾倉装填式・手動操作式レバーアクションライフル(ウィキの「スペンサー銃」に拠る)。
「鋼鉄砲」原文“steel cannon”所謂、カノン砲。口径に比べて砲身が長く、長距離射撃や堅固な建造物などの破壊に適した大砲。
「ゴルティング銃」原文“a Gatling gun”。ガトリング砲(ガトリング銃)。一八六一年(本邦の文久元・万延二(一八六一)年、明治維新の七年前)にアメリカの発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された最初期の機関銃。日本に輸入されていた幕末・明治期にはガツトリング砲または奇環砲・ガツトリングゴン連発砲などと呼ばれていたと参照したウィキの「ガトリング砲」にある。同ウィキには明治七(一八七四)年四月に『北海道開拓使がアメリカから2門を購入』したとあり、モースの言っているのはこの一本である可能性が高いと考えられる。
「フランスの甲鉄艦」ネット検索をかなり試みたが、不詳。識者の御教授を乞う。]
ここで一言するが、私はこの時まで、咒罵をしない水夫達や、横柄に命令をしない船の士官たちを、見たことが無い。が、この船では呪罵は更に聞えず、如何なる命令も静かな態度でなされた。このような危険な生活でさえも、この国民の態度を変えぬものらしい。
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