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2014/06/14

北條九代記 卷第六  本院新院御遷幸 竝 土御門院配流(1) 承久の乱最終戦後処理【一】――後鳥羽院遷幸及び出家

       ○本院新院御遷幸 竝 土御門院配流

同七月六日、武藏〔の〕太郎、駿河次郎、數萬騎の勢を卒して、院の御所四辻殿へ參りて、本院を烏羽殿へ御幸なし奉らんと、奏聞しければ、一院は豫てより思召設けさせ給ひたる御事なれ共、今更差當りて、御心惑(まどは)しおはします。先(まづ)、女房達を出さるべしとて、車を輾(きし)りて遣出(やりいだ)すに、もし謀叛人もや乘りぬらんとて、武蔵守近く參りて、弓の弭(はず)にて御車の簾を挑げて見奉るこそ、理(ことわり)ながらも、情なくぞ覺えたる。一院軈(やが)て御幸なる。往昔(そのかみ)に替りて警蹕(けいひつ)もなく供奉(ぐぶ)もなし。姑射仙宮(こやせんきう)の玉の牀(ゆか)をよそになして立去り、九重の花の都は今日を限(かぎり)と思召(おぼしめ)す叡慮のほどこそ恐しけれ。東洞院を下(くだり)に、七條殿の軒のつまを心の外に御覽ぜらる、作道(つくりみち)より鳥羽殿に入らせ給へば、關東勢、雲霞の如く四方を囲みて守護し奉る。玉扆(ぎよくい)に近づく臣下は一人も見え給はず。錦帳に參る女御もなく、只御一所のみおはします。同じき八日六波羅より使を以て御出家あるべき由を申す。軈て御戒師を召されて御飾(おんかざり)を下(おろ)させ給ふ。替果(かはりは)てさせ給ひたる御姿を、信實(のぶざね)を召して似繪(にせゑ)に寫させられて、七條院へ奉らせ給ひければ、御覧じも敢へず、御心も昏(くら)まさせ給ひて、修明門院(しゆめいもんゐん)を誘ひ參せられ、一つ御車に召されて、鳥羽殿へ御幸(ごかう)なる。御車を差寄せて、かくと申し入れたまへば、院は手づから御簾を引遣らせ給ひて、龍顏(りうがん)を差出させられて、見えおはしまし、「疾(とく)はや御歸あれ」と御手にて招遣(まねきやら)せ給ふ。七條女院も修明門院も御目も昏(く)れ、御心も消えて絶入り給ふも理(ことわり)なり。

 

[やぶちゃん注:〈承久の乱最終戦後処理【一】――後鳥羽院遷幸及び出家〉長いのでこの章も分割する。この時、後鳥羽院は未だ満三十六の若さであった。

「同七月六日」承久三(一二二一)年七月六日。

「武藏太郎」北条時氏。北条泰時長男で当時満十八歳。

「駿河次郎」三浦泰村。三浦義村次男で当時十七歳。

「弓の弭」筈(はず)。弓の両端の弦(つる)をかける部分。弓弭(ゆはず)。

「警蹕」「けいひち」とも読む。先払の声又はその役目をする者。具体的には、天皇やそれに準ずる者の公式の席での着座や起座、行幸などの際の殿舎等への出入り、食膳を供える際などに於いて周囲に注意を促し、先払をするために側近の者が発する声を指す。

「姑射仙宮」中国の伝説で神仙の住むとされた「藐姑射(はこや)」という想像上の山名。「藐姑射」とは「藐(はる)かなる姑射山」の意で北海の洋上にそびえるという。転じて上皇の御所《荘子》逍遥遊篇によれば,この山には,肌は雪のように白く,肢体は処女のようにしなやかで,五穀を食わずに風や露を糧とし,雲に乗り竜にまたがって宇宙の間を自在に飛翔し,ひとたび精神を集中すれば,あらゆるものを疫病や災禍から救いあげられる神人が住むという。日本では転じて、上皇の御所である仙洞御所の別称となった。

「よそになして」最早、縁なきものとして。

「七條殿」後鳥羽院の母で坊門信隆娘の七条院殖子(当時六十四歳)の住まい。

「作道」平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路の名に鳥羽作道があるが、この頃には荒廃して存在しなかったともされ、増淵氏は一般名詞として戦乱で荒蕪したところを『新しく開いた作り道』と訳されておられる。しかし、以下に示す「承久記」では『作道迄』とあり、これは明らかにそうした羅城門外の古道(鳥羽御所はここから南へ約三キロメートルの辺りにあった)を指しているようにしか読めない。

「玉扆」本来は玉座の背後に立てた屏風。ここでは広義の天皇の御座所・玉座のこと。

「御戒師」息子である道助入道親王が務めた。

「信實」藤原信実(安元二(一一七六)年頃~文永三(一二六六)年以降)。公家・画家・歌人。ウィキの「藤原信実によれば、藤原北家で右京大夫藤原隆信の子で父隆信と同じく絵画や和歌に秀でた。大阪水無瀬神宮に伝わる国宝「後鳥羽院像」(ウィキ後鳥羽天皇」にあ画像)は信実の作と考えられているとある(まさにこの時の「似せ絵」である)。『短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は八条家として室町時代中期頃まで続き、いわゆる似絵の家系として知られる』。勅撰歌人として「新勅撰和歌集」等の歌集に多くの歌が入集しており、延応二(一二四〇)年前後に成立した説話集「今物語」は信実の編纂になる。

「修明門院」順徳天皇の母で後鳥羽天皇の寵妃藤原重子(じゅうし/しげこ 寿永元(一一八二)年~文永元(一二六四)年)。藤原範季娘。先に足柄山麓の川底に沈められて処刑された藤原範茂は同母弟。当時三十九歳。

 

 以下、「承久記」(底本通し番号101の前半部)。「北條九代記」の作者は、ここはかなり正確に引き写している。

 

 去程ニ同七月六日、武藏太郎・駿河次郎・武藏前司、數萬騎ノ勢ヲ相異シテ、院ノ御所四辻殿へ參リテ、鳥羽殿へ可ㇾ奉ㇾ移由奏聞シケレバ、一院兼テ思召儲サセ給ヒタル御事ナレ共、指當リテハ御心惑ハセヲハシマシテ、先女房達可ㇾ被ㇾ出トテ、出車に取乘テ遣出ス。謀叛ノ者ヤ乘具タルラントテ、武藏太郎近ク參リテ、弓ノハズニテ御車ノ簾カヽゲテ見奉コソ、理ナガラ無ㇾ情ゾ覺へシカ。軈テ一院御幸ナル。射山・仙宮ノ玉ノ床ヲサガリ、九重ノ内、今日ヲ限ト思召、叡慮ノ程コソヲソロシケレ。東洞院ヲ下リニ御幸ナル。朝夕ナリシ七條殿ノ軒端モ、今ハヨソニ御覽ゼラル。作道迄、武士共、老タルハ直垂、若ハ物臭ニテ供奉ス。鳥羽殿へ入セ給へバ、武士共四方ヲカゴメテ守護シ奉ル。玉ノ砌ニ近ヅキ奉ル臣下一人モ見へ不ㇾ給。錦ノ帳ニ隔無リシ女御・更衣モマシマサズ、只御一所御座ス。御心ノ程ゾ哀ナル。

 同八日、六波羅ヨリ御出家可ㇾ有由申入ケレバ、則御戒師ヲ被ㇾ召テ、御グシヲロサセ御座ス。忽ニ花ノ御姿ノ替ラセ給ヒタルヲ、信實ヲメシテ、似セ繪ニ寫サセラレテ、七條院へ奉ラセ給ケレバ、御覽ジモ不ㇾ敢、御目モ昏サセ給御心地シテ、修明〔門〕院サソイ進ラセラレテ、一御車ニ奉リ鳥羽殿へ御幸ナル。御車ヲ指寄テ、事ノ由ヲ申サセ給ケレバ、御簾ヲ引ヤラセマシマシテ、龍顏ヲ指出サセ給テ見へヲハシマシ、「トク御返アレ」ト御手ニテ御サタ有ケレバ、兩女院、御目モ暮、絶入セ給モ理也。

●「武藏前司」足利義氏、当時満三十二歳。]

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