今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅19 關守の宿を水鷄にとはうもの
本日二〇一四年六月 十四日(陰暦では二〇一四年五月十七日)
元禄二年四月二十七日
はグレゴリオ暦では
一六八九年六月 十四日
である。【その一】以下の句は以前に出た白河で会う機会を失した白河藩士何云(かうん)に宛てて福島須賀川から送った芭蕉の書簡に出るもので、書簡自体は四月下旬のものと考えられている。今日に配しておく。何云は須賀川で滞在させて貰っている等躬とは昵懇の中であったらしい(だからあのトンデモ「早苗にもわが色黑き日數哉」が即座に送られてしまった)。
關守の宿を水鷄(くひな)にとはふもの
關守の宿をくゐなに問ふもの
[やぶちゃん注:第一句は書簡に出る句であるが、「とはふもの」は「とはうもの」が正しい歴史的仮名遣である。正しい形で再掲しておく。
關守の宿を水鷄(くひな)にとはふもの
二句目は曾良「雪まるげ」所収の句形であるが、やはりこれも歴史的仮名遣に誤りがあり、「くゐな」は「くひな」である。やはり正しい形で再掲しておく。
關守の宿をくひなに問ふもの
「とはうもの」は「問はうもの」で、「う」は平安後期に発生した推量・意志の助動詞「む」の転じた助動詞「う」(活用は(う)/〇/う/う/○/○)の連体形でこれは仮定の意を現わし、それを受ける「もの」はこの場合は順接の詠嘆の終助詞(形式名詞「もの」から派生若しくは終助詞「ものを」を略したものとも)である。逐語的には「白河の関の番人の宿所を水鶏に訪ねればよかったなあ」の意(以下、語注参照)。以下、当該書簡総てを出す(伊藤洋氏の「芭蕉DB」のものを参考にさせて頂いた)。
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白河の風雅聞きもらしたり。いと殘多かりければ、須か川の旅店より申つかはし侍る。
關守の宿を水鷄にとはふもの はせを
又、白河愚句、色黑きといふ句、乍單より申參候よし、かく申直し候。
西か東か先早苗にも風の音
何云雅丈
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句以外を訳しておく。
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白河では風雅の人である貴君とお逢いする機会を持てず、残念なことでした。そのことがたいそう心残りでしたので、須賀川の滞在先、御知己の乍単斎等躬殿の方よりお便り申し上げます、ご挨拶の一句まで。
関守の宿を水鶏にとはふもの はせを
また、白河での小生の愚句、「色黒き」という句ですが、何とまあ、乍単斎殿が貴君へ申し遣わした文に記された由なれど、あのとんでもない句は、かく詠み直しました。御笑覧のほど。
西か東か先早苗にも風の音
何云御元へ
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「白河の風雅聞きもらしたり」という書き出しは既に何云からの来簡があり、そこで芭蕉に逢えなかったことを惜しむ内容が書かれていたことへの返礼とも思われる。
「雅丈」は芭蕉がしばしば用いる脇付。函丈(かんじょう)を洒落れてひねったものか。函丈は「礼記」曲礼上の「席の間丈を函(い)る」に由来し、師から一丈も離れて座る意。通常は師又は目上の人に出す書状の脇付である。彼が目上であるかどうかは不詳。藩士である彼に敬意を示したものと思われる(尤も芭蕉は年下の門人で俳諧師であった去来などにもこの脇付を用いている)。
「關守」何云を歌枕たる旧関の白河の関守に擬えた。
「水鷄」その関守の宿をクイナに尋ねればよかったというのである。これはツル目クイナ科クイナ
Rallus aquaticus ではなく、古くは単に「水鷄(くひな)」と呼ばれたクイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca と思われる。このヒクイナはその鳴き声が連続して戸を叩くようにも聞こえる独特のものであることから、古くから「水鷄たたく」と言いならわされてきた雅語で、古典文学にもしばしば登場する。家の戸を叩いて訪ね歩いているように聞えることから、ここではだから――水鶏は住まい・宿について詳しかろうから――と擬人化して洒落たものである。参照したウィキの「ヒクイナ」には「古典文学とヒクイナ」の項が設けられ(以下、引用はそのままではなく正字化してある)、
くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ。(「源氏物語」「明石」)
たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては來む(「更級日記」)
五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鷄の叩くなど、心ぼそからぬかは。(「徒然草」)
といった古典が示された後、芭蕉の推定元禄七(一六九四)年の大津の吟(年代には疑義もある)、
此宿は水鷄も知らぬ扉かな
が引かれて、『「扉」は「敲く」ものであることから「水鶏」の縁語になっている』と注されてある(同句は「笈日記」に「おなじ津なりける湖仙亭に行て」の前書を持つもので、湖仙は高橋瓢千のことで三井寺に近い琵琶湖畔に人を避けて隠棲していた(だから「水鷄も知らぬ」)その庵を訪ねた折りの句とする)。
どんな声か? montyjapan 氏の鳴き声及び
Owattyan
氏の鳴き声の動画で確認出来る(後者は最後に姿を少し見せる)。
ヒクイナは湿原・「河」川・水田などに棲息する湿地性の水鳥で、芭蕉が歩いた一帯は豊かな緑と水に囲まれ、阿武隈川の源として那須山系が蓄えた清冽な水が豊富な土地柄であったからヒクイナ(クイナとは当時は区別されていなかったからクイナでも問題ないが、実際には古典の「水鷄(くひな)」はヒクイナを指していることが多いとウィキの「クイナ」の方の記載にあるのである)が実際にそこここで見られ鳴いていたに違いない。そしてこれはそもそもが白「河」の縁語としても引き出せる。
またこのヒクイナとは「緋水鶏」で、リンク先の「形態」の項にも、『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色』なものの、『淡褐色の縞模様が入』り、『虹彩は濃赤色』で『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』、『後肢は赤橙色や赤褐色』を呈するとあって、まさに色彩としても「白」河の景に微かな紅一点を加えるイメージであることにも着目出来るように私には思われる(yyyokoa 氏の実際のヒクイナの動画)。
最後に。現在、ヒクイナ
Porzana fusca は環境省レッドリストの準絶滅危惧種である。]